https://twitter.com/RA73576573/status/1751436007961165835?t=izvyMxWQG25UULupZFFX7w&s=19や
https://twitter.com/RA73576573/status/1751436007961165835?t=izvyMxWQG25UULupZFFX7w&s=19や
新邪馬台国の研究 再編集版Kindle版 980円が下記期間無料でダウンロード出来ます。1月28日17:001月29日16:591月30日17:001月31日16:59必ず無料であることを確認してダウンロードしてください!https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%8
三国志の魏国は大月氏と倭の二国に金印を拝仮しました。229年「親魏大月氏王」大月氏とは人名ではなく国名です。正確には大月氏(国)王の波調が金印を授かった。239年邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」の称号と金印を授かリました。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0BLMK9YDR?ref=d6k_applink_bb_dls&dplnkId=18262cc1-45c6-4331-b624-516f3b8afb45新邪馬台国の研究∶第一巻〜第3巻(発刊済)を一冊にまとめました。更に新しい内容も加筆しましたので読み応えが増しました。是非御一読下さい。
この「男弟」は次の漢文にあります。 名日卑弥呼 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 名は卑弥呼と言う。年齢はすでに長大。夫はいなく、男弟あり、佐(たす)けて国を治めている。 (年已長大) 無夫婿 有男弟 佐治國夫婿はなく、「男弟」はあるこの箇所の【男弟】
魏志倭人伝には「従郡至倭」と書いてあるので、邪馬台国への道順が書いてあるのではありません。倭人在帶方東南大海之中 從郡至倭 循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 始度一海千餘里至對海國 又南渡一海千餘里名日瀚海至一大國又渡一海千餘里至末盧國
先日YouTubeで邪馬台国関係の動画を見ていたら下記の漢文に書かれている文章に使われている「行」の漢字が使われている箇所は日本に来た使者(筆者)が実際に行った国で、「行」が書かれていない国には行っていないと説明していました。この件に関して検証したいと思います。
西暦57年に中国後漢の光武帝より,金印「漢委奴国王」を授かった委奴国だけが王と名乗る事を認められてから委奴国の首長は代々王を引き継いできました。なので、「委奴国⇒伊都国」の首長だけが王と名乗れるはずなのに魏志倭人伝には、1.伊都国 2.邪馬台国 3.狗奴国
私は魏志倭人伝に書かれている伊都国の所在地は、光正説から導いて、九州大分県の日田であると確信しています。そして、その九州大分県の日田にある、ダンワラ古墳より金銀錯巌珠龍紋鉄鏡(金銀錯嵌珠龍文鏡)という鉄製の鏡が発掘されています。この鏡はいつ、
では、委奴国(伊都国)はどこに所在していたのかを探って行きます。魏志倭人伝には伊都国についての説明文が下記漢文に書いてあります。東南陸行五百里到伊都國官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐「東南に五百里ほ
金印に彫られている「漢委奴国王」の読み方が「漢の倭の奴の国王」と解釈すると、「漢の倭の奴の国王」の倭の漢字が金印では、なぜ「漢委奴国王」の委の漢字になっているのでしょうか?おかしくはないでしょうか!西暦57年に漢より授かった金印に彫られている「漢委
それでは、金印に彫られている「漢委奴国王」を検証していきます。この「漢委奴国王」は、どのように読むのが正しいのかは研究者により、いろいろあります。いちばんの原因は「漢委奴国王」の「委奴国」をどの様に読むかが問題になります。この「委奴国」は研究者に依っ
