堀久太郎 さん

堀久太郎さん: たしなむべし。
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日本史(日本歴史)日本の戦国時代江戸時代
日本史(日本歴史)日本の戦国時代江戸時代

プロフィール

ハンドル名堀久太郎 さん
ブログタイトルたしなむべし。
サイト紹介文日本、中国の古典、斯波氏、堀氏、越後の郷土史に興味あり。画像は堀氏の家紋「亀甲に花菱」。
参加カテゴリー
更新頻度情報提供55回 / 542日(平均0.7回/週) - 参加 2007/01/27 10:04

堀久太郎 さんのブログ記事

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  • 2007/04/14 15:44堀秀治
  • 堀秀治は短命であり、また歴史的な転機にあまり関わらざるがゆへ、とかく「病弱」、「凡庸」といふ評価をされがちなり。我は秀治公の名誉が回復されんことを願い、次の句を引用す。「子曰く、無為にして治まる者は、其れ舜か。夫れ何をか為さん。己を恭(うやうや)しくし正しく南面するのみ、と。」(『論語』 衛霊公)堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)は上古の聖人なり。孔子は舜を無為にして治まる者、つまり何もしな ... [続きを読む]
  • 2007/04/08 08:20関ヶ原前哨戦、上杉遺民一揆
  • 「上杉家譜代のつわもの共、皆宇人して越後に引込罷有し輩、直江が催促により、又三成より懇に書状到来せしより、皆是に一味し、譜代の家人を召集ける程に、物具、馬具こそ見苦しけれ、屈竟のつわもの八千余人、鉄砲二千挺ぞ集まりける、」(『北越太平記』)「上杉家は、勇将猛士多しといへども、新領地に馴れず、防戦の準備行届かざれば、兼続の智計を以って、小身の内、智謀に富み、忠義金鉄の士数名に内意を授け、浪人を名と ... [続きを読む]
  • 2007/04/01 09:03上杉遺民一揆前夜
  • 秀吉の命による大名の国替えの際は、年貢米は半分のみ徴収し、残りの半分は後に来る領主のために残しておく決まりになっており、上杉家と堀家にも同様の取り決めが侍りぬ。しかし、直江兼続と石田三成の謀議により、年貢米は全て持ち去られり。『越後風土記』によると、「上杉家徒封につき、領主交代頻繁に依り、各領民夫役に苦しむ、故に当国新古の領主協議して、当戊(慶長三年)の貢税半収と約定す、然るに兼続は三成と謀り ... [続きを読む]
  • 2007/03/24 16:40秀政没後の堀家
  • 秀政没後の堀家は、秀政の嫡男秀治を当主としつつも、其の祖父秀重と家老の堀直政が政務を主導せり。秀重は信長時代五千石を領せしが、『寛政重修諸家譜』によると「のち豊臣太閤につかへ、加恩ありて一万石を領し、のち左文字の脇指を賜ふ、」とあり、さらに「秀重太閤に属すといへども、よりより東照宮に拝謁し、しばしば厚恩をかうぶる」とあり。豊臣の天下が続いても、徳川の天下になろうとも堀家が存続するための布石とお ... [続きを読む]
  • 2007/03/18 08:00豊臣政権の「東国の抑え」
  • 「秀政は傑出の人なり。秀吉深く之を愛し、小田原の役終わらば、関八州を与へんと思はれしが、惜しい哉、戦に死せり」『名将言行録』 『三河後風土記』には、「今度奥州まで平均なしなば、此人をもって奥州の藩鎮たらしめんと、殿下はかねがねはかり給ふところ、かく俄かなる事なれば、歎かせ給ふもことわりなり。」とある。黒板勝美氏の『更訂国史の研究』によると、「秀吉は最初信望の厚い堀秀政を越前から関東に移封させ、 ... [続きを読む]
  • 2007/03/17 11:34名人左衛門とよばれし所以
