羽柴茶々 さん プロフィール

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羽柴茶々さん: 今日は何の日?徒然日記
ハンドル名羽柴茶々 さん
ブログタイトル今日は何の日?徒然日記
ブログURLhttp://indoor-mama.cocolog-nifty.com/
サイト紹介文おかげ様で2000万アクセス突破!感謝です…その日の出来事や歴史ウラ話を楽しくわかりやすく♪
自由文その日に起こった出来事を中心に、武将の勇ましさはもちろん!神の奇跡から下世話なウワサまで、歴史のあんな事こんな事書いてます。
その日の主役を飾った1000名を越える歴史人物!
2500を越える歴史エピソード!
ご一緒に歴史を楽しんでいきましょう
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供57回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2007/04/01 21:24

羽柴茶々 さんのブログ記事

  • 光安自刃で明智城落城〜明智光秀は脱出?
  • 弘治二年(1556年)9月20日、斎藤義龍に攻められた明智城が落城し、明智光安が自刃しました。・・・・・・・・・・・清和源氏の流れを汲む美濃(みの=岐阜県)の守護(しゅご=現代の県知事みたいな)であった土岐(とき)氏から枝分かれした明智(あけち)氏は、明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を拠点として室町幕府に直接仕える奉公衆を務めていましたが、戦国時代に入って、あの美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三(さいと [続きを読む]
  • 最後の管領〜細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転
  • 天文十五年(1546年)9月14日、細川氏綱が亡き養父の仇を撃つべく細川晴元を攻めた嵯峨の戦いがありました。(細川家内訌)・・・・・・・・・・父=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いで応仁の乱を収め、自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変をやってのけた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)=細川政元(まさもと)・・・その後継者を争った3人の養子の中で、一歩抜け出て、第12代室町幕府将軍=足利義晴(あし [続きを読む]
  • 佐々成政の越中一向一揆攻め〜瑞泉寺・井波の合戦
  • 天正九年(1581年)9月8日、佐々成政・神保長住らが一向一揆の瑞泉寺を攻めた井波の合戦がありました。・・・・・・・・・織田信長(おだのぶなが)の上洛によって畿内を追われた三好(みよし)の残党の反激戦であった元亀元年(1570年)8月の野田・福島(大阪市福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が参戦する(9月12日参照>>)事によって始まった織田VS本願寺の石山合戦・・・それは、全 [続きを読む]
  • 関ヶ原に向けて〜徳川家康が江戸城を出陣
  • 慶長五年(1600年)9月1日、関ヶ原の合戦に向けて、徳川家康が江戸城を出陣しました。・・・・・・・・・・ご存じの関ヶ原・・・(一つ一つの出来事や全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>で見ていただけるとありがたいです)慶長三年(1598年)8月の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後(8月9日参照>>)、かの朝鮮出兵のなんやかんやで、豊臣政権内にて武闘派(ぶとうは=合戦で武功を挙げる派)と文治派(ぶんじは=後方支 [続きを読む]
  • 長篠の直後…徳川VS武田〜諏訪原城の戦い
  • 天正三年(1575年)8月24日、徳川家康が武田勝頼方の諏訪原城を攻め落としました。・・・・・・・・・・海道一の弓取りと称された天下に最も近い男=駿河(するが=静岡県東部)の今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)によって桶狭間(おけはざま)に敗れて(5月19日参照>>)のち、後を継いだ今川氏真(うじざね)を北と西から挟み撃ちするがの如く、協力して倒した甲斐(かい [続きを読む]
  • 宇喜多&毛利の境目合戦〜難攻不落の矢筈城と草刈重継
  • 天正十一年(1583年)8月18日、本能寺の変の直後の秀吉と毛利の和睦によって決定した城の明け渡しに不満を持った草刈重継が佐良山城山下にて合戦しました。・・・・・・・・西への勢力拡大を図る主君=織田信長(おだのぶなが)に命じられ、天正四年(1576年)頃から中国地方の平定にまい進していた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正八年(1580年)の1月には三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)を(3月29 [続きを読む]
  • 朝倉から若狭を守る〜粟屋勝久の国吉籠城戦
  • 永禄十一年(1568年)8月13日、朝倉義景の命を受けた軍勢が若狭に侵攻しました。・・・・・・・・・・今回の舞台となる国吉城(くによしじょう=福井県美浜町)は、現在の美浜駅から、少し東へ行った佐柿(さがき)の背後にある城山の山頂から尾根づたいに構築されていた山城です。『若狭国志』によると、この城は、「かつて国吉(くによし)なる人物が構築した物を天文〜弘治年間(1532年〜1557年)頃に粟屋勝久(あわやかつひさ [続きを読む]
  • 京極政経VS高清の家督争い…京極騒乱〜祇園館の戦い
  • 延徳二年(1490年)8月7日、京極家の家督争い=京極騒乱の最中、京極政経が将軍=足利義稙より『高清追討の内書(ないしょ=内密&直接の書状)』を受け取りました。・・・・・・・・・・第59代宇多天皇(うだてんのう)の皇子=敦実親王(あつみしんのう)の第3皇子が臣籍に降下して源雅信(みなもとのまさざね)と名乗った事に始まる宇多源氏(うだげんじ)は、その4男の源扶義(みなもとのすけのり)の子孫が武家=佐々木氏を称 [続きを読む]
