- 2008/05/10 12:49ペイター『想像の肖像』
- ウォルター・ペイターは唯美主義的な美術批評家として高名であるが、彼の文筆活動は美術批評だけではなく、詩的散文とでも言うべき短篇や、長編小説、さらにギリシャ文化の研究にまで及んだ。『想像の肖像』は、かねてよりペイターの代表作の一つとして著名であるが、これは4つの独立した短篇からなる。それぞれ、『宮廷画家の寵児』、『ドニ・ローセロワ』、『セバスティアン・ファン・ストルク』、『ローゼンモルトのカール大... [続きを読む]
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- 2008/04/22 00:36ペイター全集、ついに完結
- 多忙につき、なかなか記事を書く余裕がなかったのだが、今のままブログを放置するのもどうかと思い、ブログのスタイルを変えることにした。つまり、本を読んで、それについて雑感を書くという従来のスタイルにこだわらず、そのときそのときに思ったことを、気まぐれに書きとめることにしたということである。さて、いよいよ近日、筑摩書房の記念碑的事業である『ウォルター・ペイター全集』の第3巻が刊行され、この全集が完結す... [続きを読む]
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- 2008/01/27 01:58リルケ『マルテの手記』
- リルケは、ゲオルゲ、ホーフマンスタールとともに、近代ドイツ・オーストリア文学を代表する抒情詩人である。峻厳に聳える大聖堂のようなゲオルゲの詩、万華鏡のように多様な色彩が明滅するホーフマンスタールの詩に対して、リルケの詩は、画家が精密なスケッチから夢幻的な絵画を仕上げる過程を見るような思いを喚起する。詩は感情ではなく経験であるという、リルケの主張は、リルケがロダンに出会ってから悟ったものであるとい... [続きを読む]
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- 2007/09/22 15:34ハインリヒ・マン『伯爵令嬢』
- 『伯爵令嬢』は、若き日のハインリヒ・マンの唯美主義的な傾向を、最も顕著に示した短篇小説ではなかろうか。それだけでなく、ドイツ・オーストリア文学の小説という分野の中でも、『伯爵令嬢』は特異な地位を占めていると言える。つまり、詩はともかく、小説においては、これほど唯美主義的な作品は珍しいという意味である。主人公は、父親が死去し、系譜が途絶えようとしている富裕な一族の、最後の一人である少女である。その... [続きを読む]
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- 2007/09/15 21:26クライスト『聖ツェツィーリエあるいは音楽の魔力』
- 『聖ツェツィーリエあるいは音楽の魔力』は、クライストの数編の小説の一つであり、クライスト作品としては陰惨な場面が少ない。だからと言って、クライスト特有の劇的な振幅や、たたみかけるような緊迫感に欠けることはなく、穏やかな印象を与える題名とは裏腹に、壮大な迫力をもって読者を一気に引き込む。非現実的な物語ではあるが、その非現実性ゆえに、凄絶な展開を可能にしていると言える。これは、聖像破壊運動に共感して... [続きを読む]
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- 2007/09/15 12:46ハインリヒ・マン『宝石』
- 『宝石』もまた、ハインリヒ・マンの若き日の短篇小説である。『奇蹟』と同様に、枠小説の形式を用いている。『奇蹟』が、色鮮やかな自然の情景の中で、幻想的な美が具現するのを表現したのに対し、『宝石』は、そのような芸術への憧憬ではなく、一人の女性を巡る醜聞を語ることが中心となっている。それにもかかわらず、『宝石』は、むしろ芳しい香気を放つ。それはなぜだろうか。ある老人が語る一人の女性の醜聞は、それ自体は... [続きを読む]
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- 2007/09/15 03:57ハインリヒ・マン『奇蹟』
- ハインリヒ・マン(1871−1950)は、我が国ではトーマス・マンの兄として知られているが、その作品はほとんど読まれていない。なぜ我が国ではトーマス・マンがヘルマン・ヘッセと並ぶ人気を獲得したのに対して、ハインリヒ・マンがほぼ無名の作家にとどまったのかは、分からない。しかし、シュテファン・ツヴァイクは、ハインリヒ・マンもトーマス・マンも、共に高く評価していたし、『ウンラート教授』のように映画化さ... [続きを読む]
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- 2007/08/15 18:06S.ツヴァイク 小説集『アモク』
- 前回に引き続き、ツヴァイクの小説集『くさり』より、今回は第2集『アモク』を取り上げる。『アモク』には、シリーズ全体の標題としても使用された『アモク』のほか、『女と風景』、『異常な一夜』、『未知の女の手紙』、『月あかりの小路』が含まれる。第1集が、思春期の少年少女が子供の世界から大人の世界へと目覚める瞬間に焦点を当てているのに対して、第2集は、不倫や売春を取り扱っている。ツヴァイクが小説を書くに当... [続きを読む]
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- 2007/08/05 01:23S.ツヴァイク 小説集『最初の体験』