今回から、皆さんも歴史の授業で聞いたことが有ると思いますが、「漢委奴国王」と彫られた中国の後漢より金印を授かった委奴国について検証していきたいと思います。この金印は江戸時代(天明4年2月23日)に福岡県福岡市東区大字志賀島の田畑で百姓の甚兵衛によって発
西暦57年に後漢より「漢委奴国王」の金印を授かるこの「漢委奴国王」の金印を授かった委奴国の首長は飛び上がって喜んだ図が目に浮かびます。中国(後漢)のバックアップを得た委奴国の首長は自ら「我は国王なり、委奴国の国王なり」と称して倭の国の支配の野望を本格的に
魏志倭人伝は下記の漢文から始まります。 倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國ここで使われている今使訳通所三十国の「使訳」ですが、どういう意味でしょうか?他の研究者の訳には「通訳使いが通じる所三十国。」通訳使い通
邪馬台国関連の雑誌、書籍本、動画等を見ると、卑弥呼の死後、13歳で女王になった宗女の名前表示が、筆者によって、台与と表示しているものと、壱与と表示しているものがあります。壱与(台与)は卑弥呼の宗女で、卑弥呼が亡くなった後、邪馬台国の女王として再
魏志倭人伝の書き出しは下記の漢文より始まります。 倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑 舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國 從郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東 到其北岸「狗邪韓國」七千餘里今回はこの箇所の漢文に書かれている「狗邪韓国」について考えたいと思い
魏志倭人伝に「及共立一女子為王」と書かれている漢文があります。ここに書かれている共立(共に立てた)とは、誰と誰が共に立てたのか?今回はこの共立について考えたいと思います。この「共立」が記述されているのは下記の漢文に書いてあります。まず、この箇所にはどう
魏志倭人伝に記述されている邪馬台国の女王の「卑弥呼」は高齢で夫はいなく独身である。 世間一般的には、此のように理解されている方が多いのではないでしょうか?どうしてこのように解釈されてるのでしょうか?たぶん次の箇所の漢字からそのように解釈されたようですが、
魏志倭人伝をはじめ、中国の古文献には、倭、倭人、倭地、倭種、倭王、倭国のように倭の字を使ってヤマトを表わしています。今回は、この倭について考えたいと思います。魏志倭人伝に書かれている倭の字を見てみると、書かれている箇所によって倭の漢字が示すニュアンスが少
邪馬台国と魏国の地方政権を携わっていた帯方郡との立場上の力関係は上にあったのか、下にあったのか、それとも同等だったのかを、魏志倭人伝の下記の部分の漢文を解釈して、検証します。其八年太守王頎到官 其(正始)八年(西暦247年)、帯方郡太守の王頎が着任した。倭女
魏志倭人伝原文には、下記の文章が有ります。「卑弥呼以死」大作冢 徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴婢百余人である。ここで気になるのは、卑弥呼はどうして亡くなったのか?その件に関して魏志倭人伝にはどう書い
【奴国は女王に属すか否か?】 次の魏志倭人伝(原文)の箇所には、次有り・・・次有り・・・と、次々と国名を挙げて「次有り奴国」までで、21ヶ国の記述があります。自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國
今回は伊都国と金印の研究です。中国から金印を授かったのは①西暦57年 後漢へ朝貢し、光武帝(後漢帝56~57年)から金印「漢委奴国王」を授かる。②西暦239年 卑弥呼が魏へ朝貢し明帝(魏帝237~239年)「親魏倭王」の称号と金印を授かる。の2つを授かったと中
新邪馬台国の研究: 第2巻 https://www.amazon.co.jp/dp/B088TCBH55/ref=cm_sw_r_u_apa_glt_V5KE08A4NZ0MNGADTHFGKindle版新邪馬台国の研究Amazonにて販売中!
