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ykblogさん: 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋
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プロフィール

ハンドル名ykblog さん
ブログタイトル関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋
サイト紹介文徳川家康が恐れた小早川秀秋の真の姿
参加カテゴリー
更新頻度情報提供291回 / 741日(平均2.7回/週) - 参加 2006/05/10 00:58

ykblog さんのブログ記事

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  • 2008/05/04 21:07小早川秀秋の一覧
  • English Here   KAMONジェネレーター    右サイドバーのプロフィールにあるようなオリジナル家紋が名前と生年月日ですぐに作れます。 信長、秀吉を影で操った千利休の錬金術  織田信長の奇門遁甲でライバルに勝つ方法 【岡山瑞雲寺にある秀秋坐像写真 】【小説:羅山】(5月5日更新)謁見   悪夢1   悪夢2   悪夢3 【仮説:小早川秀秋は生きていた】(4月7日最終)その1   その2   その3   その [続きを読む]
  • 2008/04/20 21:04小早川秀秋の一覧
  • English Here   KAMONジェネレーター    右サイドバーのプロフィールにあるようなオリジナル家紋が名前と生年月日ですぐに作れます。 信長、秀吉を影で操った千利休の錬金術  織田信長の奇門遁甲でライバルに勝つ方法 【岡山瑞雲寺にある秀秋坐像写真 】【小説:羅山】(4月28日更新)謁見   悪夢1   悪夢2【仮説:小早川秀秋は生きていた】(4月7日最終)その1   その2   その3   その4   その [続きを読む]
  • 2008/04/19 22:27【小説:羅山】悪夢4
  •  戦いがこう着状態になり、家康は落胆の色をみせていた。「わしの負けじゃ。これで終わったわけではない。もう一度、出直そう」 家臣たちは自分たちの犯した失策にうなだれていた。 一方、三成の陣営では家康の逃亡しそうな気配が見えると歓声が上がった。「やった。家康に勝った」「勝ったぞ」 その時、松尾山から小早川隊がゆっくりと降りてくる。「ああっ、動いた」 戦場で動こうとしなかった諸大名が小早川隊が大蛇のよう [続きを読む]
  •   関連キーワード
  • 小説
  • 2008/04/19 22:25【小説:羅山】悪夢3
  •  合戦が始まって約二時間がたった時、西軍で戦っていたのは石田三成、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継の部隊ぐらいだった。 石田三成は味方と信じていた松尾山の秀秋と南宮山の毛利秀元らに出陣要請の狼煙を上げたが、いっこうに動く気配はなかった。 東軍の家康にも憂いがあった。三男、秀忠が信濃、上田城主、真田昌幸との戦いから関ヶ原に向かっていると聞いたが、一向に到着しない。また、西軍の戦っていない部隊の中には家 [続きを読む]
  • 2008/04/19 22:23【小説:羅山】悪夢2
  •  天候は霧雨から豪雨に変わり、西風が吹き始めていた。 関ヶ原にある松尾山には、はすでに伊藤盛正が布陣して待機していた。この時点で西軍は鶴翼の陣をはり、その総大将の位置には秀吉の養子で五大老の一人、宇喜多秀家の部隊一万八千人がいた。 早々と準備を整え待ち構えていた西軍だったが、松尾山の古城に突然、小早川秀秋の部隊一万五千人の兵がなだれ込み、伊藤を退けて布陣の準備を始めた。このあっけない無血入城により [続きを読む]
  •   関連キーワード
  • 小説
  • 2008/04/19 22:18【小説:羅山】悪夢1
  •  家康の脳裏に悪夢が蘇る。 慶長五年(一六〇〇年) 天下統一を果たした豊臣秀吉の死後、再び戦国の世に戻ろうとしていた。 九月十四日 この日が来るまで、各地で小規模な戦いがあり、家康を中心とする勢力と石田三成の説得に同調した勢力の戦術の探りあいで、諸大名の部隊が再三移動させられ、なかなか対峙する場所が定まらなかった。 圧倒的に優勢な状況にあった家康でさえ諸大名の誰がどちらに味方するのか計りかねていた [続きを読む]
  • 2008/04/13 20:58小早川秀秋の一覧
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  • 2008/04/13 20:52【小説:羅山】謁見
  •  慶長十年(一六〇五年)四月 京にもようやく春の湿った風が吹くようになった。陽射しも暖かく、遠くで鶯の鳴く声が人の心をうきうきさせていた。 五年前にあった国を二分する関ヶ原の合戦の混乱は落ち着き、その功績で征夷大将軍となった徳川家康が京での居城としていた二条城に姿を見せた。長い廊下を謁見の間に向かう家康の足取りは重い。それは六十四歳という高齢のせいではなく、今から会う人物が藤原惺窩から推薦された林 [続きを読む]
