ZIPANGU さん プロフィール

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ZIPANGUさん: 舞絽倶 日本文化と服・小物
ハンドル名ZIPANGU さん
ブログタイトル舞絽倶 日本文化と服・小物
ブログURLhttp://zipangu.cocolog-nifty.com/blog/
サイト紹介文みやび(雅)わび(侘)さび(寂)いき(粋)いなせ(鯔背)を受け継ぎ、お召しものを通して語る舞絽倶。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供34回 / 365日(平均0.7回/週) - 参加 2005/08/15 12:35

ZIPANGU さんのブログ記事

  • 司馬遷 郎中・太史・中書令 史記成立 625
  • 司馬遷は洛陽近郊、竜門山西南夏陽生まれと云われています。建元元年(B.C.140)「儒教」を政治の根本にするよう提案し採用された董仲舒(とうちゅうじょ)(B.C.176?〜 B.C.104?)、五経博士(五経=「易」「書」「詩」「礼」「春秋」)の孔安国(こう あんこく)(?〜?)(孔子の末裔)に司馬遷は幼い頃、教えを乞うたそうです。(父、司馬談のお薦め)(司馬談)又、若かりし時、名所旧跡を訪ね、方々へ旅をしたそうです。 [続きを読む]
  • 漢帝国成立 劉邦 武帝 司馬遷 624
  • B.C.202 項羽の自害により、劉邦は「皇帝」に。首都は「洛陽」 B.C.201「長安(現在の西安)」へ遷都。秦の郡県制⇒郡国制(分封建国制)へ。B.C.195 劉邦他界劉邦に始まり、影響下に置かれた領域を「漢」と後に命名。「漢」は元、「漢水」流域で、劉邦が西楚の覇王、項羽により封建されたその「漢水中流(漢中)」地域から。項羽に分け与えられ年がB.C.206により「漢」のスタートは「B.C.206」とされている。「漢」の滅亡は「AD [続きを読む]
  • 捲土重来 項羽(杜牧 哀惜)3 623
  • 兵法家、及び、詩人である杜牧は項羽の死を哀れみ惜しみました。兵法家でも「戦の勝敗」は判断ができかねるとの事。孫子兵法では多勢に無勢の際は「逃げの一手」です。魏武帝註孫子 謀攻第三でこれが記されています。前略用兵之法十則圍之五則攻之倍則分之敵則能戰之少則能逃之不若則能避之故小敵之堅大敵之擒也後略 魏武帝註孫子の原文はこちらでご確認下さい。(国立国会図書館 電子図書館蔵書 「魏武帝註孫 [続きを読む]
  • 捲土重来 項羽(杜牧 哀惜)2 622
  • ここで、「史記 項羽本紀」を確認してみます。且籍與江東子弟八千人渡江而西今無一人還縦江東父兄憐而王我我何面目見之縦彼不言籍獨不愧於心乎(史記 項羽本紀原文 烏江)訓読してみます。且つ籍(項羽)は江東の子弟八千人と江を渡りて西せしも今一人の還るもの無し縦(たと)え江東の父兄憐れみて我を王とするも我何の面目ありてかこれに見(まみ)えん縦え彼言わずとも籍独り心に愧じざらんやそしてZIPANGU風、訳は「以前私は江 [続きを読む]
  • 捲土重来 項羽(杜牧 哀惜)1 621
  • 項羽の壮絶な最期に、とても哀れみ惜しんだ方がおられます。そのお方は晩唐に生を受けた「杜牧(803〜852)」さん。彼の生き様にはとっても共感を覚えます。暗鬼紅灯の巷に彷徨う女性に十二分に恋したかと思えば、乙女まで、即、好きになり親御さんに婚約をお願いしちゃった方。又、一方、彼は「宋本十一家注孫子」のお一人なのです。以前お話しした、孫武の「孫子」に「注」を加えた御仁です。「『孫子』兵法 少しだけ 1 」現存す [続きを読む]
  • 烏江亭の思慮不足で項羽自害 620