- シュテファン・ツヴァイクは、今では『マリー・アントワネット』を初めとする伝記文学の作家として知られているが、当初、彼は詩人として文学活動を開始した。しかし、その後まもなく、ホーフマンスタールやリルケなど、偉大な先達にできるかぎりの敬意を示しながらも、彼は小説へと創作の中心を移した。彼の初期の小説は、シュニッツラーに通じるところのある、人間の深層心理を濃やかに表現したものである。そうは言っても、シ... [続きを読む]
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- 2007/08/01 00:41セナンクール『オーベルマン』
- セナンクール(1770−1846)の名前は、フランスのロマン主義文学の始祖、そして書簡体小説『オーベルマン』の作者として知られている。しかし、『オーベルマン』自体は、我が国ではほとんど読まれていないに等しい。オーベルマンという心惹かれる響きは、フランツ・リストのピアノ組曲「巡礼の年第1年 スイス」の中の1曲「オーベルマンの谷」によって、私たちに親しいものとなっている。リストもまた、『オーベルマン... [続きを読む]
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- 2007/07/05 21:35アーネスト・ダウスン作品集
- アーネスト・ダウスン(1867−1900)はイギリスの詩人である。だが、その名を知る人は少なく、その作品を読んだことのある人はさらに少ないだろう。ダウスンは裕福な商家に生まれ育ち、文学について高い教養を身につけた。しかし、やがて家業は傾き、父も母も自殺してしまった。弟は若くして独りでカナダへ移住した。残されたダウスンは、夜な夜な酒場を飲み歩き、酩酊しながら、小説や詩を書く日々を送った。そして33... [続きを読む]
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- 2007/04/28 00:45グリルパルツァー『海の波 恋の波』
- グリルパルツァー(1791−1872)はオーストリアを代表する劇作家であるが、我が国ではあまり知られていない。そもそも、ドイツ・オーストリアの戯曲そのものが我が国では一般的には知られていらず、偉大な劇作家クライストでさえ、我が国では小説によって知られている。専ら戯曲を書いたグリルパルツァーが無名であるのは、我が国の文学受容を考えれば、やむをえないことであろう。グリルパルツァーの戯曲は、クライスト... [続きを読む]
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- 2007/04/23 21:10シュニッツラー『死』
- アルトゥール・シュニッツラー(1862−1931)は、我が国においても第二次世界大戦までは盛んに読まれた作家であった。その後、我が国においては、彼の作品は次第に人気を失い、今ではそのほとんどの作品が忘れられているに等しい。いったい、なぜだろうか。今日、我が国で幅広く読者を獲得しているドイツ語文学の作家として、ゲーテ、ヘッセ、トーマス・マンが挙げられる。いずれもドイツで活躍し、思弁的な作品を書いた... [続きを読む]
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- 2007/04/21 02:21ヘルダーリン『ヒュペーリオン』
- ヘルダーリン(1770−1843)は、シュテファン・ツヴァイクが非常に高く評価した詩人であった。実際、ツヴァイクは『デーモンとの闘争』と題して、ヘルダーリン、クライスト、ニーチェの三人を取り上げ、ツヴァイク得意の伝記文学を書いた。一般的に、ヘルダーリンは詩人、クライストは劇作家、ニーチェは哲学者と目されている。それでは、この三人に共通するものは何か。それは、悲劇、激情、衝動、そして狂気である。付... [続きを読む]
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- 2007/04/19 15:01ヘッベル『理髪師チッターライン』
- フリードリヒ・ヘッベル(1813−1863)は、専ら戯曲の作家として知られているが、数こそ少ないものの、彼が比較的若い時期に集中的に書いた短篇小説も、一度読むと強烈な印象を読者に刻印する名作である。叙情的な表現や、情景の描写を削ぎ落とした厳しい文体は、クライストを連想させる。さらに、人間の怒りや哀しみを極大化する手法や、悲劇的な結末もまた、クライストを思い出させる。作品の書き手がどのような人生を... [続きを読む]
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- 2007/03/31 14:34ケラー『緑のハインリヒ』
- ゴットフリート・ケラーは、コンラート・フェルディナント・マイヤーとともにスイスのドイツ語圏を代表する作家であるとともに、シュトルムやシュティフターともにドイツ文学の写実主義を代表する作家である。ケラーはもともとは画家を志していたが、その夢は叶わず、作家に転向した。シュティフターもまた、作家であるとともに画家でもあった。ケラーというシュティフターという代表的な写実主義の作家が、趣味という域を超えて... [続きを読む]
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- 2007/03/15 11:09アイヒェンドルフ『愉しき放浪児』
- 私にとって、アイヒェンドルフの名は、リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」の第4曲「夕映え」と分かちがたく結びついている。なぜなら、私がアイヒェンドルフを知ったのは「4つの最後の歌」をはじめて聴いたときだったのであり、そしてそのときの感動は、ほかのどんな音楽体験よりも深かったからである。そのとき、私は、その音楽があまりにも美しすぎて、もはや音楽とさえ思えなかった。シュトラウスは、晩年になっ... [続きを読む]
