|
- 2008/10/05 19:49病気と医療をどう考える
- 病気というものは、決して健全な状態であるとは言えないから、歓迎すべきものではないだろう。だから、治療をすることを考えなければならないはずだ。ところが、これについて、二つの極端な考え方がある。その一つは、医療行動などによって病気を治したりするのは不信仰であって、神に祈って治していただくべきだと言うのである。もう一つは、病気になったら医者に行って治してもらうべきで、心の病気は神に、そして肉体の病気は医... [続きを読む]
|
- 2008/09/28 21:50病気と医療について
- 病気や医療についてどう考えたらよいのだろうか。多くの宗教は、病気の癒しを看板にし、どこの医者に行っても治してもらえなかった人が、その宗教によって治ったと言っている。つまり、医者に見離された人を、信仰一つで治してあげるという宣伝をしている宗教がかなり目につくのである。それでは、私たちキリスト教の立場から見る時、病気や医療をどう考えたらよいのだろうか。私たちの健康をつかさどっておられるのは神であって、... [続きを読む]
|
- 2008/09/21 18:49教育は自分が変ることから
- 親が子供を育てる時、数多くの失敗をしてしまう。親となった人でなくとも、一人前の人なら分ると思うが、ずいぶん多くの傷を親から受けてきているということである。心の中に、いまだに癒えぬ傷を持っている人が、どれだけ多くいることか。私は牧師として多くの人に接してきて、そのことをつくづく感じる。必ずしも崩壊した家庭でなくとも、親から受けた心の傷に悩んでいる人が数多くいる。それは、よく考えてみると、親にも同情す... [続きを読む]
|
- 2008/09/14 22:11教育について思うこと
- 前回、思春期の子供の教育を考える場合、スポーツをさせることを薦めたが、ことに男の子の場合、これは必要なことだと思う。そのように言うと、そんなことをしていたら、入試戦線から落後してしまうのではないかと心配する人がいるかもしれない。そのように考える人は、教育について間違った考え方をしていることを暴露していることになる。教育とは、人格形成なのだということをしっかり覚えておいてほしい。人格形成は、普通、文... [続きを読む]
|
- 2008/09/07 22:16教育とは何か
- 人間の中心は、何と言っても人格なのだから、教育とは人格形成ということにほかならないだろう。ところで、人間の人格は、知性と情操と意思という三つの面を持っているから、これらのものの健全な形成ということになる。つまり、知性だけに偏った教育は、実は教育とは言えないということになる。これら三つのバランスをもった教育が重要なのである。それでは、一人の人が人格を形成していく場合、どういうものによってかということ... [続きを読む]
|
|
|
- 2008/08/31 21:26子供の教育
- わが国では、子供の教育については、一般的に言ってとても熱心だ。しかし、その熱心さがどうも少しピント外れになっているのではないかと思われないでもない。というのは、教育に熱心な人を見ると、子供の学校の成績や上級学校への入学試験のことに熱中しているからである。けれども、こういうことを教育だと考えている人がいたとしても、はたしてこれが本当に教育なのかどうかということを考えてみなければならないだろうと思う。... [続きを読む]
|
- 2008/08/24 21:28仕事とつき合い
- 職業というものは、ただ私たちが自分の生活の資を得るためのものと考えるべきではない。それを通して神の御業に参与するのであり、まただれかほかの人の役に立っているということを知らなければならないのだということを考えてきた。そして、自分が勝手にその職業を選んだのではなく、神が自分をその働きに召してくださっているのだということも考えてきた。そういうことになると、神が私たちをその職場に遣わしておられるのだとい... [続きを読む]
|
- 2008/08/17 22:12職業について
- 職業選択を簡単にやってのける人がいる反面、将来の仕事について思い悩んでいる人も少なくない。私は元々数学が好きで、その上家の設計に興味を持っていたので、建築家を目指して、大学の建築科に入ったのである。ところが、大学へ入り、その年の終りにクリスチャンになり、しばらくすると、牧師になることが私の使命であることがはっきりしてきて、それまで専攻していた理工学部の建築科をやめ、文学部の西洋史専攻に変えることに... [続きを読む]
|
- 2008/08/10 23:39働くこと
