- 2008/05/05 08:26会津藩の堀氏
- 会津若松市立図書館によると、会津藩の堀氏は元々は小川勘兵衛(官兵衛?)といって、美濃の堀氏に仕えていたと言い伝えられ、正保年間に会津へ来藩し、一五〇〇石を賜ったといふ。正保年間といふと、直寄の村上藩が無嗣断絶で改易されてから五年くらいの時期で、直寄はよく家臣に堀氏を賜姓していたやうなので、吾は直寄の家臣だったのではないかと推測している。『慶応年間会津藩士人名録』には、堀半右衛門が一〇〇〇石で番頭 [続きを読む]
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- 2008/04/29 09:07直政の子孫たち
- 先日、「からくりTV」の商店街の企画で、群馬の藤岡市本通商店街が紹介されていたが、そこで蕎麦屋を営んでいる人が堀氏だった。創業一〇一年だそうで、店の看板には「丸に釘抜」の家紋があった。新発田藩か村松藩か椎谷藩の堀氏だろうか。直政の子孫であることはほぼ間違いないとおもふ。一〇一年前を想像してみるに、蕎麦屋の初代の父親はきっと明治維新で禄を失った士族で、越後から群馬に移住しそこで仕事を見つけたので... [続きを読む]
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- 2008/04/27 08:51近江国の堀氏
- 『浅井三代記』七巻の「亮政宮澤を頼み為員を可討(うつべき)計略并(ならびに)堀能登守降参事」の後半部分を引用する(『改定史籍集覧 第六冊』所収。括弧内と句読点は吾が追加した)。 「かくて備前守(亮政)は七月二十一日、赤尾駿河守教政、井口弾正、大野木土佐守、三田村左衛門大夫を小谷の城に残し置、我身は三千五百余騎にて坂田郡へ働出、在々の侍共を押寄せ押寄せ攻め給ふに皆降人となりて會釋す。同月二十四日に ... [続きを読む]
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- 2008/04/13 10:41春日山の思ひ出
- 名古屋へ車で移動するに当たって、予行演習として上越へ行った。友人がちょうど上越に赴任しており、春日山を案内してもらった。高速で行けば途中休憩しても一時間半。長岡JCT過ぎて大積から米山あたりの景色は最高。友人の話では下道の8号も海沿いの景色が最高らしい。柏崎が観光客減少しているのは残念な話也。最初、直江津の福島城跡に行ってみようと思ったが、高速降りて道に迷い断念。wikipediaによると古城小学校の辺りに ... [続きを読む]
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- 2008/04/06 18:55名古屋に転勤
- 四月から名古屋に転勤となり、先立って三月は転勤準備で多忙をきはめ、ようやく一息。いつかは奥田や茜部へ行ってみたいとはおもひしが、かやうに早くその機会にめぐまれるとは。とはいへみづから希望したわけでもなく、それがゆへになおのこと御先祖の導きではないかともおもふ。図書館で郷土史料を調べるのも楽しみ。少しでも多くのご先祖の足跡を見つけられたらとおもふ。二月は新潟の図書館で『堀鉄団公記』を読み、三月は上 ... [続きを読む]
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- 2008/03/02 19:15斯波氏と柴田勝家
- 柴田勝家の先祖は鑁阿寺(ばんなじ)にある『新田足利両家系図』によると、斯波義勝に始まり、勝重、勝義、勝家と来る血筋で尾張国上社村(名古屋市名東区)を領したといふ。『系図纂要』には斯波義勝といふ名はないが、斯波義寛(一四五七年生)の弟に義雄がいて、読みが同じ「よしかつ」也。奥田家や奥田之堀の系図を見ていると、昔の人は読みに比べると漢字には頓着しない、あるいは正確なところが伝わりきっていない感を受... [続きを読む]
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- 2008/02/02 08:25奥田秀種に至る系譜
