ZIPANGU さん プロフィール

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ZIPANGUさん: 舞絽倶 日本文化と服・小物
ハンドル名ZIPANGU さん
ブログタイトル舞絽倶 日本文化と服・小物
ブログURLhttp://zipangu.cocolog-nifty.com/blog/
サイト紹介文みやび(雅)わび(侘)さび(寂)いき(粋)いなせ(鯔背)を受け継ぎ、お召しものを通して語る舞絽倶。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供39回 / 365日(平均0.7回/週) - 参加 2005/08/15 12:35

ZIPANGU さんのブログ記事

  • 董卓 陳留王を帝位に 655
  • 劉弁(小帝弁)と陳留王(劉協)を伴い、董卓軍は無事に洛陽に到着。宦官達を悉く抹殺した袁紹率いるお疲れ気味軍は静養中。そこで董卓は近衛軍らを自軍へ引き入れ軍事力増強。朝廷において軍事力を背景に台頭。更に、陳留王(劉協)が賢いと判断した董卓は小帝弁を廃帝し陳留王を「帝位」につける策略へ。これに異論を唱えた袁紹は自説が通らず洛陽を去ることに。189年9月晴れて陳留王は「孝献帝(184〜234 在位189〜234)」とし [続きを読む]
  • 董卓 洛陽着 小帝弁探索 654
  • 前週と同様資料は「後漢書」 董卓列伝です。189年4月孝霊帝死去に伴い長男、劉弁(少帝弁)17歳が帝位に。ここで漸く董卓が動きます。時の権力者、劉弁の母の義兄、何進(かしん)が宦官勢力排除計画に。それを拒む、劉弁の母、何皇太后。(何皇太后は宦官のお陰で霊帝のお后になれたお方なのですよ。)何進は何皇太后に圧力をかける為、地方の将軍達を洛陽に召喚。この命により董卓は軍を率い「洛陽」へ赴くのです。董卓が洛陽に [続きを読む]
  • 三国志 最初の悪者 董卓登場 653
  • 道教宗教結社の太平道・五斗米道が政府・地方政府に対し反乱を起こすも政府軍に敢えなく潰されました。但し、疲弊した状況は全く変わりません。道教宗教結社軍に触発されたのか?状況変革の為、次に立ち上がったのは各地方の軍人達だったのです。しかし、彼らも軍隊の将軍達にいとも簡単に粉砕されます。この結果、軍将軍の威勢が増すことになったのです。ここら辺からは皆さん大好きな?「三国志」がフォローして下さいます。黄巾 [続きを読む]
  • 五斗米道も反乱 後漢仏教摂取 652
  • 太平道が蜂起した同じ年7月に「五斗米道(ごとべいどう)」の張脩も地方政府に叛旗を翻し立ち上がります。*五斗米道中国、後漢末、張陵が蜀(四川省)で創始した宗教およびその教団。病気の原因は当人の罪過にあるとして罪のあがないを説き、祈祷による治療の謝礼に、米五斗(日本の五升)を出させた。後漢末の動乱に乗じて多くの流民をあつめ、三代張魯のときには四川から陝西省南部にかけて宗教王国を形成したが、215年魏の曹操 [続きを読む]
  • 黄巾の乱 蒼天已死 黄天当立とは 651
  • 今年3月某国営放送から「中国王朝英雄たちの伝説 『反逆者三国志の真相〜黄巾の乱から曹操へ〜』」と云うタイトルでオンエアされました。この中で太平道、張角が起こした「黄巾の乱」の標題キャッチコピー、「蒼天已死 黄天当立」に対する新解釈を提案。既存の解釈は蒼天⇒後漢王朝 黄天⇒太平道 と準え圧政に苦しむ民百姓が時の政権に叛旗を翻したと。新解釈は「黄巾の乱の原因は地球規模の異常気象?」とし蒼天⇒青(蒼)い空 [続きを読む]
  • 搾取される民 黄巾の乱へ 650
