- 2008/05/11 13:39草津温泉の宿、湯本安兵衛
- 草津温泉の湯本家は建久4年(1193年)、源頼朝から湯本の姓と三日月の家紋を授かったと伝えられています。戦国時代には湯本善太夫が武田家の家臣となって草津温泉を守りますが、長篠の合戦で戦死してしまいます。善太夫の跡を継いだ三郎右衛門は真田昌幸に仕えて、草津温泉を守ります。江戸時代には真田家の重臣として活躍しますが、寛文5年(1665年)に跡継ぎがないとの理由で湯本家は断絶させられてしまい、草津温泉は天領となって [続きを読む]
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- 2008/05/03 12:11二代目十返舎一九
- あまり知られてはいませんが、十返舎一九には二代目を継いだ弟子がいます。本名は糸井武、通称は鳳助といいます。上州勢多郡花輪村の生まれで、20歳の頃、狂歌師を志して江戸に出て、大田南畝に師事します。滝の糸丈という狂歌名で、文政年間に数多くの狂歌を残しています。文政6年(1823年)に大田南畝が亡くなると、当時、二代目南仙笑楚満人と称していた為永春水の弟子になって、登仙笑苫人と号します。その後、27歳の頃に十返舎 [続きを読む]
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- 2008/04/26 13:25草津温泉の俳人、雲嶺庵鷺白
- 鷺白は本名を黒岩忠右衛門といい、老舗の宿屋の主人です。現在の「ホテル望雲」の先祖にあたります。芳草舎、老狸窟、雲嶺庵と号して、小林一茶とも交流がありました。一茶は文化5年(1808年)、信州に帰る途中、草津温泉を寄って鷺白を訪ねています。その時は18年振りの再会だったようです。鷺白は文化文政期の草津温泉の文壇の中心になって活躍し、江戸から訪れた文人墨客たちを大いに歓迎して持て成したようです。十返舎一九と [続きを読む]
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- 2008/04/20 13:34感和亭鬼武
- 感和亭鬼武はもと武士で、本名は前野曼七といいます。神道無念流の剣術の達人で、一橋家の勘定役を務めていたのに、さっさと隠居してしまい、戯作に専念するために侍をやめて町人となった変わり者です。飯田町に住んでいましたが浅草に移り、山東京伝の門人になって戯作を学び、絵は谷文晁に学んでいます。文化3年(1806年)に発表した読本『報仇奇談自来也説話(挿絵は葛飾北斎)』が大いに受けて、鬼武は売れっ子作家になります [続きを読む]
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- 2008/04/12 13:34為永春水
- 為永春水は人情本「春色梅暦」の作者として有名です。人情本というのは洒落本から発達した読物で、婦女子向けの恋愛小説です。当時、女性向けの読物は少なく、春水の人情本は大いに受けました。寛政2年(1790年)に生まれた春水は20代の半ば頃、越前屋長次郎を名乗って貸本屋を始めます。文政2年(1819年)、兄の滝亭鯉丈と組んで、人情本「明烏後正夢」を発表します。天保3年(1832年)、「春色梅暦」の初編を売り出して大当たりしま [続きを読む]
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- 2008/04/06 13:58曲亭馬琴
- 曲亭馬琴は「南総里見八犬伝」の作者として有名です。25歳の正月、山東京伝の門人、大栄山人という名で、黄表紙を売り出したのが、戯作者としての始まりです。その頃、京伝の紹介で、版元の蔦屋重三郎のもとで番頭として働きながら黄表紙を書きます。何作もの黄表紙を発表しますが、話題になる作品もなく、失敗に終わりますが、文化元年(1804年)、38歳の時に売り出した読本「月氷奇縁」が転機となって、以後、読本作者としての活躍 [続きを読む]
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- 2008/03/29 14:00蔦屋重三郎
