ZIPANGU さん プロフィール

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ZIPANGUさん: 舞絽倶 日本文化と服・小物
ハンドル名ZIPANGU さん
ブログタイトル舞絽倶 日本文化と服・小物
ブログURLhttp://zipangu.cocolog-nifty.com/blog/
サイト紹介文みやび(雅)わび(侘)さび(寂)いき(粋)いなせ(鯔背)を受け継ぎ、お召しものを通して語る舞絽倶。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供39回 / 365日(平均0.7回/週) - 参加 2005/08/15 12:35

ZIPANGU さんのブログ記事

  • 赤眉蜂起軍 樊崇 花と散る 638
  • 「後漢書 光武帝紀」に依るとA.D.25年9月「九月 赤眉入長安 更始奔高陵」赤眉軍の長安入城は9月とされ、更始帝は長安を脱出、高陵へ。*高陵・・・どこかは不明、お墓のある所更始帝はやがて投降、璽綬(=帝位記号)を劉盆子に譲渡。A.D.25年12月「赤眉殺更始」赤眉軍は更始帝を抹殺。月が戻りますがこの年の10月「冬十月癸丑 車駕入洛陽 幸南宮却非殿 遂定都焉」劉秀(後の光武帝)は洛陽へ入城、都とします。一方、赤眉劉盆子軍 [続きを読む]
  • 二つの中国 劉盆子・劉秀帝 637
  • 先週、劉盆子による漢帝国が復活したと紹介しました。ところがどっこい、再び、「二つの中国」が出現したのです。最初の「二つの中国」は「二つの中国 王莽・劉玄帝」でご確認を。ここで登場した三国志、劉備の祖先に当たる「劉伯升」。彼の弟に「劉秀(B.C.06〜57)」と云うお方が存在。劉秀も兄、劉伯升と共に「王莽政権」打倒に立ち上がったお方です。劉伯升はA.D.23年既に内ゲバにより殺害されこの世におりません。劉秀も更始 [続きを読む]
  • 赤眉軍 劉盆子立て更始帝打倒 636
  • 漢書に於いて先週の赤眉軍記述から2年半経過後にやっとお目見え。「明年(A.D.25)夏 赤眉樊崇等衆数十万人入関 立劉盆子 称尊号  攻更始(帝) 更始(帝)降之 赤眉遂焼長安宮室市里 害更始(帝)」A.D.25夏 赤眉軍の樊崇らが都、長安にいる更始(帝)殺害した事件。反乱軍数十万人が函谷関・武関・陸渾関の何れか、或いは、各関を打ち破り長安に攻め入ったのです。長安市街も焼き尽くしてしまった模様。それはさて置き、気にな [続きを読む]
  • 赤眉軍 漢書記述ほんの少々 635
  • 緑林軍らが先に王莽を打倒してしまったのですが、緑林軍に先行、蜂起した赤眉軍はその間一体何をしていたのでしょう?残念ながら「漢書 王莽伝」には詳しく記述されていないのです。赤眉軍一途最初の登場は「呂母の乱から赤眉軍結集」で紹介した「是歳(A.D.18) 赤眉力子都樊崇等以飢饉相聚 起於琅邪 転抄掠  衆皆万数 遣使者発郡国兵撃之 不能克」次の登場が「是月(A.D.22/2月) 赤眉殺太師犧仲景尚 関(函谷関)東人相食」A.D [続きを読む]
  • 王莽23年間トップ本望を遂げる 634
  • 「(A.D.23)四月世祖與王常等別攻潁川 下昆陽郾定陵」潁川・・・潁川(えいせん)郡 河南省中部地区昆陽・郾・定陵は潁川郡内の県(都市)劉玄・王常軍は潁川郡も侵略、平定。これに対し王莽軍は反乱軍を攻撃するも反撃を食らい敢えなく敗退。勢い、劉玄軍は王莽が籠もる首都、長安を目指し進軍。「十月戊申朔(A.D.23/10/1) 兵従宣平城門入 民間所謂都門也」ついに、劉玄軍は長安城の「平城門=都門」を破り城内へ侵入。「三日 [続きを読む]
  • 二つの中国 王莽・劉玄帝 633
