徳薙 零己 さん プロフィール

  •  
徳薙 零己さん: 次に来るもの(平安時代叢書第十三集) 月〜金18時
ハンドル名徳薙 零己 さん
ブログタイトル次に来るもの(平安時代叢書第十三集) 月〜金18時
ブログURLhttps://ameblo.jp/tokunagi-reiki/
サイト紹介文SE山城京一のドラッカー講座 日曜18時 / 京子先生の平安時代講座 土曜18時
自由文<フィクション>
・わかりあえるはず
・あおひとくさ
・ほしがき
・せむかた -restart-
・ほむらみさき
・苦悶の捕虜
・ほむらみさき、そして…

<ノンフィクション>
・獅子光臨〜三原修の足跡
・朴正煕の野望
・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。
・蟹工船の時代
・平安時代叢書
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供367回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2008/01/03 23:29

徳薙 零己 さんのブログ記事

  • 次に来るもの 145/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  源義家に命じられたのは源重宗の追討である。 喧嘩両成敗の原則に従えば源重宗と源国房の両名とも追討の対象となるべきところであるが、このときは源重宗だけが追討の対象となった。どういうことかというと、合戦当時の源重宗は右兵衛尉という公的地位を持っていたのに対し、源国房は無官であったのだ。つまり、合戦という不法行為を処罰するだけではなく、右兵衛尉である源重宗に対してならば出頭しない場合は右兵衛尉の官職 [続きを読む]
  • 次に来るもの 144/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  この連絡を受けた朝廷が打ち出した方策が、源義家の派遣である。とりあえず、同じ源氏ということで源義家をまずは美濃国へ派遣したのだ。 この時点の源義家を一言で言うと、忘れられた貴族である。延久二(一〇七〇)年を最後に、九年間に渡って何の官職にも就いていなかった。少なくとも何かしらの役職に就いていたという記録はない。国司を勤めていたぐらいであるから貴族の一員であったことは間違いないのだが、この九年間 [続きを読む]
  • 次に来るもの 143/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  比叡山延暦寺のこの訴えを甘く考えていた京都市民は、二〇〇名の僧兵と九〇〇名の信者からなる集団に恐れ戦いた。 白河天皇は比叡山延暦寺のデモに何ら対処できず、要求を全て受け入れることで武力衝突を回避した。これ自体は、この時点の白河天皇に出来るただ一つの選択であったというのは理解できることであるが、支持を得られる選択ではなかった。 京都市民の多くが物騒な時代を迎えたことを自覚し、物騒な時代に対処でき [続きを読む]
  • 次に来るもの 142/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  白河天皇のセリフの三つ目に出てくる山法師もこの頃には既に社会問題と化している。 承暦三(一〇七九)年六月二日、延暦寺の僧侶およそ一一〇〇名が八坂神社にやってきて、八坂神社のトップである別当を延暦寺に関連する者に譲るよう求めたのである。八坂神社は平安京の北、賀茂川の西部に広大な荘園を持っており、平安京の北部に広がってきている住宅地も八坂神社の荘園の一部を構成していた。つまり、農村の生み出す第一次 [続きを読む]
  • 次に来るもの 141/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  承暦三(一〇七九)年二月二日の正午頃、平安京で大火が発生した。春日小路から北の貴族の邸宅街を覆った火災は、平安京の区画外に広がる庶民外にまで波及し、およそ三六町が消失する大災害となった。 この火災の記憶も覚めやらぬ二月二一日に伊勢国から緊急連絡が飛び込んできた。二月一八日に伊勢神宮内宮の外院七〇あまりの建物が焼け落ちたというのである。 冬になって乾燥して火災が頻発したという説明では完結しない。 [続きを読む]
  • 次に来るもの 140/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  承暦三(一〇七九)年一月時点の議政官の構成は以下の通りである。役職位階姓名年齢兼職氏族名左大臣従一位藤原師実三八歳関白藤原北家御堂流内大臣正二位藤原信長五八歳右近衛大将藤原北家御堂流権大納言正二位藤原俊家六一歳民部卿按察使藤原北家中御門流権大納言正二位藤原能長五八歳春宮大夫藤原北家中御門流権大納言正二位源俊房四五歳太皇太后宮大夫村上源氏権大納言正二位藤原忠家四七歳藤原北家御子左流権大納言正二位 [続きを読む]
  • 次に来るもの 139/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  このイベント続きの中、前年から懸念されていた計画が実行された。 権中納言藤原師通と、内大臣藤原信長の娘藤原信子の結婚である。 つまり、藤原師通は妻の藤原全子と離婚させられたのだ。それも、長男が生まれてすぐ、妻と子と別れさせられたのである。藤原師通は父の子の決断に反発したが、白河天皇も父の決断に賛意を示したとあっては貴族として受け入れざるを得なくなる。 それにしても、白河天皇はなぜ賛意を示したの [続きを読む]
  • 次に来るもの 138/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  この頃の白河天皇を見てみると、何かとイベントを開催している。 そして、イベントを重複させていない。 つまり、イベントの開催頻度は高いのだが、イベントへの飽きというものは起こさせていない。 興福寺の再建工事が完了したら、関白左大臣藤原師実を奈良まで派遣した。興福寺自体は藤原氏の氏寺であるため藤氏長者である藤原師実が奈良にまで行くのはおかしなことではない。ただし、規模が違う。興福寺の関係者だけでは [続きを読む]
