大豆まめ さん

大豆まめさん: そら色の時間 in MITO
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茨城郷土史生き物・生物
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プロフィール

ハンドル名大豆まめ さん
ブログタイトルそら色の時間 in MITO
サイト紹介文郷土の伝説、昔話、エッセーなど
参加カテゴリー
更新頻度情報提供48回 / 97日(平均3.5回/週) - 参加 2008/05/17 23:13

大豆まめ さんのブログ記事

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  • 2008/08/10 23:22大化の改新と常陸 昭和30年刊「茨城県郷土史・三那珂沿革史」福島護著より
  •  31代用明天皇の第2皇子である聖徳太子は20歳で33代推古天皇の摂政として29年余り国政にたずさわり、大和朝廷の基礎をつくったといわれる。大和朝廷  推古天皇の12年(604年)17条の憲法発布。太子聖徳太子は国史編纂に尽力した。完成を急がれたが、若くして太子は崩御された。 馬子も他界し、氏族制度(多数の集団を構成、氏神を祭り朝廷に仕えた。)の弊害から、蝦夷、入鹿父子の専横はきわみに達した。 豪... [続きを読む]
  • 2008/08/09 23:05
  • あなたの拍手がはげみです。                             道路を車で走っていて、いつも疑問を感じているのです。 なぜ、自転車用の部分は、あんなに狭いんでしょう。 自転車は歩道を走るなといいます。しかし、自転車の走るように引かれている白線を走っていたら、おそらく車に引かれそうです。サーカスの曲芸みたいです。あんな狭さをどうやって、走れというのでしょう。設計者は走ったことがあ... [続きを読む]
  • 2008/08/02 11:23「昔の村の組織ー土地の台帳」 昭和30年刊「茨城県郷土史」より
  •                                昔の郷土を研究するには、郷土の過去の行事、また伝説、そして村の台帳、神社や仏閣の過去帳などを総合して、史実をまとめることが第一条件じゃそうな。上古から現代にいたっても、米の経済は大切なものじゃよ。 昔の検地帳は「水張」と呼ばれ、時の政府の基本経済であったから、田畑を一筆ごとに査定して、地目別、上中下の等級と面積に、その所有者の名前を記録... [続きを読む]
  • 2008/07/29 23:32「 日本建国以前の先住民族の人々 」  昭和30年刊 福島護著「茨城県郷土史」より
  • 大和朝廷が登場しない以前に、日本の国々に生活した先住民族である熊襲民族(おおやまじみ)は、半裸体で素足で断崖・絶壁を野獣のように走り飛ぶ人々で、山岳地を好んで生活していた。(茨城県では山の佐伯(さしろ)と呼ばれた時代がある。)  常世民族(おほわだつみ)は、野や海辺に生活して航海になれていた。(茨城県では野の佐伯(さしろ)と呼んだ時代がある。) 熊襲民族は南方の薩摩、大隈(おおすみ)、日向(ひゅう... [続きを読む]
  • 2008/07/29 21:55ご近所の底力 「 蛍の復活 」 そして、この夏も
  •   TVご近所の底力で「蛍の復活」を見た。源氏蛍は、大きなきれいな光ですね。なるほど、何匹か集めたら「ほたるの光ー、窓の雪ー」で、ランプになりそうです。  ビオトープをつくって、蛍を育て、本来の河川の自然も復活しようとする愛知県の大口町のニュータウンの人達。  15年もかけて、川の清掃、幼虫そだてを繰り返し、蛍を復活させた横須賀の町の人達。  童話のように、子供達と大人たちが協力して、奇跡のように... [続きを読む]
  • 2008/07/06 17:28動物達と生命
