mosaku さん

mosakuさん: 模索の道を歩く
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プロフィール

ハンドル名mosaku さん
ブログタイトル模索の道を歩く
サイト紹介文自分の納得出来る生き方を模索しています。
参加カテゴリー
更新頻度情報提供187回 / 305日(平均4.3回/週) - 参加 2007/07/09 12:30

mosaku さんのブログ記事

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  • 2008/04/07 09:47不確かさを認めない世界から足を洗う
  • ここ一週間も、私は不確かさを認めない世界から足を洗って不確かさを認める世界を選ぶべきだ、ということについて考えていました。ところで、その観点からふと気が付いたのですが、世間で言う「責任」とは、確かさを保証することを意味しているようです。例えば、「○○としての責任」と言えば、○○という立場... [続きを読む]
  • 2008/03/30 23:22不確かさを認める見極めの人の世界に身を置く
  • ここ数日、今の私の生き方の初心に返る機会がありました。「模索の道」の「私の思索と信仰の軌跡―不確かな世界の中で、神との個人的な信頼関係を求めて」に書いたように、1998年の春以来、私は、「神を知りたければ、思い込みを退けなければならない。思い込みを退ければ、不確かさというものを認めざるを得な... [続きを読む]
  • 2008/03/23 23:59そこまでせんでいい
  • 一昨日、「なんでそこまでせないかんか」と題した記事に、「天邪鬼」を受け止めるために、何故私がそこまで犠牲を払わなければならないか、という憤懣や、そこまでしてこういう人と意志の信頼関係を結びたいか、という疑念を感じ始めたことを書きました。そして昨日、「新・なんでそこまでせないかんか」と題した記事に... [続きを読む]
  • 2008/03/23 22:22題を「受けることと与えること」に変更
  • 「模索の道」に今新しく掲載したばかりのページの題を、「遣り取り論」から「受けることと与えること」に変えることにしました。「遣り取り論」という題が、どうも今一つ気持ちにしっくりと来なかったからです。人気blogランキングへ... [続きを読む]
  • 2008/03/23 22:10「遣り取り論」発表
  • 「模索の道」を更新しました。今回は、このブログの「『遣り取り論(仮)』草稿」と題した記事に書いた文章を、少し修正して、「遣り取り論」という題のページとして新しく掲載しました。これは、仕事を含め、あらゆる遣り取りにおいて、「相手の物を相手の意志によって受ける」「自分の物を自分の意志によって... [続きを読む]
  • 2008/03/22 18:27新・なんでそこまでせないかんか
  • 昨日の「なんでそこまでせないかんか」と題した記事には、「天邪鬼」と呼ばれるような人を受け止めることに伴う腹立ちについて書きました。受け止められて一旦は信頼される可能性が開かれたと思うものの、直ぐに猜疑心に囚われて性急に強がるこのタイプの人を受け止めることには、膨大な忍耐が必要です。私は、何故... [続きを読む]
  • 2008/03/21 23:59なんでそこまでせないかんか
  • この所、このブログの記事は、いつの間にか「模索の詩」の記事と連動するようになっていました。そして、その両方が一段落しつつある今、私は自分の中に、えもいわれぬ怒りが込み上げて来るのを感じました。両方のブログの一連の記事内容を合わせると、「天邪鬼」は受け止められれば、信頼される可能性が開かれ... [続きを読む]
  • 2008/03/20 18:28相手を受け止めることの意味
  • 相手を受け止めることは、賭けに譬えれば、少額の賭け金を賭けながら気配を見ることに相当します。この所考えて来たことを纏めると、相手を受け止めてそのように賭ければ、付け入る隙があると見る人もいれば、信頼される可能性が開かれたと見る人もいます。相手が後者ならば、そのように信じ合える可能性を示すこと... [続きを読む]
  • 2008/03/17 10:18「わたしは自分がなるところのものとなる」
  • 相手を受け止めるという意志表示は、相手の話に耳を傾けることを含めて、相手に合わせることであり、月並みな言い方ですが、水が器の形に合わせて形を変えるのと似ています。聖書の出エジプト記3章14節(新世界訳)で、神が「わたしは自分がなるところのものとなる」と名乗っていたのを思い出しました。つくづく共感... [続きを読む]
  • 2008/03/14 11:07相手の話を聞くことについてふと思うこと
  • 私がこれまで意志の信頼関係を結ぶために最も心掛けて来たのは、相手の話を徹底的に聞くことでした。そして、塾では、生徒たちの話に徹底的に耳を傾けることによって一人一人の意欲を引き出すことが、私の授業の中心でした。それにしても、私としては意志の信頼関係に進むことを期待していた人間関係も、相手に... [続きを読む]
  • 2008/03/13 23:59「遣り取り論(仮)」草稿
  • 「『互いの意志の黙殺を嫌っている』という観点から纏められそうな予感」と題した記事で、私の仕事観や組織観を一つに纏められそうな予感がする、と書きましたが、早速試しに書いてみました。題は取り敢えず「遣り取り論(仮)」としておきます。仕事を初め、人間関係のありとあらゆる遣り取りにおいて、私は、... [続きを読む]
  • 2008/03/13 10:34確かなことは分からない、半永久的に続く「模索の道」