- 「(前段略)義種が男民部少輔(はじめ左衛門佐)満種応永三十四年七月七日死す、年五十二、その長男民部大輔持種、三男源三郎氏種尾張国中嶋郡奥田城(或端の城ともいふ)に住し、これより奥田と称す、文明十一年八月二日死す、年六十七、法名道仙、其男源三郎氏英(或氏春)永正元年十月七日死す、年六十二、法名道念、其男民部(はじめ三右衛門)直種(或利種)永正十六年三月二十二日死す、法名道権、其養子三右衛門秀種(... [続きを読む]
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- 2008/01/20 09:54『世臣譜』の中身
- 『世臣譜』の中身を主馬助直正から平左衛門直行、内蔵丞直満の三代を例として挙げてみたし。「世臣譜 巻之三 堀 実氏奥田主馬助直正は其先祖尾張国主斯波民部少輔源満胤の末裔、奥田七郎五郎某といへしが、斎藤山城守秀竜入道道三に仕ふ堀掃部大夫某の女をめとりぬ。其息を奥田三右衛門政次といへり。織田信長の時、堀左衛門督秀政の麾下たり。堀氏を賜り藤原の姓に改め、堀監物直政といふ。秀政(の子秀治)封を越 ... [続きを読む]
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- 2008/01/12 17:03佐佐木が旗差堀次郎
- 『太平記』の国民文庫本版の三十三巻の「京軍事(きやういくさのこと)」に次の文がある。「(前段略)三月十三日、仁木・細川・土岐・佐々木・佐竹・武田・小笠原、相集て七千余騎、七条西洞院へ押寄せ、一手は但馬・丹後の敵と戦ひ、一手は尾張修理大夫高経と戦ふ。此陣の寄手(よせて)動(ややもすれ)ば被懸立体(てい)に見へければ、将軍より使者を立られて、「那須五郎を可罷向。」と被仰ける。(中略)那須が討死に、東 ... [続きを読む]
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- 2008/01/03 16:20蜂須賀正種
- 『古代氏族系譜集成 上巻』所収の系図と蜂須賀庄相伝によると(出典は『新田族譜』『百家系図稿』とある)、斯波持種には義敏の他に義孝という子がおり、其の子正種が蜂須賀家に婿入りしているといふ。斯波の血筋とはいへ、応仁の乱で越前を失い、庶流の大野家は地盤をなくしていたころであったろうから、婿入りの要請があったのだとしたら快諾したのではなかろうか。蜂須賀郷は現在の愛知県美和町にあり、稲沢市奥田と数キロ... [続きを読む]
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- 2008/01/01 08:15君が代のルーツ
- 古今和歌集 巻第七 賀歌(がのうた) の第一首に次の歌がある。 題しらず よみ人しらずわが君は 千世にやちよに さざれいしの いはほとなりて こけのむすまで作者未詳で、『古今和歌集隠名作者次第』には橘清友とある。橘諸兄の孫で、仁明天皇の外祖父にあたる人。古注には「平城天皇を橘清友が祝してよめる歌」とするものの他、「寛平七年正月に人々を召て歌読給け ... [続きを読む]
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- 2007/12/24 09:37新発田藩の堀氏
- 新発田藩には堀直政の嫡男直清の血筋と、秀政の弟で堀秀重の六男三政の血筋の二つの流れがある。宗家の堀忠俊が改易されたとき、堀直清の六男主馬助直正(しゅめのすけなおまさ)は十三歳程だったといふ。父直清と共に最上へ行ったが、子供らは帰国御免となり、直正は叔母に当たる新発田藩二代藩主溝口宣勝の妻長寿院(秀政の三女)に引き取られ、奥で育てられたといふ。成人すると家臣となり、五百石を賜る。ここの嫡流は江戸中... [続きを読む]
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- 2007/12/22 09:35新発田藩世臣譜
- 吾が新発田藩の堀氏と関係があるのでは、と思えるようになったのは新発田藩の『世臣譜』のおかげ也。この本は寛政年間に溝口半兵衛長裕が完成させたもので、溝口半兵衛は新発田藩の家老の家系で、初代藩主溝口秀勝の弟勝吉の家系。代々溝口半左衛門を名乗り、其の嫡男は半兵衛を名乗った。まだ長裕が半兵衛だった若い頃から十八年ほどの歳月をかけて、物頭以上の武家の出自と家臣になった経緯、代々の家譜を聞き取りして調べ上げ... [続きを読む]
