徳薙 零己 さん プロフィール

  •  
徳薙 零己さん: 天下三不如意(平安時代叢書第十四集) 月〜金18時
ハンドル名徳薙 零己 さん
ブログタイトル天下三不如意(平安時代叢書第十四集) 月〜金18時
ブログURLhttps://ameblo.jp/tokunagi-reiki/
サイト紹介文SE山城京一のドラッカー講座 日曜18時 / 京子先生の平安時代講座 土曜18時
自由文<フィクション>
・わかりあえるはず
・あおひとくさ
・ほしがき
・せむかた -restart-
・ほむらみさき
・苦悶の捕虜
・ほむらみさき、そして…

<ノンフィクション>
・獅子光臨〜三原修の足跡
・朴正煕の野望
・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。
・蟹工船の時代
・平安時代叢書
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供397回 / 365日(平均7.6回/週) - 参加 2008/01/03 23:29

徳薙 零己 さんのブログ記事

  • 天下三不如意 102/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  治安を悪化させる要因は、検非違使と北面の武士を総動員してデモ集団にぶつけたことだけではない。この時代の犯罪に直面したときの対応の常識にもある。 その一例が、嘉承三(一一〇八)年四月二四日の夜の出来事として記録されている。場所は二条富小路とあるから高級住宅地、ただし、邸宅の主人は貴族としてはギリギリである五位。この五位の貴族の家に強盗が入り込み、五位の貴族をはじめとするこの家の人たちを殺害して財 [続きを読む]
  • 天下三不如意 101/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  今までであればそれだけのデモ集団がいればたいていの要求を突きつけることができたであろう。だが、北面の武士と検非違使の連合軍、すなわち源平連合軍は、少なく見積もっても一万人、当時の史料には数万人レベルの軍勢であったとまで記載するものまである。 数千人と数万人とでは結果は目に見えている。かといって、デモ集団が取り締まる側の圧力で自主的に解散するというのはそうそうあるものではない。 さらに、デモ集団 [続きを読む]
  • 天下三不如意 100/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  白河法皇のこの判断に、鎮圧のターゲットとなった側はどう思うだろうか? その答えは嘉承三(一一〇八)年三月二三日に出た。 それも、考えられる最低最悪な形で現れた。比叡山延暦寺と園城寺の僧徒が手を組んだのだ。名目は尊勝寺灌頂阿闍梨の人事の白紙撤回である。尊勝時は白河の地に堀河天皇の命令によって建設された寺院であり、後世、白河天皇が建立させた法勝寺らとともに鴨川東岸の六勝寺の一つとなる寺院である。位 [続きを読む]
  • 天下三不如意 99/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  この源為義に手をさしのべたのは全く意外な人物であった。いち早く武士であることを捨てたはずの源義忠である。源義忠は甥の源為義を養子としたのだ。父を亡くした少年を養子に迎え入れるというのは何らおかしなことではない。父が成した犯罪を考えたときには、また、父の成した叛旗や襲撃を支持するという主張を耳にしたときには一瞬の躊躇を生むにしても、普通に考えれば見捨てるなどできない話であるし、ましてや叔父と甥な [続きを読む]
  • 天下三不如意 98/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  源義親が隠岐に追放になるまでは、源義家に次の清和源氏のトップは源義親になるはずであった。源義親が反乱を起こし、海賊となり、討ち取られたことで源義親がトップになる可能性はゼロになった。かといって、源義家の後継者として清和源氏のトップになった源義忠には、兄である源義親が持っていたような武人としての資質など無かった。これは自他ともに認めるところであり、源義忠は自分を貴族と考え、日本国の武のトップを伊 [続きを読む]
  • 天下三不如意 97/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  大江匡房は過去に一度大宰権帥を経験している。永長二(一〇九七)年に任命され、翌承徳二(一〇九八)年から康和四(一一〇二)年までは実際に太宰府に赴いている。任命されたのが永長二(一〇九七)年三月一一日で、太宰府に実際に向かったのは承徳二(一〇九八)年になってからと言うのだから、任命されてからもしばらく太宰府に向かうことなく京都で日々を過ごすというのは、これはもう大江匡房という人物はそういう人物な [続きを読む]
  • 天下三不如意 96/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  白河法皇としては想定外の反応であったとするしかない。 白河法皇が想定していたのは、幼い鳥羽天皇を支えるはずの摂政藤原忠実と議政官たちの能力の低さと対比する白河法皇の存在感の向上であり、白河法皇は統治者としてだけでなく軍事の指揮命令責任者としても卓越した才能を見せていると庶民達が考えることであったのだ。さらに、白河法皇の周囲を固める北面の武士は日本国最高の軍勢であり、日本国のどこで何があろうと、 [続きを読む]
  • 天下三不如意 95/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  源義親追討の功績だけで国司の任国替えを意図したわけではない白河法皇も、平正盛の功績をアピールする場面は用意していた。それが、嘉承三(一一〇八)年一月二九日の平正盛の上洛である。 平正盛の上洛と言っても、平正盛一人が京都にやってくるのでは無い。平正盛とともに源義親率いる海賊達と争った武士達の凱旋パレードを用意したのだ。平正盛が軍勢を率いてパレードをするというニュースは平安京の庶民達に瞬く間に広ま [続きを読む]
