羽柴茶々 さん プロフィール

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羽柴茶々さん: 今日は何の日?徒然日記
ハンドル名羽柴茶々 さん
ブログタイトル今日は何の日?徒然日記
ブログURLhttp://indoor-mama.cocolog-nifty.com/
サイト紹介文おかげ様で2000万アクセス突破!感謝です…その日の出来事や歴史ウラ話を楽しくわかりやすく♪
自由文その日に起こった出来事を中心に、武将の勇ましさはもちろん!神の奇跡から下世話なウワサまで、歴史のあんな事こんな事書いてます。
その日の主役を飾った1000名を越える歴史人物!
2500を越える歴史エピソード!
ご一緒に歴史を楽しんでいきましょう
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供55回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2007/04/01 21:24

羽柴茶々 さんのブログ記事

  • 戦国の幕開け〜将軍・足利義材による六角征討
  • 明応元年(1492年)12月13日、足利義材による六角高頼の征討が終わり、義材が帰京の途につきました。・・・・・・・・・・・そもそもは・・・さっさと将軍を辞めて趣味の世界に生きたい第8代室町幕府将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が、仏門に入っていた弟=足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)を呼び戻して次期将軍に指名したものの、その途端に正室=日野富子(ひのとみこ)との間に男の子=足利義尚(よしひさ)が生まれ [続きを読む]
  • 家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主〜斎藤妙純の最期
  • 明応五年(1496年)12月7日、近江の六角高頼を攻めた斎藤妙純父子が、土一揆に襲われて死亡しました。・・・・・・・・・・・・斎藤妙純(さいとうみょうじゅん=利国)は、美濃(みの=岐阜県)の守護代だった斎藤利永(としなが)の次男で、叔父である斎藤妙椿(みょうちん)の養子となって、妙椿の家系である持是院家(じぜいんけ)を継いでいます。応仁の乱の際には、西軍として、養父=妙椿とともに伊勢周辺に出兵し、この乱 [続きを読む]
  • 秀吉の中国攻め〜黒田&竹中=二兵衛が迫る福原城の戦い
  • 天正五年(1577年)12月1日、信長の命を受けた秀吉の中国攻めの福原城の戦いで、福原則尚の福原城が開城されました。・・・・・・・・・・元亀四年(天正元年=1573年)7月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)の槇島城(まきしまじょう)を攻撃し(7月18日参照>>)、続く8月に越前の朝倉と北近江の浅井を倒し(8月28日参照>>)、翌・天正二年(1574年)に長島一向一揆をせん滅し(9月29日参照>>)、さらに [続きを読む]
  • 三好長慶に衰退の影迫る〜将軍地蔵山の戦い
  • 永禄四年(1561年)11月24日、三好義興が松永久秀とともに山城勝軍地蔵山に布陣中の六角義賢に攻めた将軍地蔵山の戦いがありました。・・・・・・・・・・室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の混乱する主導権争いに打ち勝ち、畿内に政権を樹立した細川晴元(はるもと)・・・もちろん、政権樹立と言っても、時は室町時代なので、晴元は管領で時の将 [続きを読む]
  • 京都の覇権を巡って〜東山・川勝寺口の戦い
  • 大永七年(1527年)11月19日、京都奪回を目指す足利義晴&細川高国勢が三好元長&柳本賢治らと激戦を繰り広げた東山・川勝寺口の戦いがありました。・・・・・・・・・・・・応仁の乱の混乱修復後、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として政権を掌握した細川政元(まさもと)・・・ その政元亡き後に勃発した、細川澄之(すみゆき)、細川澄元(すみもと)、細川高国(たかくに)の3人の養子たちによる後継者争いに打ち勝っ [続きを読む]
  • 桓武天皇渾身の新都〜幻の都・長岡京遷都
  • 延暦三年(784年)11月11日、桓武天皇の勅命により、平城京から長岡京へと遷都されました。・・・・・・・・・・・・・長岡京(ながおかきょう=京都府向日市・長岡京市・京都市西京市)は、天応元年(781年)に即位した第50代=桓武(かんむ)天皇によって、延暦三年(784年)11月11日から平安京に移る延暦十三年(794年)10月22日までの10年間、日本の都とされた場所です。余談ですが、あらためて教科書の年表など調べてみると、 [続きを読む]
  • 小田原北条家最後の人〜北条氏直の肌の守りと督姫と
  • 天正十九年(1591年)11月4日、小田原北条家最後の人となった北条氏直が30歳でこの世を去りました。・・・・・・・あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)に始まり(10月11日参照>>)、5代=100年に渡って関東に君臨した北条家・・・鎌倉時代執権の北条と区別するため後北条とか小田原北条とか呼ばれたりします。そんな北条家が、室町幕府政権下で関東管領(かんとうかんれい)に任命されていた上杉氏に取って代わ [続きを読む]
  • 天正壬午の乱の徳川と北条の和睦で井伊の赤備え誕生
  • 天正十年(1582年)10月29日、徳川家康と北条氏政の和睦が成立し、甲斐と南信濃は徳川領、上野は北条領と決まりました。・・・・・・・・・・・・天正十年(1582年)2月9日、織田信長(おだのぶなが)によって開始された『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)』(2月9日参照>>)・・・約1ヶ月後の3月11日、天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより)が自刃(2008年3月11日参照>>)した [続きを読む]
