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- 2008/09/12 05:05第109話 稼ぎましょ
- 一週間ぶりの我が家は、畳の香りと陽の温かさに包まれていた。京子は折り重なったチラシの束や、どこから来たのかも解らない案内状をごみ箱に捨てると、台所のやかんを火にかけた。開けっ放しのカーテンは所々汚れが目立っていたので、お茶でも飲んだら洗濯をして、ついでに部屋中の拭き掃除でもやろうかと考えた。敷きっ放しの布団だって気持ちが悪いし、化粧棚やテレビの上にも埃がうっすらと溜まっているのがわかる。たったの一... [続きを読む]
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- 2008/09/10 00:19第108話 リンゴジュース
- 京子は東光大学病院に運ばれた。緊急手術が施され、今は病室で深い眠りに就いている。医師は驚くべき事実を告げた。以前中絶手術を行った京子の子宮に、まだ命が宿っていたということ。その子宮には、鉗子を入れて掻きまわされた痕跡や、吸引器で吸い出そうとした跡が見られ、それでも胎児は京子のお腹に留まり続けていたのだった。医師は超音波測定で作成された写真を見て言った。「こんな・・・」医師は言葉を失った。胎児の姿で... [続きを読む]
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- 2008/09/05 04:47第107話 誘拐
- あたしは誘拐された。両手足を椅子に縛られて、窮屈に結ばれた肌の感覚は鈍くて重たい。数時間も同じ格好でいるのだから無理もないが、せめて猿ぐつわだけでもどうにかならないかと、口をもごもごと動かしたり舌で突いてみたりをくり返している。ぐるぐる巻きにされた目隠しで、圧迫された頭部がズキズキと痛い。どうしてあたしなのだろうか?京子はこの場所へ連れて来られるまでの記憶を辿っていった。仕事を早めに切り上げて、い... [続きを読む]
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- 2008/08/14 19:16第106話 1mmの摩擦
- 亀山幹次郎は、自分の歌をあまり好きにはなれないでいた。流行りのアップテンポ、少しだけ横文字の多い歌詞と誇張された恋の歌。恋愛とは、そんなに尊くて美しいものなのか? 亀山は疑問に思う。様々な女性と付き合ってはきたものの、それが全て情熱的で愛に満ち足りていたとはとうてい思えないし、恋愛とは、自分の歌とは正反対の辛く心重たいものなのだろうと考えていた。要するに自分の歌詞は大嘘で、透き通るような曲調も、ち... [続きを読む]
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- 2008/08/12 23:29第105話 やさしいことば
- 結城は演技を学ぶようになった。『黒の稲妻』 は、仁科幸正率いるアングラと呼ばれた劇団で、その斬新で鋭い時代感覚を持ち合わせた演出法は、芸能界でも知られた存在となっていた。説明台詞を使用せず、アドリブも一切認めない。役に成りきる俳優を嫌い、常に頭の中は冷静であれ! が口癖の仁科は、誰に対しても厳しかった。アトリエ公演で結城に与えられた役は、戦争で両親を失った靴屋の青年。主人公ではないにしても重要な役... [続きを読む]
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- 2008/07/07 04:26第104話 さるすべりの花 きんもくせいの花
- 九月はじめ。民家の軒先に咲いたさるすべりの花を、京子は眺めていた。足元にはすでに落葉した白い花びらが、淋しく模様を描いている。京子は歩き始めた。気が重い — うつむきながら唇を噛んだ。一週間ほど前、京子は椎名町の杉野産婦人科を訪れていた。生理が一週間以上も遅れていたし、朝起きたばかりで嘔吐した日もあったのだ。尿検査と内診、超音波検査の結果、妊娠している事がわかった。自分の身体の中に新しい命が宿って... [続きを読む]
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- 2008/07/06 05:37第103話 しばらくお待ちください
- 窓を叩きつける雨の音は、テレビドラマの銃声を掻き消していた。 アメリカの西部劇はワンパターンでつまらなかった。 さびれた街に流れ着いた賞金稼ぎと、ギャングと結託している悪い保安官との決闘。 主人公の賞金稼ぎは言わずと知れた早撃ちの名手。 カウボーイハット、サスペンダー、覚えられない銃の名前、砂ぼこりと謎めいた酒場の女、そしてロマンス・・・。 京子はテレビのチャンネルを回した。 このドラマは再放送されてい... [続きを読む]
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- 2008/07/03 15:27第102話 もったいないひと
- 「私の女房ですか?」羽根木はそう言って、老酒を喉にすべり込ませた。なんだって結城はそんな事を聞くのだろう、今までずいぶん長い間一緒にいるが、プライベートな質問を受けたのはこれがはじめてだ。羽根木はちいさく呻いて考えた。自分の妻 — 昔はとても華奢な身体をしていた絵美子は、このところすっかり逞しくなってしまった。家では子供達と汗まみれで格闘し、日々の家事に追われ続けている。結婚とは穴のあいた徳利のよ... [続きを読む]
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- 2008/06/23 17:40第101話 にがむしさん
