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show and heyさん: 生血−人と血と共同体の探求
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エッセイ・随筆 思想、真理世界観、価値観
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メディアリテラシーエッセー(エッセイ)選挙
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哲学@日常地球環境問題犯罪、治安
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生き方、人生訓、成功哲学社会の矛盾に鋭く切り込む!教育問題
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報道機関、マスコミ、マスメディアを斬る学校、教育機関今、苦しんでいる君たちへ。
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〈私〉、自我、自己…について自殺未遂・死についていじめ
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参議院選挙自作小説!!リストカット、リスカ
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プロフィール

ハンドル名show and hey さん
ブログタイトル生血−人と血と共同体の探求
サイト紹介文『血』を死と直接結びつけるのではなく、人間の本質をとらえ、社会の問題を考えていきます。
参加カテゴリー
更新頻度情報提供23回 / 355日(平均0.5回/週) - 参加 2007/05/21 21:59

show and hey さんのブログ記事

記事削除機能過去の記事 …
  • 2007/08/10 20:20第3章 (6)生暖かい<絶望>
  •  絶望できるのなら、まだ気楽なほうである。絶望することさえできないほど絶望しているのならば、それは生と死のどちらかの彼岸に生きているとしかいえない。つまり、死と ... [続きを読む]
  • 2007/07/26 15:14第3章 (5)善と悪の諸説
  •  中世と近代との境界線をどこに引くかという問題は、それ自体で大きな議論を呼ぶことになりそうである。ただ社会学者テンニエスが社会形態を伝統社会としてのゲマインシ ... [続きを読む]
  • 2007/07/23 17:55 第3章 (4)同苦としての<血>の役割
  •  本章では、リストカットをはじめ、自殺や他殺を対象に、血がどのような運動をしているか、もしくは役割を示現してきたかをみてきた。つまり、現代人の悩みがこれらの<血>に関わる社会的事実であり、ストレス社会という枠組みのなかで現代人はこうした行為に常に直面しているともいえる。リストカットは他者を寄生し、自殺は<同−情>として、血が他者に<情>を投げかけつつ流れ出てゆく。そして他殺は血を強奪する行為であ... [続きを読む]
  • 2007/07/05 22:39 第3章 (3)流された血の「行方」と現代の諸問題
  •  どのようなケースにおいても、血を流すという行為は、他者に向かって流れ行く。なぜなら血を流す主体は即自存在の特徴を犠牲にして、様々な他者へその失われる即自性と、その個人的な本質というものをも流すのだから。 自殺とは、「私」という生の意志を外部に捧げる行為である。そして、その行為は流れる血とともに「情」を他者に流す。そうする ことによって、他者は否が応でも自殺した主体にたいして、<同-情>す ... [続きを読む]
  • 2007/06/24 17:46 第3章 (2)自殺か殺人か
  •  人間は結局のところ「二者択一」の内でしか自己決定ができないと私は思う。そして、生きるか死ぬか、というような問題も人間の不可避的な問題である。生きるということは、意志の問題であり、行為そのものが意志に基づかなければならない。 意志の絶対的な支配力、ということが近代以降のヨーロッパ、そして近現代の日本などにも影響を与えるようになった。世界大戦からホロコースト、植民地支配から自由資本主義の支配まで ... [続きを読む]
  • 2007/06/22 02:36 第3章 (1)リストカットは「死に至る病」である
  •  リストカットをすることが自分の存在を示すためだ、ということを聞いたことがある。つまり、リストカットという行為が私と「他者」との関係性における「自己」を認識しうるものにするということか。しかし、「血」を流すということの意味は、「私が生きていた」ということを思い浮かべさせなければならない。「血」とはそれ自体ではどうすることのできない存在なのだから、やはり私が存在し得た刹那が私の「生」の証明である。... [続きを読む]
  • 2007/06/16 23:47 第2章 (7)流動化する<場>
  •  人という存在は、<場>をもってして自分の存在を存立し続けることができる。人間を含む存在自体は、何よりも先に生活するための世界に産み落とされる。最初の<場>は世界そのものである(べきである)。多様な機関ができるようになっても、<場>があるということだけは疑いようがない。<場>はいつでもそこになければならない。 しかし現代は<場>が流動化するようになっている。手探りで、自分の手足で探すことの ... [続きを読む]
  • 2007/06/15 23:00 第2章 (6)子どものレベルでの<場>の私有化
  •  子どもが悪いことをしたときに、唯一裁き、更生させることのできる存在とは、親だけだと思う。学校ができるものではない。もちろん学校側は、体罰を極力なくし、制度的な立場から出席停止処分や、夏休みの強制的な登校を求めるにとどめるほうがよいと思う。地域レベルでは、そのような悪ふざけが過ぎる子どもは、町内一周のゴミ拾いを一週間ほどさせたらいいのではないか。力によって制する。力によって認識を正す、という認識... [続きを読む]
  • 2007/06/13 01:50 第2章 (5)学校の二分化−公のサービスと<場>の私有化
  •  私有化された学校という<場>は、もはや公的な性質を保つことができない。つまり、「〜と共に生きる」ことを養う<場>としての機能を失ってしまったのである。具体的にどのような私有化が行われているのかを述べてみたい。 第一に、学校が公的な「サービス」であるということが全面的に理解されてしまい、<場>としての有効性を剥奪してしまった。つまり、勉強する<場>にしても、活動する<場>にしても、学校とい ... [続きを読む]
