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- 2008/08/11 13:10佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)
- 全長127m、後円部径84m、前方部幅70mの前方後円墳である。墳丘は三段築成で、後円部の東北部分が角張り、東南部分が多少崩れているという。七基の大型前方後円墳が、ほぼ南面しているのに対してこれは西面している。斜面に築かれているために形はかなり不整形だといわれ、埴輪の破片が散見されているといわれている。古墳の築造は5世紀前半に推定されている。称徳天皇は宝亀元年(770年)に没し、その山陵は、故式部... [続きを読む]
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- 2008/08/10 10:07佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)
- 全長207m、後円部径131m、高さ19.3m、前方部幅87m、高さ12.3m、三段築成の前方後円墳で、垂仁天皇の皇后である日葉酢媛命の陵墓とされている。しかし、かつてはこの古墳の近くに八幡神社があることから神功皇后陵とされていたこともあったという。この古墳は大正4年に盗掘をうけ、その翌年に復旧工事が行なわれたというが、当時の住民の話として、盗掘により池の水が赤くなっていたと言い伝えられているよう... [続きを読む]
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- 2008/08/09 15:20佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)
- 全長218.5m、後円部径132m、前方部幅11m、高さ16mの前方後円墳で、成務天皇の陵墓とされている。墳丘は三段築成で葺石が多く、俗に石塚と呼ばれていた。江戸時代に石棺の存在が確認されているという。後円部のそばには三基の陪塚がある。5世紀前半の築造と推定されている。大臣の登場成務天皇3年正月に武内宿禰が大臣に任ぜられ、わが国での大臣の始まりとされている。また、諸国を国・郡・県・邑という行政区画... [続きを読む]
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- 2008/08/09 09:05瓢箪山古墳
- 瓢箪山古墳の現在の形は全長77mの前方後円墳で周濠をもっている。大正時代に前方部の西側が半分以上破壊されたが、このときに長円形の粘土が発見されて、琴柱形石製品3個が出土したという。この古墳は緑地保全と古墳保護のため奈良県下で最初に買収された。整備のための調査により本来は全長94m、後円部径45m、前方部幅45mの規模であることが判明している。古墳時代前期後半、4世紀から5世紀の初めにかけ... [続きを読む]
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- 2008/08/04 07:54塩塚古墳
- 塩塚古墳は、歌姫集落の西、台地の西縁に南面する前方後円墳です。全長105m、後円部径70m、高さ9m、前方部幅55m、高さ1.5〜2mで、前方部が著しく低いという。゛後円部を中心に空濠がめぐらされているが、前方部にはない。前方部の正面では奈良時代の瓦が沢山出土したのであるが、このことは松林苑に関係しているといわれている。松林苑の内部に古墳が取り込まれた際、前方部の盛り土の上部を削平して低い壇と... [続きを読む]
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- 2008/08/01 11:09松林苑跡
- 昭和54年(1979年)に橿原考古学研究所によって、平城宮に接してその北に広大な庭園があったことが確認された。それは今までその所在地が明らかでなかった松林苑であり、考古学史上画期的な発見と言われた。『続日本紀』には、天平元年(729年)3月3日、聖武天皇は松林苑に出向いて群臣どもに縁を賜り、御在所で役人などに物を与えている。また同年、5月5日にも王臣の五位以上に宴を賜り、禄を与えている。『続日本紀... [続きを読む]
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- 2008/08/01 10:53護持院隆光の墓
- 平城天皇陵から猫塚古墳へ向う途中、護持院隆光の墓に立ち寄った。このあたりは平城京の北にあった松林苑跡の近くにあった超昇寺跡ではと推察されている。徳川五代将軍綱吉は、儒教と仏教にて治世を行なったことで知られる。知足院の亮賢という僧は桂昌院が綱吉を妊娠して以来の深い帰依があり、誕生した綱吉の顔に「天下をとる相がある」と言って桂昌院の心を掴んでしまった。綱吉が将軍になると、江戸高田薬園の地に護国寺... [続きを読む]
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- 2008/07/30 09:35市庭古墳
- 平城京の造営に際していくつかの古墳が破壊されたことが『続日本紀』に記載されているそうで、そのうちの一つが、かつては我国最大の古墳とされていたという市庭古墳、すなわち平城天皇陵という。昭和時代の調査によって、現在の平城天皇陵は、この古墳の前方後円墳の後円部とされている。市庭古墳は全長250mにも及ぶ前方後円墳であることが明らかになり、平城京の造営にあたり前方部を削り平げ、後円部のみを残したものと... [続きを読む]
