橘 昌幸 さん

橘 昌幸さん: 戦国武将日記
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直江兼続日本の戦国時代歴史人物、人物、人物評伝
直江兼続日本の戦国時代歴史人物、人物、人物評伝

プロフィール

ハンドル名橘 昌幸 さん
ブログタイトル戦国武将日記
サイト紹介文戦国武将の視点で綴られた歴史が、今、ブログとして誕生。
参加カテゴリー
更新頻度情報提供240回 / 983日(平均1.7回/週) - 参加 2005/11/09 11:32

橘 昌幸 さんのブログ記事

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  • 2006/07/27 11:57天正十三年六月二十一日
  •  羽柴秀吉は、昨年末、徳川家康との和睦にも成功し、周辺所領の切り取りに励んでいた。 そして、ついに越中の佐々成政を攻めるために十万の兵を率いてやってきた。 佐々は、徳川家康が羽柴と和睦したことを知ると、冬の立山越えをしてまで徳川を説得しようとしたが、それは叶わなかった。 そんな佐々も羽柴には勝てないと観念した様子で、羽柴軍が富山城に着く前に頭を丸めて降服した。 そもそも、十万の軍は佐々攻めのため... [続きを読む]
  • 2006/07/26 11:19天正十二年十一月十五日
  •  長久手で別働隊が徳川軍に破れて後、羽柴軍は早々と撤退したという。 そして、織田信雄との和睦を結んだようだ。 徳川としては、織田信雄を助けるために兵を出していたようなものだから、織田と羽柴の和睦は戦の名分を失う要因になってしまう。 だいたい、何のために織田は羽柴と和睦したのだろうか。 北陸では、羽柴を嫌う越中の佐々成政が加賀の前田利家を攻めた。 加賀と能登を結ぶ末森城を攻め、前田領を分断しようと... [続きを読む]
  • 2006/07/24 11:59天正十二年四月十二日
  •  羽柴は、織田信雄を擁する徳川軍と戦う事になったようだ。 軍を動かし始めたのは、徳川が先のようである。 まず、尾張の清洲に入った後、小牧山に陣を布いた。 これは織田信長が清洲城にいた頃、本拠を一時小牧山に移し、美濃を征服した事に関係しているのだろうか。 しばらく両軍睨み合っていたが、羽柴軍は焦れてしまったようだ。 三河の岡崎を奇襲しようとして失敗したそうだ。 奇襲のための軍は壊滅、羽柴軍は思わぬ... [続きを読む]
  • 2006/07/21 11:59天正十一年十月五日
  •  どうも新発田攻めが上手くいかない。 八幡で新発田軍を一度は打ち破ったものの、追撃に入るまでにはいかなかった。 このままでは更なる離反も生まれるかもしれない。 そのようなことは避けたいし、避けなければならぬ事である。 船にも話してみた。 船は直江家で育ち、直江家を守ってきた知恵のある女である。 その船は、石田という男に、私同様、目... [続きを読む]
  • 2006/07/20 11:59天正十一年六月十二日
  •  羽柴による柴田攻めの後、羽柴秀吉という男は律儀にも戦勝の使者を春日山まで送ってきた。 それに我らとしても応えないわけにはいかず、戦勝を祝う使者を羽柴のいる姫路まで送った。 進物を贈るにあたって、春日山に来た羽柴の使者から聞いた増田、石田という近習にも進物を贈る事にした。 今後の外交を見越した上で、近習からも好意を持たれていた方が... [続きを読む]
  • 2006/07/19 11:59天正十一年四月二十九日
  •  羽柴と柴田による戦いは、早くも終わってしまった。 もっと長く争っていてくれれば、新発田を攻める事もできたし、あわよくば越中だって狙えたかもしれない。 そう思うと、このように早々と決着がついてしまったのは残念でならないが、柴田を勝家を自害に追いつめた羽柴秀吉という男は只者ではないようだ。 結局、主君が殺されて一年も経っていないとい... [続きを読む]
  • 2006/07/18 11:59天正十一年四月八日
  •  東西二方面の作戦は、失敗したといってもよいだろう。 越中では、富山城まで攻略する事ができたが、すぐに織田方によって奪い返された。 東の新発田に対しては、結局撤退を余儀なくされた。 羽柴と柴田からは相変わらず協力要請の書状が届いているが、そのほとんどはいつしか羽柴からの書状が占めていた。 羽柴は昨年末、柴田勝豊の守る長浜城を開城さ... [続きを読む]
