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- 2008/07/23 23:47佐味田宝塚古墳出土鏡尚方銘文
- 長方形鈕孔の左味田宝塚古墳出土鏡(三角縁神人車馬画像鏡)がありますが、そっくりさんが魏の都だった洛陽の地で出土しています。銘文の「尚方」が洛陽出土鏡では「※氏」に変っていますが、他はよく似ています。「尚方」は魏の官営工房であり、「※氏」は魏の官営工房の関係者であるということになります。残念ながら「※氏」の氏名不詳となっています。また同じ様な銘文をもつ国内出土鏡が知られていて、これらもはっきりと魏鏡... [続きを読む]
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- 2008/07/23 17:53老松若松 おいまつわかまつ
- 老松若松譚(『玉勝間』『源平盛衰記』)後白河法皇、賀茂大神に参籠し、神託を得る。いわく、「長門壇ノ浦にいる老松若松なる母娘に海中の宝剣を探させよ」よって法皇、源義経を使わしその海女二名を探さしむ。ふたりは潜水し翌日浮上、尋常の力ではあげることあたわずと申し、如法経書写したる経典を身にまとい再度海中へ埋没せり。しかるに海女、竜宮へ至る。宝剣を探して参ったと門前で伝えれば、中へとめさる。庭には二丈ほど... [続きを読む]
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- 2008/07/23 17:52海人 かいじん あま
- 海人族 かいじん・ぞく あま・ぞく●『日本書紀』応神天皇紀 「処々の海人(あま)ざわめきて命に従はず、ゆえに安曇連の祖・大浜宿禰をつかわしてこれを平定し、大浜をもって海人の族長に任ずる」●『古事記』応神天皇条海部、山部、山守部、伊勢部を設置する。●羽原又吉説海人には家船型と潜水型の二つがある。前者はワタツミの神を祀り、後者はムナカタ系の神を祀る。宗像系とは住吉三神のことである。地域的には前者は瀬戸... [続きを読む]
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- 2008/07/23 16:24散村 さんそん TownShip
- 散村 さんそん散居村とも言う。家屋が1戸または数戸ずつ散在(さんざい)している村落のこと。わが国では,富山(とやま)県の砺波(となみ)平野,島根(しまね)県の出雲(いずも)平野,北海道(ほっかいどう)の屯田兵(とんでんへい)村などに見られる。http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30018030.html古い形の村落型式で、特に風の強い日本海側で周囲を杉などの防風・日よけ林で囲まれ、一カ所に民家が集まらず耕作地、水田地に点... [続きを読む]
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- 2008/07/22 08:46篠田謙一 しのだ・けんいち
- 篠田謙一 しのだ・けんいち国立科学博物館人類第一研究室長分子人類学の研究者著書 『日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元的構造」NHKブックス 2007 DNA解析による人類学の第一人者。すべての現生人類は20万〜10万年前にアフリカで生まれ、7万〜6万年ほど前にアフリカを出て全世界に広がった・・・という今では人類進化の常識となったミトコンドリア・イブ説の申し子的ラジカルな学者。尾本恵一博士の愛弟子... [続きを読む]
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- 2008/07/21 18:15三上山
- 三上山 みかみ・やま滋賀県東南部野洲市にある聖なる山。その地名はもしかしたら中国神仙思想の三神山?ここが重要な場所であることはふたつの古墳に阿蘇凝灰岩ピンク石が使われたことから推測できるが、かつては和邇氏、息長氏、三尾氏などの近江における本拠地で、琵琶湖交通による日本海側ラインへの中継地だったことから想像できる。そして伊勢遺跡という不可思議な、一時的な隆盛を極めながら消えて行く謎の集落があったこと... [続きを読む]
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- 2008/07/21 17:18尚方 しょうほう
- 尚方 しょうほう中国秦から漢、魏にいたる官製工房の呼称。帝室が作る鏡のすべてには「尚方」作銘文が入る。魏王朝は、呉と比較して紀年銘鏡はきわめて少なかったが、それでもちゃんとこうした鏡は残っている。例えば著名なところでは梅原末治氏が記録した甘露四年紀年銘文入り獣首鏡にはこうある。 甘露四年五月十日 右尚方師作竟 青且明 位至三公 □高官 □子〓孫甘露四年は魏の257年。呉にも甘露年号はあるが甘露は... [続きを読む]
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- 2008/07/21 16:28陳氏銘鏡、陳是銘鏡の分布図
- 参考文献 藤田友治『古代日本と神仙思想』から編集青色● 陳氏銘鏡分布地薄緑● 陳是銘鏡分布地面白いと思ったらクリックして!→http://history.blogmura.com/にほんブログ村 歴史ブログ 面白いと思ったらクリックして!→http://history.blogmura.com/his_archeology/にほんブログ村 考古学・古代史ブログ 面白いと思ったらクリックして!→http://science.blogmura.com/にほんブログ村 科学ブログ 面白いと思ったらクリッ... [続きを読む]
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- 2008/07/21 14:10魏が認める銅鏡は卑弥呼の鏡か?
