橘 昌幸 さん

橘 昌幸さん: 戦国武将日記
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直江兼続日本の戦国時代歴史人物、人物、人物評伝
直江兼続日本の戦国時代歴史人物、人物、人物評伝

プロフィール

ハンドル名橘 昌幸 さん
ブログタイトル戦国武将日記
サイト紹介文戦国武将の視点で綴られた歴史が、今、ブログとして誕生。
参加カテゴリー
更新頻度情報提供240回 / 913日(平均1.8回/週) - 参加 2005/11/09 11:32

橘 昌幸 さんのブログ記事

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  • 2007/05/28 12:00慶長二年二月十日
  •  朝鮮への再度の出兵が行なわれた。 西国の諸将を中心に十五万ほどの軍勢が彼の地へと渡ろうとしている。 例によって殿下の御渡海はない。 それどころか、体調が非常に思わしくなく、本陣となる名護屋まで行く事も控えられた。 これではさらに戦況を把握するのは難しいだろう。 前回の出兵の二の舞になる事は避けたいであろうが、どうだろうか。 上杉には兵を出す命令がなく、越後での在郷が認められた。 伏見にすらいる... [続きを読む]
  • 2007/05/22 12:00文禄五年九月二日
  •  伏見城が地震で倒壊したため、大坂城にて明の使節を迎えることとなった。 昨日、使節楊方亨と沈惟敬は、明国皇帝の国書、金印、冠服などを殿下に捧げた。 これを受けた殿下は上機嫌で、前田殿と徳川殿に饗応をさせた。 しかし、今日になって事態は変わった。 贈られた王冠と赤装束の衣服をまとい、酒宴を楽しんでいた殿下であったが、その後、皇帝の国書を読むように命じたのである。 その時、その任に当たったのは承兌和... [続きを読む]
  • 2007/05/21 12:00文禄五年閏七月十八日
  •  戦の中多くの人足を要し建設された伏見城は、地震によって脆くも崩れたらしい。 前年、聚楽の第を徹底的に破却した後だけに、太閤殿下の自慢の建造物が相次いで破壊されたことになる。 聚楽の第は秀次殿の切腹にともない殿下の命令によって壊されたものであるが、此度の地震はその因果であるとの噂も既にあるようだ。 私は実際現地にいたわけではないが、造られたばかりのあの美しい城が崩れていく様を想像するだけで切なさ... [続きを読む]
  • 2007/05/17 12:00文禄四年七月十八日
  •  関白、豊臣秀次様が高野山に蟄居、次いで切腹を命じられた。 こんなことが起きてもいいのかと思いながらも、起こるべくして起きた事だとも思える。 私が想像していたより早く起きたとはいえ、耳を疑うことはなかった。 戦地における講和派と抗戦派の対立の火種は戦の前から京にあった。 石田殿や小西殿には敵が少なくない。 加藤殿や福島殿は公然と石田殿を否定していることもある。 しかし、石田殿は人前でそのようなこ... [続きを読む]
  • 2007/05/16 12:00文禄四年一月二十一日
  •  太閤殿下によって、入湯のために草津温泉に湯小屋の建設を命じられた。 昨年より取り掛かっていた伏見城の普請は、我らが向かったときには石垣を積むことぐらいしか残されていないようであった。 それが終わっての新たな命であるが、果たして殿下は草津まで来られることが出来るのだろうか。 推測ではあるが、朝鮮との講和がなった後に仰々しく関東に下向するおつもりなのであろう。 ただ、本当に講和が成り立つのだろうか... [続きを読む]
  • 2007/05/10 12:00文禄三年四月十三日
  •  太閤殿下から越後への帰国を許されていた我々に京への呼び出しが会った。 伏見に城を造るから普請せよとの事である。 海を越えた戦を行なっているというのに新たな城を建てるとはどのようなおつもりなのであろう。 殿下はこの新たな城を隠居所との事である。 それでいえば大坂城は豊臣家の本居城、聚楽の第は関白としての居所ということになるのだろうか。 関白の職は既に秀次様に譲られている。 しかし、それは一時的に... [続きを読む]
  • 2007/05/07 11:59文禄二年九月二十八日
  •  朝鮮出陣という無謀にも思える行為は、名護屋と現地との間の情報通達が最も重大な問題であった。 名護屋在陣中にも石田殿から内情を聞かされてはいたが、そもそも現地の作戦すら統一されていない状況なのである。 石田殿や小西殿は和睦によって戦を収めようとしている。 一方、加藤殿らは完全制服を考えているようだ。 もちろん太閤殿下が完全制服を望んでおられるのだから、それも致し方のないことではある。 だが、冷静... [続きを読む]
  • 2007/01/10 11:59天正十九年二月二十八日
