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- 2008/10/07 13:11裸婦スケッチ 853
- 「モダン」とか「現代」と付くものはまず疑ってみるべきでしょう。伝統や日常などの、今までのものとは違うとの意味で「現代」が使われるわけですから、今までのものは良くないと主張する人たちの用語なわけです。現代音楽とか現代工芸とか現代建築等といわれるものにろくなものはありません。それは既存の音楽ではない、それは既存の工芸ではない、それは既存の建築ではない、といった意味が含まれます。音楽や工芸や建築が変わる... [続きを読む]
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- 2008/10/06 09:24裸婦スケッチ 852
- 世間というものを考え始めると表現は萎縮してしまいます。世間を、社会とか、時代性とか、現代性などと言い換えても同じです。大体が現代性などというものは芸術とは相容れません。現代美術だの、モダンアートだのという用語ほど芸術的でない言葉はありません。社会の芸術は社会共通の目標である改革と進歩と近未来とを求めます。個人の芸術は自己の充実を求めます。社会の芸術は現実から超出することを価値と考えますが、個人の芸... [続きを読む]
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- 2008/10/05 11:30裸婦スケッチ 851
- 「人は知ることを喜ぶ」例として、博物学があります。様々な動植物、鉱物、地質や天体に至るまで、どれほど実生活に必要なのかはわかりませんが、知識を得たことで意識の世界が広がったように感じます。世界旅行などと同じような意識の広がりが生まれます。話で聞き、本で読み、図鑑で見ていたものが、やはり本当にあったのだと確認するときに喜びが沸きあがってくるのでしょう。不思議なものです。物の概念と実体験の差を感じるの... [続きを読む]
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- 2008/10/04 12:41裸婦スケッチ 850
- 社会の中で裸がどのような意味を持つのかを考えるときわめて否定的です。しかし、裸を科学的な事実として受け入れる人は多くいます。それは、医学的な健康の概念に健全な肉体との位置付けがあるからです。健全な精神と健全な肉体は社会すべての人に求められるものです。スポーツ選手ではなく、裸をことさらに職業とするのは、裸が欲望と結びつく性にかかわる職業であると考えられており、そのような職業は本人が望んでなるものでは... [続きを読む]
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- 2008/10/03 15:42裸婦スケッチ 849
- 知について語るのはきわめて困難です。まず、知といってもひとつではありません。何を知と感じるかは人それぞれです。知それ自体を余分なもの、人工的なもの、俗悪なもの、通俗的なもの、因習、悪弊、害毒と感じる人は純粋な感覚こそ最高と考えます。文明社会を批判的に見たゴーギャンのような考えです。そのゴーギャンから純粋な感覚をより高度な知性的感覚とする現代風のアートが生まれました。知性もひねりにひねってゆくと、結... [続きを読む]
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- 2008/10/02 21:48裸婦スケッチ 848
- 知をもって快楽とする人にあっては、美醜を隔てるものは、作品の背後に知の予感、知の残影があるのか、無いのかです。作品が直接感覚を刺激する色や形、イメージといったものを提供するとしても、その背後に知性が存在する操作が感じられないとなると、それゆえに醜く感じます。感覚が直接であればあるほど、醜く、俗悪に感じます。美が指し示す知は相対的な知恵、生活の知恵などの目先の知恵や理屈ではありません。知とは、精神を... [続きを読む]
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- 2008/10/01 11:48裸婦スケッチ 847
- 「人間は知ることを喜ぶ」とアリストテレスは言いました。知すなわちソフィアをを愛する者をフィロ-ソフィアといいました。そのアリストテレスが「詩学」の中で芸術の意味をカタルシスにあるといいました。精神を浄化するところにその価値があると述べたのでしょう。快楽は肉体的な享楽であるとする人とは別に、知をもって快とする人がいます。自分が何者であるかを知るという快楽は占いや予言の書や宗教などによっても求められま... [続きを読む]
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- 2008/09/30 13:06裸婦スケッチ 846
- 美術作品が欲望をテーマとするのはそこに人間のぎりぎりの状況があるからです。欲望を代用するために美術作品があるのではなく、人間存在の限界を見せることによって精神に何らかの衝撃を与え、己が身の宿命、運命に想いをめぐらす機会を与えようとするものです。美しい花の絵が「虚栄」の意味をもち、「虚栄」の戒めを土台としているところに思索的な深みがあります。悔い改めのマリア、「マリアマグダレーナ」が華美な衣装で、時... [続きを読む]
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- 2008/09/29 14:03裸婦スケッチ 845
