今日アフリカにはアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国 がかなりあります。 たとえば、
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
今日アフリカにはアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国 がかなりあります。 たとえば、
アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二○○年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまって
夢窓疎石は一人で坐禅していた時に、 眠気に襲われたので 後ろの壁にもたれて寝ようとしますが、 後ろには何もなくそのまま倒れてしまいました。 思わず大笑いした時、悟りを得ました。 鎌倉幕府が滅亡する
建治元年(1275)に伊勢国で生まれた 夢窓は臨済宗の禅僧です。 9歳で出家し、奈良の東大寺で 仏教経典はもちろん支那の老荘思想を修めました。 20歳の時、夢の中で異人に導かれ、 疎山と石頭という
五月三日、合浦を出発した末路軍は 対馬、壱岐をへて六月六日、 博多湾に姿をあらわしたが、 日本側は海岸一帯に堅固な石塁を築き、 九州だけでなく関東の武士も襲撃にそなえていました。 このため、末路軍は
南宋を滅ぼし、支那征服を完了したモンゴルは、 一二八〇年に日本再征を決定し、 第一次の五倍を越える大軍を動員して、 一二八一年に出発しました。 屈服させたばかりの旧南宋の支那人十万、 船三千五百隻の
一二七四年の十月三日、 船団は朝鮮の合浦(がつぼ)(馬山:ばざん)を出航し、 五日には対馬、十四日には壱岐を犯して、 虐殺と略奪をほしいままにし、 十九日には博多湾に入り、 二十日には湾岸各地点から い
一二世紀末の日本では鎌倉幕府が成立し、 一二二一年の承久の乱をへて、 この武士政権はもっとも充実した時期を迎えていました。 フビライが派遣したモンゴルの使者が、 はじめて日本に来たのは一二六八年です
モンゴル皇帝フビライ・ハーンは、 高麗国王元宗を降伏させ、これを朝貢国とし、 一一六六年、フビライは軍事力による征服の 威嚇をこめた日本招諭のための使者の派遣を 高麗に強要しました。 いったんは 「
たしかに趙彝にとって、 日本は黄金の国と思われたかもしれない。 とくに奥州藤原(おうしゆうふじわら)氏の 豊かな金力が 彼のイメージを大きくふくらませました。 膨大な黄金を、それこそ湯水のように投じ
フビライ・ハーンの政治的叡智(えいち)は 南宋の息の根を止めるには その貿易ルートを遮断することが先決と考えました。 このフビライ・ハーンに 日本列島の侵略を示唆(しさ)したのは、 高麗(こうらい)人であ
明時代のなかでとくに注目されるのは、 四〇三年に即位した成祖で、 別名永楽帝ともよばれる国王の時期です。 第一代、第一一代皇帝が、 内政を充実させたあとをついだ永楽帝は、 積極的に対外進出にのりだし
このチムール帝国で注目すべきことが二つあります。 一つは、チムールがイスラーム教に改宗したために、 イスラームの勢力がいっそうつよまっていったことです。 もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期
モンゴル時代は、 一二一八年から一三六八年まで 百五十年ほど続きました。 モンゴル帝国が滅亡してのち、 ユーラシアの各地で 新しい動きがあらわれてきましたが、 そのなかでとくに注目すべきものは、 や
第八の段階は、華中・華南の征服です。 南宋に対する作戦は、オゴデイ・ハーン以来、 何度も試みられましたが、 最後に一二七六年、フビライ・ハーンの派遣した モンゴル軍が杭州を占領し、南宋は滅亡しました
「黄金のオルド」のハーンの位を バトゥから継いだのは、 その弟のベルケですが、 ベルケとフレグは コーカサスの領有をめぐって衝突しました。 この情勢のもとに、 エジプトのマムルーク朝は ベルケと手を
第七の段階は、西アジアの征服です。 チンギス・ハーンの孫のモンケ・ハーンは、 一二五三年、弟のフレグを 西アジア遠征に派遣しました。 フレグは一二五八年、バグダードを攻略して 最後のハリーファを処