  • 今年の3月まで、県の動物愛護推進員を2期させてもらいました。 まえに、アウスという動物の愛護団体にいて里親探しなどをしていた関係から公募しました。 アウスの上山さんとの出会いは、つぶれたコンビニのまえにつながれていた、捨て犬を発見してからでした。 もう7.8年前になります。アパート暮らしの私は飼ってやれませんでした。 しかし、その後も通ると、そこの前に座っているのでした。 困った私は知り合いに聞いた... [続きを読む]
  • 2008/07/05 16:32「大日本史」(その3) 昭和30年刊「茨城県郷土史・三那珂沿革史」より
  •  この大日本史については、藤田東湖藤田東湖も会沢伯民も、徳川家康を別格扱いするのに苦労したらしい。 大日本史は明治維新の王政復古に大役を果たした。 それはまた、日本歴史の宝典といえる。 また水戸学思想とは、大日本史から生まれたものである。(注: 大日本史は、貞享2年(1685年)に、山陽、山陰、西海、北陸その他55カ国について、佐々宗淳と丸山可澄が海陸1400里にわたり、1年以上にわたって資料を集... [続きを読む]
  • 2008/07/04 21:15「大日本史」(その2)  昭和30年刊「茨城県郷土史・三那珂沿革史」より
  •   おいの昌は後に周の天子・文王になった。 そのとき、天下を三分して、そのうちの二つを太伯に献じた。 王でありながら、伯父の太伯には臣下の礼をとったのだった。 義公(光圀公)は、自分は弟でありながら、兄より身分が高いことを心苦しく重った。 そして、兄の頼重の子である綱條に水戸家の三代目を継がせた。  また、徳川家は臣下の身分でありながら、日本のほとんどを支配していることを、不信不徳として、第五代... [続きを読む]
  • 2008/07/03 21:52「大日本史」(その1)−福島護著・昭和30年刊「茨城県郷土史ー三那珂沿革史」より
  •  「大日本史」は、明暦3年2月27日(1657年)公の30歳のときより始められた。以来、明治39年(1906年)までの約250年の長期間、水戸家代々の世襲的に編集されたものであり、史書397巻のほか、目録5巻からなる大事業である。水戸光圀徳川家康の11子である水戸頼房の3男に生まれた光圀公(兄、頼重が高松12万石の領主であり、弟に生まれた光圀が水戸28万石の城主であり、副将軍と呼ばれた御三家)が... [続きを読む]
  • 2008/06/26 22:51佐々良の起源ーその3−  昭和30年刊「茨城県郷土史三那珂沿革史」より
  • 佐々良舞は、全国的に伝わっているが、現在、茨城県で著名なものは、久慈郡天下野の佐々良で、水戸義公が時の将軍家綱から責問された逸話のある、いわくつきのものである。 北那珂の間中の佐々良は、文治四年(1188年)の昔、源頼朝が鎌倉幕府をつくった時代に、源氏系の宍戸四郎左衛門尉が、源新羅三郎義光の末流である大和田豊前の守に「天下一品、恵心僧都の作」の旗標二流をおくった。恵心僧都  のちに、戦国の世の戦乱... [続きを読む]
  • 2008/06/26 22:26佐々良の起源 −その2−  「茨城県郷土史三那珂沿革史」福島護著より
  •  恵心僧都は、仏教の先輩国である中国に、仏教典を贈り「 大日本国恵心僧都 」の称号を受けた名僧であり、ひろく民衆に親しまれる歌を作った。 また、第38代・天智天皇の若き日ー中大兄皇子といわれたころ、恋愛に苦悩された和歌が万葉集にある。(667年) これが有名な三山御歌と、後世にいわれた。和歌に「 香山波   雲根火雄男志等  耳梨与相静競伎   神代従  如比璽有良之 」 (かぐやまは うねびをお... [続きを読む]
  • 2008/06/26 22:15佐々良(ささら)のおこりーその1− 昭和30年刊「茨城県郷土史三那珂沿革史」より
  •     第33代推古天皇の御代(612年)百済から来朝した味麻之(みまし)が、楽人とともに獅子舞を伝えたのが、日本邦楽となる最初である。「嬉遊笑覧」(きゆうしょうらん)(時代、作者ともに不明)によれば、獅子舞は伊勢神宮よりいでて、もとは舞楽で神事に用いられた。  田楽舞は、神事にも農事の田植えや稲刈りの時の祝事にも用いられた。  寛和元年(985年)第65代花山天皇のとき、日本ではじめて地獄と極楽... [続きを読む]
