joseph さん プロフィール

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josephさん: Testimony:キリスト信徒としての人生から
ハンドル名joseph さん
ブログタイトルTestimony:キリスト信徒としての人生から
ブログURLhttp://joseph-daniel.cocolog-nifty.com/testimony/
サイト紹介文聖書研究だけでなく、ドイツ神秘主義や生活の中の証し等、広い分野に言及した自由な研究サイト。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供16回 / 365日(平均0.3回/週) - 参加 2007/08/11 14:49

joseph さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • パカッ聖書
  •  これは、私の発明である。  どういうのかと言うと、つまり、聖書をパカっと2つに割って、それぞれに名前をつけるということである。それでは、やってみよう。  聖書をパカっと割ると、まず旧約聖書、そして新約聖書となると思うだろう。その通りである。しかし、それだけでは終わらない。それぞれに名前をつけなければならないのだ。そこで、旧約聖書に、「神の民の出現」と付け、新約聖書には、「あなたが神の民です」と付け [続きを読む]
  • 聖と俗を区別する
  •  あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである。  レビ記10:10〜11  私たちの心の中には、神の聖霊が宿っているので、それは、生きた神殿と言えるだろう。しかし、それは、また同時に私たちの生来の肉なる心の住み家でもある。しかし、この聖なるものと俗なるものは、混在しているのではなく、はっきり [続きを読む]
  • 心の祭壇
  •  「心の祭壇」ということが時々言われることがある。それは、信仰の実践的な教えであり、毎日の霊的な戦いに必要なものだと思う。というのも、生来の私たちは、罪の支配の中にあるからである。「キリストの贖いが私たちを罪から解放した」と言われていながら、私たちが日常的に罪を犯すことがあるなら、その原因の一つとして、私たちが「肉なる人」に従って歩んでいることがあると思う。  つまり、私たちの内には、「肉なる人」 [続きを読む]
  • なにもかもが・・・
  •  思い通りに行かないときがある。そんなときは、バイクに乗るのも億劫な気分になる。でも、思い切ってエンジンを掛けて走り出す。いつもよりゆっくりと、噛みしめるように走っていく。アスファルトの道路を走りながらつぶやく、「イエスさま、今日は最低の気分です。本当にいやになります。どうしてこんな状態なんでしょうか。」すると心の中に、「例えば、どんなことかな。」と言われたように思う。「そうですね、昨夜は、夜中の [続きを読む]
  • 「神の前にどのように生きるべきか」ということについて
  • 説教三:『なぜという問のない生き方について』  「人は、なぜ生きるのか」。人々は、長い歴史に渡り、この問いを発し続けてきた。そして、それに答えを与えた人はまだいない。それも無理はない、実はそれには答えが無いからである。この「生きる」という行為は、先の2つのドイツ語説教において取り扱われていた積極性よりも、さらに高いレベルの積極性である。そして、「何のために」と問う人は、「自分が途上にいる」ことを言 [続きを読む]
  • 『神の前にどのように立っているべきか』ということについて
  •  エックハルトは、この2つ目のドイツ語説教で、1つ目の説教よりもさらに積極的な信仰者の姿勢について語っている。それを彼は、2つの比喩を用いて提示するのであるが、その一つ目は、「主イエスを心に受け入れる魂は、『処女』のようでなければならない」というものである。これは、いかなる先入観も偏見もなく、神を受け入れるということであり、その意味で努力が必要であり、従ってそれは一つの「積極性」であり、しかもそれ [続きを読む]
  • 「神の前に、どのようにあるべきか」ということについて
  • 説教一:『魂という神殿について』  キリスト信仰にとって、障害になることが2つあるとエックハルトは言う。それらは、「無知」と「自我性」である。  この「無知」とは、「自分の信仰に対する無知」であり、「神のために生きている」と思いながら、実は「自分のために生きてしまっている」ということである。エックハルトは、そのような人々のことを「神と取引をしている商人のような人々」と表現する。そして、「彼らは真理に [続きを読む]
  • エックハルトの真意
  •  これで14回目の研究になるのだが、私がマイスター・エックハルトを再三に渡って取り上げてきた理由は、ただ一つ、「自分の信仰の刷新に役立つ」と思われたからである。私は、信仰の役に立たないようなものには、あまり興味がない。だから、エックハルトがただ神秘的だとか、宗教を超越しているとか、その類のことだったら、わざわざブログで取り上げる価値はないと思っている。だから、ここで書きたいことは、まさに信仰の実践 [続きを読む]
  • 冬の上名栗
  •  名栗には、良く行く。とても気軽に行ける、近くて遠いところ。ちょっと気が向いたら、お気に入りの道をしばらく走ると、もうそこはすっかり山里の中。前方には、すばらしい山並みの風景が広がり、走って来た後ろの道は、もう山に遮られて見えない。征圧するような何物も無く、語りかけて来るものもない。ただ、私がそこに分け入るのを黙って許してくれる場所。かといって、優しいわけでもない。私がそこにいてもいなくても、まっ [続きを読む]
  • 心のエジプト
