羽柴茶々 さん プロフィール

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羽柴茶々さん: 今日は何の日?徒然日記
ハンドル名羽柴茶々 さん
ブログタイトル今日は何の日?徒然日記
ブログURLhttp://indoor-mama.cocolog-nifty.com/
サイト紹介文おかげ様で2000万アクセス突破!感謝です…その日の出来事や歴史ウラ話を楽しくわかりやすく♪
自由文その日に起こった出来事を中心に、武将の勇ましさはもちろん!神の奇跡から下世話なウワサまで、歴史のあんな事こんな事書いてます。
その日の主役を飾った1000名を越える歴史人物!
2500を越える歴史エピソード!
ご一緒に歴史を楽しんでいきましょう
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供59回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2007/04/01 21:24

羽柴茶々 さんのブログ記事

  • 賤ヶ岳の前哨戦〜秀吉の長浜城攻防
  • 天正十年(1582年)12月11日、賤ヶ岳の前哨戦となる戦いで、羽柴秀吉が長浜城を囲みました。・・・・・・・・・・・天正十年(1582年)6月2日、天下目前にして本能寺に散った織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)・・・すでに家督を譲られていた嫡男(11月29日参照>>)の織田信忠(のぶただ)も共に亡くなった事から、織田家の後継者は次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)か三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝 [続きを読む]
  • 家康の祖父・松平清康殺害「森山崩れ」と井田野の戦い
  • 天文四年(1535年)12月5日、徳川家康の祖父である松平清康が殺害された森山崩れがありました。・・・・・・・・・・・・・松平清康(まつだいらきよやす)は、あの徳川家康(とくがわいえやす)のお祖父ちゃん・・・安祥(あんじょう=愛知県安城市)松平の2代目で松平宗家6代目だった父=松平信忠(のぶただ)が、隣国=駿河(するが=静岡県東部)の今川(いまがわ)からの攻撃を受けて、うまく松平家内を統率できずにいたため [続きを読む]
  • 佐々成政の城生城の戦い
  • 天正十一年(1583年)11月28日、越中城生城を攻撃中の佐々成政と神保氏張が聞名寺を攻撃しました。・・・・・・・・・・・織田信長(おだのぶなが)が天正元年(1573年)8月に越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月6日参照>>)、天正三年(1575年)8月に越前一向一揆を鎮圧(8月12日参照>>)した頃には、織田政権の北陸担当となった北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井 [続きを読む]
  • 長島一向一揆の小木江城攻め〜織田信与の自刃
  • 元亀元年(1570年)11月21日、長島一向一揆に攻められた信長の弟=織田信与が小木江城にて自刃しました。・・・・・・・・・・・尾張(おわり=愛知県西部)と伊勢(いせ=三重県中北部)の国境を隔てるように流れる木曽三川(きそさんせん=木曽川・揖斐川・長良川)・・・その河口付近の輪中(わじゅう=水害から守るために周囲を囲んだ堤防や集落)地帯である長島(ながしま=三重県桑名市)は、上記の通り、現在では三重県です [続きを読む]
  • 信長の前に散る…三好義継が切腹す〜若江城の戦い
  • 天正元年(1573年)11月16日、居城の若江城を、織田信長に攻められた三好義継が切腹しました。・・・・・・・・・・・今回の主役=三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)は、天文十八年(1549年)に、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の弟の十河一存(そごうかずまさ・かずなが=長慶の3番目の弟)の長男として生まれたと言います。この伯父の三好長慶という人は・・・(これまで何度もブログに登場してますが…)かつて室 [続きを読む]
  • 備前&播磨を巡って赤松義村と浦上村宗の戦い〜三石城攻防戦
  • 永正十五年(1518年)11月12日、反旗を翻した浦上村宗を赤松義村が攻めた三石城攻防戦が開始されました。・・・・・・・・・・村上源氏の流れを汲み、鎌倉幕府政権下で播磨(はりま=兵庫県南西部)の地頭職を務めていたとされる赤松(あかまつ)氏は、その鎌倉討幕から室町への転換期に、赤松則村(あかまつのりむら・円心)が討幕軍の一翼を担う多大なる活躍をし(4月3日参照>>)、その後の南北朝でも足利尊氏(あしかがたかう [続きを読む]
  • 本庄繁長の乱で上杉謙信が本庄城を攻撃
