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ykblogさん: 関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋
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プロフィール

ハンドル名ykblog さん
ブログタイトル関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋
サイト紹介文徳川家康が恐れた小早川秀秋の真の姿
参加カテゴリー
更新頻度情報提供302回 / 811日(平均2.6回/週) - 参加 2006/05/10 00:58

ykblog さんのブログ記事

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  • 2008/01/01 21:01【仮説:小早川秀秋は生きていた】その11
  •  林羅山は大坂冬の陣の後は、金地院崇伝と銅製活字の鋳造監督にあたっている。 銅製活字は朝鮮出兵の時に朝鮮から持ち帰ったものがあったが、その日本製を作ろうとしたものだ。 羅山と崇伝は文字の監修にあたったのだろうが、こういった地味な仕事をやらせることから、それほど能力を認めていなかった可能性がある。(羅山は特に文字がうまいということで仕官したわけではない) もし小早川秀秋なら武士としての色合いを薄め... [続きを読む]
  • 2007/12/31 21:06【仮説:小早川秀秋は生きていた】その10
  •  林羅山は当初、駿府書庫の管理役で300俵の待遇だったといわれている。徳川家康の後継ぎ、秀忠に講書をおこなってはいるが、それほど期待はされていなかったということだ。 まだ関ヶ原の合戦については多くの者が真実を知っているので、歴史の改ざんはできなかっただろう。 外国にも日本で大きな合戦があり、国が統一されたといった情報が流れただろうが、幸いだったのはこの時代、外国は内政問題があり、日本を占領すると... [続きを読む]
  • 2007/12/30 21:10小早川秀秋の一覧
  • English Here   KAMONジェネレーター    右サイドバーのプロフィールにあるようなオリジナル家紋が名前と生年月日ですぐに作れます。 信長、秀吉を影で操った千利休の錬金術  織田信長の奇門遁甲でライバルに勝つ方法 【岡山瑞雲寺にある秀秋坐像写真 】【仮説:小早川秀秋は生きていた】(12月31日更新)その1   その2 【戦国ノート】 本能寺の変1   本能寺の変2   本能寺の変3   山崎の戦い   清 [続きを読む]
  • 2007/12/30 21:02【仮説:小早川秀秋は生きていた】その9
  •  徳川家康が林羅山を小早川秀秋だと分かっていて受け入れる理由は、いずれ戦うことになる豊臣秀頼対策が考えられる。 もし秀秋が生きていて突き放してしまうと秀頼と手を結ぶかもしれない。そうなると関ヶ原の悪夢が蘇ってくる。 秀秋をかこっておけば、秀頼と戦う大義名分がみつからない時、秀秋こそが豊臣家の正統な後継者と祭り上げて戦うことが出来る。(秀秋は北政所の兄、木下家定の子であり、豊臣秀吉は木下藤吉郎と名... [続きを読む]
  • 2007/12/29 21:16【仮説:小早川秀秋は生きていた】その8
  •  金地院崇伝は正統な僧侶で関ヶ原の合戦以後、朝鮮出兵で悪化していた朝鮮との関係正常化をすすめていた徳川家康に、慶長13年(1608年)に招かれ外交往復文書の書記になった。 それ以降、幕府と宗教界の橋渡し役になり、発言権を増していった。 このことから南光坊天海は僧侶として認められた存在ではなかったことが伺える。 ひょっとしたら天海は明か朝鮮から来た僧侶ではないだろうか? 豊臣秀吉の朝鮮出兵以前から... [続きを読む]
  • 2007/12/29 21:13【仮説:小早川秀秋は生きていた】その7
