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- 2008/05/14 01:07歌びとと二・二六事件 8
- 事件は2月29日のうちに終結する。午前8時には立川から飛行機が飛びたち、「下士官ニ告グ」という帰順勧告のビラを三宅坂上空で撒いた。戒厳司令部はラジオでも「兵に告ぐ」を繰り返し放送した。 結局、三宅坂一帯は、幕末に挙兵した天誅組の吉野の山中のような事態にはならなかった。反乱部隊は午後2時頃までには、すべて帰順投降している。 詰めが甘いといえばそれまでだが、決起した青年将校たちは上官に委ねた事後の政... [続きを読む]
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- 2008/05/13 01:49歌びとと二・二六事件 7
- 戒厳司令官香椎浩平に出された奏勅命令は次のような文面である。「戒厳司令官ハ三宅坂附近ヲ占拠しある将校以下ヲシテ速ニ原姿勢ヲ撤シ各所属師団長ノ隷下ニ復帰セシムベシ」 決起部隊はいまや反乱軍となり、戒厳司令部は28日午後11時「断固武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」という命令を発した。29日の午前9時を期して反乱部隊を攻撃と発令したのであった。集められた重武装の鎮圧軍は2万3,841名。決起部隊の... [続きを読む]
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- 2008/05/09 22:37歌びとと二・二六事件 6
- 二・二六事件は、いわゆる皇道派の青年将校によるクーデター未遂事件として概括されている。そして事件に至るまでの伏線的な史的事実あるいは当時の陸軍内の穏健的な統制派と急進的な皇道派の対立を語る史料にはこと欠かない。 しかし、この事件にはかんじんなところで、よくわからないところがある。なにかが隠蔽され、あるいは封印されているという印象をぬぐえないのだ。 たとえば須崎愼一は平成15年に刊行した『二・二六... [続きを読む]
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- 2008/05/08 19:11歌びとと二・二六事件 5
- 盗聴の録音盤(20枚)は、数奇な運命をたどってNHK放送文化財ライブラリーに埋もれていたが、昭和52年の資料整理の作業過程で偶然のように発見されたものである。 この録音盤をめぐってNHKは昭和54年に「戒厳指令『交信ヲ傍受セヨ』二・二六事件秘録」を放送した。中田整一はそのときの制作担当者であった。以来、二・二六事件に関心を抱きつづけていた。 放送から8年後の昭和62年、中田は録音盤の1枚が栗原中... [続きを読む]
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- 2008/05/07 16:49歌びとと二・二六事件 4
- 昭和11年(1936)2月26日早朝、決起した青年将校たちは下士官・兵を率いて、時の首相をはじめとする重臣たちを襲撃した。 決起の趣意書にいわく。「君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ彼ノ中枢ヲ粉砕スルハ我等ノ任」と。 帝都を震撼させた反乱事件だった。 決起部隊の参加人数を以下に記す。将校20名、准士官2名、見習医官3名、下士官89名、二年兵333名、初年兵1,027名、ほかに守衛隊として出勤したもの75名... [続きを読む]
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- 2008/05/06 15:47歌びとと二・二六事件 3
- 栗原の同志つまり青年将校たちの部下には、農村出身の兵士たちが多かった。大恐慌下とりわけ農村の窮乏はひどかった。 斎藤瀏は栗原からこんな話を聞かされている。「自分の中隊に満州事変で両手両足を失った兵がいました。東北の生家に帰った彼に会いに行ってみたら、彼の最愛の妹が遊女になって一家の凋落を支えていました。兵はなぜ自分は死ななかったのかと泣きました」 そう語る栗原も涙を流していた。この話は史も聞いて... [続きを読む]
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- 2008/05/03 22:40歌びとと二・二六事件 2
