徳薙 零己 さん プロフィール

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徳薙 零己さん: 次に来るもの(平安時代叢書第十三集) 月〜金18時
ハンドル名徳薙 零己 さん
ブログタイトル次に来るもの(平安時代叢書第十三集) 月〜金18時
ブログURLhttps://ameblo.jp/tokunagi-reiki/
サイト紹介文SE山城京一のドラッカー講座 日曜18時 / 京子先生の平安時代講座 土曜18時
自由文<フィクション>
・わかりあえるはず
・あおひとくさ
・ほしがき
・せむかた -restart-
・ほむらみさき
・苦悶の捕虜
・ほむらみさき、そして…

<ノンフィクション>
・獅子光臨〜三原修の足跡
・朴正煕の野望
・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。
・蟹工船の時代
・平安時代叢書
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供397回 / 365日(平均7.6回/週) - 参加 2008/01/03 23:29

徳薙 零己 さんのブログ記事

  • 次に来るもの 254/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  年が変わって永長二(一〇九七)年。もっとも年が変わったところで前年から続いている混迷は続いている。 ただし、一点だけ前年と違いがある。白河法皇が表から消えたのだ。堀河天皇を白河法皇の影響下に置くために閑院を里内裏としていたのであるが、藤原師通の二条第が里内裏に変わったのである。 一方、白河法皇は亡き愛娘を弔うために、醍醐寺に無量光院を建立し落慶供養をとりおこなった。白河法皇が平安京から離れたこ [続きを読む]
  • 次に来るもの 253/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  この上、嘉保三(一〇九六)年一一月二四日には大規模な地震が発生した。 この地震もまた、嘉保という元号を忘れてしまいたいとの思いからか、永長地震と呼ばれることとなった出来事である。 当時、右中弁兼修理左宮城使として、内裏再建工事の責任者を務めていた藤原宗忠はこのときの地震について日記にこのように記している。地面が揺れ続けること、およそ一刻(だいたい二時間前後)。主な被害として、東大寺の巨鐘が落下 [続きを読む]
  • 次に来るもの 252/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  嵐のような田楽の流行と急速な冷却、そして、媞子内親王の逝去と白河上皇の出家。これだけでも嘉保三(一〇九六)年という一年は無茶苦茶な一年だという実感を得るであろうが、この年終わりの三分の一は、それまでの三分の二の出来事などまだまだ大したことないと思わせる出来事が頻発した。 まず、奈良から興福寺が焼け落ちたという知らせが届いた。興福寺は何度となく火災に巻き込まれてきた寺院であるがこの流れの中での火 [続きを読む]
  • 次に来るもの 251/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  ところが、この田楽の流行はたった一日で終わる。 嘉保三(一〇九六)年八月七日、媞子内親王、病死。七月二二日に突然の発熱があり、最初は単なる風邪かと思っていたが治ることはなく、症状が日に日に悪化して、ついには二一歳という若さでの突然の死を迎えることとなってしまったのだ。この誰もが予想すらしなかった出来事に誰もが驚きを隠せなかった。最愛の藤原賢子を失った直後の頃を思わせる憔悴が白河上皇にも襲いかか [続きを読む]
  • 次に来るもの 250/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  この田楽を白河上皇が利用した。 政権批判を含む内容の歌詞であっても朝廷としては黙って受け入れるしかない。また、田楽そのものの歴史は稲作の歴史と密接につながっている、ということになっている。記録に残る最初の田楽は一条天皇の時代である正暦三(九九三)年までしか遡れないが、それでもこの時代から見れば一〇〇年の歴史がある。稲作の歴史とつながり、かつ、確認できるだけでも一〇〇年の歴史がある伝統行事とあっ [続きを読む]
  • 次に来るもの 249/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  朝廷は慌てて、石清水、平野、松尾、当麻、森本、当宗、梅宮、中山、広瀬、竜田といった祭の中止や延期を命じた。ケガレに対処するために祭を中止させたり延期させたりすることは儀礼に基づいたものであり、対応として間違ったものでは無い。 ところが、その中の松尾祭の延期が物議を醸すこととなった。 前提として、平安時代は酒が貴重であり、現在のように居酒屋に行けば酒を飲め、スーパーマーケットやコンビニエンススト [続きを読む]
  • 次に来るもの 248/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  失望しかない。 時代が悪化していると実感し、時代が変わることを願い、時代の変化が関白の交替として実現したら、それも、優秀と評判の若者が関白になるという希望あふれる時代が実現したと思ったら、そこにいたのは自分を優秀と思い込む独裁者気取りだけというのだから。 この現実の前に、庶民は寛治八(一〇九四)年に引き続いて田楽に救いを求めた。 きっかけは嘉保三(一〇九六)年三月の松尾大社の祭典である松尾祭が [続きを読む]
  • 次に来るもの 247/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  人気が最低まで落ちてしまっていた藤原師通にとって、この毅然とした決断は、多少ではあるが支持率を上げる効果があった。 他に頼りになる存在はいないからと僧兵のことを受け入れたとしても、本音は僧兵を憎んでいたし、迷惑としか感じていなかった。僧兵中の僧兵たる比叡山延暦寺の行動についても、積極的支持とまでは行かなくても仕方ないという感じで捉えられていたのである。ところが、予想だにしなかった僧兵に対する断 [続きを読む]