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- 2007/12/09 08:46再開
- ものすごく久しぶりの更新。6月末からパソコンの調子が悪く、7月中ごろには完全に動かなくなっていました。四柱推命では吾は今年比肩の流年で、財産を失いやすい年だといふので、それでなくても、なにかと出費がかさんでいたので、しばらくパソコンなしで生活してみようと考えた次第で。ところがここへきて、貯金がある金額の大台を超えて心に余裕が出てきたのもあって、7万円のXP入り中古パソコンを購入。結局比肩の年が終わ... [続きを読む]
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- 2007/06/16 16:51大坂の役での堀家
- 『寛政重修諸家譜』を引用し、大坂の役での堀家の人々を見てみたし。 堀利重は、「元和元年大阪御陣のときひそかに松平下総守清匡(奥平、後改忠明)が手に属し、五月六日七日の合戦に功名をあらはす、清匡つぶさにこれを言上す、八年恩赦をかうぶり、常陸国新治郡土浦にをいて一万石の地をたまふ、」 堀親良は、「十九年大坂御陣のとき、土井大炊助利勝が手に属して供奉し、元和元年の役に五月七日佐久間備前守安政脇坂淡路 ... [続きを読む]
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- 2007/05/27 16:03改易後の進路
- 改易後の堀家の人々を追って見たいとおもふ。秀治の嫡男忠俊は磐城の鳥居忠政のもとへあづけられ、彼の地で二十六歳で亡くなれり。忠俊には子があり、季俊(すえとし)といへり。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政家譜』)には、「七郎兵衛、松平筑前守の家人となる、」とあり、松平筑前守とは前田利常の事也。加賀藩士となれり。秀治の次男鶴千代は早世、三男は季郷(すえさと)といい、『寛政家譜』に、「三郎兵衛尉、内藤帯刀の ... [続きを読む]
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- 2007/05/19 09:27新潟、長岡の礎
- 直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世すると坂戸と蔵王堂を兼務し五万石を領せり。蔵王堂城は長尾為景の弟為重が築城した城だが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたため、上流の大島庄平潟原に築城を計画する。この地が長岡と呼ばれるようになる。語源には、神田表町千手の地が遠くから見ると長い丘のように見えるから(『長岡市史』)、長岡京に似ているから(『越後往古城主付』)、そしてこの地を御館の乱のとき本荘清七郎の家... [続きを読む]
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- 2007/05/05 16:23堀家の改易
- 慶長十三年(一六〇八年)、堀直清は父直政の死後三条五万石の城主となり、堀家の執政職となる。慶長十五年(一六一〇年)直清の僧侶殺害を直寄が家康に訴えたため、堀家は改易となるのだが、その僧侶殺害については、『堀家の歴史』によると直清と本願寺の僧が宗論となり、僧侶を弾圧、僧侶がそのやり方を非難し、一揆を起こしかねない状況になり、首謀者を捕えて斬首したといふ。直政の妻自性院(五男直之の母)は、この騒動が ... [続きを読む]
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- 2007/04/22 07:32堀家の衰退
- 慶長七年(1602)、堀親良は秀治の次男鶴千代を自らの養子とし蔵王堂藩を継がせ、自分は隠栖料として一万二千石をもらい、越後を出奔す。京都伏見の秀政の遺した屋敷に入ったといふ。越後を出奔せし理由は表向きは病のためとす。内実は家老の堀直政と不和となり、政務に熱心でない兄秀治に不満の侍りしこと、祖父秀重も健在たること、などがあったといふ。直政、秀重はもはや老齢であるから、世代が変わるのを待てばよかろうにと ... [続きを読む]