  •  非常につらい役目を受けてしまった。 軍装にて参るようにとのことで、行ってみると、千宗易殿の邸を護衛するようにとの命である。 宗易殿は豊臣家の茶頭であり、参内のために朝廷より利休の居士が与えられている。 もともとは堺の商人衆の一人であったようだが、今では豊臣政権の裏の参謀とも言えるほどの力を持っていた。 宗易殿には今月の初めより謹慎の命が下っていたが、本日、切腹が命じられたらしい。 私が京にいる... [続きを読む]
  • 2007/01/09 11:59天正十八年八月九日
  •  関白殿下は会津に入られた。 伊達政宗が臣従を果たした今、わざわざ関白自ら奥州に向かうとは思っていなかった。 しかし、伊達政宗を油断ならないとみた殿下は自ら出陣することによって伊達を威嚇するおつもりなのであろう。 小田原をはじめ、北条の旧領はほとんど徳川家康殿に与えられることとなった。 代わって徳川殿の旧領を織田信雄殿に与えられるはずだったのだが、織田殿はこれを拒否した。 尾張と伊勢を出たくなか... [続きを読む]
  • 2007/01/06 11:01天正十八年七月六日
  •  これは戦なのか。 小田原を囲んでから幾日も経つ。 関白殿下は囲みながら城を作り、さらには側室まで呼び寄せ、戦の最中であることを忘れそうにもなる。 しかし石田殿をはじめ、奉行衆は忙しく走り回っている。 輸送される兵糧の管理、降服した雑兵への対応、北条方に対する内応調略など忙しい者は忙しいのだ。 小田原城内は日に日に籠城による疲れと疑心暗鬼で衰退の色を見せていた。 重臣松田憲秀までもが豊臣方に内応... [続きを読む]
  • 2007/01/01 11:59天正十八年六月九日
  •  北条を攻めるための出陣命令は、京より東側にいる大名に対しては例外なく発布された。 関白殿下に一度として謁した事のないものも同様である。 その中の一人に伊達政宗という男がいた。 関東に惣無事例が出された後も、東北を攻め回り、長年上杉と睨み合っていた会津の芦名家をも攻め、芦名義広を会津から追い出した。 その伊達にも当然、小田原に来るように命令があったのだが、なかなかその姿を現すことは無かった。 諸... [続きを読む]
  • 2006/12/29 12:00天正十八年四月二十二日
  •  大道寺政繁が守る松井田城はやはり簡単には落ちなかった。 前田、真田、上杉の連合軍であったが、逆にそれが機動力を落とし、思うような作戦に直ぐ取り掛かることが出来なかった。 結局、周囲の城を落として松井田城を孤立させつつ、糧道を断つ作戦が取られた。 松井田以外の周辺の城、砦はいとも簡単に落ちた。 金山城や足利城などは、攻める前から投降してきた。 上杉ともよく争った北条の上州勢がこれほどまでに腰抜け... [続きを読む]
  • 2006/12/28 12:00天正十八年二月十日
  •  関白殿下の命を受け、本日春日山城から出立する。 多くの諸侯は駿府城に集まるよう命じられている。 しかし、上杉軍は駿府に向かうのではない。 前田、真田らと共に東山道の諸城を攻略して小田原に向かうようにとの命令である。 その最初の目標は上州松井田城だ。 松井田城は碓氷峠の麓にあり、城兵は二千余と聞いているが、攻めるのは簡単ではないだろう。 城を守る大道寺政繁もまた、北条家の草創期から仕える家に生ま... [続きを読む]
  • 2006/12/27 12:00天正十七年十一月二十五日
  •  真田昌幸。 信州上田に居を構える男である。 以前、真田が北条、徳川と戦うというので上杉に協力を求めてきたことがある。 協力とはいえ、真田は次男源二郎を人質として出す覚悟でもはや上杉に降ったといっても良い状態であった。 真田がそこまでする理由は何か。 上州沼田領である。 真田も北条も自らの領分であるといって聞かないのだ。 北条と婚姻を結んだ徳川も真田に対し、沼田領を北条に引き渡すよう命令し、戦に... [続きを読む]
  • 2006/12/26 12:00天正十七年六月二十六日
  •  佐渡攻めは一月を必要としなかった。 羽茂高持、佐原利国ともに敵ではなく、最も強力に抵抗していた本間高茂も島から逃げ出す有様であった。 まあ、千数百隻もの舟で挑んだのであるから当然のことではある。 この戦はあくまで関白殿下に背く者を上杉が討伐するというかたちをとらざるを得なかった。 それによって上杉による佐渡の領有は認められた。 しかし石田殿を通じ、佐渡を一城で治めるようにとの命令も受けることと... [続きを読む]
  • 2006/12/25 11:48天正十七年三月十七日
  •  越後に戻って来たが、やらなければいけないことは既に決まっていた。 それは佐渡の制圧であった。 不識院様が在世の頃は佐渡の豪族たちも上杉に臣従するかたちを取っていた。 しかし、景勝様と御館の景虎殿が争うようになった時に日和見をはじめ、次第に独立していった。 上杉に従わないということは、関白殿下にも従わないということである。 いつ豊臣軍が佐渡を攻めてもおかしくない。 というよりも佐渡の金山を関白殿下 [続きを読む]
  • 2006/12/22 11:15天正十六年十二月二日
