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Kodai-Note https://kodainote.hatenablog.jp

耳を澄ますように古代を感じる試み。

京阪神を中心にフィールドワーク、五感を働かせて古代を感じるというコンセプトではじめました。

sakutaro
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東大阪市
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2018/05/06

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  • 東大寺盧舎那仏像の造立で知られる行基が整備した有名な池とは?

    行基といえば、一時は朝廷から弾圧をうけながらも民衆に慕われ、数々の社会事業に携わり、行基菩薩と敬われた奈良時代の僧。後に聖武天皇の帰依を受ける行基の功績といえば743年の東大寺盧舎那仏像の造立だろう。 莫大な費用を調達し、大勢の人夫をまとめて、この公共事業を成し遂げるのは行基以外に考えられないと聖武天皇が判断したとされる。その2年後に大僧正に任ぜられ行基は僧官の頂点にたつが、その偉業は土木工事にも及んでいた。 『古事記』や『日本書紀』に築造記事がみられ、いまも灌漑用水池として使用されているのがここに紹介する狭山池だ。今から1400年前につくられた日本最古のダム形式のため池。この狭山池の改修に行…

  • 古代を通じてたどりつく私達の無意識

    奈良や京都、あるいは飛鳥の地を訪ね歩き、古代について調べ、想いを巡らせていくうちに、なぜ、自分はこれらの事象に興味があるのだろいうと考えることがある。その原動力の正体を考えと、ゆかりの地を訪ね歩き、その地の古代の痕跡を感じてみようと感覚を研ぎ澄ませる。すると、稀に神秘的な心地よさ、美しさを体験することがある。 それは、例えば、法華寺の十一面観音に衝撃的な美を感た、あるいは聖林寺本堂の縁側から雷雨のなか三輪山を眺めた、春日大社につらなるささやきの小径で鹿の頭蓋骨を見つけた…。そんな、再び出会うことができないような瞬間だ。 岡寺で出会った見事な蛙 それは、かつて、古代人も経験したと思われる瞬間だ。…

  • 「十一面観音」にまみえる聖林寺で出会ったもう一つの美

    昨日、岡寺へ取材に行った際、足をのばして聖林寺を訪れた。伽藍を誇示することなく、山間の坂道、近隣の民家と木々に埋もれるように建っている。 曇り空、降りそうな湿気を感じながら、山門に繋がる階段を上った。 聖林寺は白洲正子著「十一面観音巡礼」で知りながら、なかなか足を運べないでいたが、法華寺の「十一面観音菩薩」に感銘を受けてから、聖林寺のそれも確かめたいと常々思っていた。 拝観料を払い、本堂に上がると「子安延命地蔵菩薩」にまみえる。丈六(立像で一丈六尺)、八尺(約2.4m)の大きな石像。お顔が大きく、包み込むようなたおやかなお地蔵さま。 お堂の奥をみやると、襖が開け放たれ、飛鳥の地と周辺の山々の風…

  • 岡寺:法力で龍を退治した奈良仏教のルーツ、義淵僧正創建の寺

    観音の申し子として生をうけ 良弁や行基を育てた傑僧義淵 明日香村の東、岡山の中腹にまみえるのが西国三十三ヶ所観音霊場*の第七番札所となる岡寺。 坂道を登り、門前町を横目に息を切らせて歩き、重要文化財に指定されている仁王門へ。 境内にはいると堂々たる風格の本堂が目をひく。 本堂は一八〇五年(文化二年)の上棟されたものだが、岡寺自体は古く、一千三百余年の歴史がある。子宝に恵まれない夫婦のもとにつかわされ、観音の申し子といわれた義淵を天智天皇が引き取り、岡宮で草壁皇子と共に育てたことがはじまりだ。 仏教の指導者となった義淵に天智天皇は岡宮を与え、六六三年(天智天皇二年)663年に岡寺を創建した。 義…

  • 興福寺に隣接する、東向商店街の真実とは?