- それは20年ほど前のことでしょうか。NHKがフランス国営放送との提携何十周年かを祝う企画で、「アングル展」を共催したことがありました。街中にアングルのポスターが貼られ、東京西洋美術館での大規模な展覧会を予告していました。ところが、キャンペーンが始まるや、早々に事件は起こりました。NHK正面玄関に掲げられたアングルの「泉」の等身大の看板が会長命令で撤去されたというのです。大NHKの玄関に裸を置くとは如何なもの... [続きを読む]
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- 2008/09/28 15:04裸婦スケッチ 844
- 絵画を鑑賞するのに「こんなの子供に見せられない」といった世間体というか倫理観というのか、性を売り物として生きる人たちがいることを恥ずかしく思うように教育しなければならないといった観念をぶつけるのは見当違いだといえるでしょう。問題がどこにあるのかといいますと、広告などの社会に向けて公開されるメディアの鑑賞の仕方と絵画の鑑賞の仕方は異なるということがどれほど本心で理解されているのかという点です。教養と... [続きを読む]
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- 2008/09/27 14:52裸婦スケッチ 843
- 本来は人間関係の中で考えられるべき裸の問題ですが、絵画が社会に向けて公開されるメディアとみなされると社会における性の扱い方一般の意識に従わざるを得なくなります。絵画は一点、一点手で作られるものであり、印刷を前提としたメディアではなかったので、絵画は絵画の基準で考えられました。鑑賞者は絵画であること、個人的な価値観に属したものであることを了解した上で鑑賞していました。黒田清輝の「朝妝」がわが国で公開... [続きを読む]
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- 2008/09/26 12:01裸婦スケッチ 842
- 絵画が信仰の場以外に公のものとなった歴史はきわめて短い近年です。彫刻作品の歴史とはその点が異なります。そして面白いことに、公的な彫刻には裸像が多くあり、逆に絵画では特別な色物視されます。しかし、およそ裸婦が飾られた平和な家庭というものを想像することができません。家庭とは子供を育てるところ、善悪のけじめを教えるところといった位置づけがあるのでしょうか。絵画は常に個人的なもの、個人的なコレクションとし... [続きを読む]
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- 2008/09/25 15:49裸婦スケッチ 841
- 田園はオウィディウスの『転身譜(メタモルフォセス)』の住む世界です。妖精や神々が乙女の夢を揺すり、哀歓をこめた自然な性の営みが繰り返されている世界です。ジョルジョーネが田園風景の中に裸婦を置いたはじめだといわれています。田園風景が意味するのは公的ではない出来事、即ち、私的なこととして裸婦が登場します。私的な世界に現れる裸は魂の交歓が素直に受け入れられる優しさと淑やかさの象徴です。田園風景の中に登場... [続きを読む]
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- 2008/09/24 13:59裸婦スケッチ 840
- 社会的な判断を捨てて、個人として感じるままに述べれば、裸ほど優しげでうちとけた気分にさせてくれるものはないでしょう。裸はお互いの距離の近さを表現しているからです。絵画や彫刻でお互いの心の距離を表現しようとしたとき、着衣に比べて裸は常により近くです。体があらわなのは、心や魂があらわなことの象徴として使われています。奇妙なことに裸を禁じるキリスト教の美術において、裸は最も重要な象徴として使われています... [続きを読む]
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- 2008/09/23 13:22ヌードスケッチ 839
- 日常生活では不用意にさらけ出された裸を目にすると、欲望よりも、その人の私事を覗き込んだ時の申し訳なさが感じられるものです。何か気まずい感じがするものです。もともとは濃密な人間関係の中でのみ登場する裸ですが、その裸が欲望へと変化するのは、互いの関係に障害がある時ではないでしょうか。社会生活で威儀を正さなくてはならないとか、まったくの他人で何の接点もないとかの場合、押さえつけられた人間関係の親密さへの... [続きを読む]
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- 2008/09/22 11:47裸婦スケッチ 838
- 理想家が裸に人間の理想や、世界の真実や、調和の美を見ようとしても、裸が人をひきつけるのは濃密な人間関係の記憶だというのが真実です。普段の生活で裸が登場してくるのは、きわめて近い人間関係の親密さを示す場面です。母親と赤ん坊、父親と行水、兄弟でお風呂、家族で温泉、スポーツチームの仲間たち、気心の知れた友達同士、恋人、愛人、新婚の日々、それも最も幸せな時間です。絵画で裸が意味するのは人間関係の深さなので... [続きを読む]
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- 2008/09/19 16:05裸婦スケッチ 837
- 19世紀の夢想家たちは盛期ルネッサンスの画家たちを英雄視するあまり、その天才を一世代のもの、一個人のものと解釈しようとしましたが、優れた作品は突然変異のように生まれたのではありません。ヴィジョンを創る人たち、技術を開発する人たち、それらを統合する人たち、また教育する人たちによって優れた作品は生まれてきました。ラファエロの場合もダ・ヴィンチと同じように15世紀美術の影響を大きく受けています。初期の油... [続きを読む]