  •  南光坊天海の前半生は定かでない。 一時期、天海は明智光秀だという説が広まったが、今はそうではないことが分かってきた。 はっきりしているのは徳川家康が天海の人となりを認めていること。天海は過去の自慢話をするような人物ではないということだ。  天海と家康が出会ったのは、天正18年(1590年)豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻めていた頃らしい。 秀吉の天下統一は目前で家康は「(天海と)もう少し早く出会... [続きを読む]
  • 2007/12/24 21:00【仮説:小早川秀秋は生きていた】その6
  •  なぜ稲葉家(林家)が生き残るために小早川秀秋が必要かといえば、徳川家康が何度も仕官を要請するほど絶大な影響力がある藤原惺窩の学問を実践して実社会で役に立つことを証明したのが秀秋だったからだ。 学問をただ知識として身につけるだけなら他の弟子のほうが優れていたが、秀秋はその知識を戦で応用し、荒廃した領地の復興に役立てた。また、惺窩にとって秀秋はもっとも身近な弟子であり、自分の学問を後世に伝えるため... [続きを読む]
  • 2007/12/24 20:59【仮説:小早川秀秋は生きていた】その5
  •  林羅山の話を進める前にお福(後の春日局)が徳川幕府に入った経緯について。 藤原惺窩と羅山が出会ったとされる慶長9年(1604年)徳川秀忠に子が生まれる。 その乳母を探すことになった京都所司代の板倉勝重。(勝重の子、重昌の妻が林通勝の娘で、稲葉正成の祖先の林氏とは姻戚関係にあった) 勝重が乳母を捜しているという話は小早川家から離れて浪人状態の正成にも入ったと思われる。(この時、正成は家康に仕官し... [続きを読む]
  • 2007/12/23 21:05小早川秀秋の一覧
  • English Here   KAMONジェネレーター    右サイドバーのプロフィールにあるようなオリジナル家紋が名前と生年月日ですぐに作れます。 信長、秀吉を影で操った千利休の錬金術  織田信長の奇門遁甲でライバルに勝つ方法 【岡山瑞雲寺にある秀秋坐像写真 】【仮説:小早川秀秋は生きていた】(12月24日最新)その1 【戦国ノート】 (12月17日更新)本能寺の変1   本能寺の変2   本能寺の変3   山崎の戦 [続きを読む]
  • 2007/12/22 21:44【仮説:小早川秀秋は生きていた】その4
  •  そこで一つの仮説を考えた。 もしも林羅山が小早川秀秋だとしたら当然、家康はすぐに秀秋だと気づくだろう。 死んだはずの秀秋が目の前に現れてびっくりする。 もし家康が秀秋の暗殺などを考えていなければ、事情はさておき無事な姿を見て喜んだかもしれない。 逆に家康が秀秋の暗殺を考えていたら、恐怖に震えたかもしれない。しかし、暗殺を企てたそぶりは見せないだけの人生経験はあるはずだ。 秀秋はあくまでも羅山と... [続きを読む]
  • 2007/12/22 21:43【仮説:小早川秀秋は生きていた】その3
  •  羅山という号は藤原惺窩が名付けたもので、それ以前は林又三郎信勝と名乗っていた。 父は京都に住む町家の信時で、祖先は加賀で林業をしていた地主だったが没落して紀州、大坂、京都と住処を転々とした。 羅山は長男でありながら、父の兄、吉勝のもとに養子にだされ、病弱だったが秀才ということで、13歳になると元服して建仁寺に入った。 建仁寺は京都五山の一寺で朱子学の研究をしていた。今でいう大学のような感覚で羅... [続きを読む]
  • 2007/12/22 21:41【仮説:小早川秀秋は生きていた】その2
  •  死んだとされる小早川秀秋の遺体は、出石郷伊勢宮の満願山成就寺に埋葬されその法名は「瑞雲院殿前黄門秀巌日詮大居士」(秀秋は金吾権中納言だったが、権中納言は唐名で黄門になる。あの水戸黄門がここでいう秀秋が成り変った人物ではない) この法名にちなみ寺は黄門山瑞雲寺と改称したが、別名を「稲葉塚」と呼ばれ、酒毒と歯痛に悩む人々の信仰を集めた。(秀秋は酒好きで子供の頃から酒を飲み、それがもとで病になり死ん... [続きを読む]