  • 三方ヶ原前哨戦〜井伊・伊平城の仏坂の戦い
  • 元亀三年(1572年)10月22日、武田信玄配下の山県昌景が井伊谷の伊平小屋山城を攻撃した仏坂の戦いがありました。・・・・・・・・・・永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で当主の今川義元(いまがわよしもと)が討死にして後、息子の今川氏真(うじざね)が領国経営に奔走するも、かつての勢いを失っていく今川家・・・そんな中、天文二十二年(1553年)に相模(さがみ=神奈川県)の北条(ほう [続きを読む]
  • 前田利家VS佐々成政〜鳥越城の攻防
  • 天正十二年(1584年)10月14日、前田利家が鳥越城を攻撃しました。・・・・・・・・・織田信長(おだのぶなが)亡き後の天正十一年(1583年)に、織田家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳(しずがたけ)(4月23日参照>>)に破った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)と、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)を自害(5月2日参照>>)に追い込んだ信長の次男=織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信 [続きを読む]
  • 名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動
  • 永禄六年(1563年)10月7日、重臣殺害の一件で近江の国人衆と対立した六角義治が観音寺城から逃走しました。・・・・・・・・・・・・六角氏(ろっかくし)は、宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、鎌倉時代に近江(おうみ=滋賀県)六郡(犬山・愛智・神崎・蒲生・栗太・志賀)を与えられた佐々木氏(ささきし)の嫡流が、六角東洞院(京都市中京区)に館を構えた事から、六角氏と名乗るようになったと言います。室町時代には同 [続きを読む]
  • 織田信長の高野山攻め
  • 天正九年(1581年)10月2日、高野山攻めを決意した織田信長の先陣が紀伊根来に到着しました。・・・・・・・・・・・・ご存じ・・・高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)は、平安時代初期の僧=空海(くうかい=弘法大師)が開いた高野山真言宗総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)を中心に100か所以上の寺院や宿坊などが集まる宗教都市です。創建以来、その重要さ故、内外の紛争に巻き込まれる事も多かった高野山ですが、やはり [続きを読む]
  • 奈良の戦国〜越智党と貝吹山城攻防戦
  • 天文十五年(1546年)9月25日、越智氏の貝吹山城を筒井順昭が攻めました。・・・・・・・・・・・貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)は、極彩色の壁画が発見されて一躍有名になった高松塚古墳(たかまつづかこふん)などがある明日香(あすか)から近鉄電車を挟んで西側にある標高200mほどの貝吹山の山頂に築かれた山城です。もともと、興福寺(こうふくじ)や春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和( [続きを読む]
  • 謙信の祖父・長尾能景が討死〜般若野の戦い
  • 永正三年(1506年)9月19日、越中で起こった一向一揆の鎮圧に侵入した長尾能景が般若野の戦い(芹谷野の戦いとも)で討死しました。・・・・・・・・・・比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の勢力から逃れて、北陸へとやって来た本願寺第8代=蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)が、文明三年(1471年)にその拠点となる吉崎御坊(よしざきごぼう=福井県あわら市)を建てた事で、北陸が一気に本願寺 [続きを読む]
  • 織田信長、最愛の女性〜生駒吉乃
  • 永禄九年(1566年)9月13日、織田信長・最愛の女性で、側室として二男一女をもうけた生駒の方が39歳でこの世を去りました。・・・・・・・・・・・と言っても、正史や一級資料にほとんど登場しない事から、かなり謎多き女性です。亡くなった日付も、今回は9月13日でご紹介しましたが、5月13日説もあります。(wikiは5月13日になってるので、ひょっとしたらソッチの方が一般的なのかも…)名前も、正式には生駒家宗(いこまいえむね [続きを読む]
  • 足利義昭を奉じて〜織田信長の上洛
  • 永禄十一年(1568年)9月7日、足利義昭の要請に応えて上洛する織田信長が、美濃を出立しました。・・・・・・・・・・ご存じの足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛ですが、これまでも、このブログ内のいろんな所でチョコチョコ出て来てますので、内容がかぶり気味になるかとは思いますが、とりあえず今回は、信長上洛の様子を、時系列的にまとめてご紹介してみたいと思います。・‥…━━ [続きを読む]
  • 秀吉VS佐々成政〜富山城の戦いin越中征伐