  • 漢王朝復活を目指す劉伯升は南陽郡舂陵で挙兵したので舂陵軍とも。劉伯升は前漢第六代皇帝「景帝(B.C.188〜B.C.141 在位B.C.157〜B.C.141)」の末裔と。景帝の息子は前漢第七代皇帝「武帝」。尚、武帝については「漢帝国成立 劉邦 武帝 司馬遷」「司馬遷 郎中・太史・中書令 史記成立」「戦乱中 商人(華商)・難民避難」 でご確認を。又、「三国志」でメジャーな「劉備(玄徳)(161〜223)」はなな、何と、劉伯升の末裔に当たるとの [続きを読む]
  • 赤眉軍に触発され緑林軍決起 632
  • 赤眉軍の蜂起に対し長安の東南でも決起部隊が出現。A.D.20「南郡張霸江夏羊牧王匡等 起雲杜緑林 号曰下江兵 衆皆万余人」(漢書 王莽伝)以後「」は漢書 王莽伝南郡・・・現在の湖北省荊州市にあった郡江夏・・・現在の湖北省東部にあった郡雲杜・・・江夏郡にあった県緑林・・・緑林山(現在の湖北省宜昌市当陽市)「下江兵盛 新?朱鮪 平林陳牧等 皆復聚衆 攻撃郷聚」長安から南、今の湖北省で反乱を起こした下江兵(軍)(=緑 [続きを読む]
  • 呂母の乱から赤眉軍結集 631
  • 長年に渡る地球寒冷化現象の影響により翌年、A.D.17生活苦の民衆が徒党を組み盗賊への道を歩む事に。「臨淮瓜田儀等為盗賊 依阻会稽長州 琅邪女子呂母亦起 初呂母子為県吏 為宰所冤殺 母散家財 以酤酒買兵弩 陰厚貧窮少年 得百余人 遂攻海曲県  殺其宰以祭子墓 引兵入海 其衆浸多後皆万数」 (漢書 王莽伝)以後「」は漢書 王莽伝臨淮(りんわい)・・・現在の江蘇省会稽(かいけい)・・・会稽山 浙江省紹興市南部に位置す [続きを読む]
  • 王政君崩御 地球寒冷化? 630
  • A.D.08王莽(53歳)は皇帝位禅譲と云う形を取り皇帝に。実際は王莽による皇帝位簒奪の成功。(「新」王朝)ここに人身掌握に長け権謀術数を巡らした王莽は念願の最高位獲得。この王莽の皇帝位簒奪に荷担したのは新しい世を望むエッジーな科学的儒教主義官吏達だったのです。偽善予言書まで作成したお方もいらっしゃったそうな。王莽にとっては「我が世の春」を迎えます。科学的儒教主義官吏達により帝位に祭り上げられた王莽は遙か [続きを読む]
  • 王莽 大司馬〜摂皇帝に 629
  • 元帝の奥様で成帝の母、王政君(王莽の叔母)。(とても長寿なお方)元帝(B.C.74〜B.C.33 在位B.C.48〜B.C.33)王政君(B.C.71〜A.D.13 皇后・皇太后・太皇太后B.C.48〜B.C.13) 成帝(B.C.51〜B.C.07 在位B.C.33〜B.C.07) 許皇后(?〜B.C.08)(皇后位B.C.18迄) 趙飛燕(?〜B.C.01)(皇后・皇太后位B.C.16〜B.C.01) 趙合徳(?〜B.C.07)(昭儀=皇帝側室号)彼女が皇后になったお陰で王一族は「外戚」に。政治の実権は [続きを読む]
  • 前漢末 儒教一世風靡 628
  • 楽浪海中有倭人と「漢書 地理志」に記載された時代の中国王朝は元帝(B.C.74〜B.C.33 在位B.C.48〜B.C.33)成帝(B.C.51〜B.C.07 在位B.C.33〜B.C.07)母は王政君(王莽の叔母)元帝は大の「儒教」好きで父の宣帝(B.C.91〜B.C.48 在位B.C.74〜B.C.48)に「我が家を乱すものは太子(儒教好き元帝)なり」と嘆かせたとか。この時期の儒教は神秘的災異(神の災い)思想が流行。元帝はそれにどっぷり填まった模様。注 儒教と儒家(者 [続きを読む]
  • 楽浪海中有倭人 分為百余国 627