  • 永禄十一年(1568年)11月7日、反旗を翻した本庄繁長の籠る本庄城を上杉謙信が攻撃しました。・・・・・・・・・天文十一年(1542年)に信濃(しなの=長野県)諏訪(すわ)を制し(6月24日参照>>)、さらに北へと勢力を伸ばそうとする甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)(4月22日参照>>)に対し、天文二十二年(1553年)から永禄七年(1564年)にかけて、何度も川中島(かわなかじま=長野県長野市)にて(8月 [続きを読む]
  • 一族とともに生きた北条氏の長老軍師〜北条幻庵
  • 天正十七年(1589年)11月1日、戦国時代の関東に君臨した北条氏の長老&ご意見番、北条幻庵が97歳で亡くなりました。・・・・・・・・・・・戦国時代、約100年に渡って関東を牛耳る北条氏(ほうじょうし=鎌倉時代の北条氏と区別するため後北条氏とも)・・・その祖となる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢盛時(いせもりとき)の末っ子=四男として明応二年(1493年)に誕生した(誕生年には諸説あり)とされる北条幻庵(ほ [続きを読む]
  • 応仁・近江の乱〜京極×六角の近江争奪戦
  • 文明七年(1475年)10月28日、応仁の乱に絡む京極政経と六角高頼の戦い「佐々木庄の戦い」がありました。・・・・・・・・・・ 第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争いに、管領家(かんれいけ=将軍の補佐・No.2になる家柄)である斯波(しば)と畠山(はたけやま)のそれぞれの後継者争いが加わって、応仁元年(1467年)から約10年に渡って日本全国が東西に分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照 [続きを読む]
  • 秀吉の但馬攻略〜岩州城&竹田城の戦い
  • 天正五年(1577年)10月23日、織田信長の命による但馬攻略のために姫路城に入った羽柴秀吉が播磨諸将の人質を取りました。・・・・・・・・・・永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)は(9月7日参照>>)、翌10月に、その義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)した事で、一旦、岐阜(ぎふ)へと戻りました。その翌年の永禄十二年(1569年)、自ら [続きを読む]
  • 三好長慶の八上城攻略戦
  • 弘治三年(1557年)10月16日、三好長慶が丹波八上城を攻め、龍蔵寺城を攻略しました。・・・・・・・・・・・丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)地方の小さな国人(こくじん=在地の武士)の一人に過ぎなかった波多野稙通(はたのたねみち)が、応仁の乱での功績によって細川勝元(ほそかわかつもと=東軍の大将)配下の有力武将となって築城したとされる八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)。その後の細川家 [続きを読む]
  • 大仏炎上〜東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
  • 永禄十年(1567年)10月10日、松永久秀対三好三人衆&筒井順慶連合軍の東大寺大仏殿・多門城の戦いで大仏殿が炎上しました。・・・・・・・・・・もともと、興福寺(こうふくじ)や春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)は、やがて寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちの中から、興福寺に属する『衆徒』の代表格である筒井(つつい)氏や、春日大社に属する『国民』の代表格=越智(おち) [続きを読む]
  • 長束正家、無念の自刃〜関ヶ原・水口岡山城の戦い
  • 慶長五年(1600年)10月3日、関ヶ原での敗戦の後に籠っていた近江水口(岡山)城を出た長束正家が近江桜井谷で自刃しました。・・・・・・・・・・豊臣政権下の五奉行の一人=長束正家(なつかまさいえ=「ながつか」とも)は、かつて近江(おうみ=滋賀県)の覇者だった六角氏(ろっかくし)の家臣で、もとは水口城(みなくちじょう滋賀県甲賀市水口町=岡山城)主だった水口盛里(みなくちもりさと)の長男として尾張(おわり=愛知 [続きを読む]
  • 前将軍・足利義稙と管領・細川政元〜宇治木幡の戦い
  • 明応八年(1499年)9月27日、前将軍=足利義稙と同調する畠山尚順を攻める細川政元が、宇治木幡の戦いにて槇島城を落としました。・・・・・・・・・・第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争い=義尚(よしひさ=義政の息子)×義視(よしみ=義政の弟)に、 畠山&斯波・両管領家の後継者争い=畠山義就(よしひろ)×政長(まさなが)斯波義廉(しばよしかど)×義敏(よしとし)がひっついて、 [続きを読む]
  • 光安自刃で明智城落城〜明智光秀は脱出?