- 蔦屋重三郎は「蔦重」と呼ばれ、喜多川歌麿や東洲斎写楽を売り出した版元として有名です。寛延3年(1750年)の正月、吉原の遊廓内で生まれた蔦重は二十代の半ば頃、吉原の大門前に小さな本屋を開業して、「吉原細見」と呼ばれる遊廓の案内書を売り始めます。安永9年(1780年)頃から、黄表紙や洒落本、狂歌本などを売り出し、天明3年(1783年)、老舗の版元が居並ぶ通油町に進出します。寛政3年(1791年)、正月に売り出した山東京伝の [続きを読む]
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- 2008/03/19 12:42滝亭鯉丈
- 滝亭鯉丈は都八造と称して、一中節の三味線弾きとしても有名でした。寄席にも顔を出して、落語をやったり、一中節や新内節を語りました。手先が器用で、櫛作りや竹細工、象牙細工、駕籠の修繕などもしたようです。40歳位から滝亭鯉丈の名で滑稽本を書き始め、文政3年(1820年)に売り出した「花暦八笑人」は大いに受けました。その前年には実の弟の為永春水と組んで人情本「明烏後正夢」を発表します。春水はこれを発展させて、人情 [続きを読む]
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- 2008/03/11 15:01一九と艶本「葉男婦舞喜」
- 「葉男婦舞喜(はなふぶき)」は享和2年(1802年)に刊行された喜多川歌麿の艶本です。上巻、中巻、下巻と三冊からなる半紙本で、序文と付文は道楽人と号した十返舎一九が書いています。艶本は最初に序文が付き、何枚かの春画があって、付文と呼ばれる、絵とは直接関係のない艶笑小話が付いていました。一九が書いた付文は上巻が「若後家の精進おちに納所坊の口を吸物」というタイトルで、若後家と納所坊主の話、中巻では「大雁高の矢 [続きを読む]
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- 2008/03/07 13:38東海道中膝栗毛
- 弥次さん北さんで有名な「東海道中膝栗毛」が発表されたのは享和2年(1802年)の事でした。作者は十返舎一九で、それまでに何作もの黄表紙を発表していましたが、話題になるほどの作品はありませんでした。「膝栗毛」は黄表紙ではなく滑稽本で、一九は書き上げた原稿をかつて居候をしていた事もある蔦屋重三郎のもとへ持って行きますが、蔦重は引き受けてはくれませんでした。仕方なく、村田屋治郎兵衛のもとへ持って行き、挿絵も自 [続きを読む]
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- 2008/03/01 13:45玉村宿の玉斎楼
- 日光例幣使道の玉村宿は飯盛女と呼ばれる宿場女郎が大勢いた事で有名ですが、中でも、玉斎楼(ぎょくさいろう)と呼ばれた万屋(よろずや)は玉村一の旅籠屋でした。玉斎楼は豪奢な構えで、江戸の吉原にも2軒とはあるまいと言われ、近くにある岩鼻代官所の代官や関東取締出役がよく利用していました。1868年の記録では部屋数が80室もあったと書かれています。40人前後の飯盛女を抱えていたようです。主人は千輝(ちぎら)幸兵衛(1790-1 [続きを読む]
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- 2008/02/21 13:26生田万
- 生田万(よろず)は享和元年(1801年)、上州館林藩士の長男に生まれ、23歳の時に江戸に出て、国学者の平田篤胤の門人になります。文政11年(1828年)10月、藩政改革の意見書を提出しますが、それが藩主の怒りに触れて、館林藩から追放されてしまいます。再び江戸に出て、篤胤のもとで4年間暮らしてから、館林の近くの太田に私塾を開きます。天保7年(1836年)5月、万は江戸の篤胤門下で共に勉学に励んだ神官の樋口英哲を訪ねて柏崎に行 [続きを読む]
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- 2008/02/16 13:38赤堀村の本間道場
- 国定忠次が生きていた時代、国定村の近くの赤堀村に本間道場という剣術道場がありました。道場主は本間千五郎(1784-1874)といい、門人は数百人いたと言われています。北辰一刀流の千葉周作が伊香保神社に額を奉納しようとして、馬庭念流の樋口家と争いになった事件に千五郎も参加しています。俳人としても有名で「丹頂」と号し、島村の絵師、金井烏洲とも交流がありました。千五郎の祖父は権八郎(1721-1756)といい、力持ちの大男で [続きを読む]