  • 2008/01/06 21:15小早川秀秋の一覧
  • English Here   KAMONジェネレーター    右サイドバーのプロフィールにあるようなオリジナル家紋が名前と生年月日ですぐに作れます。 信長、秀吉を影で操った千利休の錬金術  織田信長の奇門遁甲でライバルに勝つ方法 【岡山瑞雲寺にある秀秋坐像写真 】【仮説:小早川秀秋は生きていた】(4月7日更新)その1   その2   その3   その4   その5   その6   その7   その8   その9   その1 [続きを読む]
  • 2008/01/05 21:54【仮説:小早川秀秋は生きていた】その16
  •  林羅山は結婚し、元和4年(1618年)に子をもうけている。その子、又三郎は藤原惺窩の弟子で惺窩門四天王(林羅山、松永尺五、堀杏庵、那波活所)の活所に弟子入りした。 羅山のもとで学ばせないのは教育方針なのか、小早川秀秋だとしたら本当に学識のある活所のほうがいいと考えたのかもしれない。 やがて又三郎は名を鵞峰と改め父、羅山と供に幕府に仕える。 明暦3年(1657年)に起きた「明暦の大火」で神田にあっ [続きを読む]
  • 2008/01/04 21:00【仮説:小早川秀秋は生きていた】その15
  •  寛永18年(1641年)林羅山は幕府の命により「寛永諸家系図伝(大名、旗本の系図)」を編集した。また「本朝神代帝王系図」「鎌倉将軍家譜」「京都将軍家譜」「織田信長譜」「豊臣秀吉譜」なども手がけた。 これらは羅山が小早川秀秋だからこそ命じられたのではないだろうか。 やがて南光坊天海が死去し、すでに死去している金地院崇伝の影響力もなくなるとその地位はゆるぎないものとなり、正保元年(1644年)国史の [続きを読む]
  • 2008/01/04 20:58【仮説:小早川秀秋は生きていた】その14
  •  徳川秀忠は元和9年(1623年)に子の家光に政権を渡し隠居した。 家光は20歳と若く、完全に政治を任されたわけではなく、会長に指示を受ける社長といった体制で見習いをしていた。 こういった体制は豊臣秀吉と秀次の時にもあったような混乱になる可能性があり、あえて実行したところに実の親子の信頼感と家臣を統率することができるという自信がうかがえる。また別の見方として外敵の脅威に対抗するという日本人の危機意 [続きを読む]
  • 2008/01/03 21:02【仮説:小早川秀秋は生きていた】その13
  •  徳川秀忠の政権になってから林羅山は活動範囲を広げたと思われる。それは春日局も同じだった。 秀忠の子、竹千代が家康の命により後継者になることが決まっている。その乳母として春日局は過敏に神経をとがらせていた。しかし、大奥にいたのでは政治の内情がはっきりつかめない。そこに羅山との結びつきを強くする理由がある。 春日局と羅山をつなげていたのは木下勝俊だ。 勝俊は北政所の兄、木下家定の子という立場を利用し [続きを読む]
  • 2008/01/02 23:16【仮説:小早川秀秋は生きていた】その12
  •  二度目の大坂城攻撃、夏の陣が終わり、豊臣家を滅ぼした徳川家康は、天下を手中に治めたことで気が抜けたのか、その翌年にこの世を去った。 後を継いだ秀忠は慶長10年(1605年)にすでに第2代将軍になっていたが事実上、この時から徳川幕府を引き継いだことになる。 家康の存在があまりにも大きかったため周りから能力を低く見られていた秀忠。年齢も38歳と若く経験不足を感じる。 まだ各地に徳川家に刃向かう諸大... [続きを読む]
  • 2008/01/01 21:01【仮説:小早川秀秋は生きていた】その11
  •  林羅山は大坂冬の陣の後は、金地院崇伝と銅製活字の鋳造監督にあたっている。 銅製活字は朝鮮出兵の時に朝鮮から持ち帰ったものがあったが、その日本製を作ろうとしたものだ。 羅山と崇伝は文字の監修にあたったのだろうが、こういった地味な仕事をやらせることから、それほど能力を認めていなかった可能性がある。(羅山は特に文字がうまいということで仕官したわけではない) もし小早川秀秋なら武士としての色合いを薄め... [続きを読む]
  • 2007/12/31 21:06【仮説:小早川秀秋は生きていた】その10
  •  林羅山は当初、駿府書庫の管理役で300俵の待遇だったといわれている。徳川家康の後継ぎ、秀忠に講書をおこなってはいるが、それほど期待はされていなかったということだ。 まだ関ヶ原の合戦については多くの者が真実を知っているので、歴史の改ざんはできなかっただろう。 外国にも日本で大きな合戦があり、国が統一されたといった情報が流れただろうが、幸いだったのはこの時代、外国は内政問題があり、日本を占領すると... [続きを読む]
  • 2007/12/30 21:10小早川秀秋の一覧
  • English Here   KAMONジェネレーター    右サイドバーのプロフィールにあるようなオリジナル家紋が名前と生年月日ですぐに作れます。 信長、秀吉を影で操った千利休の錬金術  織田信長の奇門遁甲でライバルに勝つ方法 【岡山瑞雲寺にある秀秋坐像写真 】【仮説:小早川秀秋は生きていた】(12月31日更新)その1   その2 【戦国ノート】 本能寺の変1   本能寺の変2   本能寺の変3   山崎の戦い   清 [続きを読む]