一二四一年十二月、 オゴデイ・ハーンが死去したため、 モンゴルの遠征軍は東経十六度線で突然、 進軍を中止して引き揚げました。 このときウィーナー・ノイシュタットでは、 追撃したオーストリア軍は 八人
モンゴル軍の作戦の目的は、 西欧をことごとく征服して、 大西洋岸に達し、この地方を モンゴルの故地とすることであったと思われます。 その証拠に、モンゴル軍の先鋒隊には、 あるイギリス貴族が従軍してい
第六の段階は、キプチャク草原の征服です。 チンギス・ハーンの長男のジョチは、 父からカザフスタンを牧地として与えられていました。 オゴデイ.ハーンは一二三四年、 ジョチの次男のバトゥを総司令官とし
セルジュク朝は、 イスラーム世界では最初のトルコ人の帝国ですが、 その領土の東半分を引き継いだのは、 やはりトルコ人イスラーム教徒の ホラズム・シャ一朝です。 ホラズムというのは、 現在のウズベク共
西アジアのイスラーム世界は、 七世紀のアラブ帝国の大征服が創り出したものです。 この帝国は八~九世紀、 バグダドのアッパース朝のハリーファ(カリフ)のもとで 最も繁栄したが、この時代から、 中央アジ
一二五〇年代に、 モンゴル軍は第三次西征にでかけ、 一二五八年に 有名なバグダッド(現在のイラクの首都)を攻略しました。 さらにエジプトへ進撃しようとしたのですが、 このときも国内からの不幸の急報に
もともと、モンゴルの文化は それほど高くはなかったのですが、 ホラズム遠征によって、 中央アジアやイランの 高い文化や都市の繁栄をみて、 はじめて世界に目をひらいたのでした。 そして、さらに西方を攻
アジアでは民族がつぎつぎにあらわれましたが、 モンゴル帝国はそのもっとも成功し例です。 モンゴル帝国の出現によって、 当時のユーラシア全体の情勢が一変しました。 モンゴルは、 モンゴル高原(支那本
これからのモンゴル帝国の発展は、 いくつかの段階に分かれます。 第一の段階は、西夏王国の征服でする。 チンギス・ハーンの即位前の一二〇五年から、 すでにモンゴル軍は西夏に侵入を開始し、 一二二七年
フランスの美術評論家プウジナは、 一九三五年の著述 『支那のイタリア・ルネサンス絵画への影響』のなかで、 技術と内容の両方から分析し、 支那絵画の影響について、 つぎのように指摘しています。 「技術
ルネサンス思潮を もっともよくあらわしたのが、 レオナルド=ダ=ビンチや ラファエロに代表される 絵画だといわれています。 それ以前の西欧中世の絵は、 完全な宗教画だったのですが、 レオナルドやラフ
ルネサンスのもとの意味は、「再生」です。 つまり、古代ギリシア・ローマに 花ひらいた人間賛歌の文芸がほろび、 その後イスラーム勢力や宗教によって 抑圧されていた時代をこえ、 いままた再生したというわ
中世の末期(一五世紀)に イタリアに大きな変化がおきました。 西欧は、一二世紀になって ようやく都市文明の時代へはいりましたが、 都市の発達のもっともはやかったのは、 北イタリアでした。 一四~一
航海について、重要なことは、 天文学も地理学も イスラームの学術書からまなんでいることです。 西欧人がイベリア半島からイスラームを 追いはらって建国した国の一つに カスチラ王国があります。 この国
一二世紀にはいると、 西欧にはいくつかの都市が誕生し、 大学も設置されるようになりました。 そして一三世紀になると、 西欧のいたるところに都市があらわれ、 また多くの大学がもうけられました。 これ
トレドには多数のイスラームの学術図書が 保存されたイスラームの大図書館があり、 そこには、古代ギリシャの学術研究を アラビア語に訳した書籍 もたくさんおかれていました。 そして、トレド図書館をみつけ
当時の西欧の軍事力では、 とてもイスラーム軍に対抗できず、 エルサレムを奪回することは一時的にはできても、 けっきょくは成功しませんでした。 しかし十字軍によって、 西欧よりはるかに文化の発達したイ
イスラームの勢力圏が もっとも拡大したのは一七世紀で、 マホメットの布教から一千年のちのことです。 一七世紀には 旧大陸(ナジアとアフリカ)のじつに半分以上が イスラームの勢力下にはいっていたのです
