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- 2008/09/27 12:09天国の門が有る場所と、その開き方
- 【天国の門が有る場所と、その開き方】 勿論みなさんも仏教の経典類を読んだことがあると思います。例えば原始仏典では「如是我聞。一時。佛住舍衛国祇樹給孤独園。爾時。世尊告諸比丘。」のような書き出しが見られます。「舍衛国の祇樹給孤独園」というのは、現実に存在していた場所の名です。しかし大乗経典類を見ていると「如是我聞。一時佛在兜率陀天衆宝荘厳菩薩宮殿曼拏羅中。無数菩薩相好荘厳。知法真際諸如来子。皆從種種... [続きを読む]
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- 2008/07/02 04:48金剛般若経の言葉「知恵の完成(2)」
- 前回の「知恵の完成(1)」に至る過程で、仏と菩薩に関わる幾つかの説法を見てきた。ここに至ってスブーティは、この経典のことについて世尊に尋ねる個所がある。 ☆ ☆ ☆スブーティ「世尊よ、この法門の名は何と申しますか、それをどのように受持したらよろしいでしょうか。」世尊「スブーティよ、この法門の名は『知恵の完成』(般若波羅蜜多)である。そのように、これを受持するがよい。それは何故か、... [続きを読む]
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- 2008/07/01 10:31金剛般若経の言葉「知恵の完成(1)」
- 仏陀が悟りを開いて知恵の完成に至る経緯を、般若の理法に沿っての対話で説き進める個所がある。 ☆ ☆ ☆世尊「スブーティよ、どう思うか。何か教法があって、それを如来が、正しい悟りを得た尊敬すべきディパンカラ如来のもとで学んで、身につけたのであろうか。」スブーティ「いいえ、世尊よ、そうではありません。正しい悟りを得た尊敬すべきディパンカラ如来のもとで、如来が身につけられたような、如... [続きを読む]
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- 2008/06/30 05:57金剛般若経の言葉「悟りの自覚」
- 経典では、続いて悟りを四果に分類した預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の者について、その悟りの自覚に関わる観察が述べられている。その一々の論理的内実は同質故に、ここでは阿羅漢果の節だけを引用する。 ☆ ☆ ☆世尊「スブーティよ、どう考えるか。阿羅漢に『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるであろうか。」スブーティ「世尊よ、もし阿羅漢に『自分は阿羅漢であることに達した』... [続きを読む]
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- 2008/06/29 04:00金剛般若経の言葉「仏法」
- 前回の「法と非法」に引き続き、世尊がスブーティに向かって偉大な菩薩の心得を説いているところを読む。『スブーティよ、如来が、この上なく正しい悟り(無上正等覚)であるとして悟ったような法が、何か有るであろうか。如来が教え示したような法が、何か有るであろうか。』人は未だ悟りの何たるかを知らない頃、即ち今謂うところの真象界というような言葉を聞いても、その意味するところが瞬時に覚れないなど、妄執界から脱する... [続きを読む]
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- 2008/06/28 05:33金剛般若経の言葉「法と非法」
- 前回に引き続き、世尊がスブーティに向かって偉大な菩薩の道を説いているところを読む。『偉大な菩薩たちには、私という観念が起こらないし、衆生という観念も、命あるものという観念も、個我という観念も起こらない。』「私」や「衆生」及び「命あるもの」や「個我」という認識対象が、本より空体にして、執着されるべき本体を見ないが故に、そのような観念が生じないということである。『偉大な菩薩たちには、「物(法)」という... [続きを読む]
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- 2008/06/27 06:37金剛般若経の言葉「特相の無特相」
- 手元に『金剛般若経』と題された経典がある。これはサンスクリット本から和訳された経典で、漢訳では『金剛般若波羅蜜経』と題された鳩摩羅什訳、菩提流支訳、真諦訳の三巻に相応する経典である。『生けるものの世界に於いて、およそ衆生という名のもとに包摂される生きとし生けるもの、卵生のものにせよ、胎生のものにせよ、湿生のものにせよ、化生のものにせよ、また、姿の有るものにせよ、姿の無いものにせよ、意識の有るものに... [続きを読む]
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- 2008/06/24 22:46愛欲を断って安楽を得る
- 原始仏典『ウダーナヴァルガ(感興のことば)』(中村元訳)第二章「愛欲」を読む。『愛欲よ、私は汝の本を知っている。愛欲よ、汝は思いから生じる。私は汝のことを思わないであろう。そうすれば、私にとって汝はもはや現れないであろう。』「愛欲よ、汝は思いから生じる」故に「私は汝のことを思わないであろう。そうすれば、私にとって汝はもはや現れない」は理である。このような理は、天上の覚を得た当初から悟られる。即ち「... [続きを読む]
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- 2008/06/23 07:20ざわめきから離れている