- 京子がまずはじめにやったのは、結城が書き連ねた遺書を破いて棄てる — その後で結城にシャワーを浴びせさせ、今日のところはぐっすり眠ってもらった方が良いだろうと思っていた。りょうは京子の肩を軽く叩いて、702号室の前で立ち去った。ハイヒールの靴音が、京子には虚しく聞こえた。遺書はビリビリに裂いた。実際それをやったのは結城だが、散らばった遺書の残骸を掻き集めて皿の上で燃やしたのは京子だった。思いの詰まっ... [続きを読む]
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- 2008/06/21 00:08100話までのおはなし
- ようやく100話まで辿り着く事が出来ました。今まで励ましてくださった皆様方のおかげです。心より感謝しております。「やってないのは殺しだけ」は、昔、私の母の生い立ちを聞いた小説家(名前は渡辺さんとしかわからないのですが)が、母を題材にして執筆しようとした小説のタイトルです。結局は、書店に並ぶ事も小説として完成する事もなかったのですが、あまりのインパクトあるその響きに、恥ずかしながら息子が感銘を受けてし... [続きを読む]
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- 2008/06/19 02:59第100話 また死にたくなったらさ、あたしに言って
- 屋上の手すりを握ると、自分の手のひらが汗で濡れている事に気付く。臆病者。もとからの性格なのだろうと、結城は鼻で笑った。風はいくぶん和らいでいる。東京の夜空には星が見えないなんてのは嘘だ。こうやって頭上を見上げると、澄んだ空にたくさんの星が輝いている。結城は自分の腰の高さ程の手すりを越えた。母の形見の指輪が、結城の人差し指から零れ落ちた。京子とりょうは、自分達の背後で物音がしたのがわかった。鈍い音で [続きを読む]
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- 2008/06/17 03:28第99話 真夜中の決戦
- 京子とりょうは、ふらつく足取りで池袋の駅前を通り過ぎた。二人はジャズ喫茶を追い出された後、人世横丁にある焼鳥屋で酒を飲み、気が付けばへべれけに酔っていた。深夜の池袋には所々に闇があって、街灯のない路地裏は出来るだけ避けて歩く事にした。人通りの少なくなったこの街は、誰もいなくなったコンサートホールのようだ。二人の笑い声と楽しそうな悲鳴が、変貌を遂げていく街並みにこだまする。りょうは酒が入ると陽気にな... [続きを読む]
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- 2008/06/16 00:35第98話 真田ようこと東京ダイヤモンドルーキーズ
- キャンドルの炎が揺れている。頼りない灯りをぼんやりと眺めていると、自分の存在自体が奇妙に思えてくる。結城はあまり美味しいと感じた事のないハーブティーをすすりながら、パーティーの顔ぶれを見渡した。知った顔、初めての顔。新進気鋭の映画監督と談笑する江国。民放テレビ局の大物プロデューサの声がひときわ大きく聞こえる。「これからはテレビの時代ですよ!」彼の周りには人だかりが出来ていて、みな熱心な顔つきでテレ... [続きを読む]
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- 2008/06/13 02:45第97話 村上トメ
- 昨日は一日中雑誌の取材を受け続け、同じ質問とカメラのフラッシュにはいい加減愛想が尽きてしまった。週刊誌というのはよくもまあ低俗な特集ばかりを組めたものだと、結城は心の中では思っていたが、笑顔だけは絶やさずに仕事をこなした。好きな女性のタイプは?結婚したいと思う?キスはしたことあるの?結城は照れたようにはにかんで、言いにくそうに笑う。答えはすべて決められていた。あとはどう演じ切ってしまうかだ。自分を... [続きを読む]
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- 2008/06/08 01:00第96話 キャバレー 『holly』 649番ハル
- 口紅はピンク色のキュートなものを選んだ。アイラインを引いたあと、ぼかすようにシャドウをつける。長く伸びた髪を後ろでまとめながら、ブラシが通りにくくなっている事に改めて気が付いた。シャンプーをかえてみようかしら?昔、佳代子に教わった方法がいちばん自分には合っていると思う。髪の毛を耳のラインを境目にして、上半分をまとめて束ねる。そして下の残りの髪をブラシで上に持ち上げながら、さっきまとめた髪の束と一緒... [続きを読む]
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- 2008/06/04 22:19第95話 アイビールックとミュージックアワー
- 大きなテレビは自分の部屋にはそぐわない感じだ。ちっぽけな画面のくせにやたらと周りだけがゴツゴツぶ厚くて、チャンネルのツマミも取れやすいし何よりも重たい。一度窓際に設置してしまったが最後、女の力ではとうてい動かす事なんて出来やしない。失敗した・・・。京子はこのテレビの配置を、窓際ではなく壁際にしとけば良かったと思っていた。昨日の夜、業者を引き止めてでも位置をずらしてもらうべきだった。片方しか窓が開け... [続きを読む]
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- 2008/06/03 03:28第94話 ニアミス
- 江国タツ子は、事務所のソファに腰をおろして溜息をついた。この革製のソファは、応接用にとタツ子が自ら選んで買って来たものだ。それがこんなにも居心地の悪いモノに変わってしまうとは・・・。飲みかけのコーヒーは冷え切っていて、今さら口をつける気にもなれない。さっきまでこの場所にいた、羽根木の言葉を思い出す。「結城がいなくなりました」「いなくなったって、どういう事!?」自分の声が上ずっているのはわかっていた... [続きを読む]