モンゴル(元)の国王につかえた イタリア商人のマルコ=ポーロは、 帰途スマトラ島(インドネシア)に しばらく滞在したことがあります。 そのころスマトラには、 ほぼ現在のインドネシア全域を支配する 大
アフリカには今日ではアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国が かなりあります。 たとえば
アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二〇〇年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまっ
チムール帝国で二つの注目すべきことがあります。 一つは、チムールがイスラーク教に改宗したために、 イスラームの勢力が一層つよまっていったことです。 もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期に、
永楽帝は南へは、 鄭和という提督に数十せきの大艦隊をあたえ、 一四〇五年から三〇年までのあいだに 七回にわたって航海させています。 鄭和の大艦隊は、東南アジアの タイ、マレー、ジャワ、スマトラをはじ
モンゴル時代は、 一二一八年から一三六八年まで 百五十年ほどつづきました。 モンゴル帝国が滅亡してのち、 ユーラシアの各地で 新しい動きがあらわれてきましたが、 とくに注目すべきは、 モンゴルの四大
歴史上の最大の大帝国を建設したモンゴルは、 世界史上でどのような意味があるのでしょうか。 五世紀ごろから一五世紀ごろまで、 騎馬民族がつぎからつぎへとあらわれて、 ユーラシアの中心勢力となったのです
モンゴル軍がなぜつよく、 たちまちユーラシア大陸を席巻できたのでしょう。 その第一の理由は、 モンゴル軍は軽装の騎馬兵だけで、 機動力にとんでいたためです。 当時、ほかの国の軍隊は、 歩兵と騎兵が
一二五〇年代に、 モンゴル軍は第三次西征にでかけ、 一二五一年にバグダッド(現在のイラクの首都)を 攻略しました。 さらにエジプトへ進撃しようとしたのですが、 このときも国内からの不幸の急報に接して
モンゴルの文化はもともと、 それほど高くはなかったのですが、 ホラズム遠征によって、 中央アジアやイランの高い文化や都市の繁栄をみて、 世界に目をひらいたのです。 そして、さらに西方を 攻略したいと
モンゴル帝国は、 まさに空前絶後の大帝国を建設しました。 領土の広さについてみるなら、 そういえるでしょう。 世界史における中世の特徴の一つは、 騎馬民族が歴史の主導権をにぎっていたことです。
アジアでは、1215年に蒙古軍が金の首都を陥れ、 チンギス・ハーンの西征が開始されます。 13世紀にモンゴル高原におこり, 西アジア・ヨーロッパにまたがる 大帝国をつくりあげたモンゴル人は, 1234年,金を
「タヤン」とは、 金帝国から与えられた称号「大王」のなまりです。 ナイマン軍はモンゴル軍とオルホン河畔で 戦闘で大敗し、タヤン・ハーンは戦死しました。 テムジンは東方に転じてタタール部族を撃破し、
ケルイトのオン・ハーンと モンゴルのテムジンの協力は 一二〇二年まで続き、 それまでに外モンゴルの諸部族は ほとんどが二人の支配下に入りました。 ところが成功とともに利害の対立が生じ、 ついに一二〇
一一九五年、ケルイト王国では、 またも内紛が起こっていました。 西隣のアルタイ山脈方面の ナイマン部族の王がこれに介入し、 トグリル・ハーンの弟の ジャア・ガンボは逐い出されて、 東隣のケンティ山脈
イエスゲイが死んだ時、 息子のテムジンはまだ幼かった。 この頃のモンゴル部族には、 まだ文字の知識がなく、 従って記録もなかったので、 テムジンが生まれた年も確実には判りません。 テムジンの事蹟が
パルグジンとは、 バイカル湖に東側から流れ込む河の名前で、 その渓谷は大きな平原になっています。 パルグはこの地方に住む遊牧民のことで、 現在のブリヤート・モンゴル人の祖先です。 ジャライルという
モンゴルという部族は、 もともと現在のシベリアと 内モンゴル東部の境を流れる アルグン河のほとりの遊牧民で、 その名前は七世紀に初めて記録に現れます。 モンゴルが再び現れるのは1084年のことで、