  • 外戚と宦官との利権獲得闘争は一向に問題がありません。しかしながら、その「利」を生み出すのはあくまでも民衆。「利権」の大部分の源泉である「租税」を納めるのは「幼気な民」。この構造はいつの世も変わりません。107年以降外戚・宦官の利権獲得闘争は続きます。しかしながら、77年を要しますがやがて、圧政の耐えられず気骨のある民・組織が立ち上がったのです。それが通称、184年の「黄巾の乱」。「後漢書」 皇甫嵩朱儁列伝 [続きを読む]
  • 107年倭国遣使奉献以降の後漢 649 
  • 107年以降の後漢はどの様な展開を辿っていたのでしょう。時代が安定期に入ると利権獲得闘争に明け暮れるのは世の常。B.C.1920年頃長江・淮河流域にお住まいの方が河を遡り秦嶺山脈に至り下舟、その北方の狩猟民・遊牧民と交易をし黄河南岸の洛陽盆地に商業都市国家を設置したと云われる「夏王朝」成立以降2000年以上経過し様々な紆余曲折を経て文化を育んできた、かの中国人は「どうも人間不信感」に陥っている民ではないかと思わ [続きを読む]
  • 漢書 地理志 楽浪郡人口統計 648
  • 楽浪郡が設置されたのはB.C.108年(前漢 武帝)。「戦乱中 商人(華商)・難民避難」やがて、漢は財政破綻に陥り、他3郡が廃止されB.C.75年朝鮮半島には楽浪郡のみしか存在しなくなります。「楽浪海中有倭人 分為百余国」「漢書 地理志」に「楽浪郡 戸六万二千八百一十二 口四十万六千七百四十八 県二十五」(元始2年=A.D.02年の統計)と記載されています。家屋が62,812戸、人口が406,748人、県が25県。県は中央が設置した数ですの [続きを読む]
  • 後漢書 東夷列伝 「二郡」抹消 647
  • 先週、「中国王朝正史」成立順が歴史順でないお話をしました。「後漢書」よりも「三国志」が約150年程前に成立しているのですから「後漢書」は「三国志」情報を書き写した事になるのです。因みに、鉄を貨幣にしていた描写箇所後漢書 東夷列伝「国出鉄 濊倭馬韓並従?之 凡諸貨易 皆以為貨」魏書(志) 烏丸鮮卑東夷伝「国出鉄 韓濊倭皆従取之 諸?買皆用鉄 如中国用銭 又以供給二郡」国は鉄を出す。韓・濊・倭は皆従いてこれを取 [続きを読む]
  • 正史成立順 漢書⇒三国志⇒後漢書 646
  • この時代、倭国・倭人情報を得るにはどうしても「中国王朝正史」に頼らざるを得ません。商売を通して倭人・漢人・韓人との交流があった事は想像できますがなにせ「文書」が「帝の栄光記述が建前」の「中国王朝正史」です。どうしても彼ら彼女らからとって、遙か海の向こうに住まう倭国・倭人情報を都合が良い処以外敢えて記録する必然性はありません。これまでの倭国・倭人情報は漢書  成立82年頃(後漢朝)一B.C.33〜B.C.7頃 「 [続きを読む]
  • 正確な朝貢定義(岡田英弘氏) 645
  • 岡田英弘さんの世界歴史事典(平凡社1955年)、朝貢に対する反論。以下、彼の要点を記します。1朝貢は「中国とそれをめぐるアジアの諸国あるいは諸部族」との間で 行われるは誤り。欧米人でも手土産持参で、帝に挨拶に来る者は すべて朝貢使節。2朝貢は中国という国と、外国または境外部族という団体との間で行 われるは誤り。国際関係の表現ではなく、その時の帝個人に対し、 外国の君主や部族長が、個人的に敬意を表す手続 [続きを読む]
  • 奉貢朝賀 奉献 通称「朝貢」とは 644 
  • 57年 倭奴国奉貢朝賀、及び、107年倭国遣使奉献。これらの「儀式」は通称、「朝貢」と命名されています。*朝貢諸侯や外国の使いが来朝して、朝廷に貢物をさし出すこと(日本国語大辞典)と説明されています。この朝貢は時の「帝」と「お土産持参朝賀参列者」との関係性。この時代、「国民国家」・「帝政国家」と云う概念がない時代ですので決して「中国」ではなく 『帝』⇔『参列者』の交流関係になります」。帝は参列者から珍し [続きを読む]
