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- 2008/10/05 20:41いらっしゃいま〜せ(全体目次)
- このブログは、讃岐(さぬき)に残る歴史物語をショートストーリーとして記事にしたものです。「さぬき」という言葉は「さぬきうどん」で全国的に知られていますが、それは現在の香川県の旧国名のことです。 日本各地で、観光のレベルアップ、活性化を図るために、観光検定を実施して郷土の歴史・文化などを普及させる取り組みが行われています。 こうしたことから、このブログは、香川県の埋もれた観光資源を掘り起こし記事 ... [続きを読む]
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- 2008/10/05 20:36訪れてみたいところ・・・68番神恵院・69番観音寺を中心とする地域
- この地域は、琴弾山の68番神恵院・69番観音寺を中心とした旧観音寺市の区域です。琴弾山は観音寺市の財田川河口近くにあり、その西側の有明浜一帯とともに県立琴弾公園に指定されています。園内には、神恵院・観音寺や琴弾八幡宮、砂絵「寛永通宝」などがあり、白砂青松の有明浜と松の美しい琴弾山々頂からの展望が見所となっています。 現在の裁判所の前付近の財田川河口が、かつて堪保(港)があったところだといわれて ... [続きを読む]
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- 2008/10/05 08:29いらっしゃいま〜せ(全体目次)
- このブログは、讃岐(さぬき)に残る歴史物語をショートストーリーとして記事にしたものです。「さぬき」という言葉は「さぬきうどん」で全国的に知られていますが、それは現在の香川県の旧国名のことです。 日本各地で、観光のレベルアップ、活性化を図るために、観光検定を実施して郷土の歴史・文化などを普及させる取り組みが行われています。 こうしたことから、このブログは、香川県の埋もれた観光資源を掘り起こし記事 ... [続きを読む]
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- 2008/10/05 08:10(149)“高松の地下にある謎の巨大クレーター”
- 高松市南部の仏生山周辺は、高松松平藩主の菩提寺である法然寺のほか、田村神社、一宮寺、船山神社など由緒のある社寺があり、歴史を感じさせる趣が漂っています。また、ため池と里山が織りなす優れた景観の地でもあります。法然寺の裏山に登り、南の方を見ると、右手眼下に「平池」、その左方に円錐形の姿のよい小山が並んでみえます。北から南に日山(ひやま)、馬山(うまやま)、実相寺山(じっそうじやま)と一直線に連な... [続きを読む]
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- 2008/09/28 10:54いらっしゃいま〜せ(全体目次)
- このブログは、讃岐(さぬき)に残る歴史物語をショートストーリーとして記事にしたものです。「さぬき」という言葉は「さぬきうどん」で全国的に知られていますが、それは現在の香川県の旧国名のことです。 日本各地で、観光のレベルアップ、活性化を図るために、観光検定を実施して郷土の歴史・文化などを普及させる取り組みが行われています。 こうしたことから、このブログは、香川県の埋もれた観光資源を掘り起こし記事 ... [続きを読む]
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- 2008/09/28 10:28(148)“瀬戸内の島に伝わる歌舞伎と文楽”
- 歌舞伎は、徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けた慶長8年(1603)に、出雲のお国が、派手な着物を着、男髷に髪を結い、長い刀を差した「傾き者」(かぶきもの)といわれる男の姿で踊ったのが始まりといわれています。これを「女(遊女)歌舞伎」といいますが、風紀を乱すということで、寛永6年(1629)に幕府から禁止されます。 次いで少年が女装した「若衆歌舞伎」が登場しますが、これも承応元年(1652)に「禁止され、4代 ... [続きを読む]
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- 2008/09/28 09:37訪れてみたいところ・・・豊浜の街
- この地域の範囲は、観音寺市豊浜町の区域です。 豊浜の街の中心部はかつて和田浜といわれていました。和田浜は昔、近郷とともに姫の江(ひめのえ)郷と呼ばれていました。神櫛王が讃岐の国司となった時、景行天皇の皇女和田之姫命(わだのひめのみこと)が天神三柱の神を「渡りの浜」に祀り、この浜の「り」が省かれて「渡浜(わたはま)」となり、やがて和田浜となったといわれています。和田浜の港が綿の積出港として賑わ ... [続きを読む]
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- 2008/09/26 23:49訪れてみたいところ・・六十六番雲辺寺を中心とする地域
- この地域の範囲は、現在の観音寺市大野原町の区域です。大野原町は、江戸時代の初期に京都から移住してきた平田家によって開かれたところで、それまではその名前のとおり、大野原だったところです。【内野々】●六十六番札所雲辺寺 標高911mの雲辺寺山の山頂近くにあり、四国八十八ヵ所中最も高いところにあることから別名四国高野と呼ばれています。弘法大師が雲辺寺山に建築資材を探しに入り、この山の霊気に感じ入り山頂 ... [続きを読む]
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- 2008/09/20 09:57地域別目次