  • 柳生但馬守宗矩の物語に小田原の役の秀政の記述が侍り。「秀政、遊軍の総大将にて多くの大名従いしなり。此の時宗矩も細川玄蕃允の手につき攻め下る。秀政卒せる時、高き人も、賤しき人も、をしき(惜しき)人といいき。世の人名人左衛門と名づく。天下の指南をしても越度(おちど)あるまじき人なりと、天下をもしらせたき人なりといふ言葉なり。」かやうに惜しまれたるは、文官、武官どちらの能力にも秀でていたといふことにくわ ... [続きを読む]
  • 2007/03/11 09:07戦上手の本領発揮
  • 天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、総大将(本隊)秀次、目付・第3陣堀秀政、次鋒・森長可、先鋒池田恒興。秀政は目付も兼ねており、秀吉からの信頼の程が伺えるなり。秀次勢より前にいた秀政勢に、秀次勢の敗報が届いたのは約2時間も後のことなり。秀次の旗本田中久兵衛長政が秀政の陣に馳せ来たりて「急ぎ備へを詰めらるべし」言い捨てて去っていったといふ。秀次の小姓頭がこのような役をするとは味方の敗戦であ ... [続きを読む]
  • 2007/03/10 17:29秀吉の配下に加わる
  • 天正十年(1582年)、本能寺の変が起こって信長が死去したとき、秀政は秀吉の軍監(軍の?3)として備中国におりし。そしてその後は秀吉の家臣となり、山崎の戦いに参陣。「豊臣太閤にこふて山崎の先鋒となり」(『寛政重修諸家譜』)、中川清秀、高山右近らと先陣を務めり。明智の将、松田政近との戦の際、第一陣の堀尾吉晴がまず山を登り、その後秀政が続いて登ろうとしたとき、家臣の堀七郎兵衛が「既に登られた堀尾殿がもし敗 ... [続きを読む]
  • 2007/03/04 11:55信長の側近、堀秀政
  • 堀秀政は天文二十二年(1553年)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の坊主であった伯父の元で従兄弟の堀直政と共に育てられたといふ。最初、大津伝十郎某(信長の側近衆の一人)に仕えるが、ここにいても出世できないだろうと見極め、木下藤吉郎秀吉の下に仕官変えせし。永禄八年(1566年)、織田信長が秀吉のもとに訪れた際、秀政を見初めて自らの小姓として取り立てたといふ(『寛政重修諸家譜』の記載、別の史料で... [続きを読む]
  • 2007/03/03 18:28 女の人に苦労をさせてはならぬなり
  • 「ホントは怖い家庭の医学」などをみていると、女の人に苦労をさせてはならぬとおもふなり。といふのは、リウマチ、線維筋痛症などはほとんど女性が罹る病気なり。原因ははっきりせぬがストレスも要因になっているといふ。偏頭痛も女性が多い病気といふ(我は男だが重度の偏頭痛持ち)。40歳前後でガンになるひとも女性のほうが多いようにおもゆる。婦人病の関係もストレスはよくないやうなり。ストレスが原因の難治性の ... [続きを読む]
  • 2007/02/25 08:48堀氏の起こり
  • 苗字の由来は90%以上が地名からといふ。依って堀氏もいくつか異なるルーツが侍るが、我が系統の藤原氏利仁流の堀氏について述べたし。平安時代、鎮守府将軍藤原利仁といふものあり。藤原秀郷とならび平安武士の双璧たり。『宇治拾遺物語』にも登場し、芥川龍之介の『芋粥』の題材にもなりし説話なり。其の子叙用が斎宮頭に任じられ、斎藤氏を称せり。其の将軍利仁の八代孫の権大夫(ごんのだいふ)藤原季高(すえたか)が美濃 ... [続きを読む]
  • 2007/02/24 16:57『大学』の精神
  • 先日、『大学』と『中庸』を文庫本で購入せり。この二つは元は『礼記』の中の一編であったものを、宋代の程子兄弟を経て、朱子に至り、『論語』、『孟子』とならび「四書」と称されるにいたれり。学者毎にいろいろ解釈しており、朱子は『大学章句』、『中庸章句』を記したりし。朱子曰く、四書のうち、最初に学ぶべきが『大学』であり、『論語』、『孟子』と学んで、最後に学ぶべきが『中庸』なり。『大学』の精神を最も端的に示 ... [続きを読む]