  • 西楚覇王と称した「項羽」。長江でやむなく自害するのですが、ではなぜ一目散に長江を目指し敗走したのでしょうか?天下無敵、豪放磊落、融通無碍な項羽であった筈。彼は長江を渡り、再起を図る腹積もりではなかったのでしょうか。愛しい虞美人とはお別れしたものの、彼女は項羽の足手まといになることを察し、自害したのです。一時、傷心の時空が訪れたとは思われますが・・・・・。その思いを胸におさめ、長江の渡し場「烏江」に [続きを読む]
  • 西楚覇王 項羽 絶命 619
  • 破竹の進撃で居並ぶ秦軍を殲滅し、西楚の覇王となってからは封建不満分子軍団、及び、漢王軍(劉邦軍)を悉く破ってきた項羽軍。初めて、「垓下の戦い」で敗戦を来します。項羽軍団は真夜中、垓下から逃亡、敗走しながら一路、追っ手を蹴散らしながら、長江方面へまっしぐら。ここからが先週紹介した「史記 項羽本紀」原文の意訳。やっとこそっとこ、長江の渡し場、「烏江」に辿り着くのです。そこで、運・間が悪く、渡し場の「亭 [続きを読む]
  • 史記 項羽本紀原文 烏江 618
  • 項羽は虞美人に別れを告げ、手勢僅か28騎で「垓下」を脱出、逃避、長江の渡し場「烏江(うこう)」に達します。*烏江 現在の安徽省馬鞍山市和県の烏江鎮それでは、位置をグーグルアースでご確認下さい。(画像 で拡大します。)烏江の渡し場でここを管理する亭長(役人)に出会います。そこでの遣り取りを「史記 項羽本紀」原文から於是項王乃欲東渡烏江 烏江亭長檥舩待謂項王曰江東雖小地方千里衆数十萬人亦足王也願大 [続きを読む]
  • 項羽 虞美人とお別れ 617
  • 連戦連勝を誇った項羽軍ですが、天が味方せず「垓下」で四方八方劉邦軍に包囲されます。夜になると回りから聞き慣れた楚国の歌が聞こえ、項羽は既に楚国が敵に落ちてしまったのかと驚愕。これが世に云う「四面楚歌」。もはやこれ迄と項羽は愛(いと)しい虞美人へお別れの詩を送ります。垓下の歌力抜山兮気蓋世時不利兮騅不逝騅不逝兮可奈何虞兮虞兮奈若何 (史記 項羽本紀 項羽の切ない七言四句詩)*抜山蓋世(ばつざんがいせい [続きを読む]
  • 西楚の覇王 項羽 616
  • 秦王朝を打倒した項羽は地元、楚に凱旋、彭城(ほうじょう)(現在の江蘇省徐州市)を首都とします。早速、位置をグーグルアースでご確認下さい。(画像 で拡大します。)項羽は「西楚の覇王」と自ら称し、領地を分配(封建)確定します。その後、傀儡となってしまった楚王、「義帝(=懐王)」を殺害。この義帝(=懐王)が秦打倒旧楚反乱軍の将軍達に「先に関中に入った者を関中王と定める(懐王之約)」と述べたとか。こ [続きを読む]
  • 劉邦vs.項羽 鴻門の会 615
  • 秦打倒旧楚反乱軍別働隊劉邦軍は手薄な武関を突破、迫る来る秦軍を打倒、秦の首都、咸陽の目前まで達します。もはやここ迄と判断した秦は降伏、本部隊項羽軍より先に劉邦軍は咸陽へ入城したのです。秦首都、咸陽の宮殿には目が眩むほどの金銀?財宝、それはそれは美しすぎる女性達に根が遊び人の劉邦は心時めきウハウハ気分。ところがどっこい、軍師の張良らが浮かれる劉邦を制止、劉邦は遊び心をしぶしぶ?押さえ込んだのです。一 [続きを読む]
  • 「孫子」兵法 少しだけ 3 始如處女 後如脱兎 614
  • 「孫子」に関わる過ぎると本題に進めませんので日本の戦国時代武田信玄が孫子から取り入れた戦術「風林火山」を紹介して終わりにしようと思います。「軍争第七」前略故兵以詐立以利動以分合爲變者也故其疾如風其徐如林侵掠如火不動如山難知如陰動如雷震掠郷分衆廓地分利懸權而動先知迂直之計者勝此軍爭之法也(国立国会図書館 電子図書館蔵書 「魏武帝註孫子」 軍争 15行)「そこで、戦争とは敵の意表をつくことにはじまり、 利 [続きを読む]