- 「讃岐の風土記」では、それぞれの記事に関連する社寺仏閣、名勝、旧跡、記念物、公園、建物などを、「訪れてみたいところ」としてご紹介しています。今後、これらを地域別にまとめていきたいと考えています。 地域をどのように区分するかについては、行政区域別、コース別などの方法が考えられますが、ここでは、四国八十八ヵ寺札所ないし地域の核となるものを中心に、次の55の地域に区分します。 各地域について、順次、 ... [続きを読む]
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- 2008/09/14 22:15(147)“漂泊の俳人が終焉を迎えた島で生まれた二十四の瞳”
- 瀬戸内海に浮かぶ小豆島は、「アヅキジマ」の名で「古事記」の国生み伝説にも登場する古い歴史をもち、海上交通の要衝であったことから各時代に様々な文化が入り込み、その温暖な気候と風光明媚さともあいまって、歴史と自然が織り成す一つの小世界としての独特の風土をつくっています。 その小豆島の風土に引き付けられるかのように、島外の人々は、憩いと安らぎを求めて訪れてきます。大正末期、安住の地を求めてやって来た ... [続きを読む]
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- 2008/09/07 13:50(146)“承久の乱で明暗を分けた讃岐藤家”
- 武士の起源は、古代律令制国家が崩壊していった10世紀から12世紀にかけて、在庁官人、郡司、荘官ら地方に土着した者たちによって形成されていった武装集団だといわれています。彼らを国人ともいいますが、讃岐の代表的な国人は、讃岐氏、讃岐橘氏、讃岐藤原氏の3つの一族です。 讃岐氏は、神櫛王(かんぐしおう)の子孫だといわれ、三木・寒川両郡で勢力を張り、その一族は寒川、高松、三木、神内、植田、池田、十河、 ... [続きを読む]
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- 2008/08/30 14:59(145)“神様になった一揆のリーダー”
- 世のため人のために一身を捨てて尽くした人のことを義民(ぎみん)といいますが、江戸時代、百姓のために命をかけて年貢の引下げなどを直訴した義民の物語が、今でも全国各地に残されています。 中でも、芝居や歌舞伎の演目として今も親しまれている「佐倉義民伝」はよく知られているところです。主人公の佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸時代前期、4代将軍徳川家綱のときに活躍した下総国印旛郡公津村(現在の千葉県 ... [続きを読む]
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- 2008/08/23 07:52(144)“大坂石山本願寺に兵糧を送った讃岐の寺”
- 現在の大阪城は昭和6年に復元されたものですが、この城は周知のとおり、天正11年(1583)に豊臣秀吉によって築造が開始されたものです。その前、この地には、かつて石山本願寺という浄土真宗の寺とその寺内町がありました。浄土真宗は、鎌倉時代初期、法然の弟子の親鸞がその教え(浄土宗)を継承発展させて開いた宗派で、人はすべて阿弥陀仏の本願にすがれば極楽往生ができると説き、念仏を唱えるだけでよいという気安さか... [続きを読む]
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- 2008/08/23 07:47(143)“バブル経済真っ只中のときに開通した瀬戸大橋”
- 昭和63年(1988)4月10日、瀬戸大橋が開通しました。同時に高松〜岡山間にJR瀬戸大橋線も開通しました。昭和53年(1978)10月10日に起工され、着工から9年6ヶ月を経ていました。本州四国連絡橋3ルートの中で最も早い開通でした。 瀬戸内海に大橋を架けようという構想が提起されたのは、明治22年(1889)に香川県会議員の大久保?之丞(じんのじょう)が四国新道の起工式における祝辞の中で「塩飽(しあく)諸島... [続きを読む]
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- 2008/08/23 07:38雑記? 組織と忠誠心
- 8月20日〜9月7日連載☆現状認識を欠いた旧日本軍の作戦計画 旧日本軍の戦いについて、組織論の視点から分析した本を読んだことがあります。それによると、その戦いは、現状認識を欠いた「かくあるべき」という作戦計画に基づいて敢行されたということです。たとえば、武器の不足については「勇猛果敢な精神力で補う」とか、食料などの補給物資の不足については「現地で調達する」といった具合です。作戦計画書は、陸軍大学卒 ... [続きを読む]
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- 2008/08/16 10:10年代順目次
- 【先史時代】●約1400〜1100万年前―“七つも富士のある讃岐平野”(県下)●約1万年前〜200万年前の旧石器時代―“瀬戸内の分水嶺だった瀬戸大橋架橋の島々”(塩飽)●約1万年前〜200万年前の旧石器時代―“太古の時代に石器として使われていた讃岐の名前がついた石”(坂出)【神話時代・古墳時代(3世紀中葉〜6世紀末葉)】●神話時代―“山幸彦と豊玉姫のロマンスがのこる島”(豊島・男木島・女木島)●第7... [続きを読む]
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- 2008/08/09 00:15(142)“讃岐も戦場になった藤原純友の乱”
- “藤原純友の乱”は、平安時代中期に、西海で勃発した反乱事件です。これに呼応するかのように、ほぼ同時期に東国では、“平将門の乱”が起き、時の朝廷を震撼させました。この2つの反乱は、当時の年号をとって、“承平・天慶の乱”(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれ、武士の実力を世に示し、その時代の到来を告げる先駆けとなりました。 藤原純友は、寛平5年(893)、伊予国で高橋友久の子として生まれたといわれて... [続きを読む]