魏志倭人伝には倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國「倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。」と書き出してあり、この箇所の今使譯所通三十國
倭国は中国側が勝手に背の小さいチビが暮らしてる国なのでそう呼んでいた.倭国内の国名表記は音から中国人が当てはめた漢字ですが奴国、邪馬台国、狗奴国等は「奴」、「邪」「馬」台国、「狗」「奴」等の謗るような漢字が使われています。倭国にしろ、かなり馬鹿にした
祝贺及格电气工事士二种技能试卷
名日卑弥呼 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 名は卑弥呼と言う。年齢はすでに長大。夫はいなく、男弟あり、佐(たす)けて国を治める助けをしてる。 (年已長大) 無夫婿 有男弟 佐治國夫婿はなく、男弟はあるこの箇所の【男弟】の解釈は世間一般には”弟”と認
魏志倭人伝原文に記述されてる奴国は女王の境界の尽きる内側か、それとも女王の境界の尽きる外側か?自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有
魏志倭人伝に記載されている戸数情報を国別に見てみると、 對海國(有千余戸)一大國(有三千許家)末盧國(有4千余戸)伊都國(有1千余戸)奴國(有2万余戸)不彌國(有1,000余家)投馬國(可5万余戸)邪馬壹國(可7万余戸)魏志倭人伝に記述されている国名と世帯数の箇所だ
21ヶ国は可得略載か?絶不可得詳か?下記の21ヶ国は女王国自り以北は其の戸数道里くらいは略載出来る国か?それともそれ以外の国は交際がないので全く詳細は分からない国か?自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國
自女王国以北・・・・・・・・・次有奴國 此女王境界所盡奴国は北にある邪馬台国の属国の境界の端だと書いてありますしかし、魏志倭人伝には 対馬、→壱岐、→末盧國、と紹介して奴国aは、末盧國の東南100余里に位置してるとも書いてあります。狗邪韓國 始度一海 至對
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國
魏志倭人伝原文に下記の記述があります。東南陸行五百里 到伊都国 官曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐上記を訳せば下記の様になります。末盧国から東南へ500里陸行すると伊都国へ到る。官は爾支、副官は泄謨觚 柄渠觚とい
属女王 不属女王について魏志倭人伝に書いて有る倭の国々を下記に示せば、倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗
魏志倭人伝に下記の記述が有りますこの箇所の解釈が各位それぞれ有り、御自分の都合で解釈されている方もいらっしゃるので、一つ考えてみたいと思います。自女王國以北 其戸數道里可得略載この箇所を説明いたします。自女王國以北 自は→ ~から(始まって)という意味で
其餘旁國遠絶不可得詳この箇所をWEB上で検索すると諸氏の方が解釈してます諸氏各位それぞれ研究されて解釈されていますが比べてみますとそれぞれ少しニュアンスが違って取れます。下記に其の箇所だけの解釈をコピペしました・・・が日本語として難しい表現に成っていてち
光正解釈説で解釈すると又渡一海 千餘里 至末盧國 東南陸行 五百里 到伊都國 東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里 南至投馬國 水行二十日。南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 この箇所を[光正解釈説]で説明して順次式、及び放射線式と、比較し
放射式解釈について前回説明しました連続式(順次式)の他に、もう一つ定説になっている解釈で放射式解釈があります。今回はこの放射式解釈の検証を致します。まず、一般に言われてる放射式解釈とは伊都国までは移動してるが伊都国からの説明は放射式に場所説明のみになって
連続(順次)式解釈について一般に広く訳されている連続式または順次式と呼ばれてる説は魏志倭人伝に記述されている国を記述順に移動して邪馬台国に着くという解釈です。私も自分で魏志倭人伝(原文)を読む前はこの連続式(順次式)が正しい和訳だと思い込み一生懸命地図を
