ヒデムラ さん

ヒデムラさん: 小説の中の「ご当地の城」
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熊本市(熊本県県庁所在地)毛利輝元知将、謀将、軍師、名将、英雄伝説
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山本勘助日本史(日本歴史)山口
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城郭・城跡豊臣秀吉司馬遼太郎
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徳川家康武田信玄歴史虎コミュ♪
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プロフィール

ハンドル名ヒデムラ さん
ブログタイトル小説の中の「ご当地の城」
サイト紹介文戦国時代小説中のお気に入りの名言、名句、シチュエーションを巡る旅ブログ
参加カテゴリー
更新頻度情報提供41回 / 402日(平均0.7回/週) - 参加 2007/03/30 10:48

ヒデムラ さんのブログ記事

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  • 2008/04/19 21:50江戸城 〜築城名人の協力〜
  • 江戸城は当時最大規模を誇った。徳川幕府を盤石にする布石として、家康に臣従した大名達に江戸城の増改築を手伝わせた。財政の疲弊していた諸大名達は、数回に渡る命令にうんざりしていた。そんな中、肥後の太守加藤清正だけは、黙々と城の普請に精を出す。加藤清正は言わずと知れた築城の名人だ。当時の江戸城周辺は、江戸湾を埋め立てさせた土地のため湿地帯になっていて、普請も一苦労であった。清正は、重臣 ... [続きを読む]
  • 2008/03/30 17:06江戸城 〜開拓者の入城〜
  • 豊臣秀吉の小田原城攻めが終わる頃、秀吉が家康を連れ小便に誘い、北条氏を滅ぼした後、家康に関八州を与えると言ったという。この言葉の裏の意味が怖いほど分かる家康にとっては、苦渋の決断であった。三河以来の家臣達は猛反発をしたが、すでに、反抗を実現できる状況ではなかった。家康は秀吉に臣従したばかりであったのだ。・・・・「居所ハ、江戸城然ルベシ」    (中略)    江戸しかるべしと秀吉が ... [続きを読む]
  • 2008/03/23 20:03江戸城 〜才能あるがゆえ〜
  • ・・・・道灌の名声の何割かは、    かれが設計した斬新な構造をもつ    江戸城が負っている。・・・・箱根の坂〈中〉 (講談社文庫)/司馬遼太郎/より抜粋北条早雲は太田道灌を尊敬していた。山内上杉家、扇谷上杉家の両管領家の争いの中で、太田道灌の名は際立って高かった。歌人、武人、築城の名手として、関東随一の者だった。京の将軍、足利義政との謁見でもその才能を発揮した。その将軍が、北関 ... [続きを読む]
  • 2008/03/02 21:21甲府城 〜異相の剣客の人生〜
  • 近藤勇は幼い頃から大名になることを夢見ていた。少年の頃の名前は、勝太。武州南多摩の百姓の子であった。あるとき、祖父から、先祖は武士であったということを聞いた。男である以上、「自分には戦国武将の血が流れている。」と思いたい。そして、武士になる日を信じていた。幼なじみの百姓の娘「おえい」に恋をしていたが、その娘は先祖の主筋にあたるため、自分は家来だと言うだけで進展はしない。勝太は、いかつ ... [続きを読む]
  • 2008/02/27 20:55甲府城 〜最後の行軍〜