日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、 モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など 日本の隣国を繰り返し侵略し、 前年の1259年には高麗が降伏していた時期でした。 日蓮は文応元年(1260年)7月16日
日蓮は貞応元年(1222年)に 千葉県鴨川市に生まれました。 四条天皇の御代に出家し、 比叡山他を14年間遊学しました。 五時教判 (支那の天台が諸経典の教えの相や時期を 五つに分けて判別して、
世界遺産である平等院の、平等という名は、 仏の救済が平等ということを意味しています。 そもそも 天照大神(あまてらすおおみかみ)は女性で、 日本では神代の昔から 男女平等は当然と見られていました。
孤雲懐奘(こうん えじょう:建久9年生)は、 道元の一番弟子で、 曹洞宗の第二祖とされる禅僧です。 道元の死後、永平寺の住持となり、 道元の教えを守り伝えました。 また、道元の著書『正法眼蔵』の
道元は、 正法眼蔵によって「正伝の仏法」を伝えるので 「禅宗」や「曹洞宗」などと云うものを 伝えるのではないと述べています。 室町時代後期、戦国時代に入ると、 寺社勢力は金融の担い手となっており 度
道元は、 土御門帝の正治2年(1200年)に生まれ、 禅の思想を初めて日本に持ち帰った 日本の曹洞宗の開祖です。 宋(中国)で如浄禅師に師事し、 悟りの境地に至りました。 帰国後は京都や越前(福井
栄西(永治元年―建保3年)は、 鎌倉時代の僧で、 日本における臨済宗の開祖で、 備中(岡山県)の出身です。 天台宗と密教を学んだ後、 宋に渡って禅宗の教えを受けました。 帰国後は九州や京都で禅宗の布
歎異抄に 「善人なおもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、 悪人ができないはずが無い)」と有り、 悪人正機(あくにんしょうき)と呼ばれる思想は 親鸞独自のものとして知られてい
親鸞(承安3年、1173-1262)は 鎌倉時代の仏教家で、 浄土真宗の宗祖で、法然を師として、 浄土往生を説く教えを継承しました。 出家した後は比叡山で修行しましたが、 後に下山して法然に師事しま
「方丈記」は末尾に 「于時建暦ノフタトセ、ヤヨヒノツコモリコロ、 桑門ノ蓮胤、トヤマノイホリニシテ、コレヲシルス」 (大福光寺本)とあることから、 建暦2年(1212年)3月末日に記されたのでしょう。 現
方丈記とは、鴨長明による鎌倉時代の随筆です。 日本中世文学の代表的な随筆とされ、 兼好法師の『徒然草』、清少納言の『枕草子』とならぶ 「古典日本三大随筆」に数えられます。 この随筆は、鴨長明が京都
昭和25年、「新大阪新聞」に掲載された 「きけわだつみのこえ」(原題「人間劇の喪失」で、 小林は「平家物語」の世界を引き合いに出しながら、 「人間らしい物語を創り出すことのできるような 戦争も実際に可能
新しい仏教の特徴は、 古代以来の多神教的な世界から、 それぞれがただ一つの道を選ぶという 選択にありました。 この道さえ歩めば、必ず救われるという 一神教的な道を説いたのです。 修行の仕方も、念仏
「平家物語」は鎌倉時代に成立した軍記物語で、 平家の栄光と没落を追うことで、 世の無常を描きだしました。 保元の乱および平治の乱に勝利した平家と 敗れた源氏の対照的な姿、 その後の源平の戦いから平家
法然は長承2年(1133年)、 岡山県誕生寺に生まれ、 9歳のとき父が敵の夜襲にあい、 非業の死を遂げます。 臨終間際に、法然を呼び寄せ 「決して仇を討ってはいけない。 仇は仇を生み、憎しみは 絶え
末法思想とは、 末法に入ると仏教が衰えるとする思想で、 仏典には破戒の憎が悪行(あくぎょう)を重ね、 天の怒りによって天変地異が起こり、 殺人、闘争が相次ぐとされ、 当時は一〇五二年に始まると信じられて
平安から鎌倉へ――この二つの時代の間には、 末法思想という深い断層が 横たわっていたということでしょう。 そして、その深い断層を超えた鎌倉時代に、 わが国の宗教の源流となる鎌倉仏教が 次々に花開いたの
日本文明というこの新しい文明は、 日本文化の担い手が比較的大きな 種族的等質性を持っていたこと、 および比較的小さな、 孤立した地理的範囲に限定されていたこと などが原因で、充分な発達を阻害されました
