issey さん プロフィール

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isseyさん: イッセーのエッセー
ハンドル名issey さん
ブログタイトルイッセーのエッセー
ブログURLhttps://ameblo.jp/kanmonya/
サイト紹介文『歴史的なこと』『旅や環境など』そして、『教育・人・食物』など、紹介したいと思います。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供49回 / 365日(平均0.9回/週) - 参加 2008/02/19 10:42

issey さんのブログ記事

  • 吉見永田の塩田跡②-2
  •  塩田の注目は「吉見の塩田は日本最古の古式入浜式塩田」という見出しだった。 永田浜の塩田が、文献に見られるのは嘉歴2年(1327)の『乳母屋神社文書』(龍王神社蔵)であり、「物部武久請文」によると、弘安年間(1278〜87)長門二ノ宮(忌宮神社)領内で製塩が行なわれており、その場所が、富安名(永田郷から黒井郷)正吉入江で現在の吉見永田郷。すなわち長門二ノ宮供僧慶尊の訴えは「正安2年(1300)の御内検目録で、毎 [続きを読む]
  • 吉見永田の塩田跡②-1
  •  藩政時代の毛利藩の重要な物産といえば米・塩・紙で、いずれも白いことで防長三白といい、蝋を加えて防長四白ともいわれていた。 塩は、三田尻(現防府)浜を中心に、藩内の瀬戸内沿岸地帯の新田干拓による塩田開発によって生産された塩が広く藩外の市場まで出回り、北前船も此処から北陸までも塩を運んでいた。 江戸時代以降、下関では松屋(小月)・才川(長府)・彦島・永田(吉見)に塩田が有ったといわれ、松屋・彦島は [続きを読む]
  • 病床の古川さんと
  •  PHP文芸文庫から出版された「西郷隆盛―英雄と逆賊―」という本の第2刷が、9月下旬に古川さんから「お見舞いありがとうございました」と添え書きして送られてきた。 来年(2018年)のNHK大河ドラマが、西郷隆盛を主役にした『西郷どん』に決定したことで、この本には池波正太郎「動乱の詩人―西郷隆盛」、海音寺潮五郎「西郷隆盛と勝海舟」、南条範夫「兄の陰―西郷従道小伝」、古川薫「秋霜の隼人」、植松三十里「可愛岳超え [続きを読む]
  • 宇部の常磐公園
  •  今年5月のゴールデンウイークには”世界の植物がド迫力”という前触れの「ときわミュージアム・世界を旅する植物園」がリニューアルオープンした。  此処には、熱帯アジア、オセアニア、中国・アジアなど8ゾーンに分かれて、例えばヨーロッパゾーンには推定樹齢千年のオリーブ、熱帯アメリカゾーンには幹が徳利のように膨らんだパラボラッチョなどと、ゾーンごとに特徴のある大型の樹木が植えられ、約740種、5840株を植栽し [続きを読む]
  • 北前船おちこち(55)−北海道・江差(3)−
  •  姥神大神宮から江差の町にさしかかった時「なんと綺麗な町ではないか」と驚き感心したのである。もともと一方通行だった道路を拡張、この道路沿いにある明治から昭和初期までの特徴的な歴史的建造物を再現して、レトロな景観の市街地を実現しようと、平成時代に入ってから開始された「歴史を生かすまちづくり事業」に端を発している。  約100億円をかけて平成5年(1993)から復元工事を始め、その年(2004)11月に完成したも [続きを読む]
  • 北前船おちこち(54)−北海道・江差(2)−
  •  江差湾の西側にあって、沖からの強風や荒波をさえぎる天然の防波堤の役をして、上空から見るとカモメが羽を広げたように見えるという「かもめ島」。 現在は陸繋島となっているが、周囲が2.6?、高さは海抜20mほどの小島で、弁天島と呼ばれていた島が、何時からか鴎島と呼ばれるようになったという。江戸時代、ニシン漁や北前船発着港の舞台として江差が天然の良港として繁栄したのも一つにはこの鴎島の地の利であったかも知れ [続きを読む]
  • 北前船おちこち(53)−北海道・江差(1)−