- 史に言葉をかけた天皇は、おそらく歌人将軍と言われた斎藤瀏に関心がおありだったのであろう。史の父も歌びとだったのである。 史17才のとき、若山牧水・喜志子夫妻が斎藤家に滞在した。歌人としての瀏を頼って来たのであった。そのおり史の才能を見抜いた牧水に「歌をつくりつづけなさい」とすすめられたことが、歌人となる契機だったと史は語っている。 斎藤瀏の短歌を一首、紹介する。 思いつめひとつの道に死なむとす ... [続きを読む]
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- 2008/05/01 23:57歌びとと二・二六事件 1
- 平成6年5月、宮中の午餐会に招かれた老婦人がいた。日本芸術院新会員となった85才の女流歌人斉藤史である。 その斉藤史に、天皇陛下は思いがけない声をかけていた。「お父上は、斉藤瀏さんでしたね」と彼女の父のことを突如切り出されたのである。「軍人の…」と。 斉藤史は汗のふきだすような思いで答えている。「はじめは軍人で、おしまいはそうではなくなりました。おかしな男でございます」 のちに、彼女はこのときの... [続きを読む]
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- 2008/04/25 15:53アメリカ彦蔵と呼ばれた男 完
- ふたたび彦が日本に戻ってきたのは、生麦事件の直後だった。いうまでもなく、薩摩藩の大名行列を乗馬のまま横切ったイギリス人を藩士の一部が殺傷した事件である。「帰ってみるとあの神奈川と鶴見の間にある東海道の一小村、生麦村で起こった事件をめぐって、外国人地区も日本人地区もまるで上へ下への大さわぎである」と彦は自伝に述べている。 彦は事件について、あるうがった見方のあることを紹介しているが、ここでは割愛し [続きを読む]
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- 2008/04/24 21:23アメリカ彦蔵と呼ばれた男 13
- 遠州灘で暴風にあい、漂流したのは彦が13才の秋であった。母が生きていれば反対されたであろう江戸見物の帰りの航海だった。しかも。出発時点では養父の乗り組む船に同乗していたのに途中で別の船に乗り換えたため、養父と運命を別にしている。 17名の遭難者のうち、彦は最年少だった。ちなみに船頭の万蔵は60才であった。 17名の乗組員は太平洋を52日間漂流し、アメリカの商船オークランド号に救出され、年を越えて... [続きを読む]
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- 2008/04/23 21:49アメリカ彦蔵と呼ばれた男 12
- 彦の『漂流記』は、木版刷りで上下二冊、文久3年に刊行された。 岸田吟香と本間清雄を雇って筆記させ、この本を世に出した意図はなんだったのだろうか。 出版によって名利を得ようとしたわけではなかった。今日的にいえば自費出版みたいなもので、採算がとれたとは思われない。 序文にいうところの、先進国たる異国の事情を知らせたいというのは、たぶん建前である。ほんとうは彼は自分を語りたかったのである。漂流者であっ... [続きを読む]
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- 2008/04/22 06:12アメリカ彦蔵と呼ばれた男 11
- 荘村によれば、彦は「必竟洋人を信じ過ぎし候誤りに御座候」と語ったという。この「洋人」を信用しすぎてはいけないという場合の「洋人」は、たんにフランスのみを指したのであろうか、それともイギリスもアメリカも含めて「洋人」全般を意味したのであろうか。 実は彦は日本人であって、アメリカ人でもあった。彦自身が、「洋人」でもあったのだ。 彦がジョン万次郎と決定的に違うのは、アメリカに帰化し、アメリカ人として日... [続きを読む]
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- 2008/04/18 17:03アメリカ彦蔵と呼ばれた男 10