  • 2007/06/09 21:16 第2章 (4)学校という公の<場>と「いじめ」の問題
  •  学校における現代の問題は大きく分けて、(1)いじめ、(2)ナショナリズム、(3)学力格差である。これらをというフレームに当てはめてみるとどうなるだろうか。だいたいは社会学的に説明できそうに思う。 第一に、いじめは前節のとおりに行くと、現代の学校におけるグループは群集化がひどく進んでいる。グループ自体は存在しているのだが、好きなもの同士仲良く遊ぶものである。つまり、各グループが自主性をもち ... [続きを読む]
  • 2007/06/06 15:24 第2章 (3)遊びの<場>の消滅
  •  子どもが成長するにあたって、遊びのというものは、必然的に作られているものであると考える。だから、大人の関与は一切受けずに、は作られる。つまり、子どもにとっての子どものための秩序がそこにあるといってよい。力関係だとか、いじめなどもあるに違いないが、概してそういう力が強い者が遊びのをつくり、守る役割を担うのであろう。言ってしまえば、子どもにおける社会がそのまま遊びのにあてはめられると考えられてよい... [続きを読む]
  • 2007/06/05 05:05 第2章 (2)なんのためのか
  •  現代人にがないのは事実だが、なぜこのような事態をまねいたかといえば、大衆消費社会を受けいれるための準備をしていたからだ。公共的な目的のよりも、我々現代人は個人が個人として行為することができるスペースを確保してきたのである。 それでは、この個人のための、いわばスペースとはどのようなものか。それは、労働する、消費する、そして住居するための隔離されたである。個人が個人たるべきといえばこれ以外あ ... [続きを読む]
  • 2007/06/01 12:18 第2章 (1)なき現代社会
  •  現代人は自由であることを事前に認めている。自由であることを賞賛され、自分が自由でないということを必死に否定しなければならない。現代人は自由であるということが一つのアイデンティティ〔自己証明〕となってしまっているのだろう。 それがゆえに、現代人はを好まない。拘束されるから。自分がその場に居合わせることが今では窮屈で古臭くて、形式主義的なイデオロギーであるとも言われるかもしれない。  ... [続きを読む]
  • 2007/05/28 20:28 第1章 (7)現実逃避はコメディである
  •  「現実逃避」、この用語は現代人が好んで用いる決め付けの一手である。相手に「現実逃避」という用語を投げかけても、自分に投げかけても、場はコメディと化す。このコメディの雰囲気は、はじめぼんやり現れて、しだいにその湿っぽさと陰鬱なイメージを与える。コメディという場は、客観的ではあるが、同時にもつ陰気な感じは決して客観的ではありえない。 つまり、現実逃避が行われる場には、すでにアクターが決定して ... [続きを読む]
  • 2007/05/27 15:19 第1章 (6)群集ゆえの逃避
  •  我々の生きられる時間とは血をもって刹那である。しかし、日常性にも生きる我々にとって、時間はときとして我々を抑圧する。生きたくない時間がまた存在するのは、極めて個人的であり、社会において特徴的である。それはあまりに個人的であるがために、生きたくない時間は共時的ではない。そこで、生きたくない時間をそこで終わらせようと、現実逃避しようとする者が現れるのである。 現実逃避とは、他者との関係性の断 ... [続きを読む]
  • 2007/05/26 23:30 第1章 (5)血と「我あり」
  •  この世の人間のほとんどが社会的存在者であるからこそ、この社会は成立している。或る者は目的のために生き、或る者は目的に押しつぶされ、そして或る者は自らこの社会から去ろうとする。現来社会というものは、血によって成立していた。親から子へ、世代世代。それが今では意識されていない。 血にまみれて人間はうまれ、おそらく血を介して人間は去っていくだろう。 むしろ人間は血を眼前することが、人生で ... [続きを読む]
  • 2007/05/24 13:25 第1章 社会的存在者の叙述 [2] 群集
  •  社会格差がどうという問題よりも、そうした二元論的な見方しかできない社会だということを悔やむべきである。結局は、お金の問題でした、という間抜けた理由で解決するのなら、そもそも政府は政府なりに、企業は企業なりで自省できただろうに。それをしない、という意思決定は、社会という場が共有地であり、我々の場である思い切った確信に基づき、公共性という重要な概念の裏に私有財産制という個人的な合目的な企てによって... [続きを読む]
  • 2007/05/22 17:20 第1章 (3) 抑圧される存在と抑圧する存在
  •  <脱>人間宣言を行った人々は我々が知らないくらい無数に存在していた。社会からの逃避行動は、すぐその姿を消さなければならない、つまり<自殺>によって、達成されなければならないと考えると、いかにも世俗的な考え方だと思う。 <抑圧>という言葉がある。これは<自我>という<私>と同義の用語の説明に使われる。<抑圧される>存在とは、まさしく我々人間のことである。これを引き伸ばすと、我々人間を<抑圧 ... [続きを読む]
  • 2007/05/21 04:33 第1章 (2) 芸術に関して
  •  <脱>人間宣言をするということは、明らかに自分が無防備で、馬鹿にされることを準備しているようなものでもある。しかし、この態度こそが、自明性からの脱却、社会の認識のしこりの部分を取り除く方法の一つであるのだと思う。 芸術でも、「これが芸術?」と疑問を投げかけるものがないだろうか。キャンバスに何も描かれていない絵画だとか、便器を置いただけで芸術的なオブジェだとか、音楽でも何分も沈黙するだけの ... [続きを読む]
  • 2007/05/11 04:20 第1章 (1)
  •  頭の中が真っ白が我々人間に許されるのだろうか? 真っ白であろうと自分が思うこと自体が、自分の頭の中は白くない、侵されているのだということの証明である。自分が清い存在であって、周りと違う風に振舞うという試みは、まっ先に自分の頭の中で都合よく処理され、深い悩みへと自己自身を突き落とすことになる。なぜならこの行為こそが自己欺瞞の最たる現われだからである。 私の<内>に白さはないとしたら、一体ど ... [続きを読む]
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