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- 2008/10/11 20:25[現成公案]正法眼蔵現成公案参究(九)
- 麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。ときに、師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。 仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもか... [続きを読む]
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- 2008/10/07 03:45[現成公案]正法眼蔵現成公案参究(八)
- しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し、同參するゆゑにしかあるなり。 得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。 前段で説かれたように、人が仏道を... [続きを読む]
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- 2008/10/04 17:51[現成公案]正法眼蔵現成公案参究(七)
- 魚の水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、魚鳥いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふ事なく、処処に踏せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。 以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり... [続きを読む]
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- 2008/10/04 05:50[参究余語]思案
- 柏樹子の巻と現成公案の巻の参究が終わったら、諸悪莫作の巻を参究することはもう決めていることだが、さてその次にどの巻を参究しようか? 山水経にしようか、それとも古鏡にしようか、それとも弁道話にしようか。この三巻は比較的分量があるので、いずれを参究するにしても長くなりそうである。 それにしても眼蔵を参究するのは楽しいものである。 ... [続きを読む]
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- 2008/09/27 12:55[柏樹子]正法眼蔵柏樹子参究(十一)
- おほよそ栢樹有仏性は、外道二乗等の境界にあらず、経師論師等の見聞にあらざるなり。いはんや枯木死灰の言華に開演せられんや。ただ趙州の種類のみ參学參究するなり。 「おおよそ柏樹有仏性は」柏樹有仏性とは、ここまで参究してきたような次第である。すなわち柏樹は柏樹で尽界であり、柏樹の中には柏樹以外のものが入っている。柏樹は柏樹で尽界であり、柏樹は時空物を超えている。時空物を超えているものが柏樹として仮に... [続きを読む]
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- 2008/09/23 03:59[柏樹子]正法眼蔵柏樹子参究(十)
- すでに有仏性なり、その為体あきらむべし。有仏性なり、栢樹いまその次位の高低いかん。寿命身量の長短たづぬべし、種姓類族きくべし。さらに百千の栢樹、みな同種姓なるか、別種胤なるか。成仏する栢樹あり、修行する栢樹あり、発心する栢樹あるべきか。栢樹は成仏あれども、修行発心等を具足せざるか。栢樹と虚空と、有甚麼因なるぞ。栢樹の成仏、さだめて待你落地時なるは、栢樹の樹功、かならず虚空なるか。栢樹の地位は、... [続きを読む]
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- 2008/09/21 03:59[凡事徹底]ドリーミング
- ここ一ヶ月は時間があると深い禅定に入る試みをすることに努めている。普段は仕事があるから早朝や深夜のわずかな時間を、休日にまとめて集中的に行うようにしている。深い禅定とはようするに肉体感覚は捨離された状態を起点としているものである。たとえば結跏趺坐を組んで坐っている。日常的感覚だと、どこからが手でどこからが足であるかはわかるわけだが、深い冥想状態になるとどこからが手でどこからが足であるかは判別がつ... [続きを読む]
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- 2008/09/10 09:00[凡事徹底]リラックス・エクスタシー・死
- 自我意識は肉体と密接な関係にある。肉体に同一化している意識=自我意識である。肉体に同一化している意識を自我意識というのは、もちろん意識は自我意識のみに限定されたものではなく、そもそも意識は肉体を超えた広大なものであるという前提が秘められている。 一般的に意識が目覚めているときに肉体は緊張しているが熟睡時にはリラックスしている。その熟睡時には意識は昏睡状態になる。つまり自我意識は緊張そのものなので... [続きを読む]
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- 2008/09/06 13:55[現成公案]正法眼蔵現成公案参究(六)
- 身心に法いまだ参せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれが... [続きを読む]
