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- 2008/03/07 13:38東海道中膝栗毛
- 弥次さん北さんで有名な「東海道中膝栗毛」が発表されたのは享和2年(1802年)の事でした。作者は十返舎一九で、それまでに何作もの黄表紙を発表していましたが、話題になるほどの作品はありませんでした。「膝栗毛」は黄表紙ではなく滑稽本で、一九は書き上げた原稿をかつて居候をしていた事もある蔦屋重三郎のもとへ持って行きますが、蔦重は引き受けてはくれませんでした。仕方なく、村田屋治郎兵衛のもとへ持って行き、挿絵も自... [続きを読む]
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- 2008/03/01 13:45玉村宿の玉斎楼
- 日光例幣使道の玉村宿は飯盛女と呼ばれる宿場女郎が大勢いた事で有名ですが、中でも、玉斎楼(ぎょくさいろう)と呼ばれた万屋(よろずや)は玉村一の旅籠屋でした。玉斎楼は豪奢な構えで、江戸の吉原にも2軒とはあるまいと言われ、近くにある岩鼻代官所の代官や関東取締出役がよく利用していました。1868年の記録では部屋数が80室もあったと書かれています。40人前後の飯盛女を抱えていたようです。主人は千輝(ちぎら)幸兵衛(1790-1... [続きを読む]
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- 2008/02/21 13:26生田万
- 生田万(よろず)は享和元年(1801年)、上州館林藩士の長男に生まれ、23歳の時に江戸に出て、国学者の平田篤胤の門人になります。文政11年(1828年)10月、藩政改革の意見書を提出しますが、それが藩主の怒りに触れて、館林藩から追放されてしまいます。再び江戸に出て、篤胤のもとで4年間暮らしてから、館林の近くの太田に私塾を開きます。天保7年(1836年)5月、万は江戸の篤胤門下で共に勉学に励んだ神官の樋口英哲を訪ねて柏崎に行... [続きを読む]
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- 2008/02/16 13:38赤堀村の本間道場
- 国定忠次が生きていた時代、国定村の近くの赤堀村に本間道場という剣術道場がありました。道場主は本間千五郎(1784-1874)といい、門人は数百人いたと言われています。北辰一刀流の千葉周作が伊香保神社に額を奉納しようとして、馬庭念流の樋口家と争いになった事件に千五郎も参加しています。俳人としても有名で「丹頂」と号し、島村の絵師、金井烏洲とも交流がありました。千五郎の祖父は権八郎(1721-1756)といい、力持ちの大男で... [続きを読む]
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- 2008/02/08 12:02百々村の紋次親分
- 国定一家の忠次親分も当然の事ながら、最初から親分だったわけではなく、子分時代がありました。絹糸市が開かれて栄えていた日光例幣使道の境宿の隣に百々(どうどう)村という村があって、そこで「百々一家」を張っていた紋次親分がいました。忠次は大前田栄五郎の紹介で紋次の子分になります。紋次親分は百々村の裕福な農家に生まれますが、若い頃に村を飛び出して渡世人の世界に入ります。村に戻って来たのは28歳頃で、その時に一... [続きを読む]
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- 2008/01/28 12:33御子神の丈吉
- 笹沢佐保の股旅小説に「無宿人御子神の丈吉」というのがあります。一度は足を洗って堅気になった丈吉が妻を殺されて、復讐するために再び、渡世の道に入ります。丈吉の仇が国定忠次という設定です。1972年、原田芳雄主演で映画化され、国定忠次役は峰岸隆之介(峰岸徹)でした。中村敦夫も疾風の伊三郎という役で出ています。「川風に過去は流れた」「牙は引き裂いた」「黄昏に閃光が飛んだ」とシリーズ化されて三本作られました。... [続きを読む]
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- 2008/01/20 13:13木枯し紋次郎