  • 大政奉還後、京都を戦慄させた新選組も行き場を失い、崩壊寸前だった時期に、思いもよらぬ情報が入った。幕府瓦解後の甲州百万石が置き捨てになっている。甲府城が手に入る。近藤勇、勇躍して甲府城攻撃の軍を起こした。その名も「甲陽鎮撫隊」。・・・・かつてはこの道を武田信玄の軍勢も通って関東に入り、    豊臣秀吉の軍勢も通って八王子を攻めたはずの道で、    あるいは百年前、江戸を発った近藤勇の ... [続きを読む]
  • 2008/02/23 17:45甲府城 〜裁断を待つ城〜
  • 三代将軍、徳川家光の栄光の影で、一つの命が消えようとしていた。家光の弟、駿河大納言忠長である。甲斐甲府城で、やがて下る裁断を待っていた。「生まれながらにして将軍」の家光は、徳川幕府を盤石にしようとする側近達によって処分されようとしている弟忠長へ救いの手を延ばす。しかし、謀反の疑いのある忠長の処分を寛容にすれば、徳川体制に隙が出来てしまう。・・・・「春日、その方は何と思うぞ。    ... [続きを読む]
  • 2008/02/17 17:25躑躅ヶ崎館 〜軍師誕生〜
  • 「軍師」という言葉を聞いて、山本勘助と思い浮かぶ人は何人いるだろう。昨今のドラマや小説で注目されたせいもあるが、ある本では、軍師という役割りは、山本勘助が最初である。としている。参照:軍師の時代―戦国乱世を演出した名将烈伝/堀和久/日本文芸社武田晴信と結びついたエピソードは様々である。躑躅ヶ崎館で初めて対面した勘助の相貌を見ただけで、その潜在能力に魅力を感じ、多大な知行を与えた。甲斐 ... [続きを読む]
  • 2008/02/13 21:02躑躅ヶ崎館 〜秘密の間〜
  • 武田信玄には変わった趣味があった。いや、趣味と言うのは失礼であろう。しかし、現代人から見ると非常に興味深い。代表的なものは、居館、躑躅ヶ崎館の「厠」だ。・・・・看経の間の奥に、信玄専用の厠がある。    この便所は六坪であった。    畳敷きにして十二畳ものひろさをもつ便所に、    信玄は朝と夜の二回、かならずといって良いほど入る。    入って数時間は出てこない。    領国の政治 ... [続きを読む]
  • 2008/02/11 13:53 躑躅ヶ崎館 〜堅城の証〜
  • 武田二十四将と聞いただけで胸が高鳴る。戦国の英雄と言われた様々な武将でも、武田信玄ほど家臣を信じ、適材適所に配置し、縦横無尽に活躍させた大名も少ないだろう。「人は城、人は石垣、人は堀...」という言葉が武田信玄の家臣を信頼する考えを映し出している。躑躅ヶ崎館は、天守や櫓といったものがないが、堂々と百名城に名を連ねる。後世、映画やドラマでも、武田家を象徴する館として、様々なエピソード ... [続きを読む]
  • 2008/02/02 18:20 福岡城 〜騒動に忠臣あり〜
  • 黒田如水の孫であり長政の子である忠之の代に、筑前黒田家が取り潰しになるやも知れない状況がおきた。いや、忠臣の栗山大膳が起こしたとも言える。如水の代の家臣であった栗山善助は有岡城に幽閉されていた如水を救出した。その子が栗山大膳である。長政亡きあとの忠之は、善政の道を外しつつあった。また、無能だがお気に入りの側近を重く用い、お家を大事に思う家臣を遠ざけるという、よくありがちな没落への道 ... [続きを読む]
  • 2008/01/27 15:30 福岡城 〜去った武将の価値〜
  • 黒田長政の家臣、後藤又兵衛基次は、朝鮮の役の際に名声を高めた。戦役から帰ってきた武士達は口々に又兵衛の鬼神のような働きを褒め称えた。・・・・たいていの武士は、    朝鮮における基次の装束まで憶えていた。    銀の天衝を前立にした兜をかぶり、    黒幌をかけた基次が敵陣へ突き入ると、    まるで野分に吹き倒される草のように    明軍はみだれたという・・・・・言い触らし団右衛 ... [続きを読む]
  • 2008/01/23 22:48 福岡城 〜大封のかげで〜
