ジャンキー将軍 さん

ジャンキー将軍さん: 江戸散歩
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プロフィール

ハンドル名ジャンキー将軍 さん
ブログタイトル江戸散歩
サイト紹介文江戸時代のあんな話こんな話を紹介します。
自由文江戸時代は、いろんな意味で、私たちの知る「日本」が始まった時代といっていい。
現在「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を紹介します。
参加カテゴリー
更新頻度情報提供95回 / 170日(平均3.9回/週) - 参加 2008/02/25 14:34

ジャンキー将軍 さんのブログ記事

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  • 2008/08/07 05:33江戸時代、時間を知るのにもお金が必要だった?
  • 江戸の庶民の生活リズムを刻んでいたのが「刻の鐘」だ。戦国時代にヨーロッパから時計が伝わっていたものの、時刻というものにたいする庶民の認識はあいまいだった。それが徹底されることになったのは、寛永3年(1626年)に、日本橋の石町(こくちょう)で、江戸ではじめて刻の鐘がつかれてからだといわれている。日本橋をきっかけに、上野、浅草、市谷八幡、芝切通、本所横川、目黒不動、赤坂田町、四谷など、江戸の町域の... [続きを読む]
  • 2008/08/06 09:43江戸の町には「門限」があった?
  • 江戸っ子の夜は短い。なぜなら、門限があったため、夜遊びなどできなかったからだ。江戸の町では、一町ごとに木戸が設けられていて、夜四つ(午後10時)になると、戸が閉められて出入りができなくなった。木戸のそばでは木戸番が見張っており、明け六つ(午前6時)までは木戸は開かなかったのである。それは、夜鳴きそば屋であっても例外ではなかったため、彼らはどんなに遅くても、夜四つに間に合うように店じまいをした。だ ... [続きを読む]
  •   関連キーワード
  • 江戸
  • 2008/08/05 09:36春日局の門限までたしなめた怖いも知らずの門番がいたって?
  • 「ちょっと時間がすぎただけなのに・・・・」お役所を相手にすると、そう思わされることがたびたびあるが、時間にうるさいのは、江戸城のお役人も同様だった。とくに、大奥女中たちが出入りした平河門の守り役、小栗又一郎という旗本は、時間に厳しいことで有名だった。徳川家の三代将軍・家光の乳母である春日局に対してさえ、手心を加えることがなかったという。その当時、平河門が開くのは午前6時、閉まるのは午後6時ときま ... [続きを読む]
  • 2008/08/03 09:52江戸時代、同じ宿への連泊が禁じられていた?
  • 旅をする庶民が利用する宿は二種類あった。ひとつは旅籠と呼ばれる、朝夕の食事を用意してくれる宿である。東海道では、ひとつの宿場に平均して55軒ぐらいの旅籠があったといわれる。もうひとつが、木賃宿である。こちらは、料金は旅籠よりもぐっと安く、旅籠の3分の1から10分1の料金で泊まれたが、食事の用意のない素泊まり専用の宿だった。木賃宿に泊まる場合は、米などの食材を持参し、鍋や七輪などを宿から借りて自炊... [続きを読む]
  • 2008/08/02 10:04江戸時代、女性が旅をするのは大変だった?
  • 江戸時代にも中期になると、人々は名所見物や温泉、お伊勢参りなどで、さかんに旅に出た。しかし、庶民が勝手に泊りがけの旅に出ていいわけがなかった。町名主の許可書がなければ、関所を通れないしきたりだったのだ。とくに女性が旅に出るのは困難だった。なぜなら江戸時代には、女性は家を守ることが本分で、遠くに旅に出るなどとんでもないと考えられていたからである。こうした風潮を表す言葉に「入り鉄砲に出女」がある。つ ... [続きを読む]
  • 2008/07/30 09:49江戸時代に出現したストリーキング事件とは?
