江戸城は、扇谷上杉氏の重臣である太田道灌が築城した とされています。 太田氏が武蔵南部に進出する前には、江戸氏の屋敷が あった後に、築城したようです。 関東地方の騒乱の中で、城主が変わっていき後北条氏の 勢力圏となりました。 豊臣秀吉の北条討伐後に、徳…
四谷見附は、江戸城36見附の一つで江戸城西側の外堀の 市ヶ谷見附と喰違見付の間に位置し、甲州街道と青梅街道 につながる、重要な交通拠点です。
喰違見附は、江戸城外堀の赤坂見附と四谷見附の間に ある門で、江戸城の見附と呼ばれる城門は、枡形門と いう高麗門と渡櫓門の二重構造の門が多い中で、喰違 門は、虎口と呼ばれる土塁を前後に伸ばして、その間 に門を築いた城門でした。
赤坂見附は、江戸城の外堀にあった門の一つです。 見付とは、城の外郭に位置して外敵の侵入を防いだり 外敵の接近を見張るための城門です。 赤坂見附は江戸城の他の門と同様に石垣と高麗門と 渡櫓門を組み合わせた枡形と言われる防御施設でした。
半蔵門は、江戸城内郭の西側の吹上につながる門です。 江戸期には半蔵門は枡形の高麗門と渡櫓門の二重構造でしたが 現在は渡櫓は撤去されています。 皇居の通用門として利用されています。
北桔橋門(きたはねばしもん)は本丸の北側の門です。 皇居東御苑の北側の出口で北の丸公園につながります。 太田道灌が江戸城を居城していた時にはこの門辺りが 大手だったようです。
平川門は、江戸城三の丸の北部にある高麗門と渡櫓門の 二重構造の枡形門です。 大名などが通る大手門に対して、女中などが通る通用門と して使用されていたようです。
本丸跡の南西付近に白鳥濠展望台があります。 樹木に隠れていてちょっと目立たないのであまり人がいなく 隠れ家的なスポットとしてお気に入りです。
中之門は江戸城の中でも最大級の巨石を使用していて ほとんど目地のない整層の石垣です。 奥にあるのは大番所です。 …
富士見櫓は本丸の南端に位置する三層構造の櫓です。 江戸城の天守閣が焼失後は天守替わりとして使用され 将軍が富士山…
本丸の西側の蓮池濠に面した石垣に富士見多門はあります。 多門とは長屋造りの防御施設で江戸城には多数の多門が ありましたが、現存するのは富士見多門と二重橋近くの 伏見櫓の両側にある2つの多門のみです。
二重橋濠に架かる正門鉄橋の別名が二重橋です。 皇居の正門に架かる正門石橋のことと誤解されてることが 多いようです。 …
桜田門は、正式には外桜田門と言い、三の丸にある桔梗門が 内桜田門と呼ばれていたようです。 西の丸を守る枡形の二重構造の門で、高い防御力を有していました。
大手門は江戸城の正門で、諸大名が江戸城に登場する際に 使用しました。 高麗門と渡櫓を組み合わせた枡形の二重構造で…
江戸城の天守閣は、1607年の慶長度天守、1623年の元和度天守、 1638年の寛永度天守と3度に渡り建てられましたが、1657年の 明暦の大火で焼失しました。 江戸幕府は再建を検討しましたが、財政難などから天守閣は 不要と判断し、以後天守不在となっています。
江戸城は、扇谷上杉氏の家宰 太田道灌が築城しました。 太田道灌のころの江戸城は現在のの本丸跡程度の大きさで 日比谷の辺りまで海だったそうです。 徳川家康の関東移封時に、江戸城を本拠地と定めて、城域が 拡張していき三代将軍徳川家光のころに総構えが完成しました。 明治維新で江戸城無血開城が行われて、明治以降は皇居となりました。
「ブログリーダー」を活用して、太田道灌さんをフォローしませんか?