  • 2007/02/18 08:13朱子学を学ぶに至る経緯
  • 我が朱子学を学ぶに至ったのは、我の先祖が越後新発田藩の藩士なりしかば、其の歴史を学ぶ過程で、十代藩主溝口直諒(なおあき)公が山崎闇斎の崎門派の朱子学を藩学としたことにより、藩内に勤王の気風が育ち、北越戊辰戦争での我が藩の命運を決めたりしことを知りてからなり。溝口直諒公の『報国説』は当時の皇族方、公家にも読まれたといふ。『勤王開国の先唱者溝口健斎公』(健斎は直諒公の隠居名)といふ明治四十年頃出版さ ... [続きを読む]
  • 2007/02/12 08:28斯波一族の逆襲「其の二」、最上義光
  • 戦国時代、最上家は庶流の独立性が強く、領内の統一もままならぬなり。十一代当主最上義光(よしあき)が出、庶流の上山氏、天童氏、東根氏らを家老の内応により討伐し、所領を平定せり。すると西の庄内の大宝寺氏が最上領に侵攻、しかしこれも家老の内応により、大宝寺義氏を返り討ちにしたり。義氏の弟義興も討つが、其の養子義勝が実父本庄繁長(庄内と隣接する越後岩船郡の領主)の力を借り最上軍を破り、庄内は上杉領となれ ... [続きを読む]
  • 2007/02/11 16:26斯波一族の逆襲「其の一」、堀直政
  • 斯波家嫡流は尾張守護を残すのみとなり、其の尾張の実権も織田家に奪われり。庶流にあたる奥田家は秀種の代から尾張を離れ、美濃の土岐氏の家臣となれり。其の子直純は美濃の堀家の娘をめとり、堀家との縁ができし。堀家より堀秀政が出、織田信長の側近となれり。直純の子三右衛門政次は堀秀政の与力となり、堀家の家事を執行せり。のちの堀直政なり。秀政の働きぶりは別の機会に語るなり。若くして病に倒れ、その後も早世が相次ぎ [続きを読む]
  • 2007/02/11 11:23下克上、応仁の乱
  • 義淳が早世、跡を継いだ弟の義郷も早世、其の子義健の幼少のころ、政務を補佐するため庶流に当たる、越前大野家の斯波持種と、守護代の甲斐常治(じょうち)が「被官人ら評定」を主導せり。文安四年(1447年)、持種派の被官数十人が甲斐常治の襲撃を企てるなど、激しく対立せり。しかし、義健も享徳元年(1452年)、18歳で早世せしかば、持種の嫡男義敏が家督を相続せり。ここに至り、評定内の対立から主従の対立に変化せし。こ ... [続きを読む]
  • 2007/02/11 10:47斯波家の没落
  • 斯波義将、義重の二代は管領として大いに活躍せり。しかし、四代将軍足利義持の時代に寺社本所領保護政策が推進され、それにより斯波家が窮乏したといふ。また、地方との交渉が取次を務める幕閣により分担され(細川氏、伊勢氏はこれにより台頭する)、政策決定も大名による評定会議、それも畠山満家、山名時煕が宿老として重んじられ、さらに、どの大名に意見を聞くかといふのを内々に差配していたのが三宝院満済といふ権力構造... [続きを読む]
  • 2007/02/11 08:28 斯波家の起こり
  • 足利家と斯波家の別れたるは、足利家の祖で、八幡太郎義家の孫義康から数えて五代目、頼氏と家氏のときなり。家氏が嫡男で、頼氏は三男たりしが、其の母の実家は、家氏が北条家庶流の名越氏で、頼氏は北条得宗家たるゆえ、幕府への影響力を考慮して、頼氏に家督を相続させり。家氏は陸奥国紫波郡に土着し、斯波氏を称せり。南北朝の動乱の際には、斯波高経は越前で新田義貞を討ち、高経の嫡男家長は奥州総大将となり、北畠顕家と ... [続きを読む]
  • 2007/02/09 20:08 速やかならんことを欲するなかれ