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- 2008/02/08 12:02百々村の紋次親分
- 国定一家の忠次親分も当然の事ながら、最初から親分だったわけではなく、子分時代がありました。絹糸市が開かれて栄えていた日光例幣使道の境宿の隣に百々(どうどう)村という村があって、そこで「百々一家」を張っていた紋次親分がいました。忠次は大前田栄五郎の紹介で紋次の子分になります。紋次親分は百々村の裕福な農家に生まれますが、若い頃に村を飛び出して渡世人の世界に入ります。村に戻って来たのは28歳頃で、その時に一 [続きを読む]
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- 2008/01/28 12:33御子神の丈吉
- 笹沢佐保の股旅小説に「無宿人御子神の丈吉」というのがあります。一度は足を洗って堅気になった丈吉が妻を殺されて、復讐するために再び、渡世の道に入ります。丈吉の仇が国定忠次という設定です。1972年、原田芳雄主演で映画化され、国定忠次役は峰岸隆之介(峰岸徹)でした。中村敦夫も疾風の伊三郎という役で出ています。「川風に過去は流れた」「牙は引き裂いた」「黄昏に閃光が飛んだ」とシリーズ化されて三本作られました。 [続きを読む]
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- 2008/01/20 13:13木枯し紋次郎
- 笹沢左保原作の「木枯し紋次郎」は1972年正月から中村敦夫主演でテレビドラマ化されて、大ヒットしました。「あっしには関わりがねえこって」が流行語になり、長い楊枝を口にくわえるのが流行りました。私も紋次郎に憧れて、中山道を歩いたりもしました。小説の「木枯し紋次郎」は、友人の罪をかぶって三宅島に島送りにされた紋次郎が島抜けして、裏切った友人を斬るという第一話「赦免花は散った」で始まります。この話はテレビド... [続きを読む]
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- 2008/01/15 16:46国定忠次と有名な侠客たち
- 大親分と呼ばれた大前田栄五郎は寛政5年(1793年)生まれですから、忠次より17歳年長です。「天保水滸伝」で有名な笹川の繁蔵は文化7年(1810年)生まれで、忠次と同い年です。八丈島送りになった津向の文吉も忠次と同い年です。清水の次郎長は文政3年(1820年)生まれですので、忠次より10歳も若く、忠次との接点はなかったようです。黒駒の勝蔵は天保3年(1832年)生まれで、忠次より22歳年下、吉良の仁吉は天保10年(1839年)生まれで... [続きを読む]
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- 2008/01/11 14:10国定忠次の仕置場
- 国定忠次が関所破りをした大戸の関所跡から南に500m程行くと忠次の仕置場跡(処刑場跡)があります。嘉永3年(1850年)12月21日、国定一家の親分、忠次は磔(はりつけ)刑に処せられました。磔刑は主殺し、親殺し、関所破り、偽金銀を作った者、密通して夫を殺した女など、封建制度そのものの維持に重大な反逆を犯した極悪人に対してなされる死刑です。忠次は確かに関所破りをしましたが、権威を失いつつある幕府が、権威を取り戻そ... [続きを読む]
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- 2008/01/01 13:17上泉伊勢守 生誕500年
- 新年おめでとうございます。今年は剣聖上泉伊勢守の生誕500年にあたります。上野の国、上泉城(前橋市)に生まれた伊勢守は幼い頃より武術を習い、元服してから武術の本場である鹿島に修業に出ます。鹿島神道流を身に付けて故郷に帰り、赤城山中で独り修行を続けている時、愛洲移香斎と出会い、陰流を習います。伊勢守の才能を見抜いた移香斎は伊勢守に陰流のすべてを授けます。伊勢守は陰流をさらに工夫して、「新陰流」を編み出... [続きを読む]