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- 2008/06/02 03:11第93話 チンチン電車と自転車泥棒
- 「脱走するのさ」結城の目が生き生きとした。いたずらをする前の、何かを企てている子供のような微笑み。結城は京子の手を引いた。そして京子の返事を待たずに言った。「さ、行こう」京子は結城という男が不思議に思えてならなかった。仕事の面では『自分の分』というものをわきまえているようにも思えたし、もっともそれは彼が演じている一部分でしかないのかも知れないが・・・。それでいて、こうやって二人で会っている時は、ふ... [続きを読む]
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- 2008/05/28 22:01第92話 ファンキールック
- 車内に流れるラジオの声に耳を傾ける。たわいもない話ばかり。ファンキールックについてあれこれ語るディスクジョッキーのしゃがれ声と、聞き飽きた芸能人のゴシップネタ。京子はラジオが好きではなかった。一方的に他人の会話を聞かされているような気がしたし、前触れもなく飛び込んでくるノイズ音も神経にさわる。それよりかはテレビの方が断然優れているとも思ったし、つい最近始まったばかりのカラー放送は素敵な夢を見させて... [続きを読む]
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- 2008/05/23 00:41第91話 東京
- 1961年、京子は19歳になった。 東京で、喧騒や幻想に我が身を隠しながら生きている。 そんな生活は案外気楽なもので、自分がこの街のコンクリートの一部みたいなものに思える。 夜の仕事はもうやめた。 人付き合いは苦手だし、もともと自分には向いていないのだから。水俣にいた頃は、流れに任せて浮遊しているだけの生活だったように思う。 そのせいで佳代子には迷惑をかけてしまった。もちろん浩輝や綾子にも。 あの経験は... [続きを読む]
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- 2008/05/20 02:52第90話 さようなら、みなまた
- 新しい生活が始まった。家を追い出された君島と子供達は、京子のアパートに転がり込んだ。今さらながら、この部屋を解約しないで良かったと京子は思う。君島の家に入り浸るようになってからというもの、自分の家にはあまり帰ってはいなかったから、来週にでも大家さんの所に挨拶に行くつもりでいた。こじんまりとした台所と大きめの和室、風呂はなかったけれど一人で暮らすには充分な広さだ。ここに越していて正解だったのかも知れ... [続きを読む]
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- 2008/05/19 15:54第89話 テッポリヤフォアエンドキャンドル
- 車は国道3号線を南下して行く。 熊本から水俣へと通じる道だ。 大木はヒヨコのお面を被ったまま、けらけらと笑っている。 その度にハンドルも揺れた。 「あいつ、しょんべんチビってましたよ」 その言葉に君島も笑った。 膝を叩きながら実に愉快そうに。 京子は・・・不安になっていた。 やり過ぎてしまったのではないか、後で紳士に仕返しされたり警察に捕まったりするのではないかと思うと、心臓がノミみたいにしぼんでいくよう... [続きを読む]
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- 2008/05/19 02:50第88話 キツネとウサギ、そしてヒヨコ
- 朝の五時。熊本城の周りをゆっくりと走りながら、上通りの並木道を抜けて国道3号線へと向う。いつもと同じ景色、同じ空気。健康のために始めたジョギングも、そろそろ二年目に入ろうとしている。年齢を感じさせないお尻ですね。親しくなったトルコ譲が言ってくれた。栗色の長い髪は後ろで束ねられていて、綺麗なうなじが覗いて見える。華奢過ぎる身体も、きっと自分を喜ばしてくれるだろう・・・。冷たく乾いていく汗を感じながら... [続きを読む]
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- 2008/05/13 01:19第87話 みんなわるもの
- 小学一年生になる正義は、父親をとても尊敬していた。誰にでもやさしくて、みんなからも頼りにされている父親。休日は近所の公園でキャッチボールやパチンコ遊びをしてくれて、日が暮れるまで遊んだ後は、熱いお風呂で背中を流し合いながら色んな話をする。正義は特にパチンコ遊びが大好きだった。土管の上に並べられた空き缶が、パチンコから放たれた小石に当って勢いよく吹き飛ばされていく。その光景は爽快なものだったし、空き... [続きを読む]
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- 2008/05/09 03:31第86話 漂流
- 喪失感と共に、冬の気配が水俣を包み込んでいた。 11月のはじめに水俣の漁民達がチッソに乱入し、工場からの排水停止を訴える事件が新聞各紙を賑わせた。 小さな街に集まる人の群れは、全ての営みをなぎ倒して膨張していく。 いつの頃からか、風に運ばれる潮の匂いもしなくなったこの街で、京子の精神は次第に病んでいった。 どうでも良い事なのだ。 ヤクザの女になった事も、ヒロポンをやってる事も、不義理な自分も・・・。 これ... [続きを読む]
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