現在はインターネットが普及して必要な情報はたやすく手に入り易くなりインターネットのなかった時代 (昔) より容易に邪馬台国の研究がしやすくなってると思いますがなぜ今でも連続式(順次式)解釈が根強く主流になっているのでしょうか?私が考えるに、連続式は魏志倭人
それでは邪馬台国は九州のどのあたりにあると魏志倭人伝には書かれているのかの検証をしていきたいと思います。邪馬台国は九州のどこにあったのかと魏志倭人伝に書かれているのかを今まで説明してきた、光正解釈説をベースに考えて行きたいと思います。それでは魏志倭人伝(
私はNHKラジオの中国語講座を聞きはじめたのをきっかけに、今年令和2年(2020)で中国語学習歴18年目になります。私が参加している某中国語サークルで教えてくれてる老師が去年4月から一年間中国に行って ( 帰えって ) しまい、サークルの存続がどうなるか心配でしたが、そ
一般に”生口”の解釈は諸説あるようですがどうして諸説あるのかというと、”生口”という単語が今の中国語にないので解釈者の勝手な解釈で文面の流れに差し支えない諸説を出しているからでどれが正しいかは今の時代では答えが出ません。というのが現状の様なので、それなら
伊都国は日田。末盧国は博多。九州の街道を調べていると博多から日田に行く日田街道なるものがあるということを発見しました。日田街道は博多から甘木→朝倉→日田に着きます。この日田街道は、また日田往還とも呼ばれてます。いわゆるこの日田往還は日田から博多、久留米、
私はこれまで、このブログ上で公明正大(中国では光明正大)に魏志倭人伝(原文)を解釈して来まして、自分的には私の解釈(光正解釈説)で魏志倭人伝に記述ある国々は、濃い霧から薄っすら光が漏れてきて、あの国はこのあたり、この国はあのあたりと、朧気ながらも見えて来
魏志倭人伝に記載されている倭国の對海國、一大國、末盧國、の国から先ずは推測していきます。とくに末盧國に関しては諸説あります。倭人在帶方東南大海之中 從郡至倭循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對海國 又南渡一海千餘里名日瀚海
魏志倭人伝に書かれている倭国とは?私(sinfu)がこれまで魏志倭人伝(原文)を読んで、自分なりに解釈した魏志倭人伝を読む限り、私がイメージとして思い浮かぶのは、中国の使者が書いた魏志倭人伝(原文)に記載している倭(国)の国々の所在地は、九州地方に全て位置して
奴國に対してのもう一つの考え方以前にも書いたように、魏志倭人伝は邪馬台国への道程を書いたものではない。じゃあ、なんで国々を次々に名を挙げて説明してるのは何のため?魏志倭人伝をよく読んでみると倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使
奴国(A) と奴国(B)について倭人在帶方東南大海之中 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里始度一海 千餘里 至對海國 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 又渡一海 千餘里 至末盧國 東南陸行 五百里 到伊都國 東南至奴國(A)
(卑弥呼)年已長大広く一般に解釈されている説はもうすでに年老いてるすでに年寄りだすでに年取ってるのように解釈されていて私も、 テレビ·雑誌·書籍等で多くはそのように説明されていたので いままで卑弥呼の年齢はすでに高齢だと思っていました。しかし 中国人にこの箇所
到と至について東南陸行 五百里 到伊都國 東南至奴国 百里 東行至不彌國 百里 南至投馬國 水行二十日。南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月この箇所で気になるのが東南陸行 五百里 到伊都國とここだけ到の字が使われていて、その他の箇所はすべて至の文
「光正解釈説」より導き出された情報に、さらに、魏志倭人伝に記載されている戸数情報を記入すると、① 末盧國(4,000戸余り)から東南へ五百里歩いて行く と 伊都國(1,000戸余り)に到る。② 末盧國から東南へ百里で 奴國 (20,000戸余り)へ至る。③ 末盧
[光正解釈説要点]いままで書いてきた「私の解釈」の要点だけをまとめて、箇条書きにすると① 末盧國から東南へ五百里歩いて行くと 伊都國に到る。② 末盧國から東南へ百里で奴國方面に至る。③ 末盧國から東へ百里で不彌國方面に至る。④ 末盧國から南へ水行二十日で投