  • 『論語』の子路、十七段にこうある。「子夏、呂父の宰と為り、政を問う。子曰く、速やかならんことを欲する無かれ。小利を見ること無かれ。速やかならんことを欲すれば則ち達せず。小利を見れば、則ち大事成らず、と。」我も人の子ゆへ、欲と縁を切り難し。ブログのランキングがじわじわ上がればもっと上がって欲しいとおもふ。多くの人に読まれたし、評価されたし、影響を与えたしとおもふやうになりし。心の乱れたときには古 ... [続きを読む]
  • 2007/02/06 20:08 戦前の新興宗教
  • 戦前の神道系の新興宗教について少し知る機会が侍りし。キリスト、仏陀、ムハンマドらが、日本の神の元で修行したというふものや、はるか昔の世界地図が秘蔵されていたといふもの、漢字の伝来する前の神代文字など(神代文字は江戸時代にも信じられし)。現代の我々からすれば荒唐無稽に思えるやもしれぬなり。しかしながら時代背景を鑑みれば、西洋から近代科学、合理主義が移入され、迷信が排され、日本の伝統が劣ったも ... [続きを読む]
  • 2007/02/04 09:31 斯波氏の一門
  • 斯波氏が歴史の表舞台に登場するのは、南北朝動乱で斯波高経が功を上げ、足利将軍家の執事となりしからなり。本来血筋は斯波家が足利氏の嫡流で、足利尊氏は庶流に当たるのだが、その辺は別の機会に。斯波高経には五人の男子がありし。家長、氏経、氏頼、義将、義種なり。この五人は、勅撰集たる『新後拾遺和歌集』に和歌が選集されり。機会を見て披露したし。家長は奥州探題に、氏経は九州探題に、氏頼は僧籍に、義将は管領に、 ... [続きを読む]
  • 2007/02/03 16:58古典をたしなむ
  • われはけふ、枕草子と平家物語を文庫本で購入せり。はづかしながらよわひ二十八にして、やうやく古典に親しまんとす。きっかけは斯波義将の『竹馬抄』なり。其の第八段に、「尋常しき人は、かならず光源氏の物語、清少納言が枕草子などを、目をとどめていくかへりも覚え侍べきなり。云々」とある。wikipediaを参照されたし。直接の先祖ではなしとはいへ、われはおおいに感化されり。書店の文庫本の棚のまへにおりて、われの教養の [続きを読む]
  • 2007/02/03 10:31 我一族の歴史
  • 我は藤原氏利仁流堀氏なり。其の先祖、斯波高経の五男で斯波義将の弟義種の血筋なり。室町時代、義将の嫡流は武衛(ぶえい)家と呼ばれ、庶流の義種は大野家と呼ばれし。義種、満種、持種、ときてこのころ武衛家で当主の早世が相次いだため、持種の子が義敏として武衛家を相続せり。義敏は応仁の乱の当事者なり。義敏の庶子に三郎政敏といふものがおり、其の子秀種が大野家のさらに庶流に当たる奥田家を相続し、奥田秀種といっ ... [続きを読む]
  • 2007/01/30 19:41 正統と異端
  • 我は論語を好むなり。朱子学の本を読み込んでいこうとおもひ侍り。うろおぼえの山崎闇斎の本に、「正統と異端」といふ項がありにけり。君臣、父子、夫婦、これ人倫(人の道)なり。しかるに老仏(老荘思想、仏教)はこの価値を解体せんとするものなり。人倫を説く孔子の教えが正統なり、老仏は異端なり。といふ趣旨。我にはいとど腑に落ちにけり。げに老仏は社会の秩序、道徳、日常の用を語るおしへにあらず。むしろ心の執着、 ... [続きを読む]
  • 2007/01/28 16:45 根なし草の悲劇
  • 我は小林よしのり、西部邁に多大な影響を受けり。彼らの左翼思想、カルト宗教、近代主義にたいする分析はたしかなものなり。近代の起こりは、大量生産の労働集約のため、人々が生誕の土地より引き剥がされ、都市の「大衆」となりしからなり。伝統的な価値観から遊離したこれら大衆は、最初のうちこそ空想的社会主義なぞ歯牙にもかけぬさまでありしが、都市の大衆の二世代目、三世代目ともなると、より一層伝統から乖離し、 ... [続きを読む]
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