皇室は太陽の女神の末商を称していましたが、 この女神信仰は、 十五世紀に重要な変容をとげました。 以前は、この信仰は 宮中と皇族の間にのみ限られていたましたが、 それが支那流の祖先崇拝に同化吸収され
日本では一三〇〇年ごろから、 町人と船乗りが大きく頭をもたげはじめました。 支那人が造船術の改良に先がけをつくり、 それをうけて、 日本の社会でも大きな発展の道が開けます。 羅針盤、自在竜骨、竜骨
日本の宗教史も、 支那の手本から独立して独自のものを作るという、 同じ発展の方向を反映しました。 禅仏教は元来支那から移入されましたが、 日本でサムライの理想と結びあい、 支那の先例とは まったくち
日本における都市の隆盛は、 同時に新しい社会環境の発生をも意味していました。 そして、その環境下で、 支那の洗練された文明性と 日本の現実という正反対のもの同士の間から、 質実剛健な田舎サムライの
西欧でローマ皇帝の理念に 漠然たる敬意が払われていたように、 日本の封建制も、 初期中世ヨーロッパの封建制と酷似しており、 力を失ったとはいえ皇室の 宗主権が残存していたのです。 しかし重要なちがい
武士道は、個々の武将が、 自分自身や臣下の勢力増大のために集めた軍団を、 戦(いくさ)に勝たせるため訓練し、 気塊(きはく)を教えこんでいる間に生まれました。 もちろん、戦いに勝った軍団は、 一定の領地
院宣の効果を信じ、 のんびりと構えていた後鳥羽上皇の思惑は外れ、 大多数の武士は上皇の呼びかけに応じません。 幕府と朝廷の力の差は歴然で、 幕府軍はわずか1ヶ月で京都を占領し、 朝廷の敗北で承久の乱
日本の宮廷文化は、 皇室の権力が形だけのものになってしまったのちも 消え失せませんでした。 とはいえ、 日本社会の北への拡大の先頭に立った 辺境の豪族たちは、 日本最初の宮廷人たちが唐から大々的に輸
1221年5月に 後鳥羽上皇は院宣という命令書を出し、 全国の武士に北条義時を倒すよう命令しました。 京都近隣の武士が中心となり 幕府を倒すために挙兵したのです。 院宣を出した後鳥羽上皇は 「朝廷の命
後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府の内部で混乱があれば、 御家人同士が争い朝廷が、 つけいる機会が生じるのではと考えました。 上皇はまた朝廷に年貢を納めない 武士と衝突することもあり、 上皇はますます鎌倉幕府
後鳥羽上皇は、 鎌倉幕府内部の権力争いを尻目に、 領地の拡大、軍事力の強化をはかります。 分散していた天皇領をまとめて資金力を確保し、 さらに従来からある北面の武士(ほくめんのぶし)に加えて、 西面
承久の乱は、1221年に後鳥羽上皇が 再び上皇中心の政治を取り戻すべく、 鎌倉幕府を討ち滅ぼそうとして起こした戦いです。 鎌倉幕府が誕生したとき 朝廷で最も権力を持っていたのは 天皇よりも上の位に就いて
日本は、六〇〇年から一〇〇〇年までの間に、 仏教、儒教をはじめ輸入し得る支那文化の あらゆる要素を歓迎して受け入れました。 外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性は、 それ以後の時代にも何度かくり
ヒマラヤの南側では、 ベンガルとカシミールが、 インド文化の重要な周辺地域となりました。 この二地方にはいずれも、 強力な地方国家が出現して、 インド北部の平野部を政治的に支配しましたが、 いずれも
安南(現在のヴェトナム北部)は 以前から支那の文化的衛星国となっていましたが、 この頃雲南がこれにつづきました。 チベットは、支那とインドの中間に位する という地理的な立場を利用して、 双方からさま
道長は大宰府の使いに、 「改元の後、必ず追討の勅符を下さん」 といいました。 しかし豪胆の道長も、今はすでに衰老しました。 そのうえ子供の三条中宮 及び皇太子の妃嬉子(きし)の二人を失い、 意気消
朝廷で、隆家らの功を論ずるとき、 権大納言藤原公任(きんとう)、 中納言藤原行成(ゆきなり)らは功を排して、 「勅符を俟(ま)たずして兵を発す、 功ありといえども罪もまた大なり」 といいました。 権大納言