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- 2008/07/30 08:42ヒシャゲ古墳(磐之媛陵)
- ヒシャゲ古墳は、全長219m、後円部径124m、高さ16.2m、前方部幅145m、高さ13.6mの前方後円墳で、仁徳天皇の皇后であった磐之媛命の陵墓とされている。墳丘は三段に築成され、くびれ部の東側には造出しがある。西側の周濠のみ水があり、東側は空堀となっている。東の外堤内側には円筒埴輪列が確認されており、北から東へかけての濠外には7基の陪塚が残存している。この古墳は、江戸時代に平城天皇陵とされ... [続きを読む]
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- 2008/07/29 09:00コナベ古墳
- コナベ古墳は、全長204m、後円部径125m、前方部幅129mの前方後円墳である。この古墳の美しい平面形はイギリス人ウイリアム・ゴ−ランドによって、既に明治時代にイギリスに紹介されているそうだ。ウイリアムは1872年から88年まで大阪造幣局の技師として滞在、その間に優秀な測量技術と卓越した観察力で古墳研究を行ったといわれているが、ただその研究成果はイギリスに帰国後に本国で発表され... [続きを読む]
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- 2008/07/28 17:35伊藤若冲作の五百羅漢
- 京都市伏見区にある石峯寺の寺内にある伊藤若冲作と伝える五百羅漢像。なお境内には伊藤若冲の墓もある。 伊藤若冲の墓... [続きを読む]
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- 2008/07/28 16:34ウワナベ古墳
- ウワナベ古墳は、全長255m、後円部径130m、前方部幅129m、高さ19.6mの大型前方後円墳で、陵墓参考地となっている。墳丘は三段構成で各段に「円筒埴輪」と斜面には葺石が認められた。西側のくびれ部には造出しがあり、周濠と外堤がある。外堤とは墳丘を区画するために掘られた周濠と、さらにその外側に掘られた外濠の間に残された地山だそうだ。この外堤については、過去三度の調査が実施され、東側外堤の... [続きを読む]
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- 2008/07/27 17:06佐紀楯列古墳群
- 奈良市の北部、佐紀丘陵の南の端、東はJR関西本線から西は近鉄京都線に挟まれた辺りを中心として、東西3キロ、南北1.5キロの範囲に点在する約50基の古墳群を「佐紀楯列(タタナミ)古墳群と呼んでいる。前方後円墳を中心に、全長200m以上のもの7基がある。100m前後のもの5基、60〜70mのものが7基有る。大和には三輪山山麓地帯の古墳群、葛城地方の馬見丘陵一帯の古墳群の両大規模古墳群と並んで楯列古墳群があ [続きを読む]
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- 2008/07/27 15:10佐紀古墳群を歩く
- 7月26日(土曜日)に、なら奈良館において、『奈良再発見シリ−ズ』の「佐紀古墳群についての講演と現地説明会の講座が開催された。午前10時から11時15分まで講演。休憩後、バスにて移動。奈良自衛隊前で下車し、「ウワナベ古墳」から「称徳天皇陵」までの古墳群を歩いて巡拝した。途中「平城京跡」にて昼食。35度を超える炎天下の厳しい講習で有った。講師は、奈良埋蔵文化調査センタ−所長・森下恵介氏。陵墓は皇室財... [続きを読む]
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- 2008/07/15 17:39居酒屋タクシ−
- 今日の朝日テレビのム−ブでコメンテ−タ−の一人、元公務員だそうだが、居酒屋タクシ−を騒ぎすぎだという話だが、そもそも居酒屋タクシ−は贈収賄ともいえると思う。なぜなら全てが個人タクシ−だからである。個人タクシ−はそれぞれが事業者である。法人タクシ−の代表者と同じ立場である。事業所得の必要経費として計上しているかも知れない。特定の官僚に自分を指定して乗車をしてもらい、金品を渡しているとすれば、贈賄とい... [続きを読む]
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- 2008/06/21 17:09富本銭出土地
- 富本銭とは平成11年1月19日、奈良国立文化財研究所は、奈良県明日香村の飛鳥池遺蹟から出土した大量の「富本銭」を分析調査した結果、日本最古の流通貨幣である可能性が高いとの発表を行ないました。それまでは私も和同開珎が日本最初の貨幣と教えられてきました。ただ、『日本書紀』の天武12年(683年)4月の条に「今より以後、必ず銅銭を用ゐよ。銀銭を用ふること莫れ。」とあり、さらに「銀を用ゐることを止... [続きを読む]
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- 2008/06/20 09:50白山神社
- 京都府宇治市白川にある神社。祭神は伊邪那美命。旧白川村の産土神。後冷泉天皇の皇后寛子が創建した金色院の鎮守社として、久安2年(1146年)加賀の白山神(菊理媛・伊弉諾・伊弉冉の三神)を勧請したのが始まりと伝え、古建築として貴重だとされている。金色院は、長禄4年焼失し、その後再興されたが、藤原氏の衰退とともに衰え、当社のみ残っている。本殿 室町時代の建築で、一間社、流造り、屋根は檜皮葺きとし [続きを読む]