  • 2008/06/25 17:25「豊臣時代の常陸」その2−福島護著 「茨城県郷土史ー三那珂沿革史」より
  •  佐竹義宣は、常陸府中城府中城の大掾(じょう)清幹と水戸城水戸城の江戸重通江戸重通らは、佐竹の家臣であるとし、秀吉は佐竹氏を常陸諸将の旗頭として、取締りの役目を命じた。 そののち、佐竹義重・義宣佐竹義重・佐竹義宣父子は、水戸城にあった江戸重通を攻略した。時に天正18年12月19日であった。ただちに府中城に大掾清幹を攻め、清幹は22日に自害した。これによって、佐竹領は、54万5千石ほどとなった。 当... [続きを読む]
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  • 2008/06/25 16:34「豊臣時代の常陸」 その1− 昭和30年刊「茨城県郷土史ー三那珂沿革史」より
  •  織田信長は、関東地方を政治と外交で平定した。中国地方と北国を討伐してから、永禄11年(1530年)に、入京し、百六代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の居城を改築し御料を献納した。 足利尊氏の不徳をせめて討伐し、ついに足利幕府はほろびた。 天正10年6月2日(1582年)に、信長は光秀のため本能寺で憤死した。豊臣秀吉は天正18年7月に小田原城を落としたあと、奥羽の伊達政宗は秀吉にしたがったが、群... [続きを読む]
  • 2008/06/21 19:25ブラックジャック(手塚治虫)と、絵本「コドモノクニ」
  •   手塚治虫氏は、マンガの神様といわれている。すばらしい漫画を多く書かれた順風満帆の人かと思っていた。 しかし、手塚さんもいろいろなご苦労をされたんだと知った。(検索) 手塚治虫ここの、一番上の手塚治ワールドをおすと、アトムや火の鳥が出てくるー  1960年代には「虫プロダクション」という手塚さんの製作会社が倒産し、また、手塚時代ももう終わりといわれ、ご自分で最後のがんばりと「ブラックジャック」を... [続きを読む]
  • 2008/06/21 18:03どくだみの花咲くころ(十薬)
  •  6月は、本当はもっと雨がふる月だ。今年は、雨が少なく湿度だけが高い、かなり不快な感じだ。そのなかで、植物たちは、まだがんばって、きちんと役目をこなす。  梅は青い実をゆらし、あじさい咲き、どくだみも、あちこちに、その白い清楚な可憐な花を咲かせる。  どくだみは、それほど評価されず無造作に刈り取られ、うち捨てられることも多い。 小雨の夕暮れなど、どくだみが群生していると、地上の星のようにみえる。 だ... [続きを読む]
  • 2008/06/17 23:19「江戸時代の常陸」 その2  一橋慶喜の時代・篤姫の時代
  • 少し拍手をおねがいします。二代・光圀(義公)は、寛文元年に襲封し、産業に、事業に郷土開発の政策をされたが、そのなかでも光圀公の最大の事業は千古不滅の「大日本史」の編集であった。 この国史があったばかりに、明治維新の大事業ができたといっても過言ではない。この大日本史は、義公が18歳の時に中国歴史の伯夷伝伯夷伝を読んで国史の大切さを感じ、元禄13年12月6日に太田の西山荘に没するまで、その生涯のなか5... [続きを読む]
  • 2008/06/17 22:20「江戸時代の常陸」 昭和30年刊 福島護 著「茨城県郷土史ー三那珂沿革史」より
  • 少し拍手(その1) 後花園天皇の長禄元年(1457年)に、太田道灌が江戸城を築いた。その約百三十年のちの、天正18年8月1日に徳川家康が入府した。元和元年4月(1615年)に、大阪城が落城した。そのとき、豊臣秀頼は24歳であり、淀君は39歳であった。豊臣家はわずかに2代、37年間で滅亡した。 徳川幕府が265年間、15代にもわたって続いたのは、時期にも恵まれたが、古今東西に類を見ない、家康の非凡の... [続きを読む]
  • 2008/06/07 17:18「笠間大岡代官屋敷」 昭和三十年刊「三那珂沿革史」より