- 大阪府狭山池ダム資料館の小山田宏一(こやまだ・こういち)氏は鏡分析に実績のある考古学者でもあるが、魏は後漢を引き継いだという意識の強い国家で、曹操以来後漢復古鏡や模倣鏡を重視していたと言っている。となると卑弥呼が魏から下賜された鏡も当然神獣鏡などの神仙思想色のない、後漢時代の鏡の模倣品でなければならなくなる。小山田氏はそれを方格規矩四神鏡だったのではないかと推定している。かわかつがHPで使っていた... [続きを読む]
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- 2008/07/21 12:19後漢鏡・神獣鏡・中平年鉄剣の矛盾する同居
- ここまでの分析では邪馬台国畿内説を展開するにはあまりにも考古学では矛盾点が多すぎるように見えるかも知れない。つまり先に記載した天理市和邇東大寺山古墳の飾環頭鉄剣は畿内の和邇氏と後漢との交流が考えられるのに、神獣鏡の分布では圧倒的に呉鏡である神獣鏡の分布地域は畿内だ。このような矛盾が諸説を未だに悩ませている。しかしながら、ここに後漢鏡の分布推移を勘案してみると、三国志時代の趨勢がいかにケースバイケー... [続きを読む]
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- 2008/07/21 11:28神獣鏡 しんじゅうきょう
- 神獣鏡 しんじゅうきょう神獣鏡の絵柄の多くは紀元前5世紀前後の中国南朝時代に派生した神仙思想(のちに五斗米道、太平道を経て道教の陰陽・五行に発展)の題材に満ちている。神仙思想とは一言で言えば仙人、不老不死を信じる中国の歴史で唯一の独自宗教、哲学。教義の中心にあるのは黄帝と老子の哲学。これを黄老思想と呼ぶ。特に三神山(さんしんざん)への憧れが強く、その起こりは紀元前4世紀の渤海沿岸。当初は山の神を祭 [続きを読む]
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- 2008/07/13 18:53北朝鮮平壌付近、徳興里古墳壁画装飾
- 徳興里古墳 トッコリ・こふん平壌西南20キロ、南浦市江西徳興里の所在する壁画を持つ古墳。東潮氏などの分類は難しいのではしょる。全面をしっくいで塗り固め、被葬者、騎馬射的、高床倉庫、蓮華文、男子七宝行事(神への貢ぎ物をささげる儀式)などが一覧図で描かれている。前室天井部には牽牛・織女、月とヒキガエル、太陽と三本足のカラス、天体図が描かれ、その型式の点で高松塚にとどまらず九州の装飾古墳にも共通する観念 [続きを読む]
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- 2008/07/13 18:50和邇東大寺山古墳出土飾環頭太刀銘文
- 天理市和邇 東大寺山古墳出土飾環頭鉄剣以前の記事で「素環頭」と書いてしまったが、実際は装飾が施された飾環頭太刀である。訂正しておわび。刀身は平造り内反り。飾環頭は青銅製。4世紀前半〜5世紀の和邇東大寺山古墳から出土。鉄剣刀身棟には銘文が刻まれており、 「中平□□五月丙午造作□□百練清□上應星宿□□□□」 支刀 剛 下辟不詳 と銘文が刻まれている [続きを読む]
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- 2008/07/08 20:27和邇・氏 ClanWani
- わに・うじ氏族としての表記は和邇、和迩、和耶などがあり、部としては丸部がある。本拠地は奈良県天理市櫟本(いちのもと)、滋賀県琵琶湖湖西の和迩、小野、あるいは湖南の野洲など。のちに中臣氏に吸収される大春日氏なども同族となっている。天理市の東大寺山古墳から後漢終末期時代の「中平」年(180年代)が刻まれた素環頭鉄剣が出土していることから、和邇氏が西暦180年代にはすでに後漢あるいは公孫氏の燕国と交流が... [続きを読む]
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- 2008/07/01 19:19旧唐書倭国伝と日本伝
- 『旧唐書倭国伝』 倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中国通。其国居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘国、皆附属為。其王姓阿毎氏、置一大率、検察諸国、皆畏附之、設官有十二等、其訴訟者、匍匐而前地。多女少男、頗有文字、俗敬佛法、並皆跣足、以幅布蔽其前後、貴人戴錦帽、百姓皆椎髻無冠帯。婦人衣純色、裾長腰襦束髪於後、佩銀花長八寸左右各数 [続きを読む]
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- 2008/06/29 17:37蒲池・氏 ClanKamati
- 地名を名乗る氏族は山ほどある。それは時代によってさまざまである。例えば同じ熊本の菊池氏も中世の武士であるが、その出自は熊本ではないし、まして古代のキクチヒコともまったく無縁であるのと同じで、蒲池氏にも三種類ほどの伝承と説が存在する。●多氏の子孫説は、阿蘇神社関係の古文書によると「阿蘇氏の祖とされる多氏は神武天皇の子の神八井耳命の子孫とされ、「神八井耳命の孫の速瓶玉命(はやみたまのみこと)の奥方(妃 [続きを読む]
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- 2008/06/29 09:45石貫ナギノ横穴古墳群
- 熊本県北中部、菊池川沿線には7世紀以降の装飾横穴古墳群が散在している。その中のひとつに玉名市石貫ナギノ横穴古墳群がある。その画像。多用される装飾は円文を中心とする顔料壁画である。熊本市よりも西南部で展開されたレリーフと着色による靫部たちの横穴古墳とは、若干おもむきを異にする技法を多用するが、横穴そのものの作り方はよくにている。内部に複数の死床を持たせ、複数の埋葬が可能である。にしても、この時代の氏... [続きを読む]