  • 「その時、そちの左手は何をしていた。」黒田如水と息子の黒田長政の有名な話だ。黒田長政ほど、戦国時代の大物達に翻弄された武将も少ないかもしれない。幼少の頃、人質として信長のもとに預けられ、父官兵衛の裏切りの疑惑のため、信長に「切ってしまえ」と言われた。その際にかくまってくれたのが、竹中半兵衛だった。成人し、猪突猛進型の武将として偉大な父に対抗していた時期もある。また、秀吉の命で朝鮮 ... [続きを読む]
  • 2008/01/20 17:25 二本松城 〜少年隊への伝統〜
  • 蒲生氏郷が黒川城(後の会津若松城)を拠点としていた時期、二本松城はその支城であった。しかし、現在の感覚では、「ずいぶんと立派な支城だった」と感じる。会津120万石級のスケールの大きさを感じる。そのはるか後、戊辰戦争の後半というべき時期に、会津白虎隊の悲劇に先立って二本松少年隊の悲劇もあったが、全国的には資料が少ない。・・・・・歴史は常に勝者によって創られる。     敗者の真実の姿は ... [続きを読む]
  • 2007/12/31 16:48 二本松城 〜駆け引きを見守る城〜
  • 関白秀吉の奥州征討も終わり、相次いで国替えが行われた。歓ぶ者、歓べない者が各地でそれぞれ次の手を考える。ここ奥州でも、あわよくば天下を掴もうと野望を持つ武将が二人、それぞれ手ぐすねを引いていた。一人は蒲生氏郷。知勇兼備の実力派。故織田信長にもその武勇を賞賛され、娘婿となり、織田家の正統な後継者の資格を持つも、秀吉に出し抜かれた経緯がある。もう一人は一時期、奥州王でならんとした伊達政宗 ... [続きを読む]
  • 2007/12/23 19:10 二本松城 〜双方の義戦〜
  • 戦国時代の古地図で見ると二本松は奥羽地方でもほぼ中央にあり、要衝であることがうかがえる。しかし、伊達政宗率いる伊達勢と、畠山義継の遺児、国王丸を擁する畠山、近隣七街道連合が戦った人取り橋の合戦は、様相が違っていた。二本松城主、畠山義継は伊達輝宗をあざむき、人質として拉致しようとしたところを伊達の救援隊によって討たれた。もちろん輝宗も死んだ。政宗、隠居の実父を殺され、怒りに震え、二本 ... [続きを読む]
  • 2007/12/18 22:40 駿府城 〜偉業果たして〜
  • 徳川家康は隠居城である駿府城にようやく戻った。有名な鯛の天婦羅で食あたりを起こして寝込んだ。という場面である。実際には食あたりが死の原因ではなかったというが、すでに自身の死が近づいていたことを悟ったという。二代将軍の秀忠を駿府城に呼び、最後の帝王学を伝授した。家康が秀忠に「わしが死ねばどうなるか」という問いに秀忠は、「天下は乱れます」と答えた。・・・・「いいや乱れまい」と、家康は断 ... [続きを読む]
  • 2007/12/16 18:01 駿府城 〜華やかな城下〜
  • ・・・・駿府では、美少年が多い。    町を、華麗な小袖をきた美童があるいてゆく。    理由がある。    今川義元の好みであった。    この京都文化の心酔者は、京都におけるあらゆる    知的文化を駿府に導入することに熱中し、    ついには京に淫するあまり、    こういう嗜好までひき入れてしまった。・・・・この物語では「猿」と呼ばれていたころの豊臣秀吉の、出世の糸口をつかむ前 ... [続きを読む]
  • 2007/12/14 23:35 駿府城 〜穏やかなる国の乱〜
  • 応仁の乱以後の戦国時代初期、今川家が治める駿河の国の国府は駿府と呼ばれていた。駿河守護、今川義忠の死により、穏やかな駿河に関東の上杉定正の魔の手が伸びる。今川の正嫡は氏親であるが、幼主のため、駿府館を上杉定正の親類である今川範満が守護然としている。北条早雲は、亡き義忠への忠義を貫き、嫡子氏親のために駿府館を奪い取る計画をした。その気配を察し、駿府館防御体制をとった。・・・・駿府館 ... [続きを読む]
  • 2007/12/08 16:09 熊本城 〜立ちはだかる壁〜
