猫万年青 さん プロフィール

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猫万年青さん: 後醍醐の恋
ハンドル名猫万年青 さん
ブログタイトル後醍醐の恋
ブログURLhttp://godaigos.blogspot.jp/
サイト紹介文歩歩惊心@日本を考える。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供27回 / 16日(平均11.8回/週) - 参加 2017/06/01 20:37

猫万年青 さんのブログ記事

  • [6-3] 宴の終わり(終)
  • ところで兼好は位置的には、韓国版のジモン(知夢)に似てるのにゃ。でもジモンは天文占い師だから、陰陽師のほうが当たるかにゃ。徒然草第224段には、安倍有宗という陰陽師が出てくるにゃ。「庭を遊ばせず畑にしろ」なんていう、生活感のある人にゃ。陰陽師有宗入道、鎌倉よりのぼりて、尋ねまうで来りしが、まづさし入りて、「この庭のいたづらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は植うることを努む。細道 [続きを読む]
  • [6-2] 小弁と2人の貴公子
  • 物語は1305年の亀山の死からはじめるにゃ。時の帝は後二条邦治、治天の君は後宇多院にゃ。このとき後宇多は39歳、後二条天皇は21歳、後醍醐と後伏見は18歳、奨子は20歳だったのにゃ。小弁の年齢は19歳として、現代では大学生くらいにしておくにゃ。専攻は何にするのがいいのかにゃ。いずれにしろ時代劇チャンネルで「太平記」を見たことがあるくらいがよさそうにゃ。兼好は1283年生まれとすれば、1305年には23歳にゃ。後二条の滝口 [続きを読む]
  • [6-1] ヒロイン決定
  • 兼好の件で卜部氏の系図を辿ってゆくと、卜部兼直の娘が五辻忠継に嫁いでいるのが見つかるにゃ。どこかで聞いた名と思ったら、五辻忠継は後醍醐の実母である談天門院(五代忠子)の父親にゃ。もっとも忠子の生母は平高輔の娘というから、後醍醐は卜部氏の血は引かないにゃ。談天門院:[1268−1319] 鎌倉時代、後宇多天皇の妃。文永5年生まれ。参議五辻忠継の娘。正応元年尊治親王(後醍醐天皇)を生む。正安3年准三宮となる。嘉元 [続きを読む]
  • [5-4] 兼好・文才の源流
  • 兼好は後二条の供養にも歌を提出しているにゃ。兼好の歌の実力は、25歳くらいですでに認められていたということにゃ。(後二条院のかかせ給える哥の題のうちに御経かかせ給はむとて女院より人々によませられ侍りしに夢に逢恋を)うちとけてまどろむとしもなき物をあふとみつるやうつつなるらん兼好自家集には中納言や大納言、大臣なども次々出てくるにゃ。そうした機会は珍しいから書き残すとしても、何でもない武士か下級役人の身 [続きを読む]
  • [0-0] 後のつく天皇
  • ところで後醍醐の後というのは何なのかにゃ。同じ疑問を持つ人は他にもいるようにゃ。醍醐天皇・後醍醐天皇などドウシテ後がつく天皇が…鎌倉期以降は…昔の天皇と同じゆかりを持っていたり、同じような境遇を生きた場合に、その天皇の二世のような意味で、「後●●天皇(院)」と諡号をつけるようになったのです。後醍醐は生前から「オレの号は後醍醐」と決めていたそうにゃ。父の後宇多も本人が遺詔で決めてたというけど、後宇多 [続きを読む]
  • [5-3] 兼好法師とは何者か