[光正解釈説]いままでの“私の解釈”を今回まとめて記載致します。魏志倭人伝(原文)を中国語学習暦16年の私が解釈して1番知りたいのはそれ(魏志倭人伝)に書かれてる邪馬台国が日本のどこに一体あったのか?・・・・・です。そのために魏志倭人伝(原文)の漢文より邪馬台
[光正解釈説]自郡至女王國 萬二千餘里 (郡より女王国に至る。万二千余里)この箇所を説明します。この箇所には、郡から女王国(邪馬台国)まで万2000里余りであると書かれてます。万2000里余りと万の前に数字がありませんが、中国では万里の長城のようにとても長い距
コメント欄で質問がありましたので、私なりにご説明させて頂きますがこのブログに書きました解釈はあくまで私の独自の解釈ですので世間一般に解釈されているのとは部分部分相違箇所がありますので返答違いがあるかも知れませんがお許し下さい。頂きました御質問は下記内容に
[光正解釈説]女王國より北には ”~国” 有り、次に ”~国” 有り、次に ”~国” 有りと順に国名を並べ最後に次有奴國 此女王境界所盡(次に奴國有り、ここは女王国の尽きる所です。)そのあとに、其南有狗奴國 不屬女王(その南、狗奴国有り。女王に属さず)と、書いて
[光正解釈説]自女王國以北女王国の以北は其戸數道里可得略載その戸数、道程,距離は簡略には記載できるが其餘旁國遠絶その他の傍らの国は交流が遠ざかっているので不可得詳詳細を得ることはできない(詳しくはわからない)。 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支
「ブログリーダー」を活用して、sinfuさんをフォローしませんか?
https://twitter.com/RA73576573/status/1751436007961165835?t=izvyMxWQG25UULupZFFX7w&s=19や
新邪馬台国の研究 再編集版Kindle版 980円が下記期間無料でダウンロード出来ます。1月28日17:001月29日16:591月30日17:001月31日16:59必ず無料であることを確認してダウンロードしてください!https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%8
三国志の魏国は大月氏と倭の二国に金印を拝仮しました。229年「親魏大月氏王」大月氏とは人名ではなく国名です。正確には大月氏(国)王の波調が金印を授かった。239年邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」の称号と金印を授かリました。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0BLMK9YDR?ref=d6k_applink_bb_dls&dplnkId=18262cc1-45c6-4331-b624-516f3b8afb45新邪馬台国の研究∶第一巻〜第3巻(発刊済)を一冊にまとめました。更に新しい内容も加筆しましたので読み応えが増しました。是非御一読下さい。
この「男弟」は次の漢文にあります。 名日卑弥呼 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 名は卑弥呼と言う。年齢はすでに長大。夫はいなく、男弟あり、佐(たす)けて国を治めている。 (年已長大) 無夫婿 有男弟 佐治國夫婿はなく、「男弟」はあるこの箇所の【男弟】
魏志倭人伝には「従郡至倭」と書いてあるので、邪馬台国への道順が書いてあるのではありません。倭人在帶方東南大海之中 從郡至倭 循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 始度一海千餘里至對海國 又南渡一海千餘里名日瀚海至一大國又渡一海千餘里至末盧國
先日YouTubeで邪馬台国関係の動画を見ていたら下記の漢文に書かれている文章に使われている「行」の漢字が使われている箇所は日本に来た使者(筆者)が実際に行った国で、「行」が書かれていない国には行っていないと説明していました。この件に関して検証したいと思います。
西暦57年に中国後漢の光武帝より,金印「漢委奴国王」を授かった委奴国だけが王と名乗る事を認められてから委奴国の首長は代々王を引き継いできました。なので、「委奴国⇒伊都国」の首長だけが王と名乗れるはずなのに魏志倭人伝には、1.伊都国 2.邪馬台国 3.狗奴国