- 今日、働くことに喜びを感じなくなってしまった人が沢山いる。それは、働くことの意味や目的が分らなくなってしまったからだと思う。ある人々はこう考えている。遊ぶためにはお金がいる。だから、お金を得るために働くのだと。こういう人々は、主として独身者だろうが、遊ぶことが人生の目的ぐらいに考えているのだ。しかし、人生の目的は決して遊ぶことにあるのではない。私たち人間は働く者として神によって造られた者たちである... [続きを読む]
|
- 2008/08/03 22:39結婚について 2/2
- 私たちがだれと結婚するかについては、神がすでに決めておられ、その人と結婚するわけである。そのことを、私たちはそれぞれ主体的に受けとめ、結婚することになる。このように主体的に自分で結婚の相手を決められる人が、実は一人前の人間なのである。両親を離れて二人が一体になれるためには、どうしてもこのように精神的に独立した一人前の人間であることが必要である。結婚の相手さえも親に決めてもらわなければならない赤ん坊... [続きを読む]
|
- 2008/07/27 21:37結婚について 1/2
- 神が人間を男か女かにしてお送りになったのは、神が人間を結婚するものとしてお造りになったということである。結婚というものは、人間が作り出した制度ではない。人間が罪に陥ってからは、結婚しないで独身で生涯を過す人も出て来た。とは言っても、独身が罪だと言うのではない。しかし、元々は結婚するものとして造られたのだ。だから、結婚をいいかげんに考えることはできないのである。この世において結婚をいいかげんに考える... [続きを読む]
|
- 2008/07/20 22:18男と女
- 人間はだれでも男か女かとして生まれてくる。男でも女でもない人間などどこにもいない。しかも、だれ一人としてこれを自分の意志で選び取ったわけではない。皆、この世に生まれてきた時、男か女かであるのだ。こういうことを考えてみると、この世の中には、自分の意志だけで決めることができないものがあるのだということに気付かざるをえない。何でも主体性を持って生きていこうとすることは、決して間違ったことではなく、依頼心... [続きを読む]
|
- 2008/07/13 23:17キリスト教の葬式
- クリスチャンの葬式は、そこにクリスチャンの死についての考え方がはっきり表れている。私たちは、死を暗いじめじめしたものとは考えない。むしろ天国を思わせるような美しい花で飾り、神を賛美し、神の言葉である聖書から、遺族や参列者に対する慰めや勧めの言葉が語られる。死んだ人はもうそこにはいない。そこにあるものは、死んだ人の遺体で、死んだ人の霊はもうそこにはいない。だから、死んだ人の霊を慰めるとか、その人を祀... [続きを読む]
|
- 2008/07/06 21:06人は死んだらどうなるか
- 人間が生きているということは、霊と肉体が不可分離的に結合している状態であり、死ぬということは、この霊と肉体との結合が解かれることである。考えてみれば、本当に不思議なことだと思う。霊と肉体という全く次元の違った二つのものが結合しているのだから、これほど不思議なことはない。この不思議な結合が、ある日突然崩れ、霊はそのまま生き続けるが、肉体は土に帰っていく。これを死と呼ぶのだ。霊は、肉体と結合している間... [続きを読む]
|
- 2008/06/29 21:42死とは何か
- 死は何かと聞かれれば、生命活動の停止のことだと答えることができると思う。ところで、ただそれだけではない。聖書を見ると、「死」と言う場合、三つの死がそこに表わされている。第一は、「肉体の死」で、これはだれにでもよく分る。普通「死」と言えば、このことである。ところで、聖書では、それとは別の死を述べている。その一つは、「霊的死」である。これがなかなか分りにくいのだが、聖書は次のように述べている。「あなた... [続きを読む]
|
- 2008/06/22 21:10人間をどう見るかが鍵
- 以前、ノルウェーの神学者オットー・ハレスビーが、「なぜ私はクリスチャンになったのか」という本の中に彼が記している言葉を引用したことがあった。「私は本当の人間になるためにクリスチャンになりました。」こういう言葉を聞くと、カチンとくる人がいるかもしれないが、実はここのところが、本当に分らないと、クリスチャンにはなれないのである。どんな宗教でも、一応まともな宗教なら、善いことをするようにと教えるはずだ。... [続きを読む]
|
- 2008/06/17 23:33祈りについて4
- 祈りが神との会話であるなら、神とお会いしないまま祈り始めても、それは本当の祈りとは言えないだろう。神の臨在を覚えるまで待つことだ。この体験をするところから、実は祈りが始まるわけで、これを体得しなければ、祈りを体得することはできない。神の臨在を覚えるために、私は賛美することを奨める。この賛美は、信仰の体験を歌った賛美よりも、神を直接あがめる賛美(プレイズとかワーシップと呼ばれるもの)がよい。それを心か... [続きを読む]