    東に位置する興福寺を忖度して生まれた東向き商店街? 近鉄奈良駅を地上にあがると、出迎えてくれるのが東大寺に向いて立つ行基像だ。そのかたわらには、「東向き商店街」という名の商店街が南北に延びている。商店街を南に少し歩くと東側に興福寺へつながる傾斜のある近道がある。傾斜を登りきると広がるのが広々とした興福寺の伽藍。 ちなみに、商店街をそのまま南へ下ると和風教会の幼稚園がある。そこは急な傾斜で、坂の途中は大きな段差になっている。ちなみに、東向き商店街という名前について、「ブラタモリ」では西側に興福寺に忖度し、背中を向けてお店を建てることをはばかったと紹介されていたが、じつはそれは事実ではない。 平城…

  • 大阪の都心を貫ぬく大川、堂島川、安治川は人工の水路だった

    難波堀江はどうしてつくられた? 大阪の都心を貫いて高層ビルやホテル、高速道路を水面に映し、大川、堂島川、安治川へと名を変える。豊かな水量を湛えて流れるこの川のはじまりが、人工的に掘られた水路だったということをご存じだろうか。 高層ビルが並ぶ、大川 堂島界隈 人工的に掘削されたこの水路は古代、「難波堀江」と呼ばれていた。じつは約6千年前の大阪平野の地形は現在と全く異なり、一面は大海原だった。上町台地だけが半島のように突き出ていたのだ。縄文時代中期には、上町台地の先端の砂州が北へ延びたことで、弥生時代には上町台地の東側が大きな湖となっていた。 洪水が多発水難に悩まされ あの人物が腰を上げた 5世紀…

  • かっては「岸辺の道」だった?「山辺の道」

    「山辺の道」とは春日山の麓から奈良盆地の東に連なる小高い山やまの裾にそって南下し三輪山の麓まで続く大和の古代道路のひとつ。 全長35キロメートルの道の周囲には古寺社や古墳など、名所・名跡が点在し、四季折々の趣があって美しく、「美しい日本の歩きたくなる道500選」にも選ばれている。 写真はイメージです ルートはふたつあり、天理から奈良までのルートはほとんど消滅しているが、大神神社から石上神社までの15キロのルートは、三輪山を仰ぎみながら、西方に広がる奈良盆地と大和三山や二上山。遙かに葛城山、金剛山をまみえるハイキングコースとしても知られる。「山の辺の道」という言葉に相応しく、道は縫うようにという…

  • 十一面観音という仏教世界の入り口

    古刹を見つけると、十一面観音の姿を探す。仏教関連書籍を紐解くと、十一面観音の名前を探す。盧舎那仏、大日如来、不動明王、数々の如来、菩薩、明王、天部がいるなかで、私にとって十一面観音菩薩は特別な存在だ。 十一面観音に惹かれる理由、一つにはそこにアニミズムの傷痕を感じる点にある。山間部の泉、河川部などに人智を越えた力や神秘的な気配、畏怖の念を感じた人たちが幻視するホログラムのような願いや畏怖。そうした情念のシルエットに十一面観音というデザインとコンセプトを与えられたものが十一面観音の姿なのだと私は感じている。 そのアニミズムから、仏教世界に紐付けられる仕組みに自分はとても興味があるのだと思う。菩薩…

  • 「頭塔」が私たちに語りかけるもの

    それは、民家のすき間から姿を見せた 春日山原始林を取材した帰り道、高畑界隈にさしかかった民家の家々の隙間から不自然な瓦が視界に飛び込んだ。あれはなんだろう?と訝しみながら近付くと、それは不可解な建物だった。ピラミッドのような四角錐、 5段ほどの石段で築かれ、所々に屋根が設えてある。建物というより、堂宇のフリークのような禍々しさがあった。新興宗教のモニュメントのようなものかと思ったが、Google Mapで調べて見ると「頭塔」と表示される。どうやら奈良時代に作られたもので、歴史のある建造物のようだ。 奈良町にある元興寺を東に進むと民家に隠れて姿を現す。東大寺の寺域を元興寺の旧寺域から守っているよ…

