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- 2008/08/21 06:27復興への第一歩
- 清善は母を慰めるため、「お母さん、心配するな。後、三年で必ず楽な生活ができるように取り返してみせるから」 それは母を慰める言葉であったが、また、清善自身の確かな決意でもあった。 母の姿を見て、初めて生きて帰れたという実感がこみ上げてきた。 テント小屋の片隅のダンボール箱の中には、変わり果てた末の弟の遺骨が入っていた。 テント小屋生活は衛生状態が悪く、難民同様の生活でノミやシラミが異常発生し、大衆風呂... [続きを読む]
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- 2008/08/20 06:52沖縄へ帰郷
- 昭和二十一年(1946年)八月二十六日、引き揚げ船は沖縄の久場崎に入港した。清善は懐かしい故郷に着いた。真夏の太陽の下であったが、無事に帰れたという実感と、故郷の大地に立つ感動の喜びで暑さなど感じる余裕はなかった。 久場崎から小禄までトラックに乗せてもらった。街を行き交うジープや軍用トラックは、若い米兵が誇らしげに運転している。その一方で道を歩く住民は、ボロをまとい、裸足で歩いている姿は、戦勝国と... [続きを読む]
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- 2008/08/19 06:54帰郷通知
- 妹は、叔母と一緒に暮らしているとのことである。元気そうであったが、食糧難のため、皆、やせ細っていた。 妹の子どもは一歳を過ぎているというのに栄養失調のため、立つことも出来ない状態である。母乳も食糧不足のため出ないという。 沖縄にいる両親や弟たちとの連絡も取れないことが分かった。だが、中国に行っていた弟は元気に引き揚げてきて、北海道で健在とのことである。 お互いに家族の安否を気遣い、そして幼少のころ過... [続きを読む]
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- 2008/08/18 06:58タバコ代30円から始めた商売
- 清善は昭和二十年(1945年)十二月。他の捕虜たちと共に帰国することになった。引き揚げ者は全員、神奈川県の浦賀で降り、そこから各自、故郷に向かうことになった。 しかし沖縄は米国の占領支配下に置かれ、そのため終戦直後、往来は自由に出来なかったので、鹿児島県、加治木町の収容所で故郷に帰る日を待つことにした。 鹿児島まで来ると、沖縄は近いということから気分的に張り切っていられたものの、収容所の生活は思っ... [続きを読む]
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- 2008/08/17 05:46奇跡的な生還
- タイサン町に着くと、ここでもたちまち何処からともなく人々が集まり、日本軍に反感を持つ住民のなかには、清善に殴りかかろうとする者もいた。 アメリカ軍に清善の移送を任されたフィリピン軍のスーリー大佐は、群衆の前に立ちはだかり、空に向けて威嚇発砲をして、「この日本兵はアメリカ軍に連れていく。手だしは許さん」といって、清善をかばってくれた。 このスーリー大佐は清善にとって第二の恩人である。 清善はアメリカ軍... [続きを読む]
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- 2008/08/16 04:39村人にお礼の約束
- ここで間もなく処刑されるかも知れない。もしかしたら、これが最後の食事になるだろう。しかし彼は、気持ちが大分落ち着いてきた。食べ終わると、 「ありがとうございます」と お礼を述べ、 「もし戦争がすんで、万一、命が助かったら必ず皆さんに恩返し をしたい。牛一頭つぶして皆さんにごちそうします」と、タガログ語で心情をとつとつと語った。 タガログ語で話しかけることによって、人々はいつしか彼に同情したらしく、ひそ... [続きを読む]
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- 2008/08/15 04:30命の恩人
- ゲリラ隊長は大声で、 「待て、勝手なまねは許さん。日本兵が悪いことをしたからといって、私たちも悪いことをしていいというのか。時期を見て、日本軍に捕まっているフィリピン人の捕虜と交換しょうじゃないか。しかも我々はキリスト教徒だ。殺せば神様に申し訳がたたないではないか」 ゲリラ隊長の説得で村人は静かになった。 「神様に申し訳ない」という言葉は、日本軍に反感を持つ人々の心を和らげ、落ち着かせるの... [続きを読む]
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- 2008/08/14 07:09ゲリラ兵に捕まる
- 清善と戦友二人を含めた三人は、昼間、人目につかぬように山すその茂みの中で身を潜め、極力動かないことにしていた。 そのようなある日、突然、犬が激しくほえる声に驚き、立ち上がる間もなく数十人のゲリラ兵が、なにやら大声で叫びながら銃を乱射し、ある者は手榴弾を投げながら走り寄ってきた。 「日本兵を見つけたぞ」 「ここだ、ここだ」 戦友の向敷は銃弾を受け倒れた。 高橋兵長は手榴弾の破片で即死状態。 一瞬にして二... [続きを読む]
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- 2008/08/13 06:05タール湖の側でゲリラと遭遇