  • 次に来るもの 137/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  イベントというのはバカにできるものではない。 税の無駄遣いではないかという批判もあるし、あとに何も残らないという批判もある。 税の投入で失業が減るという反論をしてもそれは一時的ではないかという批判が返ってくる。イベントのために建物を建てればあとに残るではないかという反論に対しても廃墟を生むだけだという批判が返ってくる。 ただ、この批判を受け入れてしまうと、肝心の経済がかえって悪影響を受けるのだ [続きを読む]
  • 次に来るもの 136/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  白河天皇に向けられていた熱狂的な支持は明らかに減ってきていた。 かといって、支持の受け皿となる存在もなかった。 この時代に選挙があったなら、白河天皇の側に立つ貴族の政党が議会の多数派を占めることに変わりは無かったであろうが、その政権の支持率は高いものとならなかったであろう。 このような政治情勢のとき、執政者がとることの出来る策は三つある。 一つは新たな敵を作り出すこと。国民の関心を新しい敵に向 [続きを読む]
  • 次に来るもの 135/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  経済問題をごまかすために敵を作り出して世論の注目をそちらに向けることは珍しくもなんともない。国外の敵を作り出して生活苦の不満を国外への憎しみに向けるなんて言うのは常套手段であるし、国内に敵を作り出して敵へ攻撃することで溜飲を下げさせて不満をそらすのも常套手段である。 内大臣藤原信長を敵として扱うことは白河天皇の政権への支持を集めると同時に、経済問題の行き詰まりをごまかす効果を持っていたが、実際 [続きを読む]
  • 次に来るもの 134/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  話を平安時代に戻すと、荘園整理は、荘園で生まれ育った者が、荘園でそのまま生き続けることのできる保証がなくなった時代になったことを意味していた。荘園整理が始まれば、田畑を増やしても増やした分が荘園に組み込まれることが許されなくなる。その一方で、この時代は幼児死亡率の高さで均等がとれてしまっているとは言え、女性が生涯に産む子供の数は五人から六人では少ない方にカウントされるほど。そうして生まれた子が [続きを読む]
  • 次に来るもの 133/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  白河天皇の経済政策は、名目上は後三条天皇の政策を継承したことになっているが、実際には藤原摂関政治の復活であり、荘園制の黙認である。 問題は、それが藤原摂関政治の頃の産業生産性を伴わなかったことである。 藤原摂関政治は過去である。それも記憶に残っている過去である。この時代に生きるほとんどの人たちの記憶の中で、現在の暮らしよりは良い水準の暮らしであったのだ。その当時は社会に不満を持って改革を考えて [続きを読む]
  • 次に来るもの 132/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  さて、内大臣兼右近衛大将藤原信長の政務ボイコットは承暦元(一〇七七)年が終わろうとする頃もまだ続いていた。 この影響もあるのか、それとも、なおも影響力を保持し続けている禎子内親王への配慮としてか、一二月二五日、白河天皇は何の前触れもなく高陽院を出て内裏へと戻っている。 これはこれで合理的な選択であると言える。六条は狭いからと高陽院に移ったが、高陽院がいくら広いといっても内裏として利用することを [続きを読む]
  • 次に来るもの 131/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  この白河の地の所有者は藤氏長者とは限らなかった。実際、藤原頼通は父の藤原道長の死後に相続したが、その所有権を姉である上東門院藤原彰子へ譲っている。藤原彰子は藤原氏であると同時に皇室に嫁いだ身であり、藤原彰子の死によって白河の地の相続権が微妙なこととなった。その微妙となった相続権を明確化させたのが藤原師実である。藤原彰子の曾孫である白河天皇に藤原氏を代表して献上するとしたのである。 白河天皇は白 [続きを読む]
  • 次に来るもの 130/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  新元号承暦は天然痘流行の沈静化を狙っての改元であったが、若さを前面に打ち出す時代の幕開けであるとも考えられるようになり、それが支持と人気を生み出す源泉にもなっていた。 この人気を白河天皇はさらに強めると同時に、仏教勢力への牽制も同時にとる策に出た。 承暦元(一〇七七)年一二月一八日、白河天皇が鴨川を東に超えて落成供養の執り行われる法勝寺へと行幸したのであるが、ただの行幸ではない。一緒に行きたい [続きを読む]
  • 次に来るもの 129/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  承暦元(一〇七七)年一二月一三日、参議藤原師通が権中納言に出世した。左近衛大将は兼任したままである。参議の空席が一つできたことに伴い、従三位で、左近衛中将という武官のナンバー3の地位にあった源雅実が参議に就任した。と、ここまで書くとこのように考える人もいるのではないだろうか? 武官のトップである左近衛大将は一六歳で、ナンバー2である右近衛大将は内大臣藤原信長が兼任。そして、藤原信長は出仕を相変 [続きを読む]
  • 次に来るもの 128/260 (平安時代叢書 第十三集)
  •  承保四(一〇七七)年の梅雨が終わりを迎えた頃、京都を不穏な空気が襲った。 天然痘の流行である。この時代は現在と違って、天然痘自体は頻繁に発生する病気であり、罹患したとしても珍しくないとされており、治療法とまではいかなくても対処法はあったし、一度罹患すれば二度目の罹患はないということで悠長に構えていられる病気扱いされてもいた。 とは言うものの、病気に罹る者、そして、家族にとってはそんな悠長なこと [続きを読む]