  • 2006/07/14 11:59天正十年九月六日
  •  東西に兵を分けることに私は反対だった。 東の新発田を攻める事になっていたはずなのに、急遽越中松倉城主須田満親殿から救援要請があった。 そもそも、壮絶な自害の果てに落ちた魚津城はこの松倉城の支城である。 しかし、魚津城さえ落とせば松倉城は無視してでも越後に侵入できるほどの重要な城であったことには違いない。 ただ、松倉の城を奪われて... [続きを読む]
  • 2006/07/13 11:59天正十年六月十六日
  •  織田信長を討ったのは明智光秀という臣だったという。 その明智から味方をするよう書状が届いていたが、その返事を出す事ができなかった。 もともと私個人としては味方をするには乗り気がしないでもいたのだが、それよりも越中、越前の織田勢が動く気配を見せないので診方のしようもなかった。 正直、今の上杉ではその地方にいる織田勢の一部にですら戦... [続きを読む]
  • 2006/07/12 11:57天正十年七月二十日
  •  直江の軍は信濃にいる。 相手は、北条の一隊であった。 そもそも信濃のほとんどは武田のものであったが、川中島よりさらに北は不識院様の頃より上杉のものであった。 それを織田の侵略に対し兵を差し出すこともできず、織田が支配することとなってしまった。 そして今度は、織田信長が本能寺で討たれ、織田軍が統制を欠いている隙を狙って、北条が兵を... [続きを読む]
  • 2006/07/11 11:59天正十年六月四日
  •  魚津城は落ちた。 聞くところによると、最後は皆、自らの耳に穴を空け、それぞれの名を記した札を着けた上、自害して果てたという。 なんということか、兵を引かざるを得なかった我ら越後勢に対し、少しも恨みの思いが見えない。 それどころか、最後まで上杉の名のために戦い、死んでいったのだ。 しかも、時同じくして入った情報によると、魚津城兵が... [続きを読む]
  • 2006/07/10 11:59天正十年五月二十八日
  •  越中から兵を引く。 他に選択肢がないにもかかわらず、決断までには多くの時間を要した。 武田を滅ぼし、信濃に入った織田軍の一隊が南から越後に向かっている。 東では新発田の軍が相変わらず勢力を伸ばしつつある。 北には広い海があるだけである。 もはや越後が危急存亡の秋であることは明白だった。 何があろうと不識院様から受け継いだ越後の地... [続きを読む]
  • 2006/07/07 11:59天正十年三月十三日
  •  不識院様の宿敵、今は和睦を結んでいるのだが、武田が織田に滅ぼされた。 先月より織田による武田攻めは本格化し、武田勝頼は二日前に自害したという。 武田の滅亡は家臣の離反によるところも多いとはいえ、長年戦っていた相手にしてはあっけなかった。 それだけ織田が強いのか。 織田と単独で戦える相手はもういないのではないか。 しかし、上杉とし... [続きを読む]
  • 2006/07/06 11:59天正十年一月三日
  •  本日、春日山城に参賀に訪れた方に珍しい人がいた。 お船殿である。 夫である直江信綱殿が亡くなり、四十九日を過ぎているとはいえ、喪中のはずである。 そのような方が何故、年賀の挨拶に来られたのか不思議であったが、お船殿のお顔を見る事ができたのは、正直嬉しかった。 挨拶がひととおり終わると、お船殿は驚くべき言葉を発した。 直江家を継ぐ... [続きを読む]
  • 2006/07/05 11:59天正九年九月二日
  •  御館攻めの恩賞に絡んで、また問題が起きた。 いや、問題というには上杉に与える影響が大きすぎる。 昨日、直江信綱殿が春日山城中で毛利秀広によって殺された。 そもそも事の発端は、安田顕元殿が毛利らを味方につける際、恩賞を勝手に約束してしまっていた事による。 しかし直江殿らは、恩賞ははじめから味方についた者に厚くする事が相応しいとして... [続きを読む]
  • 2006/07/04 11:58天正九年六月十八日
  •  新発田城の新発田重家が上杉に背いた。 重家は新発田家を相続したばかりである。 もともと、死んだ新発田長敦には所領が与えられるはずだった。 しかし、当主が変わった事により、重家には恩賞はなかった。 重家は新潟津を占拠した。 これは織田の策略によるものであることははっきりしていた。 西からは織田の軍が越中に攻め入っている。 これを防... [続きを読む]
  • 2006/07/03 11:58天正八年八月二十六日