しかし東丹は去ってすでに跡かたもありません。 この戦で、 筑前(ちくぜん)・壱岐(いき)・対馬(つしま)三国で 殺戮(さつりく)せられたものは四百六十二人、 劫掠(こうりやく)されたものは一千二百八十九人、
壱岐守藤原理忠(まさただ)は 契丹と戦って死にました。 当時、藤原伊周(これちか)の弟隆家(たかいえ)は、 大宰帥(ださいのそつ)に左遷されていましたが、 勅符を俟(ま)たずに、 前少監大蔵種材(さきのしよう
醍醐天皇の時、 漠北(ばくほく:ゴビ砂漠の北方の地〉に 契丹の太祖阿保機(あぼき)が起り四方を侵略し、 渤海を下し、国号を東丹国と改めて、 その子突欲にこれを治めさせました。 その頃、高麗(こうらい)の
天智天皇の時、 唐、新羅(しらぎ)と合従(がっしよう)して 百済(くだら)・高麗(こま)を亡ぼしました。 すでに新羅の、 二国の故地を併呑(へいどん)して朝鮮を一統しました。 この時靺轕(まつかつ)の族種 〈
遣唐使廃止の時期は、シナ文化の衰退期で、 その圧力が弱まったこともあり、 国風文化の形成は、あらゆる面に行われました。 なかでも仏教の日本化の一つに、 本地垂迹説(すいじやく)があります。 すでに八
藤原道長はすでに一家から三后を出し、 外孫をもって天皇とし、 太子としての栄耀は比類なく、 その意満ち、気伸び 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば」 と歌いました。 寛
10世紀に入り、中国の唐末・五代のころ、 日本では平将門の反抗などが起こって 新しい武士階級の成長がみられました。 遣唐使廃止後も、 藤原氏と呉越とのあいだでは 外交が続いていました。 1126年(日本
字多天皇の八九四(寛平六)年に、 遣唐使が廃止され、唐との直接交渉がなくなり、 これまでに次第に芽生えつつあった 文化の国風化が促進され、 藤原氏の貴族政治を背景として、 優艶・繊細・巧緻を旨とする王
日本は七世紀はじめから遣唐使を派遣して、 さかんに唐の文物を摂取していました。 ところが、九世紀末の八九四年(平安朝初期)に、 唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕した とする認識遣唐使のから
奈良時代(六四五-七八四年)に、 日本の歴代の天皇は急速かつ組織的に 支那(唐)の大宮廷を模倣しました。 日本の宮廷定格の、早咲きの繊細な感受性は、 一〇〇〇年のすぐ後に紫式部によって書かれた 細や
第一に、内外の商業の発展により、 宋時代に多くの都市が誕生し、さかえたこと、 第二に、宋時代も印刷術の発達などによって、 多数の市民がさかんに読書をし、 市民の活動がさかんになっています。 第三に、
第一に、内外の商業の発展により、 宋時代に多くの都市が誕生し、さかえたこと、 第二に、宋時代も印刷術の発達などによって、 多数の市民がさかんに読書をし、 市民の活動がさかんになっています。 第三に、
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今日アフリカにはアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国 がかなりあります。 たとえば、
アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二○○年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまって
夢窓疎石は一人で坐禅していた時に、 眠気に襲われたので 後ろの壁にもたれて寝ようとしますが、 後ろには何もなくそのまま倒れてしまいました。 思わず大笑いした時、悟りを得ました。 鎌倉幕府が滅亡する
建治元年(1275)に伊勢国で生まれた 夢窓は臨済宗の禅僧です。 9歳で出家し、奈良の東大寺で 仏教経典はもちろん支那の老荘思想を修めました。 20歳の時、夢の中で異人に導かれ、 疎山と石頭という
五月三日、合浦を出発した末路軍は 対馬、壱岐をへて六月六日、 博多湾に姿をあらわしたが、 日本側は海岸一帯に堅固な石塁を築き、 九州だけでなく関東の武士も襲撃にそなえていました。 このため、末路軍は
南宋を滅ぼし、支那征服を完了したモンゴルは、 一二八〇年に日本再征を決定し、 第一次の五倍を越える大軍を動員して、 一二八一年に出発しました。 屈服させたばかりの旧南宋の支那人十万、 船三千五百隻の