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- 2007/04/14 15:44堀秀治
- 堀秀治は短命であり、また歴史的な転機にあまり関わらざるがゆへ、とかく「病弱」、「凡庸」といふ評価をされがちなり。我は秀治公の名誉が回復されんことを願い、次の句を引用す。「子曰く、無為にして治まる者は、其れ舜か。夫れ何をか為さん。己を恭(うやうや)しくし正しく南面するのみ、と。」(『論語』 衛霊公)堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)は上古の聖人なり。孔子は舜を無為にして治まる者、つまり何もしな ... [続きを読む]
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- 2007/04/08 08:20関ヶ原前哨戦、上杉遺民一揆
- 「上杉家譜代のつわもの共、皆宇人して越後に引込罷有し輩、直江が催促により、又三成より懇に書状到来せしより、皆是に一味し、譜代の家人を召集ける程に、物具、馬具こそ見苦しけれ、屈竟のつわもの八千余人、鉄砲二千挺ぞ集まりける、」(『北越太平記』)「上杉家は、勇将猛士多しといへども、新領地に馴れず、防戦の準備行届かざれば、兼続の智計を以って、小身の内、智謀に富み、忠義金鉄の士数名に内意を授け、浪人を名と ... [続きを読む]
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- 2007/04/01 09:03上杉遺民一揆前夜
- 秀吉の命による大名の国替えの際は、年貢米は半分のみ徴収し、残りの半分は後に来る領主のために残しておく決まりになっており、上杉家と堀家にも同様の取り決めが侍りぬ。しかし、直江兼続と石田三成の謀議により、年貢米は全て持ち去られり。『越後風土記』によると、「上杉家徒封につき、領主交代頻繁に依り、各領民夫役に苦しむ、故に当国新古の領主協議して、当戊(慶長三年)の貢税半収と約定す、然るに兼続は三成と謀り ... [続きを読む]
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- 2007/03/24 16:40秀政没後の堀家
- 秀政没後の堀家は、秀政の嫡男秀治を当主としつつも、其の祖父秀重と家老の堀直政が政務を主導せり。秀重は信長時代五千石を領せしが、『寛政重修諸家譜』によると「のち豊臣太閤につかへ、加恩ありて一万石を領し、のち左文字の脇指を賜ふ、」とあり、さらに「秀重太閤に属すといへども、よりより東照宮に拝謁し、しばしば厚恩をかうぶる」とあり。豊臣の天下が続いても、徳川の天下になろうとも堀家が存続するための布石とお ... [続きを読む]
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- 2007/03/18 08:00豊臣政権の「東国の抑え」
- 「秀政は傑出の人なり。秀吉深く之を愛し、小田原の役終わらば、関八州を与へんと思はれしが、惜しい哉、戦に死せり」『名将言行録』 『三河後風土記』には、「今度奥州まで平均なしなば、此人をもって奥州の藩鎮たらしめんと、殿下はかねがねはかり給ふところ、かく俄かなる事なれば、歎かせ給ふもことわりなり。」とある。黒板勝美氏の『更訂国史の研究』によると、「秀吉は最初信望の厚い堀秀政を越前から関東に移封させ、 ... [続きを読む]
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- 2007/03/17 11:34名人左衛門とよばれし所以
- 柳生但馬守宗矩の物語に小田原の役の秀政の記述が侍り。「秀政、遊軍の総大将にて多くの大名従いしなり。此の時宗矩も細川玄蕃允の手につき攻め下る。秀政卒せる時、高き人も、賤しき人も、をしき(惜しき)人といいき。世の人名人左衛門と名づく。天下の指南をしても越度(おちど)あるまじき人なりと、天下をもしらせたき人なりといふ言葉なり。」かやうに惜しまれたるは、文官、武官どちらの能力にも秀でていたといふことにくわ ... [続きを読む]
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