  • 「孫子」兵法 少しだけ 2 613
  • 先週紹介しました「魏武帝註孫子 始計第一」の続き。夫未戰而廟勝者得算多也未戰而廟算不勝者得算少也多算勝少算不勝而況於無算乎吾以此觀之勝負見矣(国立国会図書館 電子図書館蔵書 「魏武帝註孫子」 17行)この箇所が「魏武帝註孫子 始計第一」の結論になります。孫子 始計第一の書き出し「兵者國之大事」、途中の「兵者詭道也」、最後の「勝負見矣」により孫武は兵法を言い尽くしています。「兵者国之大事」「兵(=兵を集め [続きを読む]
  • 「孫子」兵法 少しだけ 1 612
  • せっかくですから「孫子」兵法についてほんの少しだけ触れます。「孫子」は13篇からなる「兵法書」です。第一  計篇  (始計第一)第二  作戦篇 (作戦第二)第三  謀攻篇 (謀攻第三)第四  軍形篇 (軍形第四)第五  兵勢篇 (兵勢第五)第六  虚実篇 (虚実第六)第七  軍争篇 (軍争第七)第八  九変篇 (九変第八)第九  行軍篇 (行軍第九)第十  地形篇 (地形第十)第十一 九地編 (九地 [続きを読む]
  • 率然は「常山(北岳恒山)」に 611
  • 孫武が云う、戦いに巧み率然は「常山」に生息しているとの事。この「常山」は北岳恒山の事。(現在の山西省渾源県)道教、陰陽五行説で北方を司る山とされています。又、三国志で有名な「趙雲」はここが出身地です。位置はグーグルアースで確認下さい。因みに東方を司る山とされているのが東岳泰山。(現在の山東省泰安市)秦の始皇帝がこの泰山で「封禅(ほうぜん)」を挙行(B.C.219)。*封禅中国古代に天子が泰山で行なった祭 [続きを読む]
  • 項羽 孫子兵法 鉅鹿の戦いに活用 610
  • 残暑お見舞い申し上げます。それでは、前回からの続き。秦打倒旧楚反乱軍本部隊項羽軍を「鉅鹿の戦い」に勝利導いたのは「孫子」の兵法のお陰?でした。彼は「孫子」を学んでいた感じです。兵力(数)が圧倒的勝る秦章邯軍に対し、項羽軍は舟で黄河を渡った後、その舟を破壊し黄河に沈め僅か3日分の食糧を確保後、炊飯道具(鍋釜類)を棄却し士卒に決死の覚悟をさせ戦いに挑み勝利を掴んだのでした。(史記 項羽本紀に上記の趣き [続きを読む]
  • 劉邦は武関 項羽は函谷関 609
  • 秦打倒旧楚反乱軍本部隊項羽軍は秦章邯軍が集結する旧趙の鉅鹿での戦いに明け暮れている際劉邦達は鉅鹿の戦いへは赴かず、(東ルート)別部隊として秦の首都、咸陽へ進撃します。(西ルート)咸陽は古来より肥沃で開けた地域、渭河平原=渭水盆地=関中に存在します。渭河平原=渭水盆地=関中へ入るには東の函谷関、西の隴関・大散関、南の武関、北の蕭関を突破しなけてはなりません。渭河平原の位置関係をグーグルアースで確認。 [続きを読む]
  • 劉邦登場 張良との邂逅 608
  • ここで、新たなこちらも超有名武将を登場させなければなりません。そのお方は劉邦(りゅうほう)(B.C.256 or 247〜B.C.195)。彼の出身地は項羽と同じ旧楚の沛県豊邑(江蘇省徐州市豊県)。位置関係を又、グーグルアースで確認。(画像 で拡大します。)劉邦は項羽とは違い元々武将の出ではありません。彼は人望があり張ったりが利く遊び人だったされています。B.C.209陳勝・呉広の乱勃発の時点で劉邦は沛県の役人。出張中 [続きを読む]
  • 項羽 鉅鹿の戦いに勝利 607
  • 陳勝他界後、反乱軍の頭目は項梁(こうりょう)に。彼は先週登場、呉広が偽称した旧楚の武将、項燕の息子。彼の甥っ子が超有名な「項羽(こうう)(B.C.232〜B.C.202)」。項梁は秦軍に対し善戦するも章邯軍には敗戦、落命。(B.C.208)項羽は叔父亡き後、楚反乱軍№2の武将に。その時点の武将№1は宋義(そうぎ)。項羽は彼の秦攻略に対する戦略・戦術が折り合わずB.C.207に彼を抹殺。質実剛健な項羽は一躍、楚反乱軍の総大将に。 [続きを読む]