  •  もしあなたたちが、『我々はこの国にとどまることはできない』と言って、あなたたちの神である主の声に聞き従わず、また、『いや、エジプトの地へ行こう。あそこでは戦争もないし、危険を知らせる角笛の音もせず、食べ物がなくて飢えることもない。あそこへ行って住もう』と言うなら、今、ユダの残った人々よ、主の言葉を聞くがよい。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。もしあなたたちが、どうしてもエジプトへ行こうと決 [続きを読む]
  • 偶像崇拝について
  •  偶像とは、「人間がそれ自体が良いと想定したもの」と定義することができると思う。しかし、イエス・キリストが「良い方は、父なる神以外にいない」と言っておられることから、良いものは、天から、光の父から降ってきたもの以外にはない。そこで人が、そのようなもの以外を「それ自体が良いもの」と想定するならば、それはすなわち「偶像」となる。  この定義によれば、例えば芸術は偶像であり得る。また、科学は偶像であり得 [続きを読む]
  • 誰も教えてくれなかったこと
  •  クリスチャンとして、もう30年以上も生きてきたけど、いままで誰も教えてくれなかったことがある。それは、一言で言えば、神様の前で何が正しく、何が正しくないのかということだ。  聖書には、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」と言われている。それなのに例えば、何か偉業を成し遂げた人を大いに賞賛したり、音楽、絵画等の芸術をことさら価値或るものと位置づけたりということが良いこととされている。しかし、良 [続きを読む]
  • 革ジャケット
  •  2年前に買った革のライディングジャケット。ちょっと気に入らず、これまでほとんど着ることもなかったけど、秋になって、乗っていて少し肌寒さを感じてきたので、思い切って出して着てみた。  割と安かっただけに、革が硬く、身につけると、私がジャケットを着ているのか、ジャケットが私を着ているのか、分からなくなる。つまり、ジャケットと言うものは、私の体に合わせて馴染んでくれるのが普通だと思うのだが、これは、そ [続きを読む]
  • 宣教とは、なにか。。
  •  宣教は、戦いである。それも、全世界的な、宇宙を総動員した戦いである。そしてその目的は、この世界を神の下に奪回することである。被造物の頂点に位置するのが、神に象って造られた人間であるために、宣教活動の中心が福音を宣べ伝えることとなっているのではあるが、その最終目的は、そのことを通して、この世界のすべてが神の元に奪回されることなのである。  そこで、まずはっきりさせておかなければならないのは、この場 [続きを読む]
  • 着物は古びず、靴はすり減らず
  •  旧約聖書には、イスラエルの民が40年間荒野を放浪したことが記されている。そして、その結果、たくさんの人々が老化や病気等で世を去ったが、最後まで残った者たちの着物は古びず、靴はすり減らなかったと言われている。  私は、60歳で個人事業を立ち上げた、その当時は、何もかも初めてで、自分一人でやらなければならなかったのでとても大変な思いをした。しかし、体を壊すこともなく、毎日の業務においても、助けてくれ [続きを読む]
  • 異言の祈りの対象
  •  最近、発見したことがある。それは、ある人にとっては、当たり前のことなのかもしれないのだが。それは、「異言の祈りの対象」ということについてである。  異言自体は、自分にも、たぶん他人にも理解できない言葉である。それは、「御使いの言葉」とも言われるが、この地上にある言葉の場合もあり、そうでない場合もあるのだろう。いずれにしても、語っている人には理解できない。だから、それを語るのに、対象を限定せずに、 [続きを読む]
  • 間柄
  •  バイクからは、色々と教えられることも多い。例えば、バイクは後輪で曲がるということすら以前は知らなかった。しかし、自分の体重と併せて300kgを超える重量を前輪だけで受け止めて曲がるというのは、実は危険極まりないことらしい。むしろ、傾いた後輪で路面を蹴ることにより、円周方向の動力を発生させて、前輪を中心に車体を回転させるようにして曲がって行くのが安全なのである。それから、左右の体重移動によるステップ [続きを読む]
  • 王としてのキリスト
  •  イスラエルという民族は、たぶん出エジプトにおいて誕生したのだと思う。それ以前は、彼らは一つの民族という意識をおそらく持っていなかっただろう。その意味で、エジプトにおける奴隷生活は、必要だったのだろう。そして、そのころ彼らを率いていたのは、モーセという神から選ばれた人であった。その後、士師の時代を経て、ついにイスラエルは王国となっていった。それは、神のご計画であり、全ては王の王たる出イエスを迎える [続きを読む]
  • 予定論
  •  予定論は、キリスト諸教派に様々な形で浸透している。その中で、もっとも恐ろしいものは、ウエストミンスター信仰告白に提示されている「神の永遠の聖定」という教理であり、私自身は、これを信じている。新約の時代において、信徒を神に結びつけ、福音が完全な救いとなるために、この予定論が重要な位置を占めていることは、疑いの無いことと思われる。  つまり、ひとたびキリストを信じた者は、その生涯を通じて、キリストに [続きを読む]
  • なにが変わったのか。
  •  「新約の時代」とは、文字通り新しい契約の時代のことである。しかし、この「新しい契約」とは、何なのか。新約になったら、何が変わったのだろうか。イエス・キリストを信じる人は誰でも天国へ入れるようになったのだろうか。でも、この「信じる」という言葉は、非常に意味深い言葉である。第一、信じているかどうか、どうして分かるのだろうか。どういうのが「信じる」ということなのか。天国の入り口で、主から、「私はあなた [続きを読む]
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