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- 2008/09/02 19:39[参究余語]用語の定義について
- 私が眼蔵参究などにおいて『仏』とか『神』いう言葉を用いるとき、その『仏』『神』とは全体大生命を指す。それは勿論あらゆるものを包含するものである。そしてそれ以外のものはないわけだから、それは究極の私自身である、或いは本当の私自身といってもいいだろう。そして通常において私たちが『私』とか『自分』とか『自己』とはみなしているものは、その全体大生命である私の一分身であり、一表現といえよう。つまりあらゆる... [続きを読む]
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- 2008/08/30 05:59[柏樹子]正法眼蔵柏樹子参究(九)
- いま大師の向道するに、有と道取するは、栢樹仏性有なり。この道を通達して、仏祖の命脈を通暢すべきなり。いはゆる栢樹に仏性ありといふこと、尋常に道不得なり、未曾道なり。 この問答の要は仏性にあるとすでに述べた。そして趙州の仏性は僧侶の考えている仏性とは言葉は同じであれども別内容である。それゆえに趙州の僧侶に向けての「有」という答えも、その「有」の内容は当然ながら別内容である。いわゆる有無の有ではな... [続きを読む]
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- 2008/08/26 13:11[凡事徹底]禅定についての覚書
- 準備としていくつかのエクササイズを行ってから禅定に入る。肉体はリラックスしてくる。肉体は熟睡しているが、しかし意識は起きているようなものである。後述する状態に比較して肉体は重く感じる。この肉体は眠っているが意識は目覚めている状態がしばらく続くと次の禅定のステップに入りはじめる。その違いは明白である。まず肉体が軽くなってくる。下半身のほうからワァーとなにかが拡散して上昇してゆきつつ広がる感じが毎回... [続きを読む]
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- 2008/08/26 13:11[凡事徹底]ブラフマンの気息
- ブラフマンの気息とはアートマンである。アートマンとはブラフマンの息のことである。ブラフマンが息を吐き出したとき、それはアートマンの発生である。ブラフマンの呼気はアートマンの生、ブラフマンの吸気がアートマンの死である。アートマンの生死はブラフマンの躍動である。アートマンの生死によりブラフマンは果てしなく更新してゆき、アートマンはブラフマンから発出されて、さまざまな体験を経て、いつしかブラフマンに回... [続きを読む]
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- 2008/08/07 15:45[凡事徹底]輪廻転生――同時並列に変動する時空物
- ここのところ忙しいので八月は眼蔵の参究は一休みして、軽く思いつくままに書いてゆこう。それで表題に「輪廻転生」とつけたわけだが、おそらく話はそれだけではなくいろいろな方向に飛んでゆくだろうと思う。なんで輪廻転生について記してみようと思ったかというと、輪廻に関していろいろと聞いてくる人がいるからである。誤解されやすいのだが私はなにも輪廻を否定しているわけではない。 生命というものが一つ二つ三つという... [続きを読む]
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- 2008/07/30 02:41[凡事徹底]神と人の絶対交流――あらゆるものはそのままで完璧であり一点の訂正の必要はない
- わたしは従来の宗教はもはや古くさいと考えている。これについて断片的に列挙してみたい。 わたしは宗教を個人的なものでなければならぬと思う。これでは漠然としているから、少し説明しよう。宗教の本質は交流にあると思う、というより交流に尽きると思う。この場合の交流とは人と神との交流を意味する。ではその交流の実際とは如何に? まずその前に理解すべきことがある。 禅などでいわれる大悟とは私にいわせれば、あらゆる... [続きを読む]
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- 2008/07/26 14:01[参究余語]二十年ぶりの来訪
- 二十年ぶりに子供のころに住んでいたJR飯山線、魚沼中条駅の近隣を訪れた。 久しぶりの高龍神社である。よく一人で坐りにきたところである。 苔むした石段は昔のまま。相変わらず鬱蒼とした木々のおかげで涼しい。 そう、いまのような暑い季節はここでまず水を飲んで汗を拭いて、それから手を洗って口をすすいで神前に向かって拍手をしてお辞儀をする。それからその辺に座布団を敷いて坐っていたのだ。今日は蒸し暑かった... [続きを読む]
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- 2008/07/16 02:00[凡事徹底]凡事徹底の行、あるいは鏡の行
- わたしが、この世界はそのままで完璧であるというと、「殺人があり戦争があり人災があるというのに、そのままで完璧であるのですか。完璧であるなどとんでもない」という反問にあう。しかしそれはわたしのいう”そのまま”を誤解しているからである。現実は一瞬も停滞することはない。変化しているものである。いいや、変化そのものである。わたしのいう”そのまま”とはそのような意味である。わたしのいうことを誤解するものは... [続きを読む]