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- 2008/09/18 15:21裸婦スケッチ 836
- ヴェロッキオは若きレオナルド・ダ・ヴィンチの師匠としてその名を残していますが、ダ・ヴィンチとの共作になる「キリストの洗礼」で世代の差、ヴィジョンの差を見せているように見えます。それは柔和な天使を描いた若き弟子に対し、硬直したようなデッサンのヨハネとイエスとを描いています。そこから妙な噂が立ちます。弟子の才能に驚嘆し、師匠は二度と絵筆をとらなくなったというのです。ヴェロッキオは絵画においては15世紀... [続きを読む]
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- 2008/09/17 17:24裸婦スケッチ 835
- 16世紀ルネッサンス絵画が大きく発展したのは絵画だけの伝統ではなく、15世紀に大きく花開いたレリーフと彫刻の成果があります。19世紀の小説が20世紀に次々に映画化されて、映画の文化を豊かにしてきたように、16世紀ルネッサンス絵画の主題の多くは豊かな15世紀彫刻を絵画で表現することでした。20世紀絵画は画面からデッサンを取り去っていったのですが、16世紀絵画はその逆で、強靭なデッサン力によって前世紀... [続きを読む]
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- 2008/09/16 14:17裸婦スケッチ 834
- 20世紀の近代絵画は絵画と他の表現との境を取り払いました。絵画が布地のデザイン技術を取り入れたり、工芸の質感に対するこだわりを取り入れたり、ウインドウディスプレーや祭りの装飾となっている半立体を取り入れたり、写真や文字のデザイン技術を取り入れたり、映画やプロジェクターを用いるエキジビションディスプレーの手法を取り入れたりすることで新しい絵画が生まれたと宣伝されました。しかし、それらは鑑賞者が絵画以外... [続きを読む]
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- 2008/09/15 14:49裸婦スケッチ 833
- 絵画のスタイルは絵画の見方から始まっています。名作をどのように見るのかで、その人にとっての絵画とは何かが伺えます。絵画の見方が日常の見方そのものを方向付けています。「一つのタブローは、戦場の馬、裸婦、あるいは何かの逸話である前に、本質的に、ある一定の秩序で集められた、色彩に覆われた平らな表面である」とモーリス・ドニはピエロ・デラ・フランチェスカの絵について述べました。それは真実、モーリス・ドニの受... [続きを読む]
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- 2008/09/14 15:33裸婦スケッチ 832
- 表面的な模写と本質的な模倣とを区別せずに、一概にコピーを否定してしまうと絵画の思想は素朴な一世代限りのものとなってしまい、また、過去の技術を生きた技術として体験する機会を奪ってしまいます。美術全体が技術も一世代なら鑑賞者も一世代といった見世物小屋のようなイベントに終始してしまいます。ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」を描きます。それを見たラファエロが造形の完璧なのに感動し、「マッダレーナ・ドーニ」を描き... [続きを読む]
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- 2008/09/13 13:25裸婦スケッチ 831
- 技術で大切なのは一つのスタイルで繰り返し描くことなのでしょう。技術の根底にはものの見方、感じ方があります。形の成り立ちや構造を知ってから描くというスタイルもありますし、光と影でものを見るなどというのもあります。また、工芸の場合に有効な実寸と手触りでものを見分けるというのもその一つです。光と影でものを見る場合でも、カメラなどの光学器械と感光剤を使う場合は眼とは違う光学特性を持ちます。カメラのディスト... [続きを読む]
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- 2008/09/12 11:43裸婦スケッチ 830
- 模写の技法と絵の技法の模倣は同じではありません。模写は二次元の模写で、比例感覚と色彩や質に関しての感覚と指先の器用さがあれば、ほぼ似たものができるでしょう。それは工芸品の模作と同じような思考で可能です。絵の技法の模倣にはものの見方やそれを元に展開する仕方に思想が必要です。絵画の技術は模写によってフィニッシュの技術を習得することができるでしょう。それは絵画修復に生かされるでしょう。しかし、絵画の本質... [続きを読む]
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- 2008/09/11 15:18裸婦スケッチ 829
- 発明や進歩のためだけに芸術があるような現代では、普遍のものを求める技術は古臭く、敬遠されがちです。芸術が個人のものであった時代、もしくは技術が重視される社会では優れた作品の模倣によって技術水準は維持されました。しかし、模倣は技術ほどには複雑ではなく、多岐にわたる知識を必要ともしていません。技術は模倣のはるか遠くにあります。それは分かりきったことで、それをもって技術の模倣を無意味とはできません。模倣... [続きを読む]
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