- 笹沢左保原作の「木枯し紋次郎」は1972年正月から中村敦夫主演でテレビドラマ化されて、大ヒットしました。「あっしには関わりがねえこって」が流行語になり、長い楊枝を口にくわえるのが流行りました。私も紋次郎に憧れて、中山道を歩いたりもしました。小説の「木枯し紋次郎」は、友人の罪をかぶって三宅島に島送りにされた紋次郎が島抜けして、裏切った友人を斬るという第一話「赦免花は散った」で始まります。この話はテレビド... [続きを読む]
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- 2008/01/15 16:46国定忠次と有名な侠客たち
- 大親分と呼ばれた大前田栄五郎は寛政5年(1793年)生まれですから、忠次より17歳年長です。「天保水滸伝」で有名な笹川の繁蔵は文化7年(1810年)生まれで、忠次と同い年です。八丈島送りになった津向の文吉も忠次と同い年です。清水の次郎長は文政3年(1820年)生まれですので、忠次より10歳も若く、忠次との接点はなかったようです。黒駒の勝蔵は天保3年(1832年)生まれで、忠次より22歳年下、吉良の仁吉は天保10年(1839年)生まれで... [続きを読む]
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- 2008/01/11 14:10国定忠次の仕置場
- 国定忠次が関所破りをした大戸の関所跡から南に500m程行くと忠次の仕置場跡(処刑場跡)があります。嘉永3年(1850年)12月21日、国定一家の親分、忠次は磔(はりつけ)刑に処せられました。磔刑は主殺し、親殺し、関所破り、偽金銀を作った者、密通して夫を殺した女など、封建制度そのものの維持に重大な反逆を犯した極悪人に対してなされる死刑です。忠次は確かに関所破りをしましたが、権威を失いつつある幕府が、権威を取り戻そ... [続きを読む]
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- 2008/01/01 13:17上泉伊勢守 生誕500年
- 新年おめでとうございます。今年は剣聖上泉伊勢守の生誕500年にあたります。上野の国、上泉城(前橋市)に生まれた伊勢守は幼い頃より武術を習い、元服してから武術の本場である鹿島に修業に出ます。鹿島神道流を身に付けて故郷に帰り、赤城山中で独り修行を続けている時、愛洲移香斎と出会い、陰流を習います。伊勢守の才能を見抜いた移香斎は伊勢守に陰流のすべてを授けます。伊勢守は陰流をさらに工夫して、「新陰流」を編み出... [続きを読む]
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- 2007/12/29 14:47長篠の合戦の戦死者
- 長篠の合戦と言えば、武田勝頼が織田と徳川の連合軍に敗れて、武田の名立たる武将が数多く戦死した事で有名ですが、この合戦で群馬県吾妻郡の武士たちが多く戦死した事はあまり知られていません。当時、吾妻郡の武士たちは武田の指揮下にあって、真田信綱・昌輝兄弟に従って長篠の合戦に参加しました。草津温泉の領主で長野原城主の湯本善太夫、鎌原城主の鎌原筑前守、三島城主の浦野下野守、岳山城の池田甚三郎、甚四郎の兄弟、沢... [続きを読む]
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- 2007/12/23 14:06平兵衛池
- 草津温泉から香草を通って、さらに山奥に入っていくと平兵衛池という静かな沼があります。昔、草津温泉にあった湯本平兵衛という宿屋の十七歳になる美しい娘が五月の半ば頃、女中たちを引き連れてワラビ狩りに出掛けました。とある綺麗な沼のほとりで一休みした時、お嬢様は喉が渇いたので、水を飲もうと沼に近づきます。水を汲もうとした時、突然、青空が雲に覆われて、薄暗くなって来たと思ったら雨がポツリポツリと降って来まし... [続きを読む]
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- 2007/12/16 14:11義仲伝説の村、六合村世立