  • 細川政元の後継を巡って〜永正の錯乱と百々橋の戦い
  • 永正四年(1507年)8月1日、細川京兆家の後継者を巡っての戦いで細川澄元と細川高国に攻められた細川澄之が自害しました。・・・・・・・・・・・あの応仁の乱(5月28日参照>>)の東軍・総大将として知られる細川勝元(ほそかわかつもと)・・・彼が息を引き取る時、わずか8歳の息子=政元(まさもと)をそばに呼び、「この政元あらば、細川家は安泰だ」と言って息をひきとったと言われるほど、政元は優れた息子でした。その期待 [続きを読む]
  • 松永久秀の奈良攻略〜最初の戦い…第2次井戸城の戦い
  • 永禄三年(1560年)7月24日、大和の攻略を開始した松永久秀が、井戸良弘が守る井戸城を攻撃しました。・・・・・・・・・・・古くから興福寺(こうふくじ)や春日大社(かすがたいしゃ)などの寺社勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地は、いつしか興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代には『衆徒』の代表格=筒井(つつい)氏が北朝に [続きを読む]
  • 関ヶ原合戦〜最初の戦い…高取城の攻防
  • 慶長五年(1600年)7月18日、ご存じ、天下分け目の関ヶ原の戦い・・・その最初のぶつかり合いとなった高取城の攻防戦がありました。・・・・・・・・・・自らの死後も、幼き息子=秀頼(ひでより)をサポートしてくれるよう、独自の家格システムを構築し(7月15日参照>>)、数々の遺言を残した(8月9日参照>>)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、慶長三年(1598年)8月、亡くなります。その死を以って半島から撤退する事になり [続きを読む]
  • 堺・南宗寺の無銘の塔〜徳川家康のお墓説
  • 元和九年(1623年)7月10日に第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠が、その約1ヶ月後の8月18日に第3代将軍に就任した徳川家光が堺・南宗寺を参詣しました。・・・・・・・・・・・大阪は堺にある南宗寺(なんしゅうじ=大阪府堺市堺区)は臨済宗大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)派のお寺で、もともとは南宗庵(なんしゅうあん)と呼ばれていた庵(いおり)を、その3代目法嗣(ほうし)となっていた大林宗套(だいりんそうとう)に帰 [続きを読む]
  • 本能寺直後〜森長可の東濃制圧後半戦…加治田・高山・妻木城攻略
  • 天正十年(1582年)7月3日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する加治田城を攻めました。・・・・・・・・・先日の【本能寺直後〜森長可の東濃制圧前半戦】の続きのお話です。くわしくは、その6月26日のページ>>でご覧しただくとして、おおまかな流れは・・・ 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)での武功により、主君=織田信長(おだのぶなが)から、武田の旧領のうち信濃(しなの=長野県) [続きを読む]
  • 本能寺直後〜森長可の東濃制圧前半戦…前野・大森・米田城攻略
  • 天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する大森城を包囲しました。・・・・・・・・・わずか13歳の時に、織田家重臣だった父=森可成(もりよしなり)と兄=可隆(よしたか)を宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)で同時に亡くして家督を継いだ森長可(もりながよし)は、以来、主君=織田信長(おだのぶなが)の下で、年上の重臣たちに交じって、彼らに引 [続きを読む]
  • 遠江の支配を巡って今川氏親VS大河内貞綱&斯波〜引馬城の戦い×3
  • 永正十四年(1517年)6月21日、遠江を巡る争いで引馬城に籠った大河内貞綱と斯波義達に対し、今川氏親が攻撃を仕掛けました・・・第3次・引馬城の戦いです。・・・・・・・・・引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区)は、引間城とも曳馬城とも表記され、住所をご覧になってお察しの通り、現在の浜松城(はままつじょう)の場所に、かつてあったお城です。かの武田信玄(たけだしんげん)と協力して今川氏真(いまがわうじざね) [続きを読む]
  • 織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦
  • 天正八年(1580年)6月15日、織田方へと降った宇喜多直家が、毛利方の湯原春綱らが守る美作祝山城を包囲しました。・・・・・・・・・・・戦国時代の中国地方を、長きに渡って二分して来たのが、山陰を牛耳る出雲(いずも=島根県東部)の尼子(あまこ・あまご)氏と、山陽に勢力を広げる周防(すおう=山口県の東南部)の大内(おおうち)氏・・・中国地方の国人領主たちは、その大物の間に挟まれて、度々揺れ動く状態でしたが、 [続きを読む]
  • 本能寺のドサクサで…稲葉一鉄VS安藤守就の本田・北方合戦
  • 天正十年(1582年)6月8日、本能寺の変のドサクサで旧領を回復しようとした安藤守就と、それを阻止する稲葉一鉄が戦った本田・北方合戦がありました。・・・・・・・・・永禄十年(1567年)8月に、あの織田信長(おだのぶなが)が、斎藤道三(さいとうどうさん=利政)の孫にあたる龍興(たつおき)を破って手に入れた美濃(岐阜県)の稲葉山城(いなばやまじょう)(8月15日参照>>)・・・ご存じのように、信長は、この稲葉山城 [続きを読む]
  • 備中兵乱〜第3次・備中松山合戦、三村元親の自刃
  • 天正三年(1575年)6月2日、備中兵乱=第3次・備中松山合戦で、毛利元就に敗れた三村元親が、松山城下の松連寺にて自刃しました。・・・・・・・・・・・周防(すおう=山口県の東南部)の名門=大内(おおうち)氏とを倒し、西国の雄となった安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)・・・その元就の援助を得た成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)は、永禄二年(1559 [続きを読む]
  • 『馬乗り袴』をリメイクして『たっつけ袴』を作ってみました!