  • 2007/12/30 21:02【仮説:小早川秀秋は生きていた】その9
  •  徳川家康が林羅山を小早川秀秋だと分かっていて受け入れる理由は、いずれ戦うことになる豊臣秀頼対策が考えられる。 もし秀秋が生きていて突き放してしまうと秀頼と手を結ぶかもしれない。そうなると関ヶ原の悪夢が蘇ってくる。 秀秋をかこっておけば、秀頼と戦う大義名分がみつからない時、秀秋こそが豊臣家の正統な後継者と祭り上げて戦うことが出来る。(秀秋は北政所の兄、木下家定の子であり、豊臣秀吉は木下藤吉郎と名... [続きを読む]
  • 2007/12/29 21:16【仮説:小早川秀秋は生きていた】その8
  •  金地院崇伝は正統な僧侶で関ヶ原の合戦以後、朝鮮出兵で悪化していた朝鮮との関係正常化をすすめていた徳川家康に、慶長13年(1608年)に招かれ外交往復文書の書記になった。 それ以降、幕府と宗教界の橋渡し役になり、発言権を増していった。 このことから南光坊天海は僧侶として認められた存在ではなかったことが伺える。 ひょっとしたら天海は明か朝鮮から来た僧侶ではないだろうか? 豊臣秀吉の朝鮮出兵以前から... [続きを読む]
  • 2007/12/29 21:13【仮説:小早川秀秋は生きていた】その7
  •  南光坊天海の前半生は定かでない。 一時期、天海は明智光秀だという説が広まったが、今はそうではないことが分かってきた。 はっきりしているのは徳川家康が天海の人となりを認めていること。天海は過去の自慢話をするような人物ではないということだ。  天海と家康が出会ったのは、天正18年(1590年)豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻めていた頃らしい。 秀吉の天下統一は目前で家康は「(天海と)もう少し早く出会... [続きを読む]
  • 2007/12/24 21:00【仮説:小早川秀秋は生きていた】その6
  •  なぜ稲葉家(林家)が生き残るために小早川秀秋が必要かといえば、徳川家康が何度も仕官を要請するほど絶大な影響力がある藤原惺窩の学問を実践して実社会で役に立つことを証明したのが秀秋だったからだ。 学問をただ知識として身につけるだけなら他の弟子のほうが優れていたが、秀秋はその知識を戦で応用し、荒廃した領地の復興に役立てた。また、惺窩にとって秀秋はもっとも身近な弟子であり、自分の学問を後世に伝えるため... [続きを読む]
  • 2007/12/24 20:59【仮説:小早川秀秋は生きていた】その5
  •  林羅山の話を進める前にお福(後の春日局)が徳川幕府に入った経緯について。 藤原惺窩と羅山が出会ったとされる慶長9年(1604年)徳川秀忠に子が生まれる。 その乳母を探すことになった京都所司代の板倉勝重。(勝重の子、重昌の妻が林通勝の娘で、稲葉正成の祖先の林氏とは姻戚関係にあった) 勝重が乳母を捜しているという話は小早川家から離れて浪人状態の正成にも入ったと思われる。(この時、正成は家康に仕官し... [続きを読む]
  • 2007/12/23 21:05小早川秀秋の一覧
  • English Here   KAMONジェネレーター    右サイドバーのプロフィールにあるようなオリジナル家紋が名前と生年月日ですぐに作れます。 信長、秀吉を影で操った千利休の錬金術  織田信長の奇門遁甲でライバルに勝つ方法 【岡山瑞雲寺にある秀秋坐像写真 】【仮説:小早川秀秋は生きていた】(12月24日最新)その1 【戦国ノート】 (12月17日更新)本能寺の変1   本能寺の変2   本能寺の変3   山崎の戦 [続きを読む]
  • 2007/12/22 21:44【仮説:小早川秀秋は生きていた】その4
  •  そこで一つの仮説を考えた。 もしも林羅山が小早川秀秋だとしたら当然、家康はすぐに秀秋だと気づくだろう。 死んだはずの秀秋が目の前に現れてびっくりする。 もし家康が秀秋の暗殺などを考えていなければ、事情はさておき無事な姿を見て喜んだかもしれない。 逆に家康が秀秋の暗殺を考えていたら、恐怖に震えたかもしれない。しかし、暗殺を企てたそぶりは見せないだけの人生経験はあるはずだ。 秀秋はあくまでも羅山と... [続きを読む]
  • 2007/12/22 21:43【仮説:小早川秀秋は生きていた】その3
  •  羅山という号は藤原惺窩が名付けたもので、それ以前は林又三郎信勝と名乗っていた。 父は京都に住む町家の信時で、祖先は加賀で林業をしていた地主だったが没落して紀州、大坂、京都と住処を転々とした。 羅山は長男でありながら、父の兄、吉勝のもとに養子にだされ、病弱だったが秀才ということで、13歳になると元服して建仁寺に入った。 建仁寺は京都五山の一寺で朱子学の研究をしていた。今でいう大学のような感覚で羅... [続きを読む]
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