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- 2007/01/24 00:32ダヌンツィオ『死の勝利』
- ガブリエレ・ダヌンツィオは19世紀末から20世紀前半にかけて活躍したイタリアの作家であり、当時は我が国においても彼の作品が盛んに翻訳され、紹介された。特に長編小説『死の勝利』は、何種類もの日本語訳が出された。しかし、現在の我が国においては、ドビュッシーや三島由紀夫との関連でその名前が知られる程度であり、実際にダヌンツィオの作品を読んでいる人は少ないと思われる。私としては、小説家としてよりも詩人と... [続きを読む]
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- 2006/12/30 18:53C.F.マイヤー『フッテン最後の日々』
- 『フッテン最後の日々』は、マイヤーの最初期の作品である。とは言え、『フッテン最後の日々』が出版されたとき、マイヤーはすでに46歳であった。出版された最初の作品である前作『あるスイス人の20のバラード』は39歳のときに出版されており、マイヤーが作家として歩み始めたのは、中年にさしかかってからであった。マイヤーは少年時代に父を失い、その後は憂鬱症の母の強い束縛に苦しめられ、暗い青春時代を送った。マイ... [続きを読む]
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- 2006/12/28 11:10C.F.マイヤー『僧の婚礼』
- C.F.マイヤーの小説は枠小説の構造を持つものが多いが、『僧の婚礼』もまた、枠小説である。しかし、『僧の婚礼』がほかのマイヤーの作品と異なるのは、物語の語り手として無名の人物ではなく、大詩人ダンテを設定している点である。マイヤーが語り手としてダンテを設定したのは、作品に重みを与えるという効果もあるだろうが、言い換えれば、その名にふさわしい作品を書かなければならないわけである。出席者が順番に面白い... [続きを読む]
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- 2006/12/25 18:39C.F.マイヤー『聖者』
- コンラート・フェルディナント・マイヤー(マイアー、マイエル)は、ゴットフリート・ケラーとともに、同じ時代に生き、ドイツ語で文学を書くスイス人であり、チューリヒで生涯の大半を過ごした。この2人は、写実主義の作家として分類されることがあるが、それはケラーにふさわしくても、マイヤーにはほとんどあてはまらない。なぜなら、マイヤーの11作の小説は、すべて歴史的な出来事をもとに、マイヤーが思い描く審美的な世... [続きを読む]
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- 2006/12/08 01:32アミエルの日記
- フレデリック・アミエルの名も、ホーフマンスタールの文学批評によって知った。アミエルはスイスのジュネーヴで活躍した哲学者である。活躍した、という表現は不適当かもしれない。なぜなら、彼の控えめで慎ましい性格、および人生は、彼の名を哲学者として歴史に刻み込むほどの鋭い刃を決して持ち得なかったからである。実際、彼は哲学の大学教授ではあったが、自らの思想を体系化することはなく、さまざまな思想を自在に渡り歩... [続きを読む]
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- 2006/11/26 15:39ホーフマンスタール『アンドレアス』
- ホーフマンスタールは、20歳前後の数年間に、主要な詩を書いてしまい、やがて韻文劇や短篇小説に創作の重点が移っていった。そして28歳のときに、自己の創作活動を懐疑し、批判する『チャンドス卿の手紙』を発表した後は、専ら、古典劇の改作を含む戯曲や、詩的な散文を書いた。ホーフマンスタールの戯曲をもとにリヒャルト・シュトラウスが数々のオペラを作曲したことはよく知られている。『アンドレアス』は、ホーフマンス... [続きを読む]
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- 2006/11/24 00:37ドロステ=ヒュルスホフ『ユダヤ人のブナの木』
- ドロステ=ヒュルスホフは、19世紀前半に活躍したドイツの女性作家である。活躍した、という表現は不適当かもしれない。なぜなら、彼女はその一生を、ヴェストファーレンの田園地帯のヒュルスホフ城や親族の荘園などで過ごし、人間関係もごく限られていたからである。高名な作家の伝記にありがちな、都会での文士や芸術家らとの華やかな交流、と言ったものは、彼女には無縁であった。閉ざされた環境において、読書に親しみ、自... [続きを読む]
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- 2006/11/23 02:19ヤコブセン『ここに薔薇があるとよかった』
- リルケがヤコブセンを非常に高く評価し、その影響を受けてもいたということは、私は以前から知っていたが、実際にヤコブセンの作品を読んだことはなかった。しかし、リルケが絶賛しているのであれば、きっと素晴らしい作家であるに違いないと思い、まず『ここに薔薇があるとよかった』という短篇を読んでみた。ここには小説らしいはっきりした筋はない。確かに二人の登場人物の会話はあるが、とりとめのない、断片的な会話である... [続きを読む]
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