- 世には悟りを求めている者も多いし、自らはその意識が無くとも、悟りを求める状態に入っている者も多い。例えば「自分って何なのだ?」とか、「何故俺がこんなことをしなくてはならないのだ?」とか、「生きていてどんな意味が有るだろう?」などと思うとき、無意識に悟りへの道に入ろうとしていることになる。しかし人の様々な意見を聞いて心が揺らぎ、道が見えなくなったりする。そんな時は概して誤った道に誘い込まれているのだ... [続きを読む]
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- 2008/06/22 07:15旅路の糧
- 此の世は生滅界である。生滅するが故に輪廻界でもある。この故に仏教に於いて、人生に於ける旅と云えば、此岸から彼岸へと渡る旅を指す。即ち悟りを求める心の実践である。悟りを求めない心は、日々あれこれと意欲して厭きることがない。この故に、衆生の心は日々生滅すると云われる。生滅は苦しみである。生まれることは苦しみであり、死ぬことも苦しみである。苦しみの中に生きる心を、迷いの生存と云う。この故に、悟りを求める... [続きを読む]
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- 2008/06/21 05:30断ち切って
- 誰もが容易く直感できることではあるが、悟りを開くには長い修法の時が必要である。つまり悟りには何段階もの階梯があるということである。即ち天乗や二乗を経ずして、いきなり成仏の覚は開かれ得ないということであって、これは衆生の煩悩が何層にも亘って仏性を覆っているが故に生じる事実上の序列である。この階梯の序列が人知の上にどのように現れるのかなら、表面上は複雑で混乱して見えるようである。所以は悟知と学習知とが... [続きを読む]
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- 2008/06/21 04:01ショーペンハウエルを読む「知性の超越」
- 前回の「真理とは何か」で既に見てきた如く、知性が或る何ものかを知るという、まさにその性質の故に、自らの限界を持つことが知られた。従って、我々が更に真理への道を突き進む為には、差し当たっての知性批判と、及びそれに基づく知性の超越が目指されなくてはならないのではないかという直感に突き当たるであろう。 ☆ ☆ ☆我々が世界を把握するときに、それを目的としてでなければ、手段として受け取らざるを... [続きを読む]
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- 2008/06/20 03:48ショーペンハウエルを読む「真理とは何か」
- 我々人間は、現実界に於ける種種個別な事柄についての道理とか、科学的知識とか、或いは仏教等に於ける空論の如きものに至るまで、実に様々な事柄について、真理という言葉を無造作に使う。併し斯く云う「真理」とは一体何ものなのだろうか。 ☆ ☆ ☆事物の客観的な直感的な把握から発して首尾一貫して展開された世界観は、どれ一つとして全くの虚偽ではありえない。それらは、最悪の場合でも、単に一面的だという... [続きを読む]
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- 2008/06/19 12:13哲学と対話
- 我々は哲学的瞑想を通して認識した事柄について、他者との対話を持つ機会も時にはある。しかし、その都度不安がよぎるのは、誰にとっても生じる問題であろう。つまり、話というものは通じ合えるものなのかという疑念である。 ☆ ☆ ☆さまざまな物事について、我々自身が行う真剣な瞑想や、心のこもった省察に比べると、これらについて他人と交わす対話は、生きている有機体に比べた機械のようなものである。何故な... [続きを読む]
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- 2008/06/19 12:01個別性と普遍性
- ショーペンハウエルは、その書に於いて、個別的認識に執着するのが世の常であるのに対し、哲学者としての素質を持つ者は、物事に対して普遍的な認識を持つ者であることを強調している。このような発言から知られるのは、「哲学とは物事の普遍性を考察する学である」というような概念であろう。 ☆ ☆ ☆哲学するために最初に求められる二つの要件は、第一に、心にかかる如何なる問いをも率直に問い出す勇気を持つと [続きを読む]
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- 2008/06/19 08:34形而上学の本領
- 今回はショーペンハウエルが老年期に著した『哲学小論集』に収められている文章から、少しばかり読んでみようと思う。 ☆ ☆ ☆我々のあらゆる認識と科学とが、その上に乗って支えられている基礎は、説明不可能なものである。だから、如何なる説明も、多かれ少なかれ幾つかの中間項目を通って遡りながら、結局はこの説明不可能なものに行き着くわけである。それはちょうど、海上で深さを測るために乗れる船が、と [続きを読む]
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- 2008/06/19 05:43人々は閉じ込められている
- 原始仏典の言葉というものは、釈尊が各地を廻って、現実に即した表現を取ったものが多いので、そのような説法は現実的で具体性に富む。従って説法の言葉をそのままの意味で理解出来る性質のものである。このことは何を意味するものかと云えば、理念化された仏語等を用いず、その意味する内実を、実際的な言葉で表しているというようなものである。このように、原始仏典と云われている経典には、誰にでも読み易いものが沢山ある。し... [続きを読む]