  • 全裸で公共の面前を走り抜けるストリーキング事件は現在もたびたび起きている。江戸時代にもストリーキングが出現したという記録が残されている。寛政6年(1794年)、岡山の池田藩に、学問のしすぎでノイローゼ気味になった若者がいた。中川四郎七という青年で、言動が怪しくなってからは座敷牢に閉じ込められていた。ある夜、四郎七は座敷牢を抜け出すと、何を思ったか、全裸になって駆け出した。深夜なので、外を歩く人は ... [続きを読む]
  • 2008/07/28 09:05江戸時代、女性の髪形の流行は遊女からだった?
  • 江戸の女性のヘアスタイルといえば、髪を束ねて結った日本髪。今、浮世絵などを見てもイマイチ違いがわからないという人がほとんどだろうが、ひと言に日本髪といっても、その種類はじつに多様で、数百種類以上におよぶ。といっても、江戸初期には、「垂髪(すいはつ)」と呼ばれる長い髪をうしろに垂らすスタイルが一般的で、武家も庶民の女性も、だいたい似たような髪形をしていた。髪を結い上げる習慣は、上流家庭の女性が結っ ... [続きを読む]
  • 2008/07/27 11:04「蓮を見に行こう」が誘い文句だった場所とは?
  • 今なら、「ちょっと休んで行く?」とか「シャワーを浴びて帰る?」というところを、江戸時代には「不忍池に蓮を見に行きましょう」と声をかけた。これが「ラブホテルに行こう」という誘い文句だった。当時のラブホテルは「出会茶屋」と呼ばれ、江戸では、上野の不忍池あたりに集中していた。不忍池は蓮の名所だったので、蓮見物を口実に誘ったのである。「蓮を見に息子を誘ういやな後家」という川柳も残っているくらいで、「不忍 ... [続きを読む]
  • 2008/07/25 10:20「三の酉には火事が多い」説と吉原との意外な関係?
  • 江戸に火事が多かったのは、木造住宅が密集していたこと、そして冬場は空気が乾燥しているために、またたく間に燃え広まったことが原因とされている。じっさい、空気が乾燥しはじめる11月ごろから、江戸では火災が頻発したが、なかでも「三の酉」のある年は、とくに火事が多いといわれた。じつは、このウワサの出所は、世の中の女房族。女房たちが亭主の浮気を封じるため、こういいはじめたのだ。毎年、11月になると、江戸の ... [続きを読む]
  • 2008/07/24 11:01吉原でモテたい武士がとった苦肉の策とは?
  • 吉原で、武士がモテたのは、江戸初期のほんの短い期間だけ。幕藩体制が落ち着き、貨幣経済が発展すると、お金をもつ町人が増えたからで、お金がモノをいう世の中になあると、金のない武士の評判は一気に落ちていった。懐が寂しいので、チップをケチる。なのに、いざ布団に入ると鼻息だけは荒い。そのくせプライドは高いというわけで、遊女たちの評判は散々だった。なかでも嫌われたのは、参勤交代で江戸に出てきたばかりの田舎 ... [続きを読む]
  • 2008/07/23 10:22夜遊び好きのお坊さんの“変身スタイル”とは?
  • 芸妓さんが行きかう京都の祇園の小路で、ベレー帽をかぶった男性を見れば、それは、たいていお坊さんである。お坊さんも、芸妓遊びをしたいが、まさか袈裟姿で祇園の町を歩くわけにはいかない。普通の服を着ても、剃りあげた頭を見れば、誰にでもお坊さんだとバレてしまう。そこで、ベレー帽をかぶることが習慣のようになったのだ。江戸時代のお坊さんたちも、吉原へ遊びに行くときは、ある職業に変装して通ったという。医者で ... [続きを読む]
  • 2008/07/21 09:23天保の改革に「男娼の禁止」が含まれていたワケ?
  • 天保の改革が、江戸時代、老中の水野忠邦によって行われたことは、中学校の社会科でも教えてくれる。しかし、その改革のなかに、男娼の禁止がふくまれていたことまでは教えてくれないだろう。じつは、この男娼禁止、水野忠邦の体験から加えられた措置のようなのである。彼が、老中になるまえのこと、ある大名に招かれた宴席で、忠邦はひとりの“美少女”にひかれた。接待に出ていた“少女”だったのだが、身なりや立ち振る舞いか... [続きを読む]
  • 2008/07/20 10:10僧侶が通った「陰間茶屋」とは?