  • 平城宮跡のなかを電車が走る理由

    奈良体験、最初のクライマックスなのだが。 大阪、難波駅から奈良に向かう近鉄奈良線の電車が大和西大寺駅を出てしばらくすると、車窓に壮大な歴史パノラマが広がる。 まず、右手に艶やかな朱塗りの朱雀門、そして左手には近年整備された平城宮跡と荘厳な大極殿が現れる。視界を邪魔する障害物はなく、復元された建築物の他には遺構と緑の空間が広がる。奈良を訪れる人はまずここで一つ目のクライマックスを体験することになる。 同時に、脳裏をかすめるのは「こんな貴重な場所を横切っていいのだろうか?」というかすかな罪悪感。それを感じるのは私だけではないだろう。 西大寺駅から奈良へ走る近鉄電車。ゆったりとした弧を描いているのが…

  • 矢野顕子の『在広東少年』と江戸時代の僧侶・木喰の関係

    矢野顕子の人気曲でYMOの世界ツアーでも披露された『在広東少年』という歌があった。アップテンポのハードでポップな曲だ。謎めいたイントロと開放的サビ、それをつなぐ印象的な歌詞はなかなかシビれる。 www.youtube.com 「黒色い瞳の中に赤い花が咲いて。黒い瞳の中に……」という抽象的な言葉が並び、サビの部分はこんな印象的な歌詞が歌われる。 「おまえはほほえむ わたしにむかってほほえむ……」。 お前とは誰なのか?黒い瞳の持ち主か?それは広東に在る中国の少年のことなのか?内省的でありながらインパクトのある曲は矢野顕子のファンでなくても、印象に残っただろう。 在広東少年 アーティスト: 矢野顕子…

  • 天平時代へのタイムマシン、『正倉院展』 この秋も開催

    2018年度70回目となる『正倉院展』。10月27日から。 奈良の秋の風物詩というべき『正倉院展』が10月27日から17日間にわたって行われる。この季節になると、私も正倉院展モードにスイッチがはいり、皮膚が泡立つ感覚を覚えはじめる。私の審美眼など、たいしたことはないが、古代の人々の技巧や当時の皇族、つまり聖武天皇や光明皇后が過ごしたひとときに触れることができると思うと、皮膚が泡立つのだ。私にとって正倉院展とは古代へのタイムマシンのような存在である。 東大寺 正倉院 北(正面に向かって右)から順に北倉、中倉、南倉 正倉院は北倉、中倉、南倉の三倉に仕切られているが、今年は北倉(ほくそう)10件、中…

  • 母から聞いた、大阪空襲 (1945年3月13日)

    終戦記念日(8月15日)が近づいてきたので、身近な戦争経験者、母に当時のことをLINEで聞き出し、書きとめた。 今年、父は83歳、母は80歳。有り難いことに両親とも健在で、東大阪市中石切で静かに暮らしている。大阪に大規模な空襲が行われたのは、今から73年前、1945年3月13日。 大阪空襲 (1945年3月13日) 大阪市を中心とする地域への戦略爆撃ないし無差別爆撃。13日の深夜から翌日未明にかけて行われ、一般市民 10,000人以上が死亡したと言われている。アメリカ軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約…

  • 瓢箪山稲荷神社とアオバズク

    ひさしぶりに、東大阪市にある瓢箪山稲荷神社に足を運んだ。北隣にある大東市の寺川に暮らす友人を尋ねた帰りのこと。寺川から瓢箪山駅行きのバスに乗り込み、近鉄電車に乗る前に、瓢箪山稲荷神社に立ち寄った。 瓢箪山稲荷神社の参道。写真は別の日に撮ったもの。 瓢箪山稲荷神社は先の寺川から6キロ南、奈良県と大阪府の県境に並ぶ生駒山脈の大阪側の麓にある小さな神社だ。じつは私はこの神社の近くで生まれ育った。神社から1キロほど歩いた場所に家があった。神社は駅前にあったので、立ち寄るこちも多く、夏祭には友達と境内に駆けつけ夜店に心を躍らせた。とても馴染みの深い神社だった。 瓢箪山という地名から、どこかに瓢箪山という…