  • 57年・107年奴国・倭国朝賀参列 643
  • 後漢書 東夷列伝の57年倭の奴国が貢を奉って朝賀した記述の次がいきなり50年経過、「安帝永初元年(107年) 倭国王帥升等献生口百六十人 願請見」*請見(せいけん) 謁見を乞う事(日本国語大辞典)と記されています。107年倭国王、帥升(すいしょう)らが生口(せいこう)百六十人を献じ、帝への謁見を願った。生口は倭国に雇われた朝鮮半島にお住まいの方々かしらん?この時代、後漢朝の帝は孝安帝、それも即位2年目。後漢朝の [続きを読む]
  • 倭人 朝鮮半島で鉄貨幣使用 642
  • 後漢書東夷列伝には倭国の極南界にある奴国の自ら大夫と名乗る使者が光武帝の御代57年に後漢王朝の都、洛陽に赴き、お土産を贈呈、朝賀に参列した。光武帝は朝賀参列の返礼として印綬(金印・紫綬)を下された。と記述されています。奴国のお土産は一体何だったのでしょう?まさか「鶴乃子」ではないと思いますが、とても気になるところです。「奴国」の所在地は偉い学者さんにお任せします。又、この時に頂いた「金印」が江戸時代 [続きを読む]
  • 後漢書東夷列伝 倭国関連記述 641
  • 後漢書の倭国関連の記述をピックアップしてみます。後漢書 光武帝紀(旧漢字は新漢字に改訂)「二年(57年)春正月辛未 初立北郊 祀后土 東夷倭奴国王遣使奉献」後漢書 東夷列伝(旧漢字は新漢字に改訂)「倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百余国 自武帝滅朝鮮 使駅通於漢者三十許国 国皆称王 世世伝統 其大倭王居邪馬台国 楽浪郡徼 去其国万二千里 去其西北界拘邪韓国七千余里 其地大較在会稽東冶之東 与朱崖 儋耳相近 故 [続きを読む]
  • 後漢書東夷列伝 韓国関連記述 640 
  • 何かとアジア地域で話題沸騰中のお隣韓国。後漢書の韓国関連の記述をピックアップしてみます。後漢書 東夷列伝(旧漢字は新漢字に改訂)「韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰  馬韓在西 有五十四国 其北与楽浪 南与倭接 辰韓在東 十有二国 其北与濊貊接 弁辰在辰韓之南 亦十有二国 其南亦与倭接 凡七十八国 伯済是其一国焉 大者万余戸 小者数千家 各在山海間 地合方四千世里 東西以海為限 皆古之辰国也 馬韓最大 共立其 [続きを読む]
  • 光武帝 漢王朝復活 639
  • A.D.25年10月、漸く劉秀が31歳の御年で漢王朝を復活。劉秀(B.C.6〜57 帝位25〜57)は後に「光武帝」と命名されます。王莽の新王朝が途中でお邪魔したから漢王朝は分かりやすく日本では「前漢」・「後漢」をされています。以後、後漢は220年迄表面上続くことになります。実質、184年「黄巾の乱」勃発後は空中分解状況に陥っています。この時代頃より後を陳寿(233〜297)の描いた「三国志」が力強くフォローして下さっています。そ [続きを読む]
  • 赤眉蜂起軍 樊崇 花と散る 638
  • 「後漢書 光武帝紀」に依るとA.D.25年9月「九月 赤眉入長安 更始奔高陵」赤眉軍の長安入城は9月とされ、更始帝は長安を脱出、高陵へ。*高陵・・・どこかは不明、お墓のある所更始帝はやがて投降、璽綬(=帝位記号)を劉盆子に譲渡。A.D.25年12月「赤眉殺更始」赤眉軍は更始帝を抹殺。月が戻りますがこの年の10月「冬十月癸丑 車駕入洛陽 幸南宮却非殿 遂定都焉」劉秀(後の光武帝)は洛陽へ入城、都とします。一方、赤眉劉盆子軍 [続きを読む]
  • 二つの中国 劉盆子・劉秀帝 637