  • 兼好法師とは、そもそもどんな人なのかにゃ。兼好:[1283ころ〜1352ころ]鎌倉時代末期〜南北朝時代の歌人、随筆家。俗名は卜部兼好 。卜部氏は神道の家。京都吉田に住むところから吉田氏をも称した。出家後は音読して「けんこう」と号した。父兼顕や兄兼雄も朝廷に出仕していたが、兼好も 20代は後二条天皇に仕えて左兵衛佐となり、その間豊富な有職故実の知識を得るとともに、歌を二条為世のもとで修練した。 30歳前後に出家し [続きを読む]
  • [5-2] 兼好法師の女-2
  • 延政門院一条は、兼好の著作に唯一名の出る女性だにゃ。そのため「兼好の恋人では?」と考える向きもあるようにゃ。そういう人は徒然草第31段で「雪の日に雪の話をしない兼好」にツッコミを入れた「忘れがたき人」なども、一条ではないかと見るようにゃ。雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事に、「この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の [続きを読む]
  • [5-1] 兼好法師の女-1
  • 兼好法師の「徒然草」第24段は、野宮にいる斎宮の話にゃ。この斎宮は、奨子内親王のことといわれるにゃ。斎宮の、野宮におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか。「経」「仏」など忌みて、「なかご」「染紙」など言ふなるもをかし。(徒然草第24段)兼好法師は1352年までは生きていたから、彼が目撃した斎宮は1306年の奨子の他に、1330年の懽子内親王(宣政門院)や1333年の祥子内親王でもありうるにゃ。で [続きを読む]
  • [4-2] 斎王はトップレディ
  • 奨子内親王(達智門院)は後醍醐よりも早く生まれて後醍醐よりも長生きしたから、後醍醐の生涯を見届けた人ともいえるのにゃ。達智門院:[1286−1348] 後宇多院の皇女。母は藤原忠継女、談天門院忠子。後醍醐天皇の同母姉。後二条天皇の異母妹。乾元元年(1302)、内親王宣下。徳治元年(1306)、後二条天皇の斎宮に卜定され、翌年、初斎院に入り、さらに野宮に入る。ところが延慶元年(1308)、後二条天皇が崩御し、群行を遂げな [続きを読む]
  • [4-1] 天皇の姉と天皇の弟
  • 後醍醐が増鏡に初めて登場するのは、1305年の亀山さんの死のときにゃ。当時の後醍醐の役職は大宰帥で、帥宮と呼ばれたにゃ。院の二の御子の御母、忠継の宰相の娘、今は准后と聞こゆる御腹におはします。この頃帥宮と聞こゆるを、法皇とりわき御傍ら去らず馴らはし奉り給ひて、いみじうらうたがり聞こえさせ給ひしかば、人より異に思し歎くべし。(増鏡「つげの小櫛」)毎度ながら誰かが死ぬと、親族が全員集まるにゃ。中でも後醍醐 [続きを読む]
  • [0-0] 増鏡と足利尊氏
  • 後醍醐の時代を知るうえで、「増鏡」はとってもおもしろい史料だにゃ。増鏡: 歴史物語。一七巻。一九巻または二〇巻の増補本もある。二条良基作とする説が有力だが未詳。応安年間(1368〜1375)頃の成立か。「大鏡」などにならって、後鳥羽天皇即位から後醍醐天皇の隠岐からの還幸まで、一五代約150年間の歴史を編年体で記す。「源氏物語」や「栄花物語」の影響を受け、流麗な擬古文で叙す。四鏡の一。四鏡は成立順だと大鏡・今 [続きを読む]
  • [3-3] 後醍醐の叔父子
  • 恒性の母はどの史料でも「亀山院皇女」となってるにゃ。これは昭慶門院(憙子内親王)のことで、実母は源親子との話もあるようにゃ。恒性皇子:[1305-1333] 鎌倉時代の皇族。後醍醐天皇の皇子。母親は源親子、義母は大叔母でもある憙子内親王(昭慶門院)。別名は大覚寺宮、越中宮。源親子は北畠親子で、通説では民部卿三位とされてるにゃ。民部卿三位は護良親王の母親だけど、恒性と護良が同腹の兄弟という話もないようにゃ。しか [続きを読む]