  • 次に来るもの 246/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  敵を次々に作る藤原師通は、嘉保二(一〇九五)年一〇月二四日、ついに最大の敵と激突した。そして、このときは珍しく、藤原師通の側に世論が味方をした。 藤原師通の敵として登場したのは比叡山延暦寺。延暦寺の僧兵たちが美濃国司源義綱を訴え出たのだ。 源義綱は美濃国司として何をしたのか? 延暦寺の僧侶を逮捕したのだ。 記録には悪事をなした僧侶を犯罪者として逮捕したとだけ記されている。延暦寺はこの逮捕に対し [続きを読む]
  • 次に来るもの 245/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  白河天皇は敵を作って敵を攻撃することで支持を手にしてきた。 一方、藤原師通は白河上皇を明確に敵と認識するようになっていた。 敵を作り出すという点では両者とも同じであるが、敵の存在は両者で大きく異なる。 白河天皇にとっての敵は人為的に作り出した存在であるのに対し、藤原師通にとっての敵は自然発生する存在なのだ。そして、白河天皇は敵に勝利し続けていたが、藤原師通は敵に対する勝利とさほど縁のある存在で [続きを読む]
  • 次に来るもの 244/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  年が変わって嘉保二(一〇九五)年。 前年の内裏放火に対するショックによるのか、それとも改元の効果があったのか、藤原師通の独断専行はなりを潜めていた。 とはいうものの、根のところは全く変わっていない。 正四位上播磨守兼修理大夫である藤原顕季は六条殿を住まいとしていた。 北に行けば行くほど高級住宅地であるというこの時代の平安京の土地事情を踏まえれば六条にある邸宅というのは藤原顕季の位階と役職に相当 [続きを読む]
  • 次に来るもの 243/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  右大臣源顕房の死去により、右大臣が空席となった。 多くの人は、関白内大臣藤原師通が右大臣に昇格するものと考えていた。 ところが、藤原師通は右大臣について全く興味を示さなかったのだ。出世欲が無いのではなく、関白である自分が今になって右大臣になるというのが納得できなかったのだ。内大臣を兼任しているのは事実であるゆえに手放さない。だが、右大臣という貴族の第二位の地位を求めるのは関白に相応しいと思わな [続きを読む]
  • 次に来るもの 242/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  もう一つ、堀河天皇が協議を開始させたのが改元である。 正確に言えば、何かを変えなければならないと考えた末に出た結論が改元であった。 反感から内裏放火という事態を招いたことは堀河天皇としてもどうにかしなければならないとは考えていたが、かといって、どうにかしなければならない人物である藤原師通をどうにかするという選択肢は無かった。そもそも関白に相応しい人物が藤原師通しかいないのだ。藤原師通の子の藤原 [続きを読む]
  • 次に来るもの 241/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  清水寺の再建供養が盛大に執り行われてからわずか二日後の寛治八(一〇九四)年一〇月二四日、藤原師輔に対する不満が爆発した。この日、里内裏としていた堀河院が火災に遭ったのだ。放火である。ただし、犯人逮捕はできずにいる。 これまでも何度か内裏や里内裏が焼けたことはあった。ただし、それらは金品目的の強盗による犯行であり、このときのように藤原師輔への反発といった政治的不満の爆発によるものはなかった。 藤 [続きを読む]
  • 次に来るもの 240/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  寛治八(一〇九四)年九月三日、一つのニュースが届いた。 藤原信長死去。享年七三。 このニュースに関する反応はあまりにも冷淡である。まだ生きていたのかという感想しかなかったのだ。 無理もない。政務ボイコットで白河天皇の政権に大打撃を与えたことは記憶に残っていたが、政務ボイコットで譲歩を得るどころか、飾りにもならない太政大臣に就任させられ、その太政大臣も辞職させられ、忘れ去られた存在へと追いやられ [続きを読む]
  • 次に来るもの 239/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  息子の暴走を、今や一個人となっていた藤原師実はどうにかできなかったのか? 結論から言うと、無駄な抵抗ならばした。ただ、自分を優秀な人間と考える独裁者というのは、それが親であろうと意見を受け入れはしない。ましてや、藤原師実は、我が子を無理やり離婚させて藤原信長の娘と結婚させたという前歴を持っている。この一事を口に出すだけで藤原師実は黙り込むしか無くなる。 寛治八(一〇九四)年六月二二日、藤原師通 [続きを読む]
  • 次に来るもの 238/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  独裁政治が必ずしも悪であるとは言えない。 不自由な空気が社会を包み込もうと、庶民の生活水準が目に見えて向上したならば、それは政治として成功である。もし、それができたならばの話ではあるが。 こう書くと、歴史上に現れてきた独裁者たち、たとえばヒトラーやスターリンを評価するのかという反論が来そうであるが、無論、評価などするわけない。不自由、虐殺、侵略といった言い逃れのできない悪事もそうだが、政治の評 [続きを読む]
  • 次に来るもの 237/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  これに対する藤原師通の反応は残っていない。 ただし、何も無かったとは思えない。 藤原師通のように自らの知力を自負していながら人間は、細かなところまでやかましく目を付ける。そして、その細かさを武器として自分にとって都合の悪い存在を攻撃する。 寛治八(一〇九四)年五月二五日の権中納言藤原伊房の解任については誰もが納得いく説明があった。太宰権帥時代に遼と密貿易をしていたのである。密貿易は立派な犯罪で [続きを読む]