私は魏志倭人伝に書かれている伊都国の所在地は、光正説から導いて、九州大分県の日田であると確信しています。そして、その九州大分県の日田にある、ダンワラ古墳より金銀錯巌珠龍紋鉄鏡(金銀錯嵌珠龍文鏡)という鉄製の鏡が発掘されています。この鏡はいつ、
では、委奴国(伊都国)はどこに所在していたのかを探って行きます。魏志倭人伝には伊都国についての説明文が下記漢文に書いてあります。東南陸行五百里到伊都國官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐「東南に五百里ほ
金印に彫られている「漢委奴国王」の読み方が「漢の倭の奴の国王」と解釈すると、「漢の倭の奴の国王」の倭の漢字が金印では、なぜ「漢委奴国王」の委の漢字になっているのでしょうか?おかしくはないでしょうか!西暦57年に漢より授かった金印に彫られている「漢委
それでは、金印に彫られている「漢委奴国王」を検証していきます。この「漢委奴国王」は、どのように読むのが正しいのかは研究者により、いろいろあります。いちばんの原因は「漢委奴国王」の「委奴国」をどの様に読むかが問題になります。この「委奴国」は研究者に依っ
今回から、皆さんも歴史の授業で聞いたことが有ると思いますが、「漢委奴国王」と彫られた中国の後漢より金印を授かった委奴国について検証していきたいと思います。この金印は江戸時代(天明4年2月23日)に福岡県福岡市東区大字志賀島の田畑で百姓の甚兵衛によって発
西暦57年に後漢より「漢委奴国王」の金印を授かるこの「漢委奴国王」の金印を授かった委奴国の首長は飛び上がって喜んだ図が目に浮かびます。中国(後漢)のバックアップを得た委奴国の首長は自ら「我は国王なり、委奴国の国王なり」と称して倭の国の支配の野望を本格的に
魏志倭人伝は下記の漢文から始まります。 倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國ここで使われている今使訳通所三十国の「使訳」ですが、どういう意味でしょうか?他の研究者の訳には「通訳使いが通じる所三十国。」通訳使い通
邪馬台国関連の雑誌、書籍本、動画等を見ると、卑弥呼の死後、13歳で女王になった宗女の名前表示が、筆者によって、台与と表示しているものと、壱与と表示しているものがあります。壱与(台与)は卑弥呼の宗女で、卑弥呼が亡くなった後、邪馬台国の女王として再
魏志倭人伝の書き出しは下記の漢文より始まります。 倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑 舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國 從郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東 到其北岸「狗邪韓國」七千餘里今回はこの箇所の漢文に書かれている「狗邪韓国」について考えたいと思い
魏志倭人伝に「及共立一女子為王」と書かれている漢文があります。ここに書かれている共立(共に立てた)とは、誰と誰が共に立てたのか?今回はこの共立について考えたいと思います。この「共立」が記述されているのは下記の漢文に書いてあります。まず、この箇所にはどう
魏志倭人伝に記述されている邪馬台国の女王の「卑弥呼」は高齢で夫はいなく独身である。 世間一般的には、此のように理解されている方が多いのではないでしょうか?どうしてこのように解釈されてるのでしょうか?たぶん次の箇所の漢字からそのように解釈されたようですが、
魏志倭人伝をはじめ、中国の古文献には、倭、倭人、倭地、倭種、倭王、倭国のように倭の字を使ってヤマトを表わしています。今回は、この倭について考えたいと思います。魏志倭人伝に書かれている倭の字を見てみると、書かれている箇所によって倭の漢字が示すニュアンスが少
この「男弟」は次の漢文にあります。 名日卑弥呼 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 名は卑弥呼と言う。年齢はすでに長大。夫はいなく、男弟あり、佐(たす)けて国を治めている。 (年已長大) 無夫婿 有男弟 佐治國夫婿はなく、「男弟」はあるこの箇所の【男弟】
魏志倭人伝には「従郡至倭」と書いてあるので、邪馬台国への道順が書いてあるのではありません。倭人在帶方東南大海之中 從郡至倭 循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 始度一海千餘里至對海國 又南渡一海千餘里名日瀚海至一大國又渡一海千餘里至末盧國