- 荘村の記す彦の発言内容は、いわば幕府の外交姿勢に対する批判であった。 彦はいう。 閣老はしきりにフランス人を信用し肩入れしているが、これは日本のためにはならない、と。「僕、度々、公辺へ建言致し、且つ『漂流記』中に相認め候俗記にも、その一斑をあらわし置き申し候」ところが「着眼の人物はこれ無く候、将軍家フランス人の甘説に惑い、しきりに天下の疲弊に乗じ金銀借用に相成り申し候」これは愚かな考えであって、 [続きを読む]
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- 2008/04/17 17:00アメリカ彦蔵と呼ばれた男 9
- 龍馬が震天丸で土佐に向けて長崎を出帆したのは9月18日であった。20日に下関に寄港して、桂宛の返書をしたためたのであった。 しばらくは土佐にいた。 兵庫、大坂経由で京都に戻ってくるのが10月9日である。 そして10月24日には福井に旅立ち、ふたたび京都に帰ってくるのが11月5日。それから10日後には死ぬのである。 長崎には戻らなかったのだから、この間、彦との接点はない。 桂の龍馬宛の手紙の趣旨は... [続きを読む]
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- 2008/04/16 21:46アメリカ彦蔵と呼ばれた男 8
- 「6月。今月、或る日の朝二人の役人が私の会社をたずねた」と彦は自伝で述べている。会社というのは、米長崎領事フレンチの起こした貿易会社のことである。彦は横浜で2年間続けた「海外新聞」を廃刊し、慶応3年1月3日に長崎に到着、友人のフレンチの事業を継承したのであった。 さて、「二人の役人」が桂と伊藤なわけだが、ふたりはアメリカとイギリスの政府や制度について彦に質問している。 見逃せない記述がある。「私は [続きを読む]
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- 2008/04/15 22:28アメリカ彦蔵と呼ばれた男 7
- 桂の龍馬宛手紙(慶応3年9月4日付)の当該文面は、こうである。「且また大外向之都合も何卒其御元ひこなどゝ極内、得と被仰談置、諸事御手筈専要に是また奉存候。実に此大外向之よしあしは必芝居の成否盛衰に屹度相かゝわり申候。(略)芝居大出来と申処に至り候様御高配、乍陰奉祈念候」 この手紙の「ひこ」は大山彦太郎すなわち中岡慎太郎という見方をするのは、『坂本龍馬関係文書』である。しかし田中・近盛両氏は、これ... [続きを読む]
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- 2008/04/14 22:36アメリカ彦蔵と呼ばれた男 6
- さて、荘村助右衛門の問題の手紙は『改訂肥後藩国事史料』に収録されている。「5月14日 我藩荘村助右衛門 長崎より書を坂本彦左衛(注)に贈り土佐藩坂本龍馬と談合の顛末を陳ふ」となっている。 どうやら荘村は肥後藩の政情探索者であったらしい。「密啓」ではじまる手紙は、手紙というより報告書である。 いきなり「坂本良馬云」と龍馬の発言内容からはじまる。次に「僕云」と荘村の発言内容といった具合に、筆記録とい... [続きを読む]
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- 2008/04/13 14:23アメリカ彦蔵と呼ばれた男 5
- 彦の『草稿』は、「アメリカ合衆国憲法に準拠した憲法草案」であると評したのは、佐藤孝(前掲)であった。たしかに、史上もっとも早く構想された日本国憲法草案なのである。前にも書いたが、だからこそ田中彰氏はあえて「国体草案」と呼ぶのであろう。本来なら「国体草稿」と称すべき文書であった。 表紙に書かれている英文によれば、徳川政府へのプレゼンテーション用だったが、受取りを拒絶された文書ということになり、奥書... [続きを読む]
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- 2008/04/10 23:21アメリカ彦蔵と呼ばれた男 4
- この奥書が本文と異筆であり、また本文も同一人の筆跡で統一されているわけでなく、複数の手になると指摘しているのは佐藤孝『ジョセフ・ヒコの日本改革建言草案』(『横浜開港資料館紀要』第4号)である。 彦にすれば、漢文の素養の必要な当時の和文はほとんど書けなかったはずで、、そのことを彦自身が告白していることは、前に紹介した。本文はだから誰かが彦の口述を文章化したか、あるいは英文を翻訳しているのである。し [続きを読む]