  • 天正十三年(1585年)8月29日、織田信長の後継者的な位置をキープした秀吉の越中征伐(富山の役)で、富山城主の佐々成政が降伏しました。・・・・・・・・・・・天正十年(1582年)6月の本能寺にて織田信長(おだのぶなが)がこの世を去った(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清州会議(6月27日参照>>)で優位に立ち、天正十一年(1583年)に織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳(しずがたけ)(4 [続きを読む]
  • 天文法華の乱へ向かう〜山科本願寺の戦い
  • 天文元年(1532年)8月23日、細川晴元方の軍勢が山科本願寺を包囲しました。・・・・・・・・後の天文五年(1536年)7月、京都の町を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)へと向かう途中の、山科本願寺の戦いと呼ばれる戦いです。室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)として自らの意のままになる将軍を擁立して、事実上、政権を掌握した細川政元(ほそかわまさもと)(6月20日参 [続きを読む]
  • 怨みの井戸・門昌庵事件〜松前藩の怖い話
  • 真夏日の連続記録を更新せんが勢いだった暑さから、気の早い台風一過で一転、冷夏模様の今日この頃ではありますが、夏はやっぱりホラーで〜って事で、本日は、1年ぶりの真夏の夜の怪談話シリーズ!『松前の怖い伝説』です。・‥…━━━☆その昔、蝦夷(えぞ)と呼ばれていた北海道・・・その渡島国津軽郡(北海道松前郡松前町)に本拠を置く松前藩(まつまえはん)の第5代藩主=松前矩広(まつまえのりひろ)は、毎夜毎夜のランチ [続きを読む]
  • 金森長近の飛騨攻略作戦
  • 天正十三年(1585年)8月10日、秀吉から飛騨攻略の命を受けた金森長近の軍勢が、向牧戸城を陥落させました。・・・・・・・・・・織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月27日参照>>)、織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)と、信長の三男=神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)(5月2日参照>>)を葬り去った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正十二年(1584年)には、信長の次 [続きを読む]
  • 織田の物にはさせへんで〜上杉謙信の飛騨侵攻
  • 天正四年(1576年)8月4日、飛騨地方攻略に乗り出した上杉謙信の軍が飛越国境に到着しました。・・・・・・・・・雌雄を争った川中島も一区切りを迎え(8月3日参照>>)、敵対した甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、今は亡き今川義元(いまがわよしもと)の領地=駿河(するが=静岡県西部)の攻略に舵を切った事で、越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)の目は、これまで何度も遠征していた越 [続きを読む]
  • 公家の姫から武将の嫁に…武田信玄の奥さん〜三条殿
  • 元亀元年(1570年)7月28日、甲斐の武田信玄の正室である三条殿が、50歳でこの世を去りました。・・・・・・・・・・・・・天文二年(1533年)に、室町幕府の関東管領職を代々務める家系=扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の当主=上杉朝興(うえすぎともおき)の娘を正室に迎えるものの、翌年、その妻が難産のために母子ともに亡くなってしまった事で、独り身となっていた甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん= [続きを読む]
  • 信長の小谷侵攻〜山本山城の戦いと虎御前山城構築
  • 元亀三年(1572年)7月22日、翌年の浅井家の滅亡と小谷城落城につながる山本山城の戦いがありました。・・・・・・・・・・永禄十一年(1568年)、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・その後、再三に渡って「新将軍に挨拶に来んかい」と呼びかけるも、上洛に応じなかった越前(えちぜん=福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)に対して、元 [続きを読む]
  • 天文法華の乱〜飯盛城の戦いと大和一向一揆
  • 天文元年(1532年)7月17日、後の天文法華の乱につながっていく大和一向一揆がありました。・・・・・・・・・・・京都の市街を戦場とした事で、町中が焦土と化したと言われる応仁の乱ですが、実は、その応仁の乱よりも被害が大きかったとされるのが、天文五年(1536年)7月に起こった天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)です。そのページには、有名な京都の祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾巡行で、 [続きを読む]
  • 応仁の乱が終わっても〜続く畠山義就VS政長の戦い
  • 延徳二年(1490年)7月12日、応仁の乱後も続いた畠山氏の主導権争いの中で、大きな衝突となった一乗山の戦いがありました。・・・・・・・・・・室町幕府将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いがくっついて、その配下となる全国の大名を巻き込み、全国を東西真っ二つに分ける大乱となった応仁の乱・・・モメた原因の一つが、河内(かわち=大阪府東部)、紀伊(きい=和歌山県・三重県の一部)、大和(やまと=奈良県)などの重 [続きを読む]