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- 2008/08/31 11:31井伊直弼という人・その2
- 前回に引き続き、井伊直弼についてです。直弼が大老として、表舞台に登場してから、桜田門外の変で斃れるまでわずか2年弱。直弼はなぜ、開国に踏み切ったのでしょうか?直弼の残したものとは何だったのでしょうか?NHK大河「篤姫」では、天璋院に、「井伊大老は、やり方はともかく、信念があった。」と語らせています。天璋院が実際にそのような評価をしていたかは不明ですが、それはどういうことだったのでしょう ... [続きを読む]
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- 2008/08/11 21:42井伊直弼という人・その1
- NHK大河「篤姫」では、天璋院となった篤姫の対立者として井伊直弼が描かれていました。多くの場合、直弼は豪腕不遜なイメージで描かれることが多く、後世の歴史的評価も辛いものが目立つように思います。今回の場合も家定の遺言を無視して天璋院の政(まつりごと)への関与を阻み、幼少である家茂将軍を慇懃無礼に奉り上げて、強引に政治を進める人物像となっています。井伊直弼とは、どのような人物だったのでしょ ... [続きを読む]
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- 2008/07/20 22:50家定は毒殺か?
- NHK大河「篤姫」では、家定が帰らぬ人となってしまいました。享年35歳。家定の死を巡っては、当時から毒殺されたのではないかと噂が飛び交ったと言います。家定が将軍職を務めたのは、嘉永6年(1853)11月23日から安政5年(1858)7月6日のわずか4年8ヶ月。篤姫とは1年半余りの結婚生活でした。家定の死の前後の主な出来事を並べると次のとおりです。安政5年(1858)4月21日老中首座・堀田正睦、「福井藩主・松平慶永 ... [続きを読む]
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- 2008/07/05 00:33七男でも将軍候補とされた理由
- 「水戸斉昭の七男である慶喜が兄たちを飛び越えて将軍候補とされたのは何故ですか?」という質問をいただきましたので今回は、この辺の事情について触れてみたいと思います。慶喜の父・斉昭は、子沢山で子供たちに合理的でユニークな名前をつけました。次男であれば二郎麿、三男であれば三郎麿、十男から十九男には余○麿、二十男から二十二男には二十○麿です。長男だけは鶴千代麿と名がつけられました。後に水戸藩十代 ... [続きを読む]
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- 2008/06/29 20:35将軍になりたくない理由
- NHK大河「篤姫」では、一橋派の旗色が悪くなってきたようです。前回もご紹介しましたが本寿院は大の水戸嫌いではありましたが、篤姫と表立って対立した事実はないようです。本寿院は、家定の実母で将軍家の身内の待遇ではありましたが、前将軍・家慶の側室ですから正室たる篤姫とは身分が異なり、後の天璋院(篤姫)と家茂の御台所・和宮との対立とは、事情が違うところだと思います。篤姫は、義父・島津斉彬から託され ... [続きを読む]
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- 2008/06/22 19:15家定の生母・本寿院の生涯
- NHK大河「篤姫」では、将軍・家定の生母・本寿院が将軍家後継を巡って、篤姫に対決姿勢を露わにしていきそうです。前回ご紹介したとおり、本寿院は大の水戸嫌いで水戸斉昭の子である一橋慶喜が将軍後嗣となることに大変な拒否反応を示していました。ただ、ドラマではともかく、本寿院と篤姫が深刻に対立したという記録はないようです。本寿院の落飾前の名前は、お美津の方(竪子)で中級旗本・跡部氏の娘でした。姉が ... [続きを読む]
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- 2008/06/15 15:34大奥の水戸嫌い
- NHK大河「篤姫」について、indoor-mamaさん(今日は何の日?徒然日記)から「一橋派と南紀派の争いで大奥が慶福(家茂)を推す理由として水戸嫌いが強調されているが、水戸と大奥の間に何かモメる原因があったのでしょうか」という趣旨のコメントをいただきました。実は、この点は重要な視点であるにも関わらず、あまり取り上げられることがないような気がします。一般には、慶喜の父である水戸斉昭の女グセの悪さと [続きを読む]
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- 2008/06/08 10:28一橋慶喜と紀伊慶福の将軍家後継争い
- NHK大河「篤姫」では、いよいよ一橋家当主・慶喜(平岳大)と紀州藩主・慶福(松田翔太)との将軍家後継争いが始まるようです。一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)は、後の十五代将軍・徳川慶喜で、徳川慶福(とくがわ よしとみ)は十四代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)です。一橋慶喜を推していたのは、老中・阿部正弘、実父・徳川斉昭、、越前藩主・松平慶永、尾張藩主・徳川慶勝、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩 ... [続きを読む]