  • 天下三不如意 94/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  嘉承三(一一〇八)年一月中旬、京都にあまりにも早すぎるニュースが届いた。 一月六日、因幡国司平正盛、源義親を討つ。 その知らせを耳にした白河法皇は、平正盛をただちに但馬国司に推薦した。現在の兵庫県北部に位置する但馬国は因幡国の隣国であると同時に、こちらも但馬国と同様に国司交替の時期を迎えていた国でもある。一つの国の国司に任命されたばかりの人物を、たとえそれがすぐ隣の国であるからと言って別の国の [続きを読む]
  • 天下三不如意 93/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  話を平安時代に戻すと、因幡国の国司が隣国で暴れている海賊を取り締まるために軍勢を率いて出撃することはおかしなことではない。本来であれば国司が任国の国境を超えて軍勢を派遣するのは国司としての権限を超えることであるが、九州から山陰を経て京都に向かう日本海沿岸航路が脅かされている上に、税を運ぶ船が襲撃されたとなると、任国防衛という名目で国司の独断で軍勢を派遣することは可能である。 さて、平正盛を派遣 [続きを読む]
  • 天下三不如意 92/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  白河法皇の権勢を示す出来事となったのが、嘉承二(一一〇七)年一二月一九日に公表された一つのニュースである。平正盛が源義親追討のため出雲に向かったのだ。白河法皇に近寄って権勢を掴み出してきており、北面の武士の中心を担ってきっある伊勢平氏、その中心人物である平正盛が海賊追討のために出雲国に派遣されることとなったのであるが、実は、朝廷が命令を下したのではない。あったのは白河法皇の“熱心な推薦”である [続きを読む]
  • 天下三不如意 91/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  摂政藤原忠実は摂政としての政務を一応はこなせていたが、最低限のノルマをこなすのに手いっぱいで、現状の問題を解決するなど夢のまた夢という状況であった。これは他の貴族たちも例外ではなく、日々の政務をこなすのに汲々とし、現状の改善まではとてもではないが手が回らなかった。問題が山積しているというのは理解していたのだが、問題を解決するの必要な決断力もなければ、命令一つで動く人員もおらず、そして何より、予 [続きを読む]
  • 天下三不如意 90/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  嘉承二(一一〇七)年一二月一日、鳥羽天皇が正式に即位すると同時に、令子内親王が母儀に準じて皇后となると発表になった。ここまでは新天皇の即位を吉日に合わせるというこの時代の当然の風習である。問題は一二月九日に起こった。 白河法皇の強い要請により、鳥羽天皇が新造六条内裏に遷ることとなったのだ。かつて白河天皇が内裏とした六条内裏に鳥羽天皇を遷したことで、鳥羽天皇は平安京の中の庶民街の一角にできた内裏 [続きを読む]
  • 天下三不如意 89/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  嘉承二(一一〇七)年一〇月一四日、京都を火災が襲う。 火災そのものは悲劇ではあるが、何度となく繰り返されてきたことである。火災の被害を以下に抑えるか、起きてしまった火災からどのように復興するかというのは、時代の執政者を推し量る指標の一つとしてもよい。 その意味で、このときの執政者になっているはずの摂政藤原忠実は庶民の期待に全く応えられなかった。何もしなかったのだ。藤原道長のように全財産はたいて [続きを読む]
  • 天下三不如意 88/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  さらに言えば、源義親のもとに集った者がどこまで自分のことを海賊と認識していたかどうか怪しい。このように想像するとどうであろうか? 「税を集め、税を京都まで運んでいるときに海賊に遭遇し、税を奪われてしまいました」と証言したらどうなるか、と。納税者に対してもう一度税を聴取しろと命じるとは考えづらい。納税者は真面目に税を納めたのであり、納めた税を京都まで運べなかったとしても、それは納税者の責任ではな [続きを読む]
  • 天下三不如意 87/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  亡き源義家の子の源義親が出雲国で暴れている。 この情報は届いていたが、詳細は掴めないままでいた。 もともとからして、源義親は九州で暴れているとされ隠岐に追放された、ということになっている人物である。九州にいた頃に本当に暴れているのかどうかわからないからと調査員を派遣された前歴があり、隠岐に追放になったという記録は残っていても本当に隠岐に渡ったかどうかわからないのが実情である。 確実に言えるのは [続きを読む]
  • 天下三不如意 86/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  嘉承二(一一〇七)年七月二四日、堀河天皇の葬儀が高隆寺西南の野で執り行なわれた。荼毘に付されたのち、一夜明けて拾骨が行なわれたのである。 式次第はこの時代の天皇の葬儀に則ったものであったが、ここでも藤原摂関家の衰退は表面化していた。天皇の葬儀は国家的行事であるが、近親者であればあるほど葬儀において中心を担うというのは変わらない。そして、これまでの天皇の葬儀は藤原摂関家が葬儀の中心を担ってきた。 [続きを読む]
  • 天下三不如意 85/237 (平安時代叢書 第十四集)
  •  さて、白河法皇の逡巡の一因となった祇園女御であるが、この女性の素性はよくわかっていない。村上源氏の一員であろうという想像はなされているのだが、確たる証拠がないのである。ただし、嘉承二(一一〇七)年時点において白河法皇ともっとも親しい女性の一人であったことは間違いない。また、子のいなかった祇園女御が養女を受け入れたという一点だけを見ても、それはごく普通のことである。ただ、そうして迎え入れた養女が [続きを読む]