  • 2007/12/22 21:38【仮説:小早川秀秋は生きていた】その1
  •  弱冠21歳で亡くなった小早川秀秋の死には多くの謎があり、死因がいまだに特定されていない。 庶民ならそんなこともあるだろうが、かりにも関ヶ原の合戦で重要な役割を演じ、徳川幕府誕生に影響を与え、そのうえ、備前と美作を短期間で復興させた功労者の死が、歴史からそう簡単に消え去るとは思えない。 「斬り殺された」「落馬して死んだ」という話もあるが、そういった事件、事故なら普通に伝わっていてもいいはずだ。 ... [続きを読む]
  • 2007/11/04 20:54小早川秀秋の一覧
  • English Here   KAMONジェネレーター    右サイドバーのプロフィールにあるようなオリジナル家紋が名前と生年月日ですぐに作れます。 信長、秀吉を影で操った千利休の錬金術  織田信長の奇門遁甲でライバルに勝つ方法 【岡山瑞雲寺にある秀秋坐像写真 】【戦国ノート】 (12月17日更新)本能寺の変1   本能寺の変2   本能寺の変3   山崎の戦い   清洲会議   賤ヶ岳の戦い   大坂城 小牧・長久手の [続きを読む]
  • 2007/10/22 21:05【戦国ノート】秀詮の死
  •  慶長7年(1602年) 家臣が逃亡した岡山城は廃墟のように静まりかえっていた。 小早川秀詮のもとから逃げた者を非難することはできない。誰もが命は欲しい。それは数々の戦で勇猛に戦った者でも同じことだ。 命を捨ててまで、狂った殿様につき従う道理はない。 今、狂った秀詮に誰もつき従おうとしないことが関ヶ原の合戦でいかに秀詮の統率力があったかを証明している。 こんな状況の中、平岡頼勝は残り、秀詮の最期... [続きを読む]
  • 2007/10/22 21:02【戦国ノート】徳川英雄伝説
  •  小早川秀詮の奇行や失態は、やがて他の諸大名にも知れ渡り、家康の耳にも入るようになった。 秀詮は時々、上洛して家康に会うこともあったが、家康はやつれた秀詮の健康を気遣い、報告されてくる悪行を戒めるだけだった。 本来なら小早川家が廃絶になってもおかしくない事態が起きていたが、何のお咎(とが)めもないことに諸大名の誰もが家康の企てと薄々感じていただろう。 家康も暗に秀詮をさらし者にすることで諸大名に... [続きを読む]
  • 2007/10/22 21:00【戦国ノート】豹変
  •  備前と美作の戦後復興を順調に進めていた小早川秀詮が突然、狂いはじめる。 秀詮は刀を振り回し、領民に斬りかかったりすることもあった。 やがて政務も停滞するようになり、城下はふたたび廃れて、領民の不安と不満が募った。 ついに秀詮の悪行に見兼ねた重臣の杉原重治が意を決して秀詮に諫言した。しかし正常ではない秀詮に杉原の忠義からでた言葉は通じるはずもなく、逆に中傷していると感じてしまった。 秀詮は以前か... [続きを読む]
  • 2007/10/22 20:57【戦国ノート】戦後復興策
  •  関ヶ原の合戦後の論功行賞で小早川秀秋には備前と美作の51万石が与えられた。 前の所領、筑前、筑後、肥後の30万石と比べれば大幅な加増となったが、備前と美作は以前の領主、宇喜多秀家が朝鮮出兵に駆り出されて政務が滞り疲弊していた。 徳川家康はあらかじめ備前と美作が疲弊していることを知っていて、それを餌に秀秋が東軍に味方すれば与えると約束していたのだ。 仮に秀秋が味方し勝利しても備前と美作なら惜しく... [続きを読む]
  • 2007/10/20 21:38【戦国ノート】三成の真意