  • 弘治二年(1556年)9月20日、斎藤義龍に攻められた明智城が落城し、明智光安が自刃しました。・・・・・・・・・・・清和源氏の流れを汲む美濃(みの=岐阜県)の守護(しゅご=現代の県知事みたいな)であった土岐(とき)氏から枝分かれした明智(あけち)氏は、明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を拠点として室町幕府に直接仕える奉公衆を務めていましたが、戦国時代に入って、あの美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三(さいと [続きを読む]
  • 最後の管領〜細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転
  • 天文十五年(1546年)9月14日、細川氏綱が亡き養父の仇を撃つべく細川晴元を攻めた嵯峨の戦いがありました。(細川家内訌)・・・・・・・・・・父=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いで応仁の乱を収め、自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変をやってのけた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)=細川政元(まさもと)・・・その後継者を争った3人の養子の中で、一歩抜け出て、第12代室町幕府将軍=足利義晴(あし [続きを読む]
  • 佐々成政の越中一向一揆攻め〜瑞泉寺・井波の合戦
  • 天正九年(1581年)9月8日、佐々成政・神保長住らが一向一揆の瑞泉寺を攻めた井波の合戦がありました。・・・・・・・・・織田信長(おだのぶなが)の上洛によって畿内を追われた三好(みよし)の残党の反激戦であった元亀元年(1570年)8月の野田・福島(大阪市福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が参戦する(9月12日参照>>)事によって始まった織田VS本願寺の石山合戦・・・それは、全 [続きを読む]
  • 関ヶ原に向けて〜徳川家康が江戸城を出陣
  • 慶長五年(1600年)9月1日、関ヶ原の合戦に向けて、徳川家康が江戸城を出陣しました。・・・・・・・・・・ご存じの関ヶ原・・・(一つ一つの出来事や全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>で見ていただけるとありがたいです)慶長三年(1598年)8月の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後(8月9日参照>>)、かの朝鮮出兵のなんやかんやで、豊臣政権内にて武闘派(ぶとうは=合戦で武功を挙げる派)と文治派(ぶんじは=後方支 [続きを読む]
  • 長篠の直後…徳川VS武田〜諏訪原城の戦い
  • 天正三年(1575年)8月24日、徳川家康が武田勝頼方の諏訪原城を攻め落としました。・・・・・・・・・・海道一の弓取りと称された天下に最も近い男=駿河(するが=静岡県東部)の今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長(おだのぶなが)によって桶狭間(おけはざま)に敗れて(5月19日参照>>)のち、後を継いだ今川氏真(うじざね)を北と西から挟み撃ちするがの如く、協力して倒した甲斐(かい [続きを読む]
  • 宇喜多&毛利の境目合戦〜難攻不落の矢筈城と草刈重継
  • 天正十一年(1583年)8月18日、本能寺の変の直後の秀吉と毛利の和睦によって決定した城の明け渡しに不満を持った草刈重継が佐良山城山下にて合戦しました。・・・・・・・・西への勢力拡大を図る主君=織田信長(おだのぶなが)に命じられ、天正四年(1576年)頃から中国地方の平定にまい進していた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正八年(1580年)の1月には三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)を(3月29 [続きを読む]
  • 朝倉から若狭を守る〜粟屋勝久の国吉籠城戦
  • 永禄十一年(1568年)8月13日、朝倉義景の命を受けた軍勢が若狭に侵攻しました。・・・・・・・・・・今回の舞台となる国吉城(くによしじょう=福井県美浜町)は、現在の美浜駅から、少し東へ行った佐柿(さがき)の背後にある城山の山頂から尾根づたいに構築されていた山城です。『若狭国志』によると、この城は、「かつて国吉(くによし)なる人物が構築した物を天文〜弘治年間(1532年〜1557年)頃に粟屋勝久(あわやかつひさ [続きを読む]
  • 京極政経VS高清の家督争い…京極騒乱〜祇園館の戦い
  • 延徳二年(1490年)8月7日、京極家の家督争い=京極騒乱の最中、京極政経が将軍=足利義稙より『高清追討の内書(ないしょ=内密&直接の書状)』を受け取りました。・・・・・・・・・・第59代宇多天皇(うだてんのう)の皇子=敦実親王(あつみしんのう)の第3皇子が臣籍に降下して源雅信(みなもとのまさざね)と名乗った事に始まる宇多源氏(うだげんじ)は、その4男の源扶義(みなもとのすけのり)の子孫が武家=佐々木氏を称 [続きを読む]
  • 細川政元の後継を巡って〜永正の錯乱と百々橋の戦い
  • 永正四年(1507年)8月1日、細川京兆家の後継者を巡っての戦いで細川澄元と細川高国に攻められた細川澄之が自害しました。・・・・・・・・・・・あの応仁の乱(5月28日参照>>)の東軍・総大将として知られる細川勝元(ほそかわかつもと)・・・彼が息を引き取る時、わずか8歳の息子=政元(まさもと)をそばに呼び、「この政元あらば、細川家は安泰だ」と言って息をひきとったと言われるほど、政元は優れた息子でした。その期待 [続きを読む]
  • 松永久秀の奈良攻略〜最初の戦い…第2次井戸城の戦い
  • 永禄三年(1560年)7月24日、大和の攻略を開始した松永久秀が、井戸良弘が守る井戸城を攻撃しました。・・・・・・・・・・・古くから興福寺(こうふくじ)や春日大社(かすがたいしゃ)などの寺社勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地は、いつしか興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代には『衆徒』の代表格=筒井(つつい)氏が北朝に [続きを読む]
  • 関ヶ原合戦〜最初の戦い…高取城の攻防
  • 慶長五年(1600年)7月18日、ご存じ、天下分け目の関ヶ原の戦い・・・その最初のぶつかり合いとなった高取城の攻防戦がありました。・・・・・・・・・・自らの死後も、幼き息子=秀頼(ひでより)をサポートしてくれるよう、独自の家格システムを構築し(7月15日参照>>)、数々の遺言を残した(8月9日参照>>)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、慶長三年(1598年)8月、亡くなります。その死を以って半島から撤退する事になり [続きを読む]