  • B.C.209陳勝・呉広の乱 606
  • B.C.210 始皇帝黄泉の国へ 始皇帝12年の栄華始皇帝の息子、胡亥が帝位を継ぐのですが若干二十歳。中原黄河流域、長江流域はいかにも広すぎます。やがて、旧既得権を奪われた方々から「秦(China)」打倒を目論む反乱軍団が立ち上がる事に。発端は陳勝・呉広らが一か八かの叛旗を翻します。B.C.209陳勝・呉広の乱陳勝は始皇帝の長男で父の政策、焚書坑儒に異を唱え死に追いやらられた扶蘇(ふそ)と語り、呉広は旧楚の武将(将軍) [続きを読む]
  • 始皇帝は礼装を「黒色」に 605
  • B.C.221 秦の始皇帝が中原、及び、長江近郊の支那大陸を統一。B.C.213 焚書(書物・情報統制)B.C.212 坑儒(一部の儒者粛清・弾圧による思想統制)政治体制は封建制を廃止「郡県制」に移行、中央集権体制へ。郡県制中央政府から全国に政令を布き、郡・県などの行政区画に分け、地方官を選任してこれを執行させる、中央集権的な地方行政制度封建制天子の下に、多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自領内の政治の全権を握る国家組織 [続きを読む]
  • 意思疎通不能の秦燕趙斉魏韓楚 604
  • 秦の始皇帝が「支那(China)大陸」を統一した際、現在、「中華人民共和国」に組み入れられている北方地域の「黒竜江省」「吉林省」「内モンゴル自治区」「寧夏回族自治区」「甘粛省」中程西地域の「青海省」「新疆ウイグル自治区」「チベット自治区」南方地域の「貴州省」「雲南省」「福建省」「広東省」「広西チワン族自治区」「海南省」は彼の支配下(影響下)におかれていません。ましてや、「中華人民共和国」が「一つの中国 [続きを読む]
  • B.C.221 秦の始皇帝 文字書体統一 603
  • およそ「◯◯人」という云い方は無意味なのかも知れません。その無意味さを確認する為とても無謀ですが、お隣韓半島を含むユーラシア大陸の東側地域を概観してみます。キリスト文化に感化された日本ですので時代区分は「キリスト紀元歴(西暦)」で表記します。因みに今年は2017年ですが元号で記される公文書は平成29年(2017年)と記す約束事があるとの事。それでは「China(英米語)」の語源である「秦(しん)」の始皇帝が他の [続きを読む]
  • 古事記時代の日本人と倭言葉4 602
  • 新撰姓氏録より約100年前の古事記時代に日本列島でお住いの日本人(旧表記は倭人)。この日本人は近代「国民国家」以後の日本人とは全く異なります。国民国家以降の「日本人」とは「日本国籍を有する人」。一方、倭(大和)国、飛鳥政権に日本人と命名された方々は飛鳥権力者達は当然として政権側にひれ伏した?人々。「◯◯人」という云い方はとても抽象的。例えば、「ユダヤ人」は「パレスチナ人」が暮らしていた地区に無理矢理 [続きを読む]
  • 古事記時代の日本人と倭言葉3 601
  • 古事記に記載されている渡来人。百済・新羅からお越しになった方々は克明に描かれています。「顏容麗美な日向の髪長姫」こちらの古事記原文で描写されています。「酩酊の応神帝 石動くと錯視?」「照〈肖〉古王の贈り物横刀は七支刀?」こちらで再度整理してみます。百済地区より阿知吉師 和邇吉師 卓素 西素新羅地区より堤防・灌漑池造営技師更に、「秦造之祖・漢直之祖の出自」こちらはは前出の「百済・新羅地区」より以前に来 [続きを読む]