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- 2008/06/29 09:26石神井とミシャグジー
- 長野県諏訪盆地の祭祀形態である「ミシャグジー」について、いくつかの説では「石神」=シャクジンの音韻変化をあげている。諏訪湖の周囲には7つの巨石の点在が確認されており、先土器、縄文からの原始信仰ではなかったかと考えられているようだ。このシャクジン信仰は東日本を中心に全国に点在した、共通の祭祀観念だったようで、たとえば東京の石神井地名などもそのなごりかと思える。流れとしては、在地にあったシャクジン信仰 [続きを読む]
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- 2008/06/28 15:02疋野神社縁起と由来推測
- 『疋石野大明神由来』http://koueki.net/narita/061/097/narita609654.html疋石野という表記がどうやら正しい元の社名であろうから、これは菊池川産阿蘇凝灰岩を切り出して引いたという意味になるだろう。そして波=に船で大和に運んだ祈念の神社だと言える。従って祭祀がここにあったのはリーフレットが言うとおりに古いだろうが、疋野は「引き石野」由来であろうから神社成立としては、菊池川産阿蘇凝灰岩石棺が古墳に現れる5世 [続きを読む]
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- 2008/06/28 14:34疋野神社
- http://www.hikino-jinja.jp/疋野神社リーフレットより編集引用 ○「疋野神社は2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社で」「疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられ2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です。」●2000年以上の歴史を持つ神社という表現は正確ではないと言える。神社規定を定める延喜式ですら645年の大化の改新よりもあとであるから「神社」と書くのは嘘になってしまうから、聖地として弥生 [続きを読む]
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- 2008/06/26 17:23日田の日下部氏結論
- 日下部氏について「新撰姓氏録」は『阿多御手犬養同祖 火闌降命之後也』と記述し、あたかも在地氏族のように書くが、日下部はあくまで倭五王雄略時代の役職名である。ただしその役職名の始まりが大和のくさかえや肥後の草部だった可能性は今後追求されるべき。豊後国風土記には日田郡の靫負日下部一族の名前が載っている。これが肥後八代方面から移動したであろうことはまず間違いなかろう。これも雄略のあと消えて行く氏族である... [続きを読む]
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- 2008/06/26 17:21筑紫の水沼君
- 筑紫の水沼君 つくしのみぬまのきみ「旧事本記」に「水間君の祖、物部阿遅古連あじこのむらじ」とある。日本書紀には 『即ち日神の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめかみ)を以ては、葦原中國の宇佐嶋に隆(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在(ま)す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。此筑紫の水沼君等の祭(いつきまつ)る神、是なり』 とある。・・・・・・・・・・・・・ [続きを読む]
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- 2008/06/22 17:15火中君
- 火中君 ひのなかのきみ欽明紀17年 「治世17年春1月、百済王子の恵が帰国を願い出た。よって多くの武器、良馬の他、色々な物を賜わり、多くの人々がそれを感嘆した。阿部臣、佐伯連、播磨直を遣わして、筑紫国の軍船を率い、護衛して国に送りとどけさせた。別に筑紫火君(つくしのひのきみ)を遣わし、勇士一千を率いて、弥弖(みて)の港に送らせ、航路の要害の地を守らせた。」欽明紀同7年「百済本記に云ふ。「筑紫君の児... [続きを読む]
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- 2008/06/22 13:29日置氏
- 日置氏 へぎ・うじ熊本県玉名郡の郡領(郡司クラス)の氏族名。1994年菊水町瀬川鶯原発見の銅板墓誌に「玉名郡人権擬少領外少初位下日置○公」とある。8世紀後半の墓。日置郡公。『到津文書』にも玉名郡の日置氏の名前がある。日置は地名、郡公は役名なので実際の氏姓は不明。『出雲国風土記』神門郡日置郷記事あり。6世紀欽明朝に成立した氏族名か?玉名郡には疋野(ひきの)神社があったから「ひき」が横訛ったか?玉名郡... [続きを読む]
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- 2008/06/22 13:01木〓満到・木〓斤資
- 木〓斤資・木〓満到(もくらこんし・もくらまんち)●神功皇后紀62年(382年?)倭の沙至比跪(さちひこ)が北加羅を蹂躙して新羅を利する行為に走ったので、百済の木〓斤資がこれを駆逐し王政復古した。●応神天皇紀25年(414?)の『百済紀』引用文 木〓斤資が新羅を攻撃したときに新羅の女性との間に生まれた子が木〓満到。任那専権。百済に入り倭国とのあいだを行き来した。倭王の指示を受け百済国政に影響力を持っ... [続きを読む]
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