一二七四年の十月三日、 船団は朝鮮の合浦(がつぼ)(馬山:ばざん)を出航し、 五日には対馬、十四日には壱岐を犯して、 虐殺と略奪をほしいままにし、 十九日には博多湾に入り、 二十日には湾岸各地点から い
一二世紀末の日本では鎌倉幕府が成立し、 一二二一年の承久の乱をへて、 この武士政権はもっとも充実した時期を迎えていました。 フビライが派遣したモンゴルの使者が、 はじめて日本に来たのは一二六八年です
モンゴル皇帝フビライ・ハーンは、 高麗国王元宗を降伏させ、これを朝貢国とし、 一一六六年、フビライは軍事力による征服の 威嚇をこめた日本招諭のための使者の派遣を 高麗に強要しました。 いったんは 「
たしかに趙彝にとって、 日本は黄金の国と思われたかもしれない。 とくに奥州藤原(おうしゆうふじわら)氏の 豊かな金力が 彼のイメージを大きくふくらませました。 膨大な黄金を、それこそ湯水のように投じ
フビライ・ハーンの政治的叡智(えいち)は 南宋の息の根を止めるには その貿易ルートを遮断することが先決と考えました。 このフビライ・ハーンに 日本列島の侵略を示唆(しさ)したのは、 高麗(こうらい)人であ
明時代のなかでとくに注目されるのは、 四〇三年に即位した成祖で、 別名永楽帝ともよばれる国王の時期です。 第一代、第一一代皇帝が、 内政を充実させたあとをついだ永楽帝は、 積極的に対外進出にのりだし
このチムール帝国で注目すべきことが二つあります。 一つは、チムールがイスラーム教に改宗したために、 イスラームの勢力がいっそうつよまっていったことです。 もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期
モンゴル時代は、 一二一八年から一三六八年まで 百五十年ほど続きました。 モンゴル帝国が滅亡してのち、 ユーラシアの各地で 新しい動きがあらわれてきましたが、 そのなかでとくに注目すべきものは、 や
第八の段階は、華中・華南の征服です。 南宋に対する作戦は、オゴデイ・ハーン以来、 何度も試みられましたが、 最後に一二七六年、フビライ・ハーンの派遣した モンゴル軍が杭州を占領し、南宋は滅亡しました
「黄金のオルド」のハーンの位を バトゥから継いだのは、 その弟のベルケですが、 ベルケとフレグは コーカサスの領有をめぐって衝突しました。 この情勢のもとに、 エジプトのマムルーク朝は ベルケと手を
第七の段階は、西アジアの征服です。 チンギス・ハーンの孫のモンケ・ハーンは、 一二五三年、弟のフレグを 西アジア遠征に派遣しました。 フレグは一二五八年、バグダードを攻略して 最後のハリーファを処
一二四一年十二月、 オゴデイ・ハーンが死去したため、 モンゴルの遠征軍は東経十六度線で突然、 進軍を中止して引き揚げました。 このときウィーナー・ノイシュタットでは、 追撃したオーストリア軍は 八人
モンゴル軍の作戦の目的は、 西欧をことごとく征服して、 大西洋岸に達し、この地方を モンゴルの故地とすることであったと思われます。 その証拠に、モンゴル軍の先鋒隊には、 あるイギリス貴族が従軍してい
第六の段階は、キプチャク草原の征服です。 チンギス・ハーンの長男のジョチは、 父からカザフスタンを牧地として与えられていました。 オゴデイ.ハーンは一二三四年、 ジョチの次男のバトゥを総司令官とし
錬金術の起原は古く、 紀元前3世紀ごろのアレクサンドリアでも その研究がなされています。 錬金術はもともと卑金属を貴金属つまり 金に変えるのが第1の目的ですが、 不老不死の薬をつくるということも、 し
九世紀の末に、 関東で勢力を作った武士は平氏の始祖、 高望王(たかもちおう)です。 元々関東の役人として赴任した高望王でしたが、 武士として、新たな生き方を目指しました。 そこで関東で勢力を広げ、
10世紀になると、各地で武士が成長し始めます。 彼らは高貴の出自であるという家柄と、 国司としての公法的な権威から、 地方の人々の名望を集め、 在任中から公私の田を営んで一大領主となり、 その所有地
日本の摂関政治の時代は、 貴族寺院の経済は主に荘園に依存していました。 律令の政治機構の多くは有名無実となり、 官職は政治の機関というよりも 貴族のための収入源となり、 朝廷の儀式や社寺の造営の費用