|
- 2008/06/14 22:37罪の現実10 - キリストの救い主性
- 私たちは、皆生れながらにして罪人である。このことは、近代における文学が追求している人間の破局性や、その破局性は教育などによっては決して改善されうるものではないということを見てきた。私たち人類は一人残らず罪人なのである。だから、毎日のように人殺しが行われているし、社会のどこにおいても問題だらけなのである。前回述べた通り、私たちの罪を身代りに償ってくれる人がいるとしたら、その人自身罪を持っていない人で... [続きを読む]
|
- 2008/06/10 22:04祈りについて3
- 祈りにおいて大切なことは、本当に神との会話になっているのかということではないかと思う。神との会話になっていない祈りであれば、それは独り言にすぎないことになってしまう。つまり、から回りの祈りなのである。それでは、いくら祈っても何の手応えもなく、自分自身何も変ることはない。それは、むなしい祈りであって、時間の浪費でもある。信仰生活において力をまだ一度も体験していないとしたら、おそらく祈りが問題なのだろ... [続きを読む]
|
- 2008/06/07 21:44罪の現実9 - 罪の性格
- 近代における文学が追求している人間性というものはなぜ破局性を持っているのかと言うと、それはエゴイズムの問題なのだと言った(文学が示している人間の破局性(3))。またその人間の破局性は、決して教育などによって変えられるものではないとも言った(教育によって改善できるか)。人間は生れながらにして、この破局性を身に帯びている。これを、聖書では罪と言い、人間が罪人であるとは、そのことを言うのである。しかし、罪人と... [続きを読む]
|
- 2008/06/04 02:07祈りについて2
- 祈りというものは、私たちの霊の深いところからの自然の発言なのだが、本当の祈りというものは、だれにでも自然に出来るものなのか、それとも、ある特別にすぐれた人とか、ある特別な賜物を与えられている人でなければ出来ないものなのだろうか。聖書はこう教えている。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ話している時に、わたしは聞く。」(イザヤ65:24)祈りは霊の呼吸であると言われる。これは私たちが普段してい... [続きを読む]
|
- 2008/05/31 23:51罪の現実8 - 教育によって改善できるか
- 人間をどう見るかということは、文学の分野だけでなく、法律の分野でも同じことが言える。法律において、人間をどう見るかということは、法哲学における人間観でも明らかである。法律は皆同じような見方をしていると思っている人がいたら、それは大間違いである。人間をどう見るかによって、刑法は全く変ってしまう。たとえば、今の日本の法哲学は、大体においてヒューマニズムの人間観をもって見ている。その証拠に、教育刑という... [続きを読む]
|
- 2008/05/28 01:24祈りについて1
- クリスチャンにとって、祈りは特権であり、また神から力を頂く場でもある。私たち人間は、自分の思いをじっと胸の中に秘めておくことができない者だ。これを何らかの形でだれかに言わないではいられない。子供が母親に何でも話すのは、その良い例であると言うことができよう。だんだん大きくなると、恥ずかしいという気持や、親は本当に自分のことを理解してはくれないという思いが起って、親に話すよりも友達に話したり、日記に記... [続きを読む]
|
- 2008/05/24 22:24罪の現実7 ー 文学が示している人間の破局性(3)
- 芥川龍之介が掘り下げて行ったエゴイズムの問題と取り組んでいった人として、私は太宰治を挙げることができるように思う。芥川がエゴイズムの問題と対決したのに対し、太宰はそれを「人間失格」という問題意識にまで深めたと言うことができるだろう。この作品の中で、主人公の大庭葉蔵はこう言う。「人間失格、もはや、自分は完全に、人間でなくなりました。」人間が人間でなくなること、それほど恐ろしいことはない。それは人間性... [続きを読む]
|
- 2008/05/20 22:12聖書について4
- 私は、翻訳原則を変えて、もう一度翻訳を始めた。いくつかの書は、すでに古い翻訳原則によるものではあったが、翻訳を終っていた。だから、比較的容易に新しい原則に変えて、手直しすれば、それで済んだ。私は元来、短距離型の人間で、長距離はにが手であった。しかし、新約聖書の場合、使徒の働きまで訳し終った時、分量から言うと、全新約聖書の半分以上は訳したことになるのである。思わずこれはいけると思った。というのは、ロ... [続きを読む]
|