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- 2008/07/10 09:07[正法眼蔵][参究余語]正法眼蔵の諸悪莫作の巻について
- 現在、柏樹子の巻を参究している最中であるが、次にはいよいよ諸悪莫作の巻を参究したいと考えている。諸悪莫作の巻はわたしにとっては眼蔵の中でも何度も読み返している類に入るものである。はじめて眼蔵を読んだ高校生の頃はあまり惹かれなかった。諸悪莫作などというと、とかく偽善的な匂いがして若い頃などは敬遠しがちなものである。若者は偽善的なものよりも偽悪的なものを好むもので、諸悪莫作などとストレートにいわれる... [続きを読む]
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- 2008/07/02 21:35[柏樹子]正法眼蔵柏樹子参究(八)
- 大師有僧問、栢樹還有仏性也無。大師云、有。僧曰、栢樹幾時成仏。大師云、待虚空落地。僧曰、虚空幾時落地。大師云、待栢樹子成仏。いま大師の道取を聴取し、這僧問取をすてざるべし。大師道の虚空落地時、および栢樹成仏時は、互相の相待なる道得にあらざるなり。栢樹を問取し、仏性を問取す。成仏を問取し、時節を問取す。虚空を問取し、落地を問取するなり。 道元はこの段からまた新たな公案問答を挙げる。この公案は先述... [続きを読む]
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- 2008/07/02 09:07[柏樹子]正法眼蔵柏樹子参究(八)
- 大師有僧問、栢樹還有仏性也無。大師云、有。僧曰、栢樹幾時成仏。大師云、待虚空落地。僧曰、虚空幾時落地。大師云、待栢樹子成仏。いま大師の道取を聴取し、這僧問取をすてざるべし。大師道の虚空落地時、および栢樹成仏時は、互相の相待なる道得にあらざるなり。栢樹を問取し、仏性を問取す。成仏を問取し、時節を問取す。虚空を問取し、落地を問取するなり。 道元はこの段からまた新たな公案問答を挙げる。この公案は先述... [続きを読む]
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- 2008/06/25 19:55[凡事徹底]凡事徹底
- わたしのいう凡事徹底とはなにか? 大抵の人たちはこの世界には悟らぬ凡夫と悟った仏の二つがあると考えている。しかしわたしに言わせれば仏のみがあるだけで仏が動いているのがこの世界であり、人生というものはそのようなものだと思う。凡夫からの視点を捨ててしまえばいい。凡夫の視点とはなにごとも部分でみてしまうことである。部分からみればどんなものも不完全である。また不完全にみえて当然である。しかしその凡夫の視点... [続きを読む]
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- 2008/06/25 09:07[凡事徹底]凡事徹底
- わたしのいう凡事徹底とはなにか? 大抵の人たちはこの世界には悟らぬ凡夫と悟った仏の二つがあると考えている。しかしわたしに言わせれば仏のみがあるだけで仏が動いているのがこの世界であり、人生というものはそのようなものだと思う。凡夫からの視点を捨ててしまえばいい。凡夫の視点とはなにごとも部分でみてしまうことである。部分からみればどんなものも不完全である。また不完全にみえて当然である。しかしその凡夫の視点... [続きを読む]
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- 2008/06/21 21:56[柏樹子]正法眼蔵柏樹子参究(七)
- いま、如何是祖師西来意と道取せるは、問取のみにあらず、両人同得見のみにあらざるなり。正当恁麼問時は、一人也未可相見なり、自己也能得幾なり。さらに道取するに、渠無不是なり。このゆゑに錯々なり、錯々なるがゆゑに将錯就錯なり。虚承接響にあらざらんや。豁達霊根無向背なるがゆゑに、庭前栢樹子なり。境にあらざれば栢樹子にあるべからず。たとひ境なりとも、吾不以境示人なり、和尚莫境示人なり。古祠にあらず。すでに... [続きを読む]
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- 2008/06/21 09:07[柏樹子]正法眼蔵柏樹子参究(七)
- いま、如何是祖師西来意と道取せるは、問取のみにあらず、両人同得見のみにあらざるなり。正当恁麼問時は、一人也未可相見なり、自己也能得幾なり。さらに道取するに、渠無不是なり。このゆゑに錯々なり、錯々なるがゆゑに将錯就錯なり。虚承接響にあらざらんや。豁達霊根無向背なるがゆゑに、庭前栢樹子なり。境にあらざれば栢樹子にあるべからず。たとひ境なりとも、吾不以境示人なり、和尚莫境示人なり。古祠にあらず。すでに... [続きを読む]
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- 2008/06/14 09:07[参究余語]道元禅師における道(タオ)
- 道元禅師はよく仏道という語を使っている。仏法というほうが自然であるのに、仏法ならぬ仏「道」という。「道」とはインドにはない概念であり、その由来はあきらかに老子に発する中国哲学に拠るものである。中国哲学は易的世界観に立っており、それはこの現実しか認めぬ唯物的世界観である。それはこの現実しか認めないことである。すなわちいわゆる死後の世界は中国哲学においては問題ではない。ではその現実とはいかなるものを意... [続きを読む]
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