  • B.C.106武帝(B.C.156〜B.C.87)の影響が及ぶ地域を13州に分割設定現在の西から河北省 北京市 天津市 遼寧省地域は「幽州(ゆうしゅう)」とされ燕国 涿・広陽・代・上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東・玄菟・楽浪郡の10郡1国に。(郡国制)(燕国は封建国)しかし、武帝の長期間の行け行けどんどん政策により財政状況が悪化武帝を引き継いだ昭帝(B.C.94〜B.C.74 在位B.C.87〜B.C.74 )時代、緊縮財政策を取らざるを得ずB.C.82真番郡・臨屯郡 [続きを読む]
  • 戦乱中 商人(華商)・難民避難 626
  • たいへん、遅ればせながら、時季外れの「明けオメ」です。皆様におかれましては「良いお年」をお迎えの事と思います。ちょいと、海外出張をしておりました。既に「梅は咲いたか桜はまだかいな」の季節になりましたが今年も、相変わらず、宜しくお願いつかまつります。それでは、昨年からの続きです。秦の天下統一〜秦打倒反乱軍決起〜漢の再天下統一の間戦禍を逃れ、商人(華商)・民(たみ)は安寧の地?へ非難・移動します。敗戦国の [続きを読む]
  • 司馬遷 郎中・太史・中書令 史記成立 625
  • 司馬遷は洛陽近郊、竜門山西南夏陽生まれと云われています。建元元年(B.C.140)「儒教」を政治の根本にするよう提案し採用された董仲舒(とうちゅうじょ)(B.C.176?〜 B.C.104?)、五経博士(五経=「易」「書」「詩」「礼」「春秋」)の孔安国(こう あんこく)(?〜?)(孔子の末裔)に司馬遷は幼い頃、教えを乞うたそうです。(父、司馬談のお薦め)(司馬談)又、若かりし時、名所旧跡を訪ね、方々へ旅をしたそうです。 [続きを読む]
  • 漢帝国成立 劉邦 武帝 司馬遷 624
  • B.C.202 項羽の自害により、劉邦は「皇帝」に。首都は「洛陽」 B.C.201「長安(現在の西安)」へ遷都。秦の郡県制⇒郡国制(分封建国制)へ。B.C.195 劉邦他界劉邦に始まり、影響下に置かれた領域を「漢」と後に命名。「漢」は元、「漢水」流域で、劉邦が西楚の覇王、項羽により封建されたその「漢水中流(漢中)」地域から。項羽に分け与えられ年がB.C.206により「漢」のスタートは「B.C.206」とされている。「漢」の滅亡は「AD [続きを読む]
  • 捲土重来 項羽(杜牧 哀惜)3 623
  • 兵法家、及び、詩人である杜牧は項羽の死を哀れみ惜しみました。兵法家でも「戦の勝敗」は判断ができかねるとの事。孫子兵法では多勢に無勢の際は「逃げの一手」です。魏武帝註孫子 謀攻第三でこれが記されています。前略用兵之法十則圍之五則攻之倍則分之敵則能戰之少則能逃之不若則能避之故小敵之堅大敵之擒也後略 魏武帝註孫子の原文はこちらでご確認下さい。(国立国会図書館 電子図書館蔵書 「魏武帝註孫 [続きを読む]
  • 捲土重来 項羽(杜牧 哀惜)2 622
  • ここで、「史記 項羽本紀」を確認してみます。且籍與江東子弟八千人渡江而西今無一人還縦江東父兄憐而王我我何面目見之縦彼不言籍獨不愧於心乎(史記 項羽本紀原文 烏江)訓読してみます。且つ籍(項羽)は江東の子弟八千人と江を渡りて西せしも今一人の還るもの無し縦(たと)え江東の父兄憐れみて我を王とするも我何の面目ありてかこれに見(まみ)えん縦え彼言わずとも籍独り心に愧じざらんやそしてZIPANGU風、訳は「以前私は江 [続きを読む]
  • 捲土重来 項羽(杜牧 哀惜)1 621
  • 項羽の壮絶な最期に、とても哀れみ惜しんだ方がおられます。そのお方は晩唐に生を受けた「杜牧(803〜852)」さん。彼の生き様にはとっても共感を覚えます。暗鬼紅灯の巷に彷徨う女性に十二分に恋したかと思えば、乙女まで、即、好きになり親御さんに婚約をお願いしちゃった方。又、一方、彼は「宋本十一家注孫子」のお一人なのです。以前お話しした、孫武の「孫子」に「注」を加えた御仁です。「『孫子』兵法 少しだけ 1 」現存す [続きを読む]