  •  御館攻めがようやく落ち着き、論功行賞の知行状を書き続けている毎日である。 不識院様がお亡くなりになって二年以上も経つ。 ようやく、新しい上杉家の船出の時が来たといっても過言ではない。 上杉家の家督を不識院様の血が繋がっている景勝様が継ぐために、なぜこんなにも苦労しなければならなかったのか。 北条派の連中のせいで、景勝様と景虎殿と... [続きを読む]
  • 2006/06/21 11:46大谷吉継殿について〜追記〜
  •  大谷吉継殿は、関ヶ原でご自害なされた。 介錯を務めたのは、湯浅五助という者であったと言う。 大谷軍は、最後まで戦い抜いた。 というより西軍は思いのほか、皆がよく戦っていた。 西軍を裏切ったとされる小早川秀秋の軍が攻めたのは、大谷の軍だったと言う。 小早川の軍に攻められ、大谷軍はたちまち壊滅した。 そして、大谷吉継殿は見事、武士の... [続きを読む]
  • 2006/06/20 11:59慶長五年九月十四日
  •  徳川軍は、昨日のうちに岐阜に至り、今は赤坂にまで進出している様子である。 我らは、大垣城に入っている。 徳川軍がどのように動くか、まだ予想できなかった。 この大垣城を攻めてくるのか、ここを無視して佐和山から大坂を目指すのか。 徳川軍に夜討ちをかける。 そう言い出したのは島津義弘殿であった。 宇喜多殿もそれに賛同したにもかかわらず... [続きを読む]
  • 2006/06/19 11:59慶長五年九月二日
  •  徳川方の福島軍、池田軍により岐阜城が落ちた。 岐阜城の城主は織田秀信殿、わずか三歳で織田家の家督を継いだ三法師様である。 織田家の家督を継いだということは天下人を継いだはずであった。 しかし、天下は太閤殿下のものとなってしまった。 豊臣もまた、八歳になる秀頼様が継いだにもかかわらず、天下を徳川に奪われようとしている。 徳川家康は... [続きを読む]
  • 2006/06/16 11:59慶長五年八月一日
  •  畿内における徳川の拠点、伏見城が落ちた。 兵二千で守る城を、四万の兵で十日も懸けて落とした事になる。 いくら殿下が造った城だとはいえ、時間をかけ過ぎだ。 この度、我らの盟主となって下さったのは毛利輝元殿であり、既に大坂城に入っている。 総大将は宇喜多秀家殿。 とはいえ、宇喜多殿は伏見攻めには加わっていなかったようである。 我らは... [続きを読む]
  • 2006/06/15 11:59慶長五年七月八日
  •  まさか、と言うべきなのか。 それとも、やはり、と言うべきなのか。 私は三日かけて説得を試みたが、石田の思いは変わらなかった。 徳川家康と戦う。 その事の愚かさと石田では勝ち目が無いという事、どれほど語ってもそれは石田の決意を変えることは出来なかった。 石田は、本気で勝てると思っている。 もちろん戦をやるからには勝つ事を信じてやる... [続きを読む]
  • 2006/06/14 11:59慶長五年六月二十九日
  •  徳川殿は、そろそろ江戸に着いている頃だろうか。 我らは、本日伏見を出立した。 個人的に言えば、上杉殿と戦いたくはない。 徳川殿に比べても、豊臣家に対して尽くすであろうし、そもそもこのたびの戦は徳川から挑発したものである。 理は上杉にあるといっても良い。 どうせなら私も、天下一といわれる徳川の軍勢と戦って華々しく散りたいと思うこと... [続きを読む]
  • 2006/06/13 12:18慶長五年六月二日
  •  奥州出陣が発表された。 来月下旬、相手は上杉景勝殿である。 上杉殿とは以前、奥州で検地を行い、共に九戸の乱を討伐したこともあった。 そのような見知った関係であることを差し引いても、この戦は起こしたくなかった。 今、徳川と誰かが戦う度に、豊臣の家が揺らぐのだ。 政治的に徳川の言いなりになっている以上は、あくまで豊臣家の大老としての... [続きを読む]
  • 2006/06/12 11:59慶長五年一月三日
  •  新しい年が明けた。 しかし、私は明けの光を見る事が出来なくなっている。 一人で立つことも出来なくなった。 昨年の暮れ、徳川と前田との間に決着がついた。 徳川の要求など呑むはずがないと思われていたが、前田利長殿は呑んだ。 前田利家殿の正妻であり、利長殿の生母である芳春院が江戸に下った。 大坂でも、伏見でもない。 人質として赴いた先... [続きを読む]
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