- 久寿二年(1155年)八月の十六日、木曽義仲の父親、源義賢は兄の義朝に疎まれ、武州の大蔵館(嵐山町)で義朝の長男、悪源太義平に殺されてしまいます。当時2歳だった駒王丸は家臣たちに守られて、上州の草津の湯に逃れ、後、入山村に隠れ住みます。やがて、成長した駒王丸は元服して義仲と名乗り、信州の木曽谷へと向かいます。義仲が世に立った村なので世立(よだて)と名付けられたといわれています。寿永二年(1183年)五月、義... [続きを読む]
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- 2007/12/10 14:37草津温泉 蟻の門渡りから香草へ
- 草津温泉から信州へ行く道の一つに、香草(かくさ)を通って、芳ヶ平に出て、渋峠へ行く道がありますが、江戸時代、湯治客は常布の滝を見るために、弁当を持って香草まで出掛けました。江戸時代には香臭と書いたようです。「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」でも、十返舎一九と喜多川月麿は香草に出掛けます。草津温泉から山の中に入り、吊り橋を渡って、しばらく行くと蟻の門渡(とわた)りという難所に出ます。そこを通り抜けると香... [続きを読む]
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- 2007/12/02 12:41「冗談しっこなし」の舞台、草津温泉
- 群馬県の草津温泉の中央に湯畑がありますが、湯畑の滝が落ちている所の近くに草津で一番歴史のある日新館という旅館があります。その旅館の御食事処の飾り棚の中に三枚続きの浮世絵が飾ってあります。江戸時代に「湯本安兵衛」と名乗っていた日新館の室内を描いた浮世絵です。若旦那らしい男性と湯上りにくつろいでいる女性たちが描いてあります。文化5年(1808年)頃の作品で、描いた絵師は美人絵で有名な喜多川歌麿の一番弟子と言... [続きを読む]
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- 2007/11/23 14:21大峯山の行場、笙の窟
- 大峯山は修験道の本場として古くから、大勢の山伏たちが修行していました。吉野から熊野まで、奥駈け道という修行の登山道があって、数々の行場を巡りながら山伏たちは修行を積みました。「陰の流れ第一部・陰流天狗勝」で、太郎は妻の楓を連れて吉野まで行き、大峯山に登りたいと思いましたが、大峯山は女人禁制なので、登るのを諦めました。「陰の流れ第二部・赤松政則」で、師匠の風眼坊が大峯山にいると聞いて、太郎は飯道山か... [続きを読む]
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- 2007/11/16 12:01赤松満祐、最期の地、城山(きのやま)城
- 嘉吉の変で、六代将軍足利義教を殺した赤松満祐は領国の播磨に帰って抵抗しますが、幕府軍に敗れて、城山城で自害を遂げます。城山城は赤松家代々の拠点でしたが、応仁の乱の頃に再興された時、当主の赤松政則は城山城を拠点とはせずに、置塩城を本拠地にしました。城山城は嘉吉の変で破壊されたまま放置されました。「陰の流れ第二部・赤松政則」で、太郎たちは赤松満祐が隠したと思われる財宝を捜すために、城山城に登ります。 ... [続きを読む]
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- 2007/11/08 13:36赤松政則の本拠地、置塩城
- 嘉吉の変で滅ぼされた赤松氏は応仁の乱の直前に、赤松政則を当主に復興されます。そして、応仁の乱で、旧領の播磨の国を取り戻して、置塩に城を築いて本拠地とします。「陰の流れ第二部・赤松政則」で、妻の楓を連れ去られた太郎は、楓を救うために仲間たちと一緒に播磨の国へと行き、置塩城下を舞台に、陰の術を駆使して活躍します。 置塩城跡に登ったのはもう20年も前の事です。当時は登る人もあまりいないようでしたが、現 [続きを読む]
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- 2007/11/01 14:30北畠氏の都、多気