  • 現在の淀川は生まれて100年。大阪市内で暴れ回った旧淀川の流れ。

    甚大な被害を及ぼした7月上旬、西日本豪雨。この記録的な大雨によって200人以上の方が亡くなり、863万人以上の人々に避難勧告や指示がだされた。 あらためて、被害に遭われ亡くなった皆様へお悔やみを、被害に遭われた皆様にもお見舞い申し上げたい。 私が暮らす大阪市内は、幸い、直接的な甚大な被害はなかったものの、近隣の交通網は地下鉄や私鉄の一部を除き麻痺状態となった。特にJRはローカル線が山間にも延びていることから、影響は大きく、6月の大阪北部地震の際と同様、私たちの生活に大きな影響を及ぼした。 自然の脅威を、いまさらながら目の当たりにしたわけだが、それでも、大阪市内に直接的な被害が及ばなかったのは、…

  • 奈良のお土産、[柿の葉寿司]。材料の鯖はどうやって仕入れた?

    柿の葉寿司といえば、近鉄沿線のコンビニ、あるいは奈良県内を車で走ると売られているのが目にとまる、奈良の風土料理だ。観光客にとってのお土産ものであり、同時に、奈良の人たちの生活に密着した日常食でもある。 そもそも、柿の葉寿司は奈良県吉野郡、そして五條市方面のお土産ものとして江戸時代の中頃に生まれたもの。酢にひたしたサバやサケの切り身を一口サイズの酢飯のうえにのせ、柿の葉で包んで押しをかけた作った寿司だ。 柿の葉の柿は全国有数の産地である西吉野から五條にかけてとられたもの。しかし、鯖や鮭はどのやって仕入れたのか?奈良県には海に面した地域はなく、これらを穫ることはできないはずだ。 じつは、柿の葉寿司…

  • 「七夕伝説」の発祥は、大阪の枚方市と交野市?

    「七夕伝説」は織姫と牽牛の恋物語 たまには、季節に合ったものを、ということで今回は「七夕」についてのトピックス。まずは「七夕伝説」についておさらいを。 七夕伝説のヒロインは天帝の娘であり神様の着物つくりにたずさわる織女(おりひめ)。天の川のほとりで、彼女は年頃になっても恋もせず、無心に着物を織っていた。天帝はそんな織姫を不憫に思い、牽牛(けんぎゅう)という名の牛飼いを引き合わせ、結婚させる。すると、それまで真面目に働いていた織女(織姫)と牽牛(彦星)は職を忘れ、遊びほうけ、着物をつくらなくなってしまった。天帝の逆鱗に触れてしまった2人は引き裂かれ、離ればなれとなる。ただ、年に一度だけ、七月七日…

  • 鴨川から松原通、鳥辺野方面への道はあの世へのアクセスポイント

    松原通に漂う並々ならぬ気配の深層 賑やかな四条河原町を南下し、鴨川を渡った松原通は清水寺に至る、細く古い道だ。 はんなりと雅やかな雰囲気が多い京都の町のなかで、この通りは独特な雰囲気を漂わせている。 民家がひしめく道すがら、お地蔵さんや寺院に差し掛かり、さらに「幽霊飴」という奇妙な飴を売る店が姿を見せる。さらに、この一帯の住所は「轆轤(ろくろ)町」という。 ぱっと見、「髑髏(どくろ)町」に見間違うが、実のところ、この地は、江戸時代までそう呼ばれていたのだ。 かつて、この道の先にある清水寺の裏手、南側の一帯は墓地であり、鳥部野と呼ばれる京都の三大風葬地の1つだった。 平安時代、丁重に葬られる遺体…

  • 春日山麓の尾根を5m削り、築かれた東大寺大仏殿

    東大寺はいうまでもなく、大仏殿が鎮座する奈良仏教の中心地だ。 広大な境内の石畳の参道から大仏殿を眺め、そこに青い空が広がると、 まるでタイムトリップしたような気分となる。 あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり 小野老 万葉集巻三 [訳 青丹も美しい奈良の都は、咲きさかる花のかがやくように、今盛りである] 天平勝宝4年(752年)の開眼供養会には2万人もの僧侶が集まり、伎楽や舞楽が奉納され、盛大な法会が行われた。 圧倒的な広さを誇る境内だが、かつて、そこにはゆるやかな春日山麓の尾根が延びていたという。 大仏殿は大仏を鋳造し、完成して後、大仏台座高106.75(標…

  • 大阪に存在した、巨大な「河内湖」とは?

