ブログみるアプリ
日本中の好きなブログをすばやく見られます
無料ダウンロード
ブログ村とはIDが異なります
メインカテゴリーを選択しなおす
フォロー
伊集院彦吉と天津日本人学校
19世紀後半、天津には諸外国の租界が相次いで設けられました。日本も1898年に租界を天津に設けます。義和団事件鎮圧以降、租界に住む日本人の数は徐々に増え、彼ら日本人は子供の教育問題に直面します。1900年頃、日本国内での児童の就学率は9割を超えていたにも関わらず、
2017/10/06 13:14
田村俊次と東亜医院
天津の租界内に初めて病院が設立されたのは一九〇二年。ちょうど租界に移り住む日本人が増えてきた頃です。この病院は共立病院という総合病院で、当時の最先端技術であるX線機器を備えていたほか、娯楽室や新聞・雑誌を患者に提供するなど、サービスの充実した病院でした。こ
2017/08/14 14:36
堀内干城と麻薬取締
日本で天津と言えば「天津甘栗」が有名ですが、天津は栗の産地ではありません。これは河北省一帯の栗が天津に集められ、天津から輸出されていたために「天津甘栗」と名付けられたにすぎません。このように十九世紀末から二〇世紀初期の天津は、北方最大の商業・貿易都市とし
2017/08/14 14:15
天津日本人学校と伊集院彦吉
アロー戦争(1858年)で敗れた清は、諸外国と天津条約を結びます。この条約によって天津は開港し、急速な発展を遂げます。そのため、諸外国が相次いで天津に租界を設け、日本も1898年に租界を天津に設けます。義和団事件鎮圧以降、租界に住む日本人の数は徐々に増え、彼ら日
2017/08/14 14:08
天津に都落ちしてきた溥儀
和平区鞍山道にひっそりと佇む「静園」。ここがラストエンペラーこと愛新覚羅溥儀(1906~1967)の故居であったことはご存知の方も多いかと思います。しかし、そもそも溥儀はどうして天津にやって来たのでしょうか?実はこれには日本人が大きく関与しています。 清朝最後
2017/08/07 22:46
天津日本租界の成り立ち
~日本租界の成り立ち~ 19世紀中ごろ、清朝は第二次アヘン戦争(アロー戦争)で英・仏連合軍に敗れ、天津条約を締結。この条約によって天津が開港される。江戸幕府が黒船に驚いて横浜や神戸を開港させたようなものだ。天津は開港後、諸外国との貿易で急速な発展を遂げる
2017/08/07 22:38
1件〜100件
「ブログリーダー」を活用して、S.K.さんをフォローしませんか?