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- 2008/04/09 21:21アメリカ彦蔵と呼ばれた男 3
- 田中彰氏の『幕末史の研究』(吉川弘文館)の第5章「近代統一国家への構築」には「ジョセフ・ヒコと国家構想」あるいは「ジョセフ・ヒコと明治維新」という項目があって、田中氏はこう述べている。「…従来は坂本竜馬の『船中八策』にみられる綱領の背後には、間接的なジョン万次郎との関係が指摘されていたが、国家構想に関心の深かったジョセフ・ヒコと竜馬との密接な交流のほうが、より大きな影響をもったであろうことを、今... [続きを読む]
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- 2008/04/07 21:43アメリカ彦蔵と呼ばれた男 2
- 彦(以下そう呼ぶ)の英文の自伝は「The Narrative of a Japanese」である。明治28年5月、丸善より発行されている。 初めてづくしの多い彦(たとえばアメリカ大統領に初めて会った日本人)だが、日本人が書いた初めての英文著書は、この本だとされている。もっとも、彦の自筆草稿を、ジェームス・マードックが監修したものである。マードックは夏目漱石の旧制一高時代の英語の先生だった人だ。 むろん日本語で書かれたドキ [続きを読む]
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- 2008/04/06 00:24アメリカ彦蔵と呼ばれた男 1
- 幕末、船乗りが大西風(おおにしかぜ)と恐れた季節風で船が漂流、アメリカ船に助けられて米国に渡った少年がいた。13才だった。 とはいえ、ジョン万次郎のことではない。 ただし、万次郎とはなにかと縁があった。 嘉永6年、ペリー艦隊が浦賀に来たとき、アメリカ帰りの万次郎は通訳として控えていた。土佐藩から幕府に召喚されていたのだ。しかし水戸烈公や老中首席阿部伊勢守らの反対にあって、通訳もなにもせずに終わっ... [続きを読む]
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- 2008/03/30 21:28龍馬暗殺の日の南座の演目
- 慶応3年11月15日、上洛していた土佐藩士の寺村左膳道成は、早朝より歌舞伎見物を楽しんでいた。6人の仲間と一緒である。その観劇の帰り道に、事件の一報を聞いた。 事件とはいうまでもなく坂本龍馬暗殺事件である。正確にいえば、龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われた事件のことである。 寺村左膳の当日の日記を、読みやすく書き換えて引用する。「朝7ッ時寺田同道ほか5人ばかり召し連れ、四条の芝居見物に参る。自分、芝 [続きを読む]
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- 2008/03/26 21:46女囚慕情 久子と松陰 完
- 松陰の死ぬ安政6年に話を戻す。 江戸に送られ、7月から始まった幕吏の訊問の要点はふたつあった。ひとつは梅田雲浜との政治的謀議、いまひとつは幕政批判の落し文の作者ではないかという嫌疑であった。ふたつとも濡れ衣だった。だから松陰は余裕をもって釈明した。そのまま終われば、なんということもなかったのに、松陰は自ら老中の間部下総守詮勝の襲撃計画の存在を打ち明けてしまうのであった。 このことが公儀に対する不 [続きを読む]
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- 2008/03/25 22:32女囚慕情 久子と松陰 5
- 平成15年11月20日付朝日新聞朝刊(山口総合版)に、次のような見出しの記事が載った。「松陰の『恋人』高須久子 想い茶わんに刻む」 松陰の教え子で、後に長崎造船所の初代所長も務めた萩藩士渡邊蒿蔵の遺品の中から、久子の歌を刻んだ茶わん(写真)がみつかったという記事である。歌は次のようなものだ。 木のめつむ そてニおちくる 一聲ニ よをうち山の 本とゝき須かも (木の芽摘む 袖に落ちくる 一声に [続きを読む]
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