bluespring77のブログ さん プロフィール

  •  
bluespring77のブログさん: bluespring77のブログ
ハンドル名bluespring77のブログ さん
ブログタイトルbluespring77のブログ
ブログURLhttp://bluespring77.muragon.com/
サイト紹介文青春77さんのブログ
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供37回 / 8日(平均32.4回/週) - 参加 2017/05/17 19:06

bluespring77のブログ さんのブログ記事

  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その32 当時、ルート66は大規模な拡張工事が行われていた。 1985年、古いルート66は、 インターステート40となったが、 その後、ルート66は歴史的な道路として、 再び世界の愛好者に脚光を浴びている。 グランドキャニオンへの入口 ルート66沿いのウイリアムスに 着いたのは夜だった。 翌朝は気合を入れ、早朝ウイリアムスを出発、 ルート66離れ、ルート64を北へ グランドキャニオンを目指した。 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その31 翌朝、寝坊し、 ラスベガスのホテルを出発したのは 昼前だった。 ラスベガスからはルート15を離れ ルート93を東北へ約一時間行くと コロラド河をせき止めた フーバーダムに着いた。 このダムは黒部ダム同様 ダムの上が道路になっており、また ネバダ州とアリゾナ州の州境に なっている。 このダムを渡ると一時間 前へ進む時差が発生する。 コロラド川を渡ると、 アリゾナは茶褐色の山肌である。 ルー [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その30 ロサンジェルスの大盆地を抜け、 サンバーナーディーノから、ルート15の山岳地帯を 登りきると、雲一つない砂漠の中を一直線にハイウェイは 伸びていた。 五月のさわやかな太陽と風を浴びながら、 私のバイク「YMⅠ」風とエンジン音だけが支配する 砂漠の中を快適に走り抜ける。 それはライダーだけが感じる、自由と開放感に満ちた心地よい ツーリングである。 ロサンジェルスを出発して、最初の休憩地点、 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その29 アメリカ大陸横断へ バイクは単に 世界旅行に使用する交通機関 だと思っていた。 バイク旅行の経験もなく 何を準備すべきか考えることもせず、 金さえあれば、 必要なものは途中で買えば 良いのであって、 大事なことは、不測の事態に 如何に臨機応変に対処するかである。 アメリカ生活も四年、 すでにアメリカに慣れていたので アメリカ大陸横断旅行という気負いなく 日本国内を旅するような気分でいた。 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その28 しかし、予算を計算すると この金額ではとてもインドまで 車で旅行するのは不可能と分かった。 ある日曜日、 隣室のAさんにばったり会い、 雑談の中で、私の旅行の話になった。 すると、Aさんはバイクで行くことを勧めた。 彼は私と同年配、若いヤマハのロサンジェルス駐在員で、 彼の奥さんは、まだ、アメリカでも一般家庭には ピアノが普及していなかった時代、 昼間から、彼女の弾く素晴らしい音色が、 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その27 一九六四年以後、 日本では、 東京オリンピックも終わり、 海外渡航自由化になり、 冷ややかなアメリカ人の眼にも気付かず、 今で考えられないような正装姿の 日本人団体観光客が 洋酒の「ジョニ黒」や「ジョニ赤」、 デズニーランドで「メイド・イン・ジャパン」の ミッキーマウスのぬいぐるみを爆買いし、 ロサンジェルスの町を 楽しげに歩く姿が 目立ち始めていた。 「Beach Boys」の歌う 「 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その26 私の一日のスケジュールは 朝早くから、夕方四時まで働けるようになり、 少しは収入も良くなったが、 仕事と学校と、時間的には寝るまで 英語学校時代と何ら変わらなかった。 大学では毎週一冊の教科書を読み、 レポート提出が義務づけられ、 その上、墓の仕事だけでは、月八十ドルの授業料が 払えないので、土日はガ―ディナーのヘルパーや ガソリン・スタンドで働き、遊ぶ暇はなかった。 友人たちと会うのも [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その25 英語学校に入学してしばらくしたある週末、 同じクラスの日本人学生に、ラスベガス行きを誘われた。 