  • 江戸時代は男色が盛んで、将軍にも男色者がいた。上がそうなら下も同様で、武士や町人には、女性よりも男がいいという者が少なくなかった。彼らは、好みの芸者に言い寄って思いを遂げたいのだが、なかなかそれができない男もいる。あるいは、いろいろな少年を味わいたい男もいる。そんな欲望に応えて、江戸では「陰間茶屋」が繁盛していた。陰間とは、もともと歌舞伎俳優を目指す少年のことをいったが、しだいに男相手に売春す ... [続きを読む]
  • 2008/07/18 09:23女郎屋主人が提案した黒船退治のアイデアとは?
  • 江戸時代は、士農工商という身分制度を基礎にした完全な上意下達の社会。お上のいうことは絶対で、お上が庶民の言い分に耳を傾けることなどほとんどなかった。ところが、ペリー提督率いる4隻の黒船が、浦賀沖に来たときには、幕府もよほど動転したとみえ、町人たちにまで、黒船退治の妙案をつのっている。もっとも、幕府からすれば、「黒船退治についての献策を許可する」という言い方になるのだが・・・・・。この騒動を利用し ... [続きを読む]
  • 2008/07/16 09:36江戸の水車小屋で、爆発が多発したのはなぜ?
  • ペリー来航以降、江戸近郊では、爆発事件が続出した。といっても、開国反対論者が、幕府の施設を攻撃したのではない。爆発事故は、田園地帯に建つ水車小屋で頻発した。原因は、精米や製粉に使われていた水車小屋で、急きょ火薬の製造が始められたからである。ペリーらから開国を迫られると、幕府はさっそく軍備拡張を始めた。ところが、大砲や鉄砲といった近代兵器をそろえたところで、肝心の火薬を大量に製造できる施設がなかっ ... [続きを読む]
  • 2008/07/15 09:10自動車がない江戸時代、なぜ交通事故が多かった?
  • 交通事故は、自動車の登場以前にもあった。江戸時代にも、大八車や牛車、馬車などの“クルマ”があったからだ。これらは、さまざまな物資の輸送に欠かせない一方、江戸市中で交通事故を引き起こし、江戸の町の深刻な問題となっていた。のんびりと動きそうな大八車や牛車ではあるが、大八車は坂道では思わぬスピードがつくし、牛や馬は突然、暴走しかねない。しかも、江戸の道路は、大八車や牛車、馬車で、たえず混雑していた。1... [続きを読む]
  • 2008/07/14 11:19八代将軍吉宗が敢行した仰天の大奥リストラ作戦とは?
  • “暴れん坊将軍”八代吉宗が、ある日、大奥に対してこんな命令をくだした。「奥向きの女中のなかで、容色すぐれた25歳以下を選び出してまいれ」この命令に喜んだのが、大奥の女性たち。吉宗は紀州で正室を亡くしており、江戸に来たときは独身の33歳。選ばれた美女たちは誰もが、いよいよ玉の輿にのるチャンスがやってきたと舞い上がった。ところが、集まった美女たちを前に、吉宗はこう告げた。「今日限り、そのほうたちにヒ... [続きを読む]
  • 2008/07/12 10:04美僧が大奥の女中と“絡んだ”スキャンダルって何?
  • 享和3年(1803年)5月26日、徳川十一代将軍家斉の治世を騒がせた一大スキャンダル事件が解決した。主犯者は、「破戒坊主」として知らぬ者のなかった怪僧日潤(にちじゅん)である。日潤は、谷中延命院の僧で、希代の色男として知られていた。そのため、延命院には、日潤目当ての女性信者が大勢つめかけていた。ところが、日潤が信者といかがわしい行為をしているというウワサが、江戸市中でささやかれるようになる。それ ... [続きを読む]
  • 2008/07/11 10:15幕府も黙認した旅人のお愉しみって?