機械時計の技術では ヨーロッパは支那をはるかにしのいでいます。 最初の機械時計は錘りの落下を利用するものですが、 時計には時間をきざませる脱進器が必要で、 その脱進器の製作が難題でした。 11世紀に
ところで、ヨーロッパ中世後期の技術は、 ほとんどが支那が先がけているのです。 支那とヨーロッパとまったく無関係の場合、 原理だけが伝えられた場合、 実物がもってこられた場合など、 いろいろありますが
土木、建築、紡績、織布そのほか 数多くの技術が古代から それぞれの時代の社会の状態におうじて 発展してきており、 それは中世にはいってもつづいています。 古代におけるように 奴隷を多く使えなくなった
アリストテレスの哲学は12、13世紀に、 改めて強固にキリスト教神学と結合されました。 だが、そのようなことと関連し、 すでに12世紀にはヨーロッパに 新しい科学の精神が動きはじめ、 急速にひろがりつつあ
スペインにおいて イスラーム文化圏とキリスト教文化圏とが接触し、 ヨーロッパ人が改めてギリシャ文化に 重大な関心をもつ動機をつくりました。 とくに1085年にトレドが奪回され ギリシャの学術書のアラビア
1066年、ギヨーム2世は エドワード懺悔王の崩御に伴う後継者争いで 王位継承者を主張、ブリテン島に侵攻し、 ハロルド・ゴドウィンソンの勢力と戦いを繰り広げ、 最終的にこれをヘイスティングスの戦いで討ち取
ペルシャの哲学者イブン・スィーナーは イスラム世界が生み出した最高の知識人と評価され、 同時に当時の世界の大学者です。 980年8月末にサーマーン朝の徴税官 アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンと そ
特に数学に就いていえば、 アラビアの数学者たちは 代数学と三角法とを作り上げたのです。 「代数学」に当たる英語Algebraは 実にアラビア語から出ているのです。 始めに0(ゼロ)の概念とその扱いを 厳密
アラビア人といえば、 今ではヨーロッパ人の圧迫の下に 見る影もなく喘いでいますが、 七世紀頃の彼等の組先は、 コーランを片手に剣をふり廻して、 東はインドの西部から 西は北アフリカを経てスペインにまで
ローマ崩壊(四五五)のころから、 教皇シルヴュスチル二世(九九九-一〇〇三在位)のもとで 西洋がはじめて知的に役興するまでの(暗黒時代)は、 ヨーロッパ文明史上の いわば不毛の時代であるとみなされてい
中世における科学の光は、 東方から射してきたのです。 この点でも、オリエントの科学の意義は大きく―― 古代ギリシャの学問の伝統はアラビアの イスラーム文化においてうけつがれ、発展し、 やがてスペインを
中世は科学にかんして暗黒時代であった、 とよくいわれます。 暗黒時代という言葉があてはまるのは、 10世紀を終えるころまでの西ヨーロッパの世界のことです。 キリスト教神学とそれの支柱となった哲学とが
イスラム軍(アッバース朝)とは、 804年のクラソスの戦い、 806年のアッバース朝軍の 小アジアへの侵攻で戦火を交えたが敗北し、 貢納金を支払う条件で和約しました。 811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻
717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、 718年にイスラーム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退 (第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。 以後イスラーム側の大規模な侵入はなくなり、 帝国の滅亡は回
日本の平安時代に対応する中世のヨーロッパは、 割拠した諸候の領土によって細分され、 社会矛盾がしだいに深まり、 封建領主たちはいきづまりを打開する 方策をさぐっていました。 そのころ、東のアラビア人
道長が左大臣にして内覧宣旨を得てからは 政局が安定しました。 道長は.一粂・三条・後一条・後宋雀・後冷泉 四代天皇の外舅または外祖父として、 ときに摂政となり、ときには閑白に等しい権 (正式の閲自任