  • 西郷隆盛率いる薩摩軍は、西南戦争で加藤清正の築いた巨城、熊本城攻略に手を焼いていた。まるで「加藤清正と戦っているようだ」と感じただろう。それほどの堅城だったようだが、薩軍の攻めも拙かったようだ。・・・・「熊本の城は、この青竹(いらさぼう)一本で」    土くれを打つようにしてたたき割る、    というふうにしか攻城法を考えていなかった桐野は、    陸軍少将でありながら、    攻城は ... [続きを読む]
  • 2007/12/04 20:00 熊本城 〜櫓群が伝えたもの〜
  • 加藤清正が精魂込めて造った熊本城に残る櫓群は、当時でも目を見張るものがあったそうだ。現在でもその天守、櫓はひとつづつが時代を物語っているように思える。・・・・熊本城下のひとびとは、士農工商問わず、    この城の天守閣のことを、    「おてんし」    とよんでいた。    熊本城は全国の城のなかでもひどくめずらしいことに、    天守閣が、三つ−−−御天守、小御天守、宇土櫓−−−    ... [続きを読む]
  • 2007/12/01 19:28 熊本城 〜時代を越えて〜
  • ・・・清正は熊本城を築いた。   当時の築城工学からみればこの城の防御力は   最高のものであったらしく、   とくに当時の用語で「はね出し」とよばれた   石垣積みの工法では同時代のどの城も   熊本城に及ばなかった。・・・・<司馬遼太郎/街道をゆく(3)/朝日文芸文庫>より抜粋加藤清正は多くの戦を経験した上で、この熊本城築城に着工した。もちろん朝鮮の役で、蔚山籠城の苦難をも、この ... [続きを読む]
  • 2007/11/27 22:55 石垣山城 〜もうひとつの駆け引き〜
  • 小田原城を取り囲む豊臣秀吉軍の石垣山城でもうひとつの駆け引きの幕が降りようとしていた。秀吉が九州を鎮圧していたころ、奥羽の諸将たちは、様々な動きをしていた。中でも伊達政宗は、あわよくば奥州王として天下を望んでいた。しかし、登場が遅すぎた。しぶしぶ石垣山の秀吉のもとへ出向いた政宗。・・・・秀吉は普請場にあらわれた政宗をみるや、    にこにこと笑いかけながら、手招きをした。     ... [続きを読む]
  • 2007/11/24 21:17 石垣山城 〜突然現れた絶望〜
  • ・・・・豊臣秀吉は、山中城を攻め落としたのち、    箱根・湯本の早雲寺へ、仮の本陣を置いた。    「急くな」と秀吉は    「ゆるりと攻むるがよい」    悠々たるものであったが、そのうちに、    「城を築くとしよう」といい出した。・・・・真田太平記〈3〉上田攻め (新潮文庫)より抜粋関白秀吉の余裕の小田原攻めである。天下の堅城小田原城を攻めるにあたって秀吉の取った戦法。籠もる北条 ... [続きを読む]
  • 2007/11/20 22:12 小田原城 〜戻せない決断〜
  • 後世の人々は、「あの時こうしていれば...」と、思うことは多い。「歴史に if は禁物」とはよく言ったものだ。歴史ではなくても我々の身の回りでもそうだが...関白秀吉の小田原攻め。俗に言う「小田原評定」。油断していると現代でも言われがちだ。・・・・「箱根の天険を利して、敵を迎え撃つがよろしい」    一歩もゆずらぬ。    箱根の山々は、小田原城を囲んで屏風のように、    そびえ立 ... [続きを読む]
  • 2007/11/18 14:49小田原城 〜走り続けた跡に〜
  • 北条早雲八十一歳。彼が走り続けた跡に残ったものは何か。小田原城を得た後はひたすら領国経営に努めた。・・・たとえば、晩年、馬泥棒を警吏がつかまえた。   法を確立するために、早雲一代においては   そういう者までかれ自身が裁いた。   馬泥棒はみずからの非をみとめたが、しかし、   「わしが盗んだるはたかが馬じゃ。   国をお盗み遊ばした方があれにおわす」   と、早雲を指さしたとき、か [続きを読む]
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