  •  景勝様と私は、未だ京に留まっている。 もっと中央の動きを見なければならないと思ったことも事実だし、豊臣様にゆっくり滞在するようにと言われていることも理由である。 京にいるからには寺を巡り、名のある和尚たちと話がしたいと思った。 このような時代だからこそ、冷静に時勢を眺めている彼らの話を聞きたかった。 妙心寺の南化和尚と豊光寺の承兌和尚と話が出来た。 この二人、面白いことに考え方が違う。 南化和... [続きを読む]
  • 2006/12/21 11:33天正十六年五月八日
  •  我らは京に着き、豊臣様に拝謁した。 もはや断る事などできない状況であったのだ。 三日前、京に着いた日に早速石田殿が見えた。 近江に一万石と一条に屋敷を建てる土地が与えられた。 これは、すなわち人質を置けという命令である。 こうなることは私にも景勝様にも解っていた。 しかし、我らは今回、人質を連れては来なかった。 人質を出す事に不満があるというよりも、自ら進んで出す事に耐えられなかった。 豊臣秀... [続きを読む]
  • 2006/08/29 11:59天正十六年四月十八日
  •  太政大臣豊臣秀吉様が造営されたお屋敷『聚楽の亭』に帝が行幸されたらしい。 帝が行幸なされたのであるから、上杉も来い。 そう読み取れる書状が豊臣様から直々に送られてきていた。 昨年、新発田を征伐した一月余後に関東と奥州に惣無事令が出された。 我らとしては、何とか間に合ったと胸をなでおろしたものである。 その後の上洛の催促であるからには、領国の安全を太政大臣豊臣様が保障しているのだから断る理由など... [続きを読む]
  • 2006/08/25 11:59天正十五年十月二十六日
  •  ようやく新発田重家を自刃させることができた。 上杉軍は、一万騎以上の軍勢を持って新発田に攻撃を行い、加地城、赤谷城を落とした。 残る五十公野城と新発田城は、孤立し、もはやその防衛能力もたいしたことは無かった。 やっと越後を統一することができた。 これで、ひとつ落ち着くことができそうだ。 しかし、この越後をこれからは統治しなければならない。 主だった敵もない中では、分裂して反目するのを最も避けな... [続きを読む]
  • 2006/08/24 11:59天正十五年七月二十日
  •  豊臣軍の九州征伐は、薩摩の島津義久の降服により、山を越えたといえる。 それにしても、九州攻めをこれほどまでに早く終わらせることのできるのは、恐ろしいことである。 それだけの兵力を動員しているという事とともに、その兵站を担う者がそれを円滑に行えるだけの力を持っているということであろう。 石田三成もその一人であったというが、あの男の仕事振りをじっくり見たいものである。 その石田からの手紙によると、... [続きを読む]
  • 2006/08/23 11:59天正十五年三月二十日
  •  羽柴軍、いや豊臣軍は、九州への出兵をはじめたようだ。 当然というべきか、幸いというべきか、上杉はそれに加えられることはなかった。 西国の大名らが遠い九州へと兵を進めている。 この時期遠い九州に出兵となると、田植えに間に合わないのではないか。 豊臣軍をはじめ、旧織田の支配下にあった軍は、農夫を兵として雇うことはない。 しかし、その他の地域では兵の多くがまだ農夫であるという地域も多いだろう。 我ら... [続きを読む]
  • 2006/08/22 11:59天正十四年十一月三日
  •  我らは、大坂にそれほど長く居られなかった。 一刻も早く越後を上杉の力で統一せねばならない。 その思いが強いからである。 もし戦が長引いて、羽柴軍が越後に乗り込んでくる事があれば、越後一国の領有すら危うい事になってしまう。 そういえば、私は大坂で山城守を叙任された。 もちろん景勝様も官位を頂いたわけだが、陪臣の私が何故叙任されたのか、理由ははっきりしない。 だが想像するに、石田殿が何か伝えたので... [続きを読む]
  • 2006/08/21 11:59天正十四年六月十五日
  •  私と景勝様は、羽柴秀吉様から上坂の要請を受け、大坂城に入った。 もはや羽柴と事を構えるなどできるわけもなかった。 羽柴軍は、早ければ今年中にも九州を平定するつもりでいる。 そのためにも東の勢力を臣従させ、後患の憂いを断とうとしている。 それは、こちらとしても解っていることではあるのだが、上杉単独の力では、羽柴を倒す事などできない。 徳川、北条などの大名と手を組めば、果たしてそれも可能かもしれな... [続きを読む]
  • 2006/07/31 11:59天正十三年十二月七日
  •  先日、与板城に戻った。 戻ったというより行ったと言う方が正しいのかもしれない。 それほどまでに与板に戻ることは久しく絶えていた。 与板の城に戻るよりも春日山で為すべき事の方が多く重要だからだ。 それでも戻ろうと思ったのには、景勝様からのお言葉によるものが大きい。 景勝様がどんな意図で私に戻れといったのかは、はっきり解っているわけではない。 だが、春日山にいても事態がすぐに打開できるわけでもない... [続きを読む]
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