  • 先週、劉盆子による漢帝国が復活したと紹介しました。ところがどっこい、再び、「二つの中国」が出現したのです。最初の「二つの中国」は「二つの中国 王莽・劉玄帝」でご確認を。ここで登場した三国志、劉備の祖先に当たる「劉伯升」。彼の弟に「劉秀(B.C.06〜57)」と云うお方が存在。劉秀も兄、劉伯升と共に「王莽政権」打倒に立ち上がったお方です。劉伯升はA.D.23年既に内ゲバにより殺害されこの世におりません。劉秀も更始 [続きを読む]
  • 赤眉軍 劉盆子立て更始帝打倒 636
  • 漢書に於いて先週の赤眉軍記述から2年半経過後にやっとお目見え。「明年(A.D.25)夏 赤眉樊崇等衆数十万人入関 立劉盆子 称尊号  攻更始(帝) 更始(帝)降之 赤眉遂焼長安宮室市里 害更始(帝)」A.D.25夏 赤眉軍の樊崇らが都、長安にいる更始(帝)殺害した事件。反乱軍数十万人が函谷関・武関・陸渾関の何れか、或いは、各関を打ち破り長安に攻め入ったのです。長安市街も焼き尽くしてしまった模様。それはさて置き、気にな [続きを読む]
  • 赤眉軍 漢書記述ほんの少々 635
  • 緑林軍らが先に王莽を打倒してしまったのですが、緑林軍に先行、蜂起した赤眉軍はその間一体何をしていたのでしょう?残念ながら「漢書 王莽伝」には詳しく記述されていないのです。赤眉軍一途最初の登場は「呂母の乱から赤眉軍結集」で紹介した「是歳(A.D.18) 赤眉力子都樊崇等以飢饉相聚 起於琅邪 転抄掠  衆皆万数 遣使者発郡国兵撃之 不能克」次の登場が「是月(A.D.22/2月) 赤眉殺太師犧仲景尚 関(函谷関)東人相食」A.D [続きを読む]
  • 王莽23年間トップ本望を遂げる 634
  • 「(A.D.23)四月世祖與王常等別攻潁川 下昆陽郾定陵」潁川・・・潁川(えいせん)郡 河南省中部地区昆陽・郾・定陵は潁川郡内の県(都市)劉玄・王常軍は潁川郡も侵略、平定。これに対し王莽軍は反乱軍を攻撃するも反撃を食らい敢えなく敗退。勢い、劉玄軍は王莽が籠もる首都、長安を目指し進軍。「十月戊申朔(A.D.23/10/1) 兵従宣平城門入 民間所謂都門也」ついに、劉玄軍は長安城の「平城門=都門」を破り城内へ侵入。「三日 [続きを読む]
  • 二つの中国 王莽・劉玄帝 633
  • 漢王朝復活を目指す劉伯升は南陽郡舂陵で挙兵したので舂陵軍とも。劉伯升は前漢第六代皇帝「景帝(B.C.188〜B.C.141 在位B.C.157〜B.C.141)」の末裔と。景帝の息子は前漢第七代皇帝「武帝」。尚、武帝については「漢帝国成立 劉邦 武帝 司馬遷」「司馬遷 郎中・太史・中書令 史記成立」「戦乱中 商人(華商)・難民避難」 でご確認を。又、「三国志」でメジャーな「劉備(玄徳)(161〜223)」はなな、何と、劉伯升の末裔に当たるとの [続きを読む]
  • 赤眉軍に触発され緑林軍決起 632
  • 赤眉軍の蜂起に対し長安の東南でも決起部隊が出現。A.D.20「南郡張霸江夏羊牧王匡等 起雲杜緑林 号曰下江兵 衆皆万余人」(漢書 王莽伝)以後「」は漢書 王莽伝南郡・・・現在の湖北省荊州市にあった郡江夏・・・現在の湖北省東部にあった郡雲杜・・・江夏郡にあった県緑林・・・緑林山(現在の湖北省宜昌市当陽市)「下江兵盛 新?朱鮪 平林陳牧等 皆復聚衆 攻撃郷聚」長安から南、今の湖北省で反乱を起こした下江兵(軍)(=緑 [続きを読む]
  • 呂母の乱から赤眉軍結集 631
  • 長年に渡る地球寒冷化現象の影響により翌年、A.D.17生活苦の民衆が徒党を組み盗賊への道を歩む事に。「臨淮瓜田儀等為盗賊 依阻会稽長州 琅邪女子呂母亦起 初呂母子為県吏 為宰所冤殺 母散家財 以酤酒買兵弩 陰厚貧窮少年 得百余人 遂攻海曲県  殺其宰以祭子墓 引兵入海 其衆浸多後皆万数」 (漢書 王莽伝)以後「」は漢書 王莽伝臨淮(りんわい)・・・現在の江蘇省会稽(かいけい)・・・会稽山 浙江省紹興市南部に位置す [続きを読む]