当時、ラスベガスは「博打」をするところとは 何とか知っていたが、 ラスベガスがどこにあるかも知らなかった。 彼らに教えてもらい、見様見真似で賭けたら 「ビギナーズ・ラック」というのか 千ドル近く直ぐ勝った。 こんなラッキーなことはなかった。 直ぐに、中古の車を七百ドル近くで買い プライバシーの [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その24 12時、墓の仕事を終えると、 近道をするため 赤レンガの塀を乗越え、 走って下宿へ帰り、シャワーを取り 昼食を摂り、バス停へと急いだ。 英語学校は Wilshire BlvdとVermont Ave.交差点近く 静かな住宅街にあった。 車があれば十分ほどの距離であったが、 バスだと乗り換えを入れ、一時間はかかった。 生徒はカリフォルニアという地図的関係もあり、 中南米、アジア人特に日本人 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その23 ロスアンジェルス一帯の地下層には油脈あり、 現在はどうか知らないが、 その油脈の上に建物があれば、 石油会社は、建物の持主に、その土地の広さに応じて 年間、いくらかの配当金を支払っていた。 墓を掘ると、いつも、ジワジワと石油がにじみ出ていた。 だから、埋葬日は白人スタッフの作業着は 油粕で汚れていた。 何十年も前に埋葬された古い棺桶には 油まみれの「仏さん」が、そのまま横たわっており、 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その22 墓では、朝早く事務所に出て コーヒーを沸かす順番制があった。 皆、このコーヒー沸かしが嫌であった。 事務所は樹木に囲まれ薄暗く その前には火葬用に焼却炉があり、 事務所の壁には、火葬された身元不明の人々の 生ゴムで作られた何十ものデスマスクが ぶら下げられており、 その隣の作業場には 板切れで作られた火葬用の棺桶が 無造作に積み上げられていた。 このような光景に囲まれての コーヒー沸かし [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その21 私は休憩中、武藤さんが話す 過去の日系人の生活体験を聴くのが 楽しみだった。 こんな話もあった。 武藤さんは戦前 日本人学校の教師をやっていた。 真珠湾が攻撃され、戦争が始まると、 教師である武藤さんたちは スパイ容疑をかけられ、 すぐFBIに連行され、 家財道具を二束三文で処分し、 家族ともども、マンザナ強制収容所へ入れられた。 マンザナ強制収容所は 米本土に十か所設けられた日米戦争中 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その20 事務所に行くと、 下宿屋の主人から電話があったと、 武藤さんという七十過ぎの 日系人が出迎えてくれた。 墓の葬儀一切は 白人のスタッフ三人が仕切っており、 武藤さんは八十エーカー(九万六千坪)の墓の芝刈りなど 清掃を契約で請け負っていた。 気持ちが悪いのか、 墓で働く者はいないらしく、即、採用された。 時給一ドル七十セント、 勤務時間は午前七時から午後四時までであったが、 学校があるなら [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その19 大体、ガ―ディナーの仕事は、 一軒の庭を一人でやれば一時間かかるが、 二人でやると その半分の三十分で終わった。 一日、何軒の庭を手入れするかで 収入も違ってくるので ガ―ディナーは皆仕事が速かった。 アメリカの平均月収が五百ドル前後の頃、 ガ―ディナーは、九百ドルほどは稼いでいた。 バイトの収入が一日、約十ドルであったが ガ―ディナーのヘルパーの稼ぎは、十五ドル前後と 良いバイトであっ [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その18 その日、食堂で、一日遅れでロサンジェルスから配達され日系新聞「羅府新報」に「ガ―ディナーのヘルパー求む、 比嘉ボーディング・ハウス」と広告があった。 ボーディング・ハウスとは下宿屋のことである。 すぐ、そのボ―ディング・ハウスに電話すると ヘルパーの日給は$15だと言う。 葡萄農園にいても九月からの生活費、 学費も稼げそうもないので、 サムに事情を言って、 ロサンジェルスへ引き返すことに [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その17 葡萄畑に囲まれた農園は 休日だといっても、 車がないと孤島で動きが取れなかった。 時間が有り余るほどの休日、 洗濯して時間つぶしする。 洗濯場は小屋の外にある、コンクリートの流し台でした。 日本では、ホテルなど特別な所でないと 蛇口から湯は出ない時代だったが、 アメリカではこのような農園でも 大きな蛇口から惜しみなく出る湯に アメリカの豊かさを感じた。 洗濯物はロープを張って干すと 夏の [続きを読む]
  • 1968のバイク世界一周旅行