    いまや、大阪湾といえば港区、大正区、住吉区、此花区や西淀川区の向こう側、であるが、大阪市の大部分は海の底にあった。 約2万年前、氷河期の終わりの頃は海面が低く、大阪湾や瀬戸内海は海のない干上がった状態だった。気温がじょじょに上昇し、氷が溶けて海面が高くなり、5500年前ごろになると大阪平野のあたりに海ができたのだ。 前回の投稿<淀川河口、西淀川区の地名の多くに「島」の字がつくわけ - Kodai-Note> と通じるトピックスだが、興味深く、そして重要なのでここで触れておく。 海には上町台地だけが半島のように浮かび、外海と河内港とを区切っていた。ちょうど河内港の中心にあたる大阪市鶴見区ではナガ…

  • 淀川河口、西淀川区の地名の多くに「島」の字がつくわけ

    「中島」「姫島」「御幣島」「歌島」「竹島」「出来島」「百島」「西島」……。神崎川と淀川に挟まれ、大阪湾に顔をのぞかせる大阪市の南西の角のエリア、西淀川区には島を冠する地名が多い。 淀川の河口付近に位置する地が「〜島」と名付けられた理由、それは古代、これらの地は実際に島として存在していたことに由来する。さらに、島々はあわせて「難波八十島」と呼ばれていたのだ。 日本列島が形成されて間もない太古の頃のこと。かつて、大阪市の多くは海の底であった。西は六甲山麓から東は生駒山麓まで大阪湾が深く入りこみ、上町台地だけが半島のように浮かんでいたのだ。そして、大阪市内には鯨が遊泳する大海原が広がっていたのだ。 …

  • パワースポットとして知られる天川村で「能」が栄えた理由

    芸能の神様として多くの芸術家やタレントの崇敬を得、1989年に社殿の建て替えの際に行われた神事、正遷宮大祭には長渕剛やYMOの細野晴臣、環境音楽の大家 ブライアン・イーノを召喚しての奉納を執り行った天河大弁辨天社。 当時は、アーティストやニューエイジ系のかなりハイな人たちやが集っていたが、現在は少し落ち着きを取り戻した様子。それでも、パワースポットとしての人気は相変わらずで、スピ系の人々も多く訪れている様子だ。 毎年7月の大祭になると能舞台では観世流の著名な楽師による能が奉納される。また、同社には能面31面、能装束30点と小道具、能楽謡本関係文書などの遺産が残され、能とこの地の並々ならぬつなが…

  • 「こもりくの初瀬」宿命的な長谷寺の地形と信仰

    本尊十一面観音像をはじめ、約千点にも及ぶ文化財を所蔵する長谷寺。四季折々の花が咲き、なかでもぼたんは約150種約7,000株が咲きそろうことから、「花の御寺」と称されている。 車で向かうなら、三輪山の裾から初瀬川を遡って車で10分強。ほどなく、長谷寺の参道にさしかかり、門前町らしいお店や古い町家などが並ぶ。 ちなみに、長谷寺の一帯は古来「泊瀬」と呼ばれている。その名の由来は三輪山から長谷寺に向かう国道165号線の途中、朝倉小学校正門近隣に佇む柿本人麿による万葉歌碑にも見てとれる。 「こもりくの泊瀬の山の山の際に いさよふ雲は妹にかもあらむ」 「泊瀬の山々のあたりにいつまでも去りやらずにいる雲は…

  • 春日大社の御本殿の段差が整備できない理由

    今年、2018年には創建1250年を迎える春日大社。東大寺と並んで奈良の観光地として最も多くの人たちが訪れるが、その魅力の一つが境内が原生林に隣接しているということだ。たしか、養老孟司ものたまっていたが、孤島や山間の奥深くでならいざしも、奈良の市街地からほどない地域にこれほどの原生林がそのままの姿で残されていることは非常に奇特なこと。 世界遺産 春日大社 公式ホームページ 春日大社は、平城遷都後、興福寺と同様、藤原氏により創建され、氏神として栄えたと伝えられる。鹿を神使とし、山原生林の中に鎮座する。創建以来、朱の柱、白い壁、檜皮屋根の本殿・社殿が千古の森の中にその秀麗な姿をとどめている。 注目…