  • 江戸初期、旅人は自分で食糧を持参し、宿に着くと自炊して食べた。宿に払うのは、「木賃」とか、「木銭」と呼ばれた薪代で、これが「木賃宿」の語源である。やがて、庶民が経済力をつけて旅行者が増えはじめると、宿屋のほうで食糧を用意するようになった。食糧持参で歩いていたのでは、荷物が重くなってしまうからである。これが、食事つきの旅籠へと発展し、やがて旅籠屋のなかには、いわゆる”飯盛女”を置くところがあらわれ... [続きを読む]
  • 2008/07/10 09:33お妾さんが旦那と手を切りたいときの「奥の手」とは?
  • 大店の旦那がお妾さんをもちたいと思ったときには、仲人に紹介を頼んだ。仲人とは、お妾さんの斡旋業者のことで、契約が成立すると、旦那は支度金を払い、本格的な”愛人契約”を結んだ。大家の旦那と契約したお妾さんは屋敷の奥に入ったり、敷地内の下屋敷に住んだり、別宅に囲われた。そして最初のうちは旦那さんはもちろん、まわりの人にも気に入られるように振る舞い、布団のなかの睦言でもねだれるだけねだった。ところが、 ... [続きを読む]
  • 2008/07/08 10:12吉原で遊女の逃亡を防ぐしくみとは?
  • 吉原遊郭は、当初、今の東京の人形町あたりにあり、その辺に葭(よし)(葦の異名)茂っていたことから、「葭原(のちに吉原)」と名づけられた。しかし、明暦3年(1657年)、江戸の三分の二を焼いたという明暦の大火で類焼し、それをきっかけに浅草にほど近い、現在の台東区千束に移された。新しい吉原は、縦220メートル×横330メートル四方の一画で、まわりを堀で囲まれていた。出入り口は、「吉原大門」と呼ばれる ... [続きを読む]
  • 2008/07/06 10:15武士が夫婦で出かけるときどのように歩いてた?
  • 街中では、若いカップルが手をつないで歩いたり、男性が女性の腰や肩に手をまわして歩いている光景をよく見かけるが、その様子を江戸時代の人が目にしたら、さぞやびっくりするに違いない。江戸時代には、夫婦が人前で手をつなぐことはおろか、連れ立って町を歩くことさえできなかったのである。とりわけ、武家社会では、男尊女卑の傾向が強く、「女と並んで歩くなんて軟弱」と考えられていたから、外出する際は、たとえ娘とでさ ... [続きを読む]
  • 2008/07/04 11:20離婚時、女性は必ず三行半が必要だったワケとは?
  • 夫が妻に離婚を迫ることを、俗に「三行半(みくだりはん)を突きつける」というが、この三行半とは、「離縁状」のことである。江戸時代、離縁状を三行半で書いたところから、こう呼ばれるようになった。「三行半を突きつける」といえば、ふつう、横暴な夫が妻を追い出すというイメージがあるだろう。しかし研究者によれば、必ずしも、夫が主導権を握るケースばかりではなかったという。たとえば、離婚を望む妻が、夫に三行半を書 ... [続きを読む]
  • 2008/07/03 10:10縁切寺には、こんな悪妻も駆け込んでいた?
  • 現代でも、「別れる」「別れない」でモメる夫婦は少なくないが、江戸時代も同じだった。しかし、当時は、離婚したくても調停してくれる家庭裁判所はない。そこで、夫と別れたい妻は、まず自分の菩薩寺に駆け込んだ。お寺の住職に事情を話せば、夫にかけ合ってくれたのだ。菩薩寺以外にも、武家屋敷、陣屋、名主宅などに駆け込めば、だいたい離婚が成立した。仮に、そこで離婚できなくても、鎌倉の東慶寺や群馬の満徳寺の縁切寺へ ... [続きを読む]
  • 2008/07/02 09:43江戸時代、不倫がバレたらどんな刑罰が待っていた?
  • 江戸時代は、建前として「妻の不倫」は許されていなかった。不倫がバレると、厳しい処罰が待っており、一家を巻き込む大騒動になった。明暦元年(1655年)に、幕府が公布した『江戸市中法度』によれば、不倫は男女同罪とされ、夫は、密通した間男をその場で殺してもよいと定められていた。じっさい、妻を寝取られた武士が現場を押さえた場合は、即座にその不倫相手を斬り殺すことも許されていたのだ。さらに、寛保2年(1 ... [続きを読む]
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