  • その16 夏時間のカリフォルニアは 八時を過ぎても明るかった 夕食が終わると、 サムの娘たちは事務所前で 即席の売店を開き、労働者相手に ビール、タバコ、コカ・コーラなどを 売りはじめた。 年老いた労働者たちは夕食を済ませると 夕涼みを兼ね、売店の周りに集まり、ビールを飲みながら、 娘たち相手に、英語交じりの日本語で、 たわいない会話を楽しんでいた。 老人たちは、大正の末期から昭和の初期にかけ [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その15 葡萄畑には夜間、 たっぷり水が撒いてあり 足元は泥んこになっていた。 作業に慣れない私は 葡萄の蔓を抱えたまま 何度もひっくり返り、シャツもジーンズも あっという間に泥んこになった。 この作業を一時間も続けていると 腰がだるくなり、手も上がらなくなるほど疲れた。 労働者を管理するジョージは トラックの上から我々を監視し、 「さぼるな!」と、大声で怒鳴った。 時間の経過とともに 上からは太 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その14 朝食が済むと ジョージの運転するトラックの荷台に全員乗り込み、 全員といっても十数人だったが、 葡萄畑の農道を もうもうと砂塵を上げながら、 猛スピードで東走り出した。 トラックの荷台は 夜明けの冷たい風をもろに受け 歯が合わないほど寒かった。 葡萄畑のはるか地平線に 太陽が昇り始め、 鮮やかな赤色に染まった セコイヤ、ヨセミテ国立公園の山々が 東に小さく輝いていた。 トラックは十分ほど [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その13 私の小屋には先客がいた。 日本語は少しわかるという 七十歳ぐらいの朝鮮人で、 数日前、小屋の入り口の階段を踏み外し 足を怪我したと言い、包帯をぐるぐる巻きにして ベッドで横になっていた。 彼は子供の時、 父親とアメリカへ密入国、 季節労働者として カリフォルニア各地の農園を 季節労働者として転々としていたようだ。 正規の移民でもなく、年金ももらえず、 今も働いていると言った。 この農園の [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その12 寝泊まりは 白ペンキがあっちこっち?げた 粗末な掘立小屋で、 「ギイ・ギイ」と、錆びた音のするスプリングの利かない 埃をかぶった古いベッドの六、七個あり、その脇に小さな机と、 その上に電気スタンドがあった。 窓は一つしかなく、 昼間でも部屋の中は薄暗く、 天井から裸電球が一つぶら下がっており、 映画で見たアウシュビッツの強制収容所のようで、 最初は薄気味が悪かった。 だが、日本では扇風機 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その11 昨日(2017年5月19日)は、 カッコよく言えば、 私がバイクで世界一周へロサンジェルスを出発して 50周年の記念日だった。 しかし、そんなことなどすっかり忘れ、友人と五月晴れの下で ゴルフを楽しんでいた。 話を元に戻そう。 デラノのバス・ターミナルで、三十分ほど待っていると 小型トラックが止まり、四十代後半の浅黒く日焼けし、 長い髪を後ろに束ね、白シャツにジーンズ、セミ・ブーツ姿の健 [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その10 九月からの学費、生活費を稼ぐ必要に迫られ、 ホテルの日系老経営者に事情を話すと ガ―ディナーのヘルパーは金になると言う。 ロサンジェルス一帯のアメリカ人の庭を 手入れするのが日系ガ―ディナーの生業であった。 夏場は芝生の伸びが早く、ガ―ディナーの需要も多く、 ヘルパーを雇っていた。 当時、日本の日給が約¥500であったが、 ヘルパーの日給は$15(当時のレートで¥5,400)と、 日本の [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その9 ロサンジェルス空港に到着。 当たり前のことであるが、周りは皆アメリカ人。 英語が話せず、緊張で胃が痛んだ。 日本人留学生はリトル東京、日本人町のレストランで 皿洗いをして生活費を稼ぐと、 何かで読んだ記憶に従い、 うろたえ、動き回り、 やっと「リトル東京」へたどり着けるバスを見つけた。 バスは四車線、五車線もある見たこともない 広く、大きいフリーウエイを経験したこともない スピードで走った [続きを読む]
  • 1968年のバイク世界一周旅行
  • その8 食事代は$1ぐらい、 日本で稼ぐ一日のバイト代ほどの 高さであった。 ウェイトレスは、チップなるものを請求した。 チップにいくら払えばいいのかもわからず、 ポケットから小銭を出し、テーブルに並べると 彼女は、一番大きい形をした25セント・コイン をつまみ上げ、エプロンのポケットに ポイッと愛想笑いをしながらほり込んだ。 今も、このチップ制度を頑なに守っているアメリカ・・・。 もういい加減こ [続きを読む]