- ジャングルの奥地といっても、ゲリラ兵はどこに潜んでいるか油断はできない。だから昼間は人目につかぬよう岩陰や木陰に隠れ、暗くなってから行動することにした。 だが、ときには食料を求めて人里近くまで接近するとこともあり、生イモをかじって飢えをしのいだ。 周りの気配に用心深く神経を使い、小さな物音にも驚き、モグラのような生活をしながら移動を続けた。 三ヶ月くらいが過ぎたころ、隊長以下十二名がタール湖の南方の... [続きを読む]
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- 2008/08/12 08:58日本軍壊滅状態
- 清善は(犬死にだけはしたくない。死んでしまえば万事終わりではないか。生きながらえるのだ)と、生への希望をあきらめないようにした。移民として来た初心の思いからであろう。 敵の攻撃は、空からの爆撃と海からの艦砲射撃が日増しに熾烈さを増してきた。 そのようなある日、彼は敵の様子を探るため早朝、木陰から海を見ると、沖合に敵艦船が何百と集結しているのに気づいて驚いた。 ときは1945年、1月31日のことである... [続きを読む]
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- 2008/08/11 06:41バタンガス州の日本軍
- 南太平洋に戦線を拡大した日本軍は、フィリピン奪還をめざす米軍の熾烈な攻撃を受け、各地で追いつめられていた。 ジャワ・スマトラ・ニューギニヤなどで敵連合軍に反撃され、ガダルカナルでは玉砕し、敗色は濃厚となっていた。 清善はバタン作戦で通訳として約八ヶ月間軍務に服したが、もう二度と軍務には就くまいとの思いから、マニラに戻り商売を再開し、軌道に乗りかけた矢先であった。 自分は戦争するために来たのではない... [続きを読む]
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- 2008/08/10 06:46心機一転
- 命がけで働いて貯めた給料は、だんだん減る一方である。両親に「必ず成功して帰る」と約束したことを思い出すと、いつまでもこうしてはいられない。 持ち前の性分であろうか。(このままではいかん。今までの遅れは何とか取りもそう。一年で取り返してやる)再起を目指したのは所持金が底をつき始めたころであった。 農家で育った彼は、野菜などの農産物の生産販売を思いついた。まず五万坪の土地を小作して使用人たちに分け与え... [続きを読む]
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- 2008/08/09 07:16茫然自失
- 軍属として働いた八ヶ月間に給料の外、配給として支給されたタバコも現金に換えていたので、約八百ペソの現金を貯めることができた。 当時、一般労働者の月給は約二○ペソくらいであったから、八百ペソといえばかなりの大金である。これを資本金にして商売を始め、再起を図るしかない。清善は八ヶ月ぶりにマニラに戻ってきた。昭和17年(1942年)、二十三歳のときである。 しかしマニラに来てみると、物価は一年前に比べて... [続きを読む]
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- 2008/08/08 06:14従軍での教訓(その3)
- バタン半島への行軍は、敵の抵抗を受けながら進められ、時おり激しい戦闘が交わされていた。後方から友軍の野戦砲部隊の砲弾が撃ち込まれ、歩兵隊の戦闘が始まると味方の死傷者も続出した。そうした中での行軍である。 村は破壊され、住民の屍は散乱し、中には婦人や老人、子供の死体が混じっているのを見た彼は、通訳として参加したものの、戦争の非情さを目の当たりにするに付け、自分の行動にがく然とした。 自分は一... [続きを読む]
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- 2008/08/07 06:46従軍での教訓(その2)
- 清善は、しばらくすると急に腸が千切れそうに痛み出した。すきっ腹に酢を飲んだので胃や腸が煮えたぎったのだろう。 それが水でなく、酢だったことに気づいたが、今さら後悔しても、どうにもならない。腸が千切れはしないかと思われるほどの激痛が腹部から全身に走り、立つのもやっとであった。 だが、歯をくいしばり、顔をゆがめながらも、なんとかついて行かねば置き去りにされてしまう。地獄の責め苦とはこんな事ではないか、... [続きを読む]
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- 2008/08/06 06:21従軍での教訓(その1)
- 当時、マッカーサーの率いる米軍と、フィリピン守備隊約七万の部隊は、バタン半島コレヒドルに集結して抵抗していた。 本間雅晴将軍の率いる日本軍は、米軍とフィリピン軍を追放すべく破竹の勢いで進撃を展開していた。 清善は、すべてを失い独り戦場に放り出され、途方に暮れて商売どころではない。こうなっては、これまでに習ったタガログ語と英語を役立てようと思い、通訳として志願することにした。二三歳のときである。 [続きを読む]
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- 2008/08/05 06:22太平洋戦争
- 清善がマニラに来て三年目の昭和16年(1941年)、太平洋戦争が勃発し、フィリピン全土は瞬く間に戦場と化した。 当時、フィリピンは米国の統治下に置かれていたため、日本の開戦と同時に、在留邦人はフィリピン憲兵に連行され収容所に収容された。 戦争の心配はフィリピンでもささやかれていたが、急に在留邦人が収容されるようになるとは思いもよらなかった。 これまで苦労して築いた店や商品は一体どうなるだろうか。 し... [続きを読む]
