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琉球国を統一した尚巴志 興亡物語 http://riyukyurekisi7.seesaa.net/

琉球国が三山に分立していた頃、尚巴志は琉球国を統一し、交易立国の基礎を構築した国王だった。

ミヤケン
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那覇市
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石垣市
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2008/05/26

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  • 電子書籍の目次内容紹介

    首里城の起源を探る(改訂版)電子書籍の目次内容は下記の通りです。 目 次 一 はじめに 二 琉球史との関わり 三 遣唐使と南島 開元通宝伝来の謎 四 琉球と沖縄 隋書の琉球伝 陳侃の報告書 大琉球は(沖縄)と小琉…

  • 電子書籍出版について

    電子書籍 「首里城の起源を探る」(改訂版)の電子書籍 「エッセイで楽しむ沖縄の歴史再発見」 前回、電子書籍の出版内容について、近いうちに紹介したいと、お知らせしましたが、やっと内容がわかりましたので、紹介致します。 まず電子書籍は「二二世紀アート」Kindle版で出版されました。アマゾンで販売されています。 内容は

  • 電子書籍出版について

    電子書籍出版 首里城の起源を探る(改訂版)の電子書籍 「エッセイで楽しむ沖縄の歴史再発見」 内容はブログでも紹介している 「首里城はいつ頃から、琉球国の王城だったのか、いくつかの説に分かれている。琉球史における未解決の問題である。その起源を探り、埋もれた歴史の真相を明らかにしたい」 というテーマで自分なりに検証してきた論考や、考察などを新聞で投稿してきたものをまと…

  • カテゴリー項目の内容 項目数を 訂正

    カテゴリー項目の内容 項目数を訂正 カテゴリ−項目を表示しているが、下記の項目数を修正しました。 カテゴリーの項目をクリックしたとき、表示される項目は次の通りです。 カテゴリ 1番目 はじめに (17項目) (第一章予定) 舜天王統 源為朝 琉求出立の様子 琉球と沖縄 (その2) 源為朝と舜天 尊敦 …

  • 交易の始まり

    交易の始まり 貢粗体系の始まりは、英祖王のころから、初期段階とはいえ始められていた。 それが時代の発展とともい交易へと進化し、 やがて交易時代を迎えるようになってきた。 交易の始まり (その1) ←クリック

  • 舜天王統

    舜天王統 舜天は1187年(22歳)で中山王に推戴され、1238年(72歳)卒。在位51年であった。 その王統は舜馬順熙、1238年(54歳)即位、1249年(64歳)卒。義本王、1249年(44歳)即位、1259年(54歳)退位。 舜天王統は三代72年(1187年−1259年)退位した。 そのころ饑饉や疫病がはやっていたため、義本王は「天の味方が得られないこ…

  • 源為朝 琉球出立の様子

    源為朝は尊敦誕生の数年後、帰国への思いが勃々(ぼつぼつ)としてくるのを抑えがたくなっていた。日本で武士として主君につくしてきたことを思えば、その恩を忘れれば、臣たるの道に非ずとの思いが強まり、帰郷の決心を固めていた。そのことを知った妻の真鍋樽金は大いに驚き、「何のためにこの妻子を残して帰り給うや」と云った。 為朝答えて曰く「汝が国は鉄少なく、そのために鍋も少なし、食べ物を煮ること、多数の民…

  • 琉球と沖縄 (その2)

    琉球と沖縄 (その2) 沖縄が 流虬(りゆうきゆう)と云われるようになったのは、天孫氏二十五世代の時、隋の煬帝(ようだい)の隋使、羽騎尉朱寛(うきいしゆかん)が初めて此の国に来た時、沖合から、この地を見ると虬龍(きゆうりゆう)(想像上の動物)が水中に浮かぶように見えたので隋人が流虬と名付けたという。 隋使の朱寛は言葉が通じなかったので、男子一人を擒(とりこ)にして帰った。 …

  • 源為朝と舜天

    源為朝と舜天 源為朝は保元の乱(1156年)の頃から戦国乱世の時代に大暴れした武将として、また弓の達人としても有名な大男であったと伝えられている。 身長は七尺の大男。現在のメートにすると二メートル十センチ程あったといわれている。腕は左腕の方が右腕よりも四寸程長かったというから左腕は十二〜三センチ程長かった分けである。弓は五人張りの弓(五人がかりで引く弓)、長さ七尺…

  • 尊敦 中山王に推戴され舜天王と称す

    尊敦 中山王に推戴され舜天王と称す 利勇は長年仕えてきた恩金松兼王を毒殺し、自らを国王と称し君臨しようとしたが、各地の按司達の動揺は広がってきた。 そのような時、浦添按司尊敦(そんとん)は二十二歳の青年であったが、逆臣利勇を誅(ちゆう)すべく兵を集めたところ、各地から応じた兵五十余騎を引き連れて、利勇の居城、首里城に向かった。 首里城では利勇の配下の者二十四人が…

  • 天帝子の子追記

    天帝子の子追記 この天帝子の子というのは琉球国の開闢伝説で伝えられているところのシネリキヨという男神とアマミキヨという女神によって、三男二女が生まれ、長男は天孫氏と称し、国君の始めとなり、次男は按司の始めとなり、三男は百姓つまり庶民の始めとなり、長女は君々となり、次女は祝々の始まりとなった。と伝えられている。 この志仁礼久(しにれく)という男神と 阿摩弥姑(あまみ…

  • 天孫氏二十五紀の系図

    天孫氏二十五紀の系図 天孫氏二十五代最後の国王は、恩金松兼王であった。当時、国王の側近として務めていた利勇の謀反によって恩金松兼王は殺害され、その王統は終わった。その時、王子として各地に配置されていた王子達の動静について、『古琉球三山由来記集』は次の通り伝えている。 恩金松兼王には十男二女がいたが、父王が逆臣利勇に滅ぼされた時、 太子の浦添王子は、豊見城間切瀬長島に逃げ隠れ…

  • 万国津梁之鍾銘

    万国津梁之鍾銘 「万国津梁之鐘銘」は、尚巴志のころから急速に発展を遂げた交易立国の方針を国是としたもので、尚泰久の代に命を受けた相國住持・渓隠安潜叟(けいいんあんせいそう)によって鐘に銘文が刻み込まれ首里城の正殿前に掛けられていたものである。 引用した原文は縦書きで続けられ、送りカナや記号がついているが、ブログでは縦書きや記号が付けられないので、普通一般的に紹介されている横…

  • はじめに

    尚巴志は、琉球国が三山に分かれて百有余年にわたり対立抗争が続く世に、風雲児として登場し、三山を次々と打ち従え、琉球国の統一を成し遂げた國王であった。 特に中国との朝貢交易を中心に東南アジア、日本、朝鮮等との交易を盛んに行い、人々の共存、共栄、繁栄、平和等を指針として努めてきた。 交易こそ立国の基盤である事に全力で意を注ぎ、船舶を以て万国への架け橋となすという、万国津梁の展望を標榜して琉…

  • 現代語訳注 旧首里城正殿銅鍾(万国津梁の鐘)の銘

    現代語訳注 旧首里城正殿銅鐘 (万国津梁の鐘)の銘 平成30年11月4日 諸見 友重 「現代語訳注 旧首里城正殿銅鍾 (万国…

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