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- 2008/06/01 20:33老中・阿部正弘
- NHK大河「篤姫」では、露出度のわりには、いま一つ存在感が見えてこない老中・阿部正弘(草刈正雄)ですが、今日の放送では39歳という若さで死んでしまいます。老中(ろうじゅう)とは ⇒⇒⇒ 幕府の面白役職幕末史の舞台には実に多くの人物が登場します。その中でも、彼こそが幕末という時代の幕を切って落とした人物であるという点で非常に重要な人物なのです。阿部正弘の時代は、内外に非常に困難な問題を抱えて [続きを読む]
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- 2008/05/24 17:21大奥側室の存在〜お志賀の方
- NHK大河「篤姫」では、篤姫のライバルとして側室・お志賀の方(鶴田真由)が登場しています。お志賀は実在の人物です。しかし、お志賀については、詳しいことがわかっておらず、これまでは余り描かれることの少ない人物でした。伝わるところによると、旗本・堀美濃守の娘でお目見え以下の御三の間からお目見え以上の中臈(ちゅうろう)になったといいます。御三の間というのは旗本の娘が最初に就く役職であり、将軍の [続きを読む]
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- 2008/05/18 22:40御台所の一日2
- 全く意図していなかったのですが、先週のNHK大河「篤姫」でも御台所の日課みたいなことを解説していましたね。さて、前回に引き続き御台所の一日の午後編です。 ⇒⇒ 御台所の一日1(午前編)九ツ時(12時)、昼食をとり終わると入浴です。お湯は、湯船の水を沸かすのではなく、別の場所で沸かして適温になったお湯を運ぶので非常に手間がかかりました。以前は、朝に入浴をしていましたが、あまりに慌しいので昼にし [続きを読む]
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- 2008/05/11 11:39御台所の一日1
- NHK大河「篤姫」では、いよいよ篤姫が大奥に輿入れします。篤姫は、婚儀が済むと御台所と呼称されるわけですが、今回は、御台所の一日をご紹介します。こちらも参考にどうぞ ⇒⇒ 「御台所の居室」御台所は、通常は大奥の御切形ノ間を寝所に使っていました。六ツ半(午前7時)に御中臈が「お目覚め、おめでとうございます」という言葉をかけて、御台所の一日が始まります。続いて、御下段の間で御中臈の補助によっ [続きを読む]
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- 2008/05/06 18:38家茂の逸話2
- 家茂は、政治総裁職・松平慶永に対して次のように話したと言う。「和宮様と仲良く、大切に思えば、自然と朝廷との間柄も良くなるのであって、形だけを装っても実がなければ上手くいかないだろう。」時局、多難の折、年若い家茂は、自分が出来ることを誠心誠意やろうと決意していたのである。 歴史ブログ集はこちら >>> 歴史ブログ 江戸時代 [続きを読む]
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- 2008/04/29 22:57慶喜、恭順の理由3
- 薩摩藩邸焼き討ち事件は、慶喜にとって痛恨事でした。武家政権の擁護者でもあった孝明天皇も今はなく、薩長側が明治天皇を擁している現状では、幕府側から拳を下ろすことは朝敵となる可能性が非常に高かったのです。慶喜の敵は、朝廷ではなく薩長勢力でなければならなかったのです。だからこそ、幕軍を京都から撤退させ、軍事力を維持したままで政治力に訴える戦略で巻き返しを図っており、前回述べたように着々と成果を挙 [続きを読む]
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- 2008/04/26 22:41慶喜、恭順の理由2
- 前回に続いて、大政奉還後の慶喜の行動について、ご紹介します。慶喜の採った大政奉還に対して、薩長側は慶応3年12月9日、岩倉具視・西郷隆盛の主導により、薩摩兵が御所九門を固め、親幕派の摂政や朝彦親王らの参内を阻止して15歳の明治天皇を戴き、王政復古の大号令を発するのです。王政復古の大号令は、慶喜から見れば、薩長勢力による武力クーデターに他なりません。この時点では、慶喜は恭順どころか、激怒して対決 [続きを読む]
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- 2008/04/20 23:13慶喜、恭順の理由1
- 最後の将軍・慶喜の評価は、非常に難しいものがあります。慶喜は、徳川斉昭(水戸徳川家)の七男として生まれ、幼い頃から、斉昭はじめ十二代将軍・家慶からも資質を高く評価されて帝王学を授けられます。七男ではありましたが、斉昭と正室の登美宮吉子の子は、長男・慶篤(水戸家10代藩主)と慶喜だけであったため、斉昭は、慶喜を慶篤の控えとして考えていましたが、時代は慶喜を放っておいてくれませんでした。徳川 ... [続きを読む]
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- 2008/04/05 15:48篤姫展で思ったこと