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- 2008/08/04 06:16タガログ語と英語を覚える (その2)
- しかし、いつまでも望郷の念に浸ってはいられない。フィリピンまで来た初志を思うと、彼はまた、がむしゃらな勢いで働きはじめ、その合間にタガログ語と英語を覚えることに熱中した。 真っ黒になったノートを片時も離したことがない。 やがて半年もすると、タガログ語はなんとか話せるまでこぎ着けた。 しかし完全にマスターするまでには、まだ二年の歳月が必要であった。 その間、英語にも慣れてきた。 フィリピンに来て三年が経... [続きを読む]
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- 2008/08/03 07:17タガログ語と英語を覚える (その1)
- フィリピンで生活を始めるうえで、彼が第一に直面したのは言葉の問題である。言葉を覚えるため、ノートは真っ黒になるまで書き込み、そのノートを仕事の合間に取り出して単語を覚えることに努めた。 店には金時などを食べに来るお客が多く、タガログ語や英語で注文を受けるまではなんとかできても、それ以上の応答ができない。そのもどかしさや、苛立たしさなどを思うと、言葉の勉強には昼夜を問わず必死になって取り組まざるを得... [続きを読む]
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- 2008/08/02 07:39フィリピンで一旗揚げたい
- 昭和13年(1938年)、沖縄から88人の移民がフィリピンに行くことになった。清善もその一人である。彼は、必ず成功して帰る、という決意を持っていたので、その考に強い自信を持っていた。 父母の反対を押し切って遠いフィリピンに行くのだから、それだけの価値があり、また、大きな可能性もあると思ったからである。とにかく希望と情熱に燃え、フィリピンに行く日を楽しみにしていた。 両親や弟たちに見送られ、那覇港か... [続きを読む]
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- 2008/08/01 06:12フィイリピン行き決意
- 清善は18歳のころ、フィリピンで働いている兄が羨ましくなり、自分も海外で思い切り働いてみたい、と、海外雄飛を夢見るようになっていた。 いくら沖縄で頑張っても、たいしたことはない。そう思うと(広い海外で思い切り働いて成功してみたい)という思いは高まるばかりであった。 二、三年前から兄の便りに接すると、狭い沖縄で働くことの物足りなさが感じられ、海外に関心が向きはじめていた。 兄がフィリピンに行くとき、兄... [続きを読む]
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- 2008/07/31 06:50働き者 サーターヤー清善 (その4)
- 農村で素朴に育った彼は、野良仕事に奮闘し、雨の日も濡れながら畑仕事をすることも度々あった。 そのような、ある日、草刈り帰りの老農夫が、「君たち、体はいくら雨に濡らしてもかまわないが、頭だけは濡らしてはだめだよ」と、親切に声をかけられたことがある。 考えてみると彼が知っている長生きしている元気な年寄りは、皆いつも帽子をかぶっていることに気づいた。 それ以来、野良仕事に出るときは、いつも帽子をかぶること... [続きを読む]
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- 2008/07/30 06:57遊び心 サーターヤー清善 (その3)
- 彼が村の若者に交じって遊びらしい遊び をすることがあるとすれば、石を持ち上げて体を鍛えるくらいのときである。 家の近くに五十キロの「アンチャン丸石」と、七十キロの「サーターヤー丸石」があった。村の青年たちは、この丸石を持ち上げて体を鍛えることで自慢したものである。 清善も、丸石を持ち上げて体を鍛えるのは他の若者と同様であった。 ところが、この丸石がときとして他の集落に持ち去られることがあった。彼は石の... [続きを読む]
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- 2008/07/29 10:37仕事熱心 サーターヤー清善 (その2)
- 上原家の黒糖生産は九十七丁であったが、清善が16歳のころには百六丁に増産し、小禄で三番目の生産農家になっていた。 しかも製糖は他人の手に頼らず、すべて自分で仕上げていたので評判は村中に知られ、他の農家からも頼まれることが多くなり、いつしか人々から「サーターヤー清善」の愛称で呼ばれるようになっていた。 当時、黒糖の値段は毎日上がったり、下がったりの変動が激しかったので、清善は値が下がったときに止め置... [続きを読む]
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- 2008/07/28 07:00サーターヤー清善 (その1)
- 小禄村では、ある大先輩が製糖の第一人者として各農家の製糖の大半を仕上げていた。その先輩は県大会や郡大会に地域代表として出場し、製糖の権威者として注目されていた人である。 しかし、清善は、(自分の家の製糖は自分でやってみたい)と、かねがね思っていた。 いつまでも他人に頼っていては父親も自分も頭が上がらないし、自立にもならないのではないかとの自尊心からである。 幼少のころから製糖工場... [続きを読む]
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