- 「陰の流れ第一部・天狗勝」で、太郎と楓が北畠氏の本拠地、多気に行った頃、多気は伊勢の都と言われて、応仁の乱で焼けてしまった京都以上に栄えていました。多気御所と呼ばれた北畠氏のお屋形跡は、現在、北畠神社となって、庭園だけが残っています。北畠神社の裏山が、詰の城だった霧山城です。 ... [続きを読む]
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- 2007/10/28 14:10飯道山から太神山へ
- 「陰の流れ第一部・天狗勝」で、山伏になった愛洲移香斎が百日行をした奥駈け道は、飯道山から阿星山、金勝山、竜王山を通って、太神山まで行く、片道およそ27キロの道程です。飯道山の飯道寺、阿星山の阿星寺、金勝山の金勝寺、竜王山の先にある狛坂寺、太神山の不動寺、みな、山伏たちが大勢、修行を積んでいた修験の寺院でした。 ... [続きを読む]
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- 2007/10/22 20:54愛洲移香斎の故郷、五ケ所浦
- 「陰の流れ」を書く前に、五ケ所浦を訪ねたのは今からもう、二十年以上も前の事でした。陰流の流祖、愛洲移香斎が生まれた五ケ所浦は静かな海辺の小さな町でした。五ケ所城跡に愛洲移香斎の顕彰碑があったように記憶しています。私が愛洲移香斎に興味を持ったのは、上泉伊勢守の師匠だったからです。剣聖と呼ばれる新陰流の流祖である上泉伊勢守は群馬県前橋市に生まれました。群馬県が生んだ最も偉大な人物なのに、当時、知名度は... [続きを読む]
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- 2007/10/14 14:14火乱坊
- 近江の国、浅井郷に生まれた火乱坊は伊吹山で修行を積んで、山伏になります。薙刀の修行にも励んで達人となった火乱坊は飯道山に呼ばれ、武術師範として若い者たちを鍛えます。当時、飯道山には、棒術の達人の高林坊、剣術の達人の風眼坊、槍術の達人の栄意坊がいて、火乱坊を入れて、「飯道山の四天王」と呼ばれていました。23歳の時に、風眼坊と一緒に飯道山を去って、関東へと旅に出ます。熊野へ帰るという風眼坊と別れ、さらに... [続きを読む]
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- 2007/10/04 14:14和泉式部
- 和泉式部は中古三十六歌仙の一人で、情熱的な恋多き女性として有名です。10世紀後半に生まれ、「源氏物語」を書いた紫式部より5歳位若いようです。19歳頃、和泉守橘道貞と結婚して、翌年、小式部内侍を産みますが、道貞との仲は冷めてしまい、為尊親王との恋に落ちます。しかし、為尊親王は腫れ物を患って、26歳の若さで亡くなってしまいます。悲しみに暮れていると、為尊親王の弟、敦道親王から声が掛かかります。敦道親王は和泉... [続きを読む]
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- 2007/09/14 20:36赤松政則
- 嘉吉元年(1441年)6月、京都の赤松邸にて、六代将軍足利義教が殺されるという前代未聞の事件が起こります。事件の後、赤松一族は家臣を引き連れて、領国の播磨に引き上げますが、幕府軍に攻められ、滅亡してしまいます。後に、嘉吉の変と呼ばれる事件です。それから17年後、遺臣たちの活躍によって赤松家の再興が許され、当主となったのが、当時4歳だった赤松政則です。政則は嘉吉の変の張本人だった満祐の弟、義雅の孫に当たりま... [続きを読む]
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- 2007/08/23 09:44和泉守兼定
- 戦国時代、二代目孫六兼元と双璧を成すのが和泉守兼定です。初代兼定の倅で、二代目孫六とは兄弟弟子の間柄です。孫六の刀と同じように、実践向きの頑丈で鋭い斬れ味を持ち、しかも、風格のある優れた出来ばえが、名立たる戦国武将に好まれました。武田信玄、細川幽斎、森長可などが愛用していたようです。新撰組の土方歳三も和泉守兼定を所持していましたが、二代目ではなく、幕末に活躍した会津藩の刀匠、11代目の兼定のようです... [続きを読む]
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