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- 2008/07/31 22:00祭礼・行事カレンダー
- 年末までの「讃岐の風土記」に関連のある主な祭礼・行事のカレンダーです。順次充実していきます。なお、日時については変更等もありますので、地元の市町ないし観光協会に確認してください。●むれ源平石あかりロード 8月2日(土)〜9月20日(土)、「ことでん八栗駅」から北に向かって旧庵治街道沿い約1kmの区間で、夕暮れ時から午後10時まで、毎日、石あかりが点灯されます。また、毎週土曜日の午後7時から、洲崎寺でライ ... [続きを読む]
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- 2008/07/31 21:52(141)“応天門の変に連座した讃岐の恩人”
- 10世紀後半から11世紀頃の平安時代、藤原氏が代々摂政や関白となって、天皇の代理者・補佐者として朝廷の実権を独占し続けた政治形態を摂関政治(せっかんせいじ)といいます。この摂関政治のさきがけは、平安時代前期に藤原良房(よしふさ)と基経(もとつね)の親子が摂政・関白になったことによるといわれていますが、良房・基経の親子が朝廷内で実権を握るきっかけになった事件が貞観8年(866年)に起こった応天門の変... [続きを読む]
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- 2008/05/19 21:40讃岐の風土記by出来屋―目次
- ■【最新記事】(第140話)“全国で3箇所しか指定されていない特別史跡国分寺跡”■【年代順目次】【先史時代】●約1400〜1100万年前―“七つも富士のある讃岐平野”(県下)●約1万年前〜200万年前の旧石器時代―“瀬戸内の分水嶺だった瀬戸大橋架橋の島々”(塩飽)●約1万年前〜200万年前の旧石器時代―“太古の時代に石器として使われていた讃岐の名前がついた石”(坂出)【神話時代・古墳時代(3世紀中葉〜6... [続きを読む]
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- 2008/05/19 21:32(140)“全国で3箇所しか指定されていない特別史跡国分寺跡”
- 讃岐国分寺は、四国霊場・四国八十番札所であり、県内はもとより県外からも多くのお遍路さんをはじめ善男善女のお参りが絶えません。この寺は奈良時代の天平年間に創建されたもので、境内には、金堂跡・塔跡の礎石が残り、今も天平(てんぴょう)の遥か昔を偲ぶことができます。7世紀終わり頃から8世紀の中頃までにかけて、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化を天平文化といいます。天平文化は、遣唐使などに... [続きを読む]
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- 2008/05/10 06:41讃岐の風土記by出来屋―目次
- ■【最新記事】(139)“讃岐に残る神功皇后伝説”■【年代順目次】【先史時代】●約1400〜1100万年前―“七つも富士のある讃岐平野”(県下)●約1万年前〜200万年前の旧石器時代―“瀬戸内の分水嶺だった瀬戸大橋架橋の島々”(塩飽)●約1万年前〜200万年前の旧石器時代―“太古の時代に石器として使われていた讃岐の名前がついた石”(坂出)【神話時代・古墳時代(3世紀中葉〜6世紀末葉)】●神話時代―“山幸... [続きを読む]
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- 2008/05/01 20:15(139)“讃岐に残る神功皇后伝説”
- 神功皇后(じんぐうこうごう)は、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、第15代応神天皇の母親に当たり、三韓征討を行ったという伝説をもつ日本古代の女傑として知られています。明治14年発行の一円札・五円札には神功皇后の肖像が描かれ、また、戦前の国定教科書には兵を率いて海を渡ったという勇ましい伝説が必ず記されていました。その伝説は北部九州から瀬戸内海沿いにかけて広く分布しており、讃岐にも残されていま... [続きを読む]
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- 2008/04/28 18:25(138)“シルクロードと繋がるという「さぬきうどん」”
- 日本の各地には様々なうどんがあります。秋田の稲庭うどん、群馬の水沢うどん、埼玉の加須うどん、山梨のほうとう、名古屋のきしめん、三重の伊勢うどん、大阪のきつねうどん、福岡の丸天うどん、等々です。それらの中でも、香川県特産のものは“さぬきうどん”と呼ばれています。「さぬき」とは香川県の旧国名のことです。 香川県人は概してうどん好きで、昔から、半夏(はんげ)、虫送り、冬至、祭りなどのハレの日や法事の... [続きを読む]
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- 2008/04/25 22:31(137)“瀬戸内の古代の風景が残る信仰の山”
- シルクロードという言葉を初めて使ったのは、ドイツの地理学者であるリヒトホーフェン(1833〜1905年)だといわれています。リヒトホーフェンは、1877年に出版した著書の中で、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路を始めて「ザイテンシュトラーセン」(絹の道)と呼び、その後、それが英訳されて「シルクロード」といわれるようになりました。 リヒトホーフェンは、幕末の万延元年(1860)に瀬戸内海に立ち寄り、「広い区域に亙 ... [続きを読む]
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