  • 夕日を礼拝し、浄土を思う。四天王寺、「日想観」。

    上町台地から太陽を崇拝する、日想観という信仰があった。 その日は午後5時半を過ぎたころ、夕日が西門の間から徐々に沈んでいく。居合わせる人々は境内から手を合わせ、般若心経を唱えながら西の彼方に沈みゆく夕日を眺める。 これは、聖徳太子が創建した大阪の四天王寺にて、春分・秋分の日の午後5時20分から行われる法要の場面。「日想観」と呼ばれる特別な行事だ。 四天王寺 西門。2017年、秋の日想観。残念ながらこの日は雨だった。 「日想観」とは西方に向かって、沈む夕日を観ながら極楽浄土を想う仏教の修行のひとつ。先の夕日が沈む方向に佇む四天王寺の西門にあたる石鳥居は、古来、極楽の東門にあたると信じられてきた。…

  • 「お水取り」発祥の地 笠置寺 正月堂

    東大寺の二月堂で行われている「お水取り」その発祥地となる笠置寺。 奈良や京都と比べると観光地として賑わっているわけではなく、ときおり、ハイキングで笠置山を登る人が訪れる程度の場所だが、どうしても自分の目でみてみたい史跡があった。 きっかけは、白洲正子の『十一面観音巡礼』という書籍だ。本書のなかで、東大寺の「お水取り」と笠置寺の関係性について興味深く記され、重要人物である実忠という僧侶が覚醒したという場所が存在するのだ。 十一面観音巡礼 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ) 作者: 白洲正子 出版社/メーカー: 講談社 発売日: 1992/08/04 メディア: 文庫 購入: 3人 クリック:…

  • 『歴史REAL京都・奈良古代史を歩く』一部の取材を担当

    『歴史REAL京都・奈良古代史を歩く』発行 洋泉社 <PART②奈良・京都歴史の舞台を歩く>ページの取材を担当。 東大寺、興福寺はなぜ都の外れに建つのか?平安京に劣らない 「極楽都市」・宇治の秘密歴史の舞台はなぜ、その場所だったのか?ブラタモリでは正確に伝えられなかったトピックスなども盛り込んだ興味深い内容です。 https://www.amazon.co.jp/歴史REAL京都・奈良古代史を歩く/dp/4800314267 取材を進めるなかで、地形と信仰、政治の関係が浮き彫りになった。 実感したのは神よりも民の想像力だった。

  • 取材で歩いた熊野古道のコンテンツがアップされた

    年明けに取材で歩いた熊野古道のコンテンツがアップされた。和歌山での「100の旅モデル」を史跡や神社仏閣、景勝地を軸に紹介する「わかやま歴史物語」という観光ポータルサイト。 私が担当したのは熊野古道エリア。「熊野詣で」を計画される方はぜひ、ご覧下さい。 下記は<熊野古道・中辺路の終点本宮と那智山を結ぶ「大雲取越」への古道> wakayama-rekishi100.jp 取材して驚いたのが熊野古道を歩く9割が西洋人とのこと。世界中の山深い古道のなかでも山賊が出ず、快適な温泉や美味な料理が堪能できる熊野は奇跡的なのだとか。 熊野詣では死者のVRのようなもの。ゴーストになって、山々を彷徨う。 一個の生…

  • 3月14日、東大寺二月堂のお水取り 「十一面悔過(じゅういちめんけか)」

    奈良の近くに生まれ住み、何度も奈良は訪れていたものの、お水取りを見に行ったのは初めてだった。白洲正子の「十一面観音巡礼」のなかで二月堂付近のトピックスに触れ、お水取りを始めた実忠という僧に興味を持ったことをきっかけに、ようやく足を運んだ。 修二会は3月1日より2週間にわたって行われていたが私が訪れたのは最終日の3月14日。「お水取りは深夜に行われる秘儀」というイメージがあったのだが、それは3月12日深夜(13日の午前1時半頃)から行われる「お水取り」で、風物詩としてメディアなどでも紹介される目当ての「お松明」の行事は1日から14日まで毎日行われていたのだ。たまたま、時間が合ったので難波から近鉄…

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