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- 2008/06/18 07:04束縛の絆
- 前回の「妄執とは何か」に引き続き、やはり妄執を断つ道を説いているのが、今回見る「束縛の絆」である。原典の経文は、非常に簡潔に説かれているが、内容を正しく理解するためには、存在の一切を包み込むほどに修行され育成された菩提心を要す。この故に、「菩提心」と聞いて、即座に悟りの境地を想起し得ない場合は、一語一語と、じっくりと読み進む必要があるだろう。と云うことで、先ずはその経文を読んでみることにしよう。 ... [続きを読む]
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- 2008/06/18 06:41妄執とは何か
- 我々は、様々な思いに基づいて、日々の生活を営んでいる。勿論我々は、その時々に於けるそれらの思いを、妄執だとは思っていない。それは何故かなら、普段我々は、自意識に執われ、自意識に基づいて種種の判断をしていることを、改めて観察したりはしないからである。この故に、我々は普段の生業の中で、知らず知らずの間に、次々と縁付けられた苦の境界を紡ぎ、対処に対処を繋ぎつつ、因縁法界の中で生きているわけである。このよ [続きを読む]
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- 2008/06/17 07:44心によって
- 誰しも「迷いも悟りも心によって生じる」というような言葉は聞き知っているだろうし、また納得もしているだろう。それでいながら、迷いの界を脱出できる者と、脱出できない者に分かれるのは何故であろうか。この二者の岐路を、冒頭の言葉「迷いも悟りも心によって生じる」を用いて例示すれば、迷いの者は、心が迷いを紡ぐが如くに悟りというものを紡ぎ出そうと努めているのであり、それ故に、迷いに迷いを重ねている場合が多い。従... [続きを読む]
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- 2008/06/17 06:35名によって
- 私たちは日々何かを意識し、考えて行動をしています。例えば「あれは何?」「これは何?」「あれをどうする?」「これをどうする?」という具合です。つまり「名」に依存して思考しているということが分かります。従ってこの「名」が、様々な迷いを持ち込んでくる元にあるなら、「名」の正体を知らなくては、悟りの道に入ることも出来ない筈です。そこで今回は、「名」に関わる経文を読みます。 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ [続きを読む]
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- 2008/06/16 13:34ヨハネによる福音書〜「言が肉となった(2)」
- 今回は「ヨハネによる福音書」についての解考第二回目になる。新約聖書の此の様な読み方を披露した人物は、おそらく先例が無いだろう。少なくとも私は知らない。それ故、ちょっとした試みとして読まれるかもしれないが、果たしてどんなものが出来上がるものだか。前回は「言が神であった」など、如何にも真理が直接語られている感が強かったが、今回は言と人間の関わりなどが明かされている個所である。先ずは読み進めてみようか。 [続きを読む]
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- 2008/06/16 06:26道を逸れないために
- 我々が住む日本の町や村など、至る所で寺を見掛けます。学校なら学問を学ぶ所、病院なら病を治療する所という具合に、その建物の役割が知られますが、寺の場合には、おそらく誰の目にも判然というものでも無さそうです。私の目に見える寺には、僧が管理しているということ、その僧は仏法を学び、仏法を護り、仏法を世の人々に伝え広める行に勤しんでいるということなどの条件が見えています。仏法を世の人々に伝え広めることを願う [続きを読む]
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- 2008/06/15 07:49生まれさせるもの
- 「私たちは、どのようにして生まれてきたのだろうか」とか、「心と呼ばれているものは、何をするものなのだろうか」などと疑問を持ったことがあるかもしれない。今回は、そのような問題について、悟りの道では、どのように説かれているのかを見ていきたいと思う。また、この問題に関連して、「輪廻」という言葉が出てくるが、一般的には国語辞典などにもあるような、例えば「生ある者が、三界六道の世界で、いくたびも生死を繰り返... [続きを読む]
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- 2008/06/15 06:25虚空蔵菩薩の法界(6)
- 今回は『虚空蔵菩薩の法界』の六回目で、「精進波羅蜜多」の心を説いている場面になる。「精進」と云えば、悟りを求めて励む意であるが、ここで説かれている精進は、菩薩道を成就するという意味での「悟りを求めて」であるから、謂うならば既に悟りは成就されている者が、衆生救済の仏智を磨くという意味での精進だということを理解しておかなくてはならない。このように、非常に高度な内容が説かれている経典であるから、心して読... [続きを読む]
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