  • 戦う戦国女子の必須アイテム=『たっつけ袴(もどき)』を作ってみました〜(注:あくまで「もどき」&「なんちゃって」です)・‥…━━━☆5月29日は、5(ご)2(ふ)9(く)の語呂合わせで、「呉服の日」って事で、以前は『江戸時代の帯結び』の話(2012年5月29日参照>>)なんかもさせていただきましたが、本日は、自分で作っちゃった話です(*´v゚*)ゞ『たっつけ袴』とは、大河ドラマ等の戦国時代劇で、奥方や姫が、馬に [続きを読む]
  • 前田利家〜最大の汚点?越前一向一揆虐殺「呪いの瓦」
  • 天正四年(1576年)5月24日、越前で起こった一向一揆にて前田利家が1000人を処刑しました。・・・・・・・・・・・第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)に反発した三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)との、元亀元年(1570年)に起こった野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)の戦い(8月26日参照>>)に参戦し [続きを読む]
  • 織田信長軍による福知山攻略戦
  • 天正七年(1579年)5月19日、織田信長の命により、丹波平定を進める明智光秀をサポートすべく、丹羽長秀が丹波玉巻城を攻めました。・・・・・・・・・室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)でしたが、その後、義昭との関係がギクシャクし始めた事から、もともとの反信長勢力と義昭絡みの反信長勢力が入れ替わり立ち替わり&入り乱れつつ形成されていた、世に言う『信長 [続きを読む]
  • 賤ヶ岳で敗れ〜「鬼玄蕃」佐久間盛政の最期
  • 天正十一年(1583年)5月12日、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた佐久間盛政が処刑されました。・・・・・・・・・・佐久間盛政(さくまもりまさ)は、織田家の家臣であった佐久間盛次(もりつぐ=佐久間信盛の従兄弟)の長男として尾張(おわり=愛知県西部)で生まれました。父の盛次が永禄十一年(1568年)の記録を最後に姿を消す事から、おそらく、それから間もなくに父が亡くなったとみられますが、母が、柴田勝家(しばたかついえ [続きを読む]
  • 信長&秀吉VS浅井長政〜箕浦の戦い
  • 元亀二年(1571年)5月6日、浅井長政が信長傘下の堀秀村が守る箕浦城を攻撃しました。・・・・・・・・・・・永禄十年(1567年)に斎藤龍興(さいとうたつおき)の居城=稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させ(8月15日参照>>)、城の名を岐阜城(ぎふじょう)と改めて、以後、岐阜に拠点を置いた織田信長(おだのぶなが)・・・そんな信長に、「僕を京都に連れてって〜」と、足利義昭(あしかがよしあき=義秋 [続きを読む]
  • 秀吉VS家康…小牧長久手〜美濃の乱
  • 天正十二年(1584年)4月29日、長久手の戦い後のこう着状態の中、秀吉が犬山の本陣を出立し、その鉾先を美濃の諸城に向けました。・・・・・・・・・織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)亡きあと、ともに「邪魔だ」と感じていた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)(5月2日参照>>)と柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)を排除した織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意・信長の次男)と羽柴秀吉(は [続きを読む]
  • 信長VS顕如・石山合戦〜高屋・新堀城の戦い
  • 天正三年(1575年)4月21日、織田信長と本願寺顕如による石山合戦での高屋・新堀城の戦いが終結しました。・・・・・・・・・・永禄十一年(1568年)に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・信長上洛の際、それまで畿内を牛耳っていた三好(みよし)家では、嫡流の三好義継(よしつぐ=長慶の甥で養子)と重臣の松永久秀(まつながひさひで) [続きを読む]