  • 烏江亭の思慮不足で項羽自害 620
  • 西楚覇王と称した「項羽」。長江でやむなく自害するのですが、ではなぜ一目散に長江を目指し敗走したのでしょうか?天下無敵、豪放磊落、融通無碍な項羽であった筈。彼は長江を渡り、再起を図る腹積もりではなかったのでしょうか。愛しい虞美人とはお別れしたものの、彼女は項羽の足手まといになることを察し、自害したのです。一時、傷心の時空が訪れたとは思われますが・・・・・。その思いを胸におさめ、長江の渡し場「烏江」に [続きを読む]
  • 西楚覇王 項羽 絶命 619
  • 破竹の進撃で居並ぶ秦軍を殲滅し、西楚の覇王となってからは封建不満分子軍団、及び、漢王軍(劉邦軍)を悉く破ってきた項羽軍。初めて、「垓下の戦い」で敗戦を来します。項羽軍団は真夜中、垓下から逃亡、敗走しながら一路、追っ手を蹴散らしながら、長江方面へまっしぐら。ここからが先週紹介した「史記 項羽本紀」原文の意訳。やっとこそっとこ、長江の渡し場、「烏江」に辿り着くのです。そこで、運・間が悪く、渡し場の「亭 [続きを読む]
  • 史記 項羽本紀原文 烏江 618
  • 項羽は虞美人に別れを告げ、手勢僅か28騎で「垓下」を脱出、逃避、長江の渡し場「烏江(うこう)」に達します。*烏江 現在の安徽省馬鞍山市和県の烏江鎮それでは、位置をグーグルアースでご確認下さい。(画像 で拡大します。)烏江の渡し場でここを管理する亭長(役人)に出会います。そこでの遣り取りを「史記 項羽本紀」原文から於是項王乃欲東渡烏江 烏江亭長檥舩待謂項王曰江東雖小地方千里衆数十萬人亦足王也願大 [続きを読む]
  • 項羽 虞美人とお別れ 617
  • 連戦連勝を誇った項羽軍ですが、天が味方せず「垓下」で四方八方劉邦軍に包囲されます。夜になると回りから聞き慣れた楚国の歌が聞こえ、項羽は既に楚国が敵に落ちてしまったのかと驚愕。これが世に云う「四面楚歌」。もはやこれ迄と項羽は愛(いと)しい虞美人へお別れの詩を送ります。垓下の歌力抜山兮気蓋世時不利兮騅不逝騅不逝兮可奈何虞兮虞兮奈若何 (史記 項羽本紀 項羽の切ない七言四句詩)*抜山蓋世(ばつざんがいせい [続きを読む]
  • 西楚の覇王 項羽 616
  • 秦王朝を打倒した項羽は地元、楚に凱旋、彭城(ほうじょう)(現在の江蘇省徐州市)を首都とします。早速、位置をグーグルアースでご確認下さい。(画像 で拡大します。)項羽は「西楚の覇王」と自ら称し、領地を分配(封建)確定します。その後、傀儡となってしまった楚王、「義帝(=懐王)」を殺害。この義帝(=懐王)が秦打倒旧楚反乱軍の将軍達に「先に関中に入った者を関中王と定める(懐王之約)」と述べたとか。こ [続きを読む]
  • 劉邦vs.項羽 鴻門の会 615
  • 秦打倒旧楚反乱軍別働隊劉邦軍は手薄な武関を突破、迫る来る秦軍を打倒、秦の首都、咸陽の目前まで達します。もはやここ迄と判断した秦は降伏、本部隊項羽軍より先に劉邦軍は咸陽へ入城したのです。秦首都、咸陽の宮殿には目が眩むほどの金銀?財宝、それはそれは美しすぎる女性達に根が遊び人の劉邦は心時めきウハウハ気分。ところがどっこい、軍師の張良らが浮かれる劉邦を制止、劉邦は遊び心をしぶしぶ?押さえ込んだのです。一 [続きを読む]
  • 「孫子」兵法 少しだけ 3 始如處女 後如脱兎 614
  • 「孫子」に関わる過ぎると本題に進めませんので日本の戦国時代武田信玄が孫子から取り入れた戦術「風林火山」を紹介して終わりにしようと思います。「軍争第七」前略故兵以詐立以利動以分合爲變者也故其疾如風其徐如林侵掠如火不動如山難知如陰動如雷震掠郷分衆廓地分利懸權而動先知迂直之計者勝此軍爭之法也(国立国会図書館 電子図書館蔵書 「魏武帝註孫子」 軍争 15行)「そこで、戦争とは敵の意表をつくことにはじまり、 利 [続きを読む]