  • [3-2] 17歳で父になる
  • 紹運録の記述を真実と見て、恒性の流刑は1310年10月9日のこととしてみたにゃ。実際の処刑が2日後かどうかは不明にゃ。服毒死との話もあるから、韓国ドラマの賜薬のように砒素を飲まされたのかもしれないにゃ。しかし恒性は1305年に生まれたばかりで、1310年にはほんの5歳だったのにゃ。5歳で自害を迫られるとは、やはりありえない話に思えるにゃ。恒性が真に1305年に生まれたのなら、後醍醐が17歳のときにできた最年長の皇子なのに [続きを読む]
  • [3-1] 謎の第1皇子
  • 後醍醐の年長組の皇子の母親は、為子も経子も1270年前後の生まれとしてみたにゃ。さらにもう1人、世良親王の養母となった昭慶門院(憙子内親王)も、1270年生まれの人なのにゃ。昭慶門院は亀山さんの第2皇女で、後醍醐にとっては叔母さんにゃ。昭慶門院:[1270−1324] 亀山天皇の皇女。母は藤原雅平の娘雅子。永仁元年内親王となり、4年院号をあたえられる。後醍醐天皇の皇子世良親王の養母。亀山天皇から甲斐、越前などのおおくの [続きを読む]
  • [2-7] 勾当内侍の男たち
  • 勾当内侍も後醍醐に寵愛されたあと、臣下の北畠具行に嫁ぐのにゃ。源中納言具行も同じ頃東へ率て行く。数多の中に取り分きて重かるべく聞こゆるは、様異なる罪に当たるべきにやあらん。内に候ひし勾当内侍は、経朝の三位の娘なりき。早うより、御門睦ましく思し召して、姫宮など賜うで奉りしを、その後、この中納言いまだ下臈なりし時より許し賜はせて、この年来、二つなき者に思ひ交はして過ぐしつるに、かく様々に付けて浅ましき [続きを読む]
  • [2-6] 悲恋の小男鹿
  • 増鏡には後醍醐のつかの間の女性関係も載ってるにゃ。中でも後醍醐が寵愛していた大納言典侍(北畠師重の娘)は、後醍醐のもとから逃げて堀川具親と駆け落ちした人にゃ。内には、万里小路大納言入道師重と言ひしが娘、大納言の典侍とて、いみじう時めく人あるを、堀河の春宮の権大夫具親の君、いと忍びて見初められけるにや、かの女、掻き消ち失せぬとて、求め尋ねさせ給ふ。二三日こそあれ、ほどなくその人と顕れぬれば、上いとめ [続きを読む]
  • [2-5] 護良親王の母
  • 後醍醐の年長組の皇子のうちでも護良親王は、とりわけ目立つ存在にゃ。大塔宮とも呼ばれるこの親王は、後醍醐の倒幕活動をフルに助けた皇子なのにゃ。護良親王:[1308〜1335]鎌倉-南北朝時代、後醍醐天皇の皇子。母は源親子。出家して梶井門跡、天台座主となり、大塔宮と称される。父天皇の討幕運動に協力し、元弘の乱に際し還俗して吉野に挙兵した。建武の新政で征夷大将軍となるが足利尊氏と対立。謀反の罪で鎌倉に幽閉され、 [続きを読む]
  • [2-4] 世良親王の母
  • 1326年の増鏡が2番目に伝える皇子は、「藤大納言の娘が生んだ一の御子」で、これは二条為子の生んだ尊良親王にゃ。一の御子は、藤大納言の御腹、吉田の大納言定房の家に渡らせ給ふ。この皇子を育てた吉田定房は、後醍醐自身の乳母でもあったのにゃ。3人目に紹介されるのは、二の御子の世良親王にゃ。養育係の北畠親房は、神皇正統記の著者としても有名にゃ。二の御子も、いときらきらしうて、源大納言親房の御預かりなり。世良親王 [続きを読む]
  • [0-0] 不人気な時代