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- 2007/12/29 14:47長篠の合戦の戦死者
- 長篠の合戦と言えば、武田勝頼が織田と徳川の連合軍に敗れて、武田の名立たる武将が数多く戦死した事で有名ですが、この合戦で群馬県吾妻郡の武士たちが多く戦死した事はあまり知られていません。当時、吾妻郡の武士たちは武田の指揮下にあって、真田信綱・昌輝兄弟に従って長篠の合戦に参加しました。草津温泉の領主で長野原城主の湯本善太夫、鎌原城主の鎌原筑前守、三島城主の浦野下野守、岳山城の池田甚三郎、甚四郎の兄弟、沢... [続きを読む]
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- 2007/12/23 14:06平兵衛池
- 草津温泉から香草を通って、さらに山奥に入っていくと平兵衛池という静かな沼があります。昔、草津温泉にあった湯本平兵衛という宿屋の十七歳になる美しい娘が五月の半ば頃、女中たちを引き連れてワラビ狩りに出掛けました。とある綺麗な沼のほとりで一休みした時、お嬢様は喉が渇いたので、水を飲もうと沼に近づきます。水を汲もうとした時、突然、青空が雲に覆われて、薄暗くなって来たと思ったら雨がポツリポツリと降って来まし... [続きを読む]
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- 2007/12/16 14:11義仲伝説の村、六合村世立
- 久寿二年(1155年)八月の十六日、木曽義仲の父親、源義賢は兄の義朝に疎まれ、武州の大蔵館(嵐山町)で義朝の長男、悪源太義平に殺されてしまいます。当時2歳だった駒王丸は家臣たちに守られて、上州の草津の湯に逃れ、後、入山村に隠れ住みます。やがて、成長した駒王丸は元服して義仲と名乗り、信州の木曽谷へと向かいます。義仲が世に立った村なので世立(よだて)と名付けられたといわれています。寿永二年(1183年)五月、義... [続きを読む]
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- 2007/12/10 14:37草津温泉 蟻の門渡りから香草へ
- 草津温泉から信州へ行く道の一つに、香草(かくさ)を通って、芳ヶ平に出て、渋峠へ行く道がありますが、江戸時代、湯治客は常布の滝を見るために、弁当を持って香草まで出掛けました。江戸時代には香臭と書いたようです。「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」でも、十返舎一九と喜多川月麿は香草に出掛けます。草津温泉から山の中に入り、吊り橋を渡って、しばらく行くと蟻の門渡(とわた)りという難所に出ます。そこを通り抜けると香... [続きを読む]
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- 2007/12/02 12:41「冗談しっこなし」の舞台、草津温泉
- 群馬県の草津温泉の中央に湯畑がありますが、湯畑の滝が落ちている所の近くに草津で一番歴史のある日新館という旅館があります。その旅館の御食事処の飾り棚の中に三枚続きの浮世絵が飾ってあります。江戸時代に「湯本安兵衛」と名乗っていた日新館の室内を描いた浮世絵です。若旦那らしい男性と湯上りにくつろいでいる女性たちが描いてあります。文化5年(1808年)頃の作品で、描いた絵師は美人絵で有名な喜多川歌麿の一番弟子と言... [続きを読む]
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- 2007/11/23 14:21大峯山の行場、笙の窟
- 大峯山は修験道の本場として古くから、大勢の山伏たちが修行していました。吉野から熊野まで、奥駈け道という修行の登山道があって、数々の行場を巡りながら山伏たちは修行を積みました。「陰の流れ第一部・陰流天狗勝」で、太郎は妻の楓を連れて吉野まで行き、大峯山に登りたいと思いましたが、大峯山は女人禁制なので、登るのを諦めました。「陰の流れ第二部・赤松政則」で、師匠の風眼坊が大峯山にいると聞いて、太郎は飯道山か... [続きを読む]
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