  • 少し拍手牧野笠間領八万石は、磐城領二万石、真壁領六千石、山内三万石、山外三万石で合計八万六千石と云われ、この中から徳川家へ二千石を毎年献米した。山外四十二か村の上納米は、大岡にあった代官屋敷の大倉庫三棟の中に貯蔵した。江戸へ出荷のときは、春から秋にかけて、三那珂地方の農民が代官や役人の云うとおりに、馬に米を乗せて下総の国・古河の、利根川に近い徳川家の米蔵に連日に運送された。徳川末期の飢饉の直後とい... [続きを読む]
  • 2008/06/07 16:51池亀吉祥院(その2)
  • 少し拍手上人は、大日の滝に斎戒沐浴して身を清めた後、桧に霊像を五体彫刻して本堂に安置した。これを五大力明王堂といいました。(同時代に、成田山新勝寺も将門調伏のために創立されたそうです。)秀郷は、父の国香を討たれた貞盛とともに、真壁郡大国玉城の将門を、討伐し、ついに、将門は猿島郡石井郷で討ち死にしました。時に、天慶3年2月14日。のちに、悪人どころかむしろ善人であった将門のために大国玉にも小社が建て... [続きを読む]
  • 2008/06/07 16:29池亀吉祥院ー現代語版「桜川昔ばなし抄」−原本・昭和三十年刊「茨城県郷土史・三那珂沿革史」より
  • >少し拍手(その1)本尊は、地蔵菩薩です。本寺は天台宗です。五十二代・嵯峨天皇の大同五年(810年)に創立されました。住職の日乗上人は、名声高いすぐれた方でした。天慶二年藤原忠平のもとにあった平将門は、戦に手柄をたてていました。検非違使の長官になりたかったのですが(警察庁長官)このころは、藤原氏のほかには上の役につけませんでした。平将門関東地方の下野、下総、上野をおさめ、各地に飛び城をもって平親... [続きを読む]
  • 2008/06/07 15:47富谷観音の伝説(その4)
  • クリックお願いします行基菩薩行基菩薩は、富谷山に堂塔をつくり、一丈六尺の十一面観音を彫刻されました。天音姫の守り本尊と、御真筆を、観世音像のなかにおさめて本堂に安置され、御骨を三重塔の下に納められて、釈迦、文殊、賛賢の三つの仏像を安置されました。そして、宝樹院の御霊や鐘楼堂、お供所、鎮守舎などをつくられました。伝説の影向石は、繁昌石(はんじょうせき)とか、番匠石(ばんしょうせき)ともいわれていま... [続きを読む]
  • 2008/06/07 15:23富谷観音の伝説(その3)
  • ことのこまかい事情を聞いて、元明天皇は、勅使をくだされました。そして、富谷山・北谷の長者に、姫を殺して埋めたところをしらべさせると、十一面観音さまの、御首がありました。姫が、亡き母のかたみにもっていたお守り袋をみると、そこには観音様の御首がありませんでした。天皇は、大慈大悲の仏恩のご利益に感激され、天音姫を太子の后とされました。この太子が第四十五代・聖武天皇となられました。お二人は、お仲もよかった... [続きを読む]
  • 2008/06/07 15:07富谷観音の伝説(その2)
  • ところが、これを妬んだ継母が、姫には恋人がいると夫の長者にうそを言いましたが、長者はこれを信じませんでした。それで継母は中年の男をさそい、わざと姫の寝所から出たようにみせかけてそれを長者にみせました。父である長者はこれを怒り、姫を大悲石のそばで切り、その首をうめてしまいましたそのころ、常陸の探題・井出・右大臣・橘諸兄卿は、南台の城に住み、毎夜、乾(イヌイ)の方に五色の雲がたなびくので不思議に思い、... [続きを読む]
  • 2008/06/07 14:49富谷観音の伝説ー現代語訳「桜川昔ばなし抄」ー原本昭和30年刊「茨城県郷土史三那珂沿革史」より
  • あなたの拍手がはげみです。(その1)第十代・崇神天皇・(スジンテンノウ)・(前百年のころ)の、第一皇子・豊城入彦尊(トヨキイリビノミコト)が、上野、下野をおさめられました。常陸の国を、おさめられたころ、尊(ミコト)の皇子(オウジ)が、富谷の北谷に代々お住まいになっていました。第四十四代・元正天皇のころに、北谷の長者に大伴みぶの判官・俊房は、くらしは豊かでしたがお子様がありませんでした。それで、無畏山大悲影向石に、九十日の御祈... [続きを読む]
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