  • ブログ村の歴史ブログのサブカテゴリのうち、時代別の登録数を見てみるにゃ。南北朝時代の含まれる鎌倉室町時代は、奈良平安時代と並んで不人気にゃ。やはり人気は戦国時代だにゃ。江戸時代は長いわりに、扱うブログは少ないにゃ。NHKの大河ドラマ56作を同じように仕分けてみても、戦国時代はダントツにゃ。原始・古墳時代:なし奈良・平安時代:2件(14風と雲と虹と/32炎立つ)鎌倉・室町時代:8件(4源義経/10新・平家物語/17 [続きを読む]
  • [2-3] アラフォーの女
  • 増鏡で次に後醍醐の妻子が出るのは、1326年の邦良親王の死没時にゃ。邦良は後醍醐天皇の太子だったから、その邦良が死ぬと次の太子は誰かというので、候補となりそうな皇子が列挙されるのにゃ。でも残念ながらこのときの太子は、持明院統の光厳量仁に決まるにゃ。かく様々におはしますを、この度いかで坊にと思しつれど、予てより、催し仰せられし事なれば、東より人参りて、本院の一の宮を定め申しつ。(増鏡「春の別れ」)それで [続きを読む]
  • [2-2] 年上の女流歌人
  • 増鏡によれば1318年に禧子が中宮となった後、1319年には後醍醐の母親の談天門院が亡くなるにゃ。それで種々の行事が中止となるうち、後醍醐は有名歌人の二条為世に「勅撰和歌集を作れ」と命じるにゃ。この二条為世の娘で後醍醐の後宮だったのが、権大納言の君と呼ばれた二条為子だにゃ。二条派の歌人の家に生まれた為子は、自身も勅撰歌人だったにゃ。御門の御母女院、十一月失せ給ひにしかば、内の上御服奉る。…この大納言の娘、 [続きを読む]
  • [2-1] 後醍醐の女たち
  • ある程度のキャラは揃ったとして、後醍醐天皇の女性遍歴を見てみるにゃ。後醍醐さんの妻子はすでに見たとおり大量にゃ。これらの皇子を母親別に並べ変えて、ウィキ他の情報も追加してみるにゃ。よくもまあこれだけ孕ませたものなのにゃ。尊良親王:母贈従三位為子。権大納言為世卿女。尊澄法親王(宗良親王):母同尊良。瓊子内親王:母同尊良。世良親王:母橋本実俊卿女。遊義門院一条。静尊法親王:母同世良。欣子内親王:母同世 [続きを読む]
  • [0-0] 鎌倉室町時代のドラマ
  • 手っ取り早く時代の雰囲気を掴もうと、後醍醐の出てくるNHK大河ドラマ「太平記」を見てみたにゃ。1991年の作品にゃ(人気大河ベストテンの7位)。原作は吉川英治の「私本太平記」で、主人公は足利尊氏(真田広之)にゃ。残念ながら後醍醐(片岡孝夫)の出番は少ないにゃ。人物としても「やんごとなき天皇」というだけで、個性もあんまりなかったにゃ。この「太平記」は宮沢りえや後藤久美子なんかも出てて、当時はトレンディ大河と [続きを読む]
  • [1-4] 持明院統と大覚寺統
  • 後宇多さんと後醍醐さんの時代の年表をこしらえるにゃ。赤は大覚寺統、青は持明院統の天皇にゃ。1267 後宇多世仁誕生、亀山天皇の第2皇子。1268 後宇多立太子。1274 亀山譲位。後宇多即位。1275 伏見立太子。1285 後二条邦治誕生。後宇多の第1皇子。1287 後宇多退位。伏見即位。1288 後醍醐尊治誕生、後宇多の第2皇子。後伏見胤仁誕生、伏見の第1皇子。1290 浅原事件(伏見天皇暗殺未遂)。1297 花園富仁誕生。伏見の第4 [続きを読む]
  • [1-3] 2つの暗殺疑惑
  • 1324年に後宇多が死んだ数ヶ月後には、後醍醐は倒幕に走ってあっさり失敗にゃ(正中の変)。すると邦良派はここぞとばかりに「後醍醐を下ろせ」と幕府をせっつくにゃ。故法皇(後宇多)の側近や親王の側近達は鎌倉幕府に後醍醐天皇の退位を要請する一方、持明院統にも次期皇太子を約束して協力を求めた。後醍醐天皇はこれに強く反発し、幕府に釈明と譲位繰り延べの要請をする。その結果、邦良親王の使者と後醍醐天皇の使者が立て続 [続きを読む]