  •  捕らえられた石田三成は大津の徳川家康のもとに送られた。 ここで三成は数人の大名と対面している。 三成の身柄を預けられた本多正純との対面はあったとしてもその他の大名との対面は疑問が残る。特にその時の会話で「裏切り者が出たために敗れた」ということを強調しているあたりが、何か意図的なものを感じる。 気になった会話を一部あげると、本多正純が「敗れた上に自害もせず捕らえられたのは如何に」との問いに三成は... [続きを読む]
  • 2007/10/20 21:35【戦国ノート】佐和山城
  •  近江、佐和山城に石田三成は近づくこともできず逃亡を続けていた。 佐和山城は鎌倉時代に築城されたらしく、その後、城主が転々として三成の居城となった。 三成は城の改修を続け立派な城に仕上げた。しかしそれは外見だけで内部は質素な作りで、豪華さはなく、三成の倹約ぶりがうかがえた。 その城には三成の留守を父の正継ら2千人の兵が死を覚悟して守りぬこうと籠城していた。 小早川秀秋は朽木元綱、脇坂安治などの部... [続きを読む]
  • 2007/10/20 21:33【戦国ノート】3百騎
  •  徳川家康は合戦後、藤川の高地にあった大谷吉継の陣営に移動し、諸大名の拝謁に応じた。 誰もがあわや負け戦からの勝利に気が抜けていたのではないだろうか。 集まった諸大名の中にはすでに鎧を脱ぎ、酒を浴びるように飲んでいる者もいただろう。 しかし、家康は不満だったのではないだろうか。 戦いに勝利はしたが、この時はまだ石田三成は逃亡して行方知れずになっていた。なによりも三男の秀忠がとうとう最後まで間に合... [続きを読む]
  • 2007/10/14 21:07小早川秀秋の一覧
  • English Here   KAMONジェネレーター    右サイドバーのプロフィールにあるようなオリジナル家紋が名前と生年月日ですぐに作れます。 信長、秀吉を影で操った千利休の錬金術  織田信長の奇門遁甲でライバルに勝つ方法  ダイエットのすごい実態  ダイエットも人生も成功する→もやしダイエット・サクセスクラブ会員募集 【岡山瑞雲寺にある秀秋坐像写真 】【戦国ノート】 (10月28日更新)本能寺の変1   本能 [続きを読む]
  • 2007/10/14 21:01【戦国ノート】石田三成
  •  西軍の敗北が決定的となった時、石田三成は北国街道を敗走し伊吹山に消えた。 付き従っていた家臣は磯野平三郎、渡辺勘平、塩野清助の3人だけになっていた。しかしこの3人を説得して途中で別れた。 やがて三成は伊香郡の古橋村にたどり着く。そこにあった法華寺の三珠院にかくまわれていたが、迷惑がかかると思ったのか、しばらくして発ち、三成の親友だが徳川家康に味方した田中吉政の家臣、田中長吉に捕縛された。 とい... [続きを読む]
  • 2007/10/13 21:18【戦国ノート】宇喜多秀家
  •  宇喜多秀家は備前、岡山城主、宇喜多直家の子として生まれ、17歳の時、前田利家の娘で、豊臣秀吉の養女だった豪姫と結婚した。 秀吉の猶子(実の子と同じ扱い)として文禄の役には大将として出陣した。 その後、五大老の一人に加わっている。 9歳年下の小早川秀秋と同じような境遇にあったが、関が原の合戦を違う立場で向かえた。 秀家は西軍の副大将とされているが、秀吉の猶子で五大老の一人、兵数1万7千人で西軍の... [続きを読む]
  • 2007/10/07 20:59【戦国ノート】大谷吉継死す
  •  小早川秀秋の部隊による陽動作戦に気をとられていた大谷吉継の部隊は赤座吉家、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠の部隊が背後、あるいは側面から迫っていることに気づかなかった。 もし気づいたとしてもなす術はなかっただろう。 大谷隊の兵1500人は小早川隊の兵1万5千人と闘うことになった時点で死を覚悟せざるおえない。だからこそ小早川隊への攻撃に全勢力を投入していた。 赤座ら四隊の攻撃は「おまけ」のようなもの... [続きを読む]
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