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- 2008/06/20 09:47白川金色院跡
- 金色院碑 金色院発掘概要 金地院跡地辺白川金色院金色院は、後冷泉天皇の皇后寛子(藤原頼通の娘・四条宮)が康和4年(1102年)に創建したと伝える天台宗の寺院で、大聖文殊菩薩を本尊とし、七間四面の本堂には金箔をはりめぐらしたので、金色院と号したという。また、白山権現を勧請して寺の鎮守とし、不動堂や虚空蔵堂・経堂・弥勒堂・薬師堂・鐘楼等、多くの堂宇が建立された。その [続きを読む]
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- 2008/06/18 10:53矢田寺のあじさい
- 矢田寺矢田寺本堂 春日神社金剛山寺(矢田寺) ?「矢田の地蔵さん」と親しまれている矢田寺は、矢田丘陵の中心矢田山の中腹にある。南の法隆寺から矢田寺を経て北の霊山寺に至る古道は、大和で最も美しい道の一つとされている。最近では花の寺としても知られ、春は桜、梅雨の頃には紫陽花の花が境内を包むことから「あじさい寺」とも称される。 ?創建は古く、天武天皇8年(679年)... [続きを読む]
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- 2008/06/12 09:42高野山−景教碑
- 今回、高野山に行った目的の一つは景教碑を見ることでした。これまで何回か奥の院への参道を歩きましたが、この碑の存在については全く気がつかなかったのです。ところが弘法大師とキリスト教に関係が有るという話から、この碑の存在を知りました。景教とは、西暦431年の宗教会議において異端の烙印をおされたキリスト教、ネストリウスの一派がロ−マを追われたのち、シリア、ペルシャを経て、シルクロ−ドの各地にその教えを広 [続きを読む]
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- 2008/06/11 08:40高野山−奥の院(二之橋からの参道)
- 金剛峯寺・壇上伽藍の拝観後に昼食をとり、参道途中の中之橋駐車場に車を停めて奥の院に向かう。生憎の雨と、行き交う人々の傘でなかなか写真が思うように撮れない。もちろん「奥の院」は大師の聖地であり、写真撮影は不可である。雨のため、平日の雨天にもかかわらず、観光バスや自家用車等、多くの人々の参詣に弘法大師に対する人々の信仰というか、興味というか、参詣の理由を問わず訪れる人の多さには驚かされる。欧米系の外国 [続きを読む]
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- 2008/06/11 08:37高野山−壇上伽藍(不動堂ほか)
- 不動堂(国宝)不動堂は、鳥羽院皇女であった八条女院の御願によって、建久8年(1197年)に建立されたと伝える。もとは一心院谷にあったが、明治43年(1910年)国宝建造物の修理が行なわれたとき、現在地に移されたという。桁行3間、梁間四間の母屋を中心に、その右と左に脇間を庇でつけたかたちをもってる。また、正面には向拝がついている。このような複雑な平面に応じて、屋根も入母屋造りの母屋屋根を基本とし、両 [続きを読む]
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- 2008/06/10 12:28高野山−壇上伽藍(根本大塔)
- 根本大塔 壇上の伽藍建造物の中では新しいだけに、特に朱塗りの美しい色に、誰もがその立派さと大きさにおどかされる。真言密教の根本、高野山伽藍の中心となる建物である。下層の屋根の上に、鉢を伏せたような白塗りの亀腹をつくり、その上に、まるく欄を巡らせて「ひさし」を設け、更に屋上に、塔としての九輪の宝珠をそびえさせたもので、通常の三重塔や五重塔などと違った、インドの覆鉢形塔に最も近い形式で、各地の寺院... [続きを読む]
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- 2008/06/09 09:21高野山−壇上伽藍(金堂)
- 大塔、金堂をはじめ、諸堂の集まっているところを「壇上」と呼ばれている。これは大塔の鎮まる壇、道場という意味で、西の壇上伽藍と東の奥の院とは、高野山が開かれた当時から、二つの対照的な霊場とされてきたものである。現在、この壇上に並んでいる伽藍諸堂は、いずれも大師の創建から1200余年、その時代、時代によって、古くから建立されていたものですが、幾度となく落雷などで焼失し、鎌倉時代の不動堂を除くほかは、概... [続きを読む]
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- 2008/06/08 12:16高野山−明王院・龍光院・六時の鐘
- 明王院本堂 山門彫刻(右)同(左)明王院は、弘仁7年(816年)に弘法大師が嵯峨天皇より高野山の地を賜わり、高野山開創の時、七堂伽藍の建立に際し、鬼門にあたる艮に伽藍安穏と仏法興隆のため、一院を建て、五大明王を自ら安置し、五大堂明王院と名づけられたのが当院の起こりであり、高野山における最も初期の寺として山内名刹の一つです。京都青蓮院の青不動、大津園城寺の黄不動とともに、日本三不動の碑一つ赤不動の... [続きを読む]
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