- 今週、関東地方で仕事があったため、時間を見つけて江戸東京博物館で開催されている篤姫展に行ってきました。想像以上の客入りで客の7割は、中高年の女性で熱心に書状等に見入る人が多くいました。書籍などでいろんな知識が頭にあるものの、実際に篤姫が書いた書状や身の回りの品々を見ると少しだけ篤姫の心情や当時の微妙な政治情勢がよりリアルに理解できたような気がします。・篤姫の将軍家輿入れは、それ自体が実現 [続きを読む]
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- 2008/03/31 00:28大奥に入らなかった御台所
- 御台所(将軍の正室)は、本丸大奥に住むのが徳川将軍家の慣わしとなっていましたが、15代将軍・慶喜の御台所・一条美賀子は、大奥に入りませんでした。慶喜は、はじめ一条忠香の娘・千代と婚約しますが、千代が疱瘡をわずらったために婚約解消し、今出川公久の娘の延(美賀子)を一条忠香の養女として、再度、婚約します。一条忠香は後に左大臣、国事御用掛の要職を歴任し、忠香の下の娘は明治天皇の皇后となっています [続きを読む]
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- 2008/03/14 19:35慶喜の逸話1
- 後に神君家康公の再来と言われた慶喜がまだ、七郎麿と呼ばれていた子供の頃、祖母にあたる瑛想院が七郎麿をきびしく叱りつけたところ、恐れ入るどころか「なんだ、この坊主め」と言い、瑛想院の頭を思いっきり打ったという。瑛想院は七郎麿の剛毅な態度を逆に気に入り、特に七郎麿を愛したという。 [続きを読む]
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- 2008/03/09 14:05大奥 「開かずの間」の話
- 大奥には、幕末まで「開かずの間」として、大奥女中から恐れられていた部屋がありました。この部屋は使用されないにも関わらず、火災などによる度重なる再建の際にも必ず再建されたといいます。部屋の名前は「宇治の間」。大奥のほぼ中央部に位置し、上段の間が25畳で次の間が16畳の広さ、大奥の中でも相当な広さがある部屋でした。初期の頃は将軍家嫡子の部屋だったとも、御台所の部屋だったとも言われています。 [続きを読む]
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- 2008/02/16 23:11家茂の逸話1
- 家茂の生母・実成院は大変な酒好きであったが、家茂は酒を好まず、大の甘党であった。家茂は、三度上洛しているが道中では各地の甘いものを好んで食べ、気に入ったものは宿にまで届けさせたという。大坂城にいた時には、江戸にいる和宮や天璋院からも羊羹や落雁などのお菓子が差し入れられたという。そのせいか家茂の遺骨の調査では、虫歯が30本も確認されている。様々な圧力に悩み耐えた将軍家であったが、歯痛にもかなり悩 [続きを読む]
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- 2008/02/10 11:29天璋院篤姫のクイズ挑戦者求む!
- 天璋院篤姫についてのクイズ問題を作成しました。気軽に挑戦してみてください。クイズは武士の時代にありますがこちらから入ることもできます⇒「篤姫」基本問題 ... [続きを読む]
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- 2008/02/09 16:36さっぽろ雪まつり「犬山城」
- 現在、札幌では第59回さっぽろ雪まつりが開催されています。ここ数年、お城の大雪像が続いていますが今年は「国宝犬山城」。犬山城は、国宝指定4天守閣の一つで個人所有としては国内唯一の城として有名です。私も3度ほど行ったことがありますが、木曽川南岸の高台にそびえる姿は非常に美しい!江戸時代の儒者・荻生徂徠が李白の詩になぞらえて白帝城と命名したのもうなずけます。左の写真は、昨日の夜に撮影した雪像。右 ... [続きを読む]
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- 2008/02/06 23:52家定の逸話2
- 1855年12月、アメリカ領事タウンゼント・ハリスは家定に謁見した時の家定の様子を次のように書きとめている。「大君は自分の頭を、その左肩を超えて後方へぐいっとそらしはじめた。同時に右足を踏み鳴らした。これが三、四回くりかえされた。それからかれは、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりとした声で次のように言った。『遠方の国から、使節をもって送られた書翰に満足しています。また使節の口上についても満足し [続きを読む]
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- 2008/02/05 21:55家定の逸話1
- 家定は、多病であり非常に癇が強く、本人の意思にかかわりなく首や手足がピクピク動くという体質を持っていた。また、天然痘にかかって、顔にあばたがあったため、人に会うのも嫌がる傾向があった。好んでしたことは自ら、薩摩芋や唐茄子を煮たり、饅頭やカステラを作ることだったという。 ... [続きを読む]
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