  • 昨日、「私にとって無難な身の処し方」と題した記事に書いたことは、私の納得出来る生計の立て方がどういう方法によって最も実現出来るのかは分からない、ということであり、その認識に即して自分の身の処し方を決めて行くべきだ、ということであり、何についてであれ確かなことは分からない、という今の私の基本的な考え方... [続きを読む]
  • 2008/03/13 01:26私にとって無難な身の処し方
  • かつて私は、自分の経営する個人塾に、私の納得出来る生計の立て方が出来るかも知れない可能性を見出していましたが、この2年間はその希望を次第に見失って、塾の再開を諦め、他の方法を探し始めていました。しかし、今改めて気付くのは、他の方法を探すにしても、基本的には、当座の生計の道を、海の物とも山の物とも... [続きを読む]
  • 2008/03/10 23:59要するに上辺だけの関係
  • この所「安心関係」について書いて来ましたが、要するにそれが所謂「上辺だけの関係」なのですね。互いの意志への不信、猜疑への囚われ(当て込み)を紛らせることによって成立する関係です。紛らせられなくなると終わる訳ですね。そうしてみると、上辺だけの関係というのは、社交辞令の関係からつうかあの関係まで... [続きを読む]
  • 2008/03/08 19:59「互いの意志の黙殺を嫌っている」という観点から纏められそうな予感
  • これまで長く、一般的な仕事や組織に対する私自身の違和感を見詰めて来ましたが、今漸くこれを、「互いの意志の黙殺を嫌っている」という観点から纏めることが出来そうな予感がしています。「模索の道」の「覚え書き 私の仕事観」で少し触れたように、私の見る所、相手の物を相手の意志によらずに受けようとしたり... [続きを読む]
  • 2008/03/01 22:21買物や就職についての、私の感じ方と世間一般の通念
  • 「模索の道」の「覚え書き 私の仕事観」には、買物と就職についての私の感じ方を書いていますが、これは世間一般の通念とはかなり異なっていたようです。私の感じ方では、買物や就職は、相手の物(商品や給料)を呉れるように頼むことです。そして、同時に、私の物(代金や勤務)を与えるのは、相手の頼みに応える... [続きを読む]
  • 2008/02/29 23:36信頼は賭け、最後に背中を押すのは相手ではなく自分
  • 昨日書いたように、相手が信頼に値することを知ることは、相手を信頼する勇気を振り絞る支えになります。とは言え、それを知ることには終わりが無く、相手が信頼に値することを絶対確実に知るということは無いでしょう。どんなに知っても疑いの余地が残るに違いありません。なぜなら、相手の心を完全に知ること... [続きを読む]
  • 2008/02/28 12:22相手を信頼する勇気を生み出すのは何か
  • 私の観察する、安心と安心関係を求める人と信頼と信頼関係を求める人との違いは、こうです。安心と安心関係を求める人は、上辺の平穏を守ろうとして、相手の固有性・異質性を知りたがらず、上辺だけの付き合いに終始します。事勿れ主義であり、薄氷を踏む行き方(ゆきかた)です。一方、信頼と信頼関係... [続きを読む]
  • 2008/02/26 08:22安心関係の恐ろしさ
  • 安心関係が崩れる切っ掛けは、自分の方が気を許して固有の自分を出すことだけではありません。自分の方が出さなくても、相手がそれを感じ取れば、同じように相手の不安を招き、安心関係が崩れることになります。また、自分自身とは直接関係無くても、自分の身に何か特別な、相手と共通ではない事情が生じるだけで、... [続きを読む]
  • 2008/02/25 10:05信頼関係と安心関係を取り違えないように
  • 信頼関係と安心関係は似て非なるものです。信頼関係の拠り所は互いの意志ですが、安心関係の拠り所は所属や文化の共通感・共有感のようです。一般に仲が良いと言われる関係の多くは安心関係だと思います。安心関係は、付き合いの浅い内は居心地の良いものです。しかし、気を許して固有の自分を出すと、... [続きを読む]
  • 2008/02/16 23:28「模索の道」を模様替えしました
  • 「模索の道」をリニューアルしました。取り敢えずは、以前よりページが少なくなっています。幾つかのページは、趣旨を他のページの文章に組み入れました。思索の決着がなかなか付かないものは、「覚え書き」としてページ化することにしました。また、広告として、Amazonの商品リストから、私のお気に入り... [続きを読む]
  • 2008/02/16 10:20視点の転換における楽天性の大切さ
  • 自分の身の処し方について思索を重ねていると、新たな問題や疑念に直面することがあります。私の場合、それらは、視点の転換が出来れば解決するようです。視点の転換が出来るためには、楽天的であることが鍵になります。楽天的でないと、ちょうど筋肉が硬直して動けなくなるのと同じように、心が硬直して視点の... [続きを読む]
  • 2008/02/13 09:17地域社会との関わり方
  • 個人塾を開くと、地域社会と関わり合う場面が次第に多くなって来ます。しかし、日本の地域社会の人間関係は、私にはしばしば胡散臭く見えて、関わり合いたくない気持ちを起こさせます。地域社会の人間関係が胡散臭く見えるのは、例えば、普段はいかにも知っている間柄として振舞いながら、いざ誰かが困っても助けは... [続きを読む]
  • 2008/02/12 09:13粟谷塾の希望
  • 昨日の記事に、私は、「粟谷塾には希望が感じられる」と書きました。その希望について少し書いてみたい、と思います。昨日漸くその希望を言葉で捉えることが出来ました。私は粟谷塾で意志の信頼関係というものを模索していましたが、私がここ数年粟谷塾の再開を断念していた理由の一つは、「意志の信頼関係を結べる... [続きを読む]
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