  •  北海道の江差町は、北前船の発着港として栄えた町と聞いていて、なんとしても訪ねたいと思っていたが念願かなったのは平成16年(2004)10月だった。 江差の内海と呼ばれる港は、北前船などが碇を下ろした場所で係留柱を入れる穴や係留環の細工をした跡が今でも多く残り町指定の文化財になっている。また、高さが10mほどの瓶をさかさまに立てたような形の瓶子岩があり、江差の繁栄をもたらした伝説に結びついている。 『500年 [続きを読む]
  • 笠戸島(2)−2
  •  山口県は、特にヒラメの水揚げが多い県でもないが、昭和58年(1983)笠戸島に下松市栽培漁業センターが開設されたことから、まずは宮の瀬戸周辺で多く獲れていたヒラメを主体に、アワビ、ガザミなどの育苗・養殖の研究が始まった。 現在は、マコガレイ、オニオコゼ、キジハタなどを含めて10種類。ここでは、これら3種は卵から孵してプランクトンや人口の餌を与える種苗生産、そのほかトラフグ、クルマエビ、ガザミ、アワビなど [続きを読む]
  • 笠戸島(2)−1
  •  下松市街地南側に続く工業地帯の、東洋鋼鈑と日本石油・日立製作所の間を宮の洲鼻という約500mの砂州が延びていて、その先端から約150mほどの海峡(宮の瀬戸)を挟んで笠戸島(かさどじま)の瀬戸岬になる。この瀬戸には、昭和45年(1970)に、歩道を含めた全幅8m、全長476.2mの真っ赤なランガートラス橋、笠戸大橋が完成した。 笠戸島は、北東から南西にかけて約8kmの細長い三日月型の島で、東は周防灘、西は笠戸湾を挟ん [続きを読む]
  • クスの森のピンチ
  •  川棚温泉街から北側に約1km、立石山(標高205m.)の北麓の台地に、高さ27m、幹周り11.2m、県下第一の大きさを誇り大正11年(1922)天然記念物に指定された楠木(くすのき)がある。 説明版には、樹勢は旺盛で、四方に伸びる枝は東西58m、南北53mに広がり、その一部2ヶ所の枝は地中に埋もれ発根し再生(飛び枝と呼ばれる)している。この木は、一株から四方に長く伸びた枝が周囲を広く覆い、遠目には森のように見えるその姿 [続きを読む]
  • 写真家「ナダール」(3)−3
  •  巨人号は、1863年10月4日、20万人の群集の前で13人を乗せて地上を離れて上昇、高度600m気球はゆっくり東へ流れその後1500mまで上がって飛行が安定したので、ワインを掲げ陽気な夕食の宴が始まった。ところが夜になると寒さと湿気が襲いかかり、気球は雨雲の中に入って乗員はびしょ濡れ、やがて巨人号が降下し始め気球のガスが抜けはじめていた。結局飛行3時間で約40キロを経た場所に不時着、吊り篭の綱が切れたことが直接の原 [続きを読む]
  • 写真家「ナダール」(3)−2
  •  彼の写真熱が、その肖像写真にとどまらず、当時は常識だった太陽光線を利用した写真に対して、人工照明に試行錯誤を重ね、パリの地下世界に深い興味を抱き、無限の領野に分け入り1861年にはカタコンペ(地下墓地)の写真を発表しているが、従来の写真史の中で、こんな写真が公表されたのを私は知らなかった。 『写真家ナダール』(小倉孝誠著・中央公論新社刊)でパリの地下、採石場の跡地の一部には600万人の人骨が納められて [続きを読む]
  • タイタンビカス
  •  我が家の庭に、タイタンビカスという情熱的な花が咲き出して3度目の夏。 今年は、梅雨に入っても雨がなかなか来なかったが7月になって天候不順の日が続き、7月5日から6日にかけては北九州の朝倉市や日田市などに猛烈な災害をもたらして7月20日、ようやく梅雨明けとなった。 その頃から、毎日タイタンビカスの花が2輪あるいは多いときには6輪、この暑い日差しの中で、いかにも勇ましく逞しそうな名前の花が咲き続けていたので [続きを読む]
  • 天神ハモ (2)−2
  •  平成17年(2005)、ハモ料理を名物にしようと立ち上げたのは防府市内の飲食店有志で「はも塾」を開講した。おいしい鱧を新鮮なうちに地元で食べていただこうと技術研修や勉強会を重ね、新メニューの開発などの活動を続けた。ブランド名を、防府天満宮にちなんで「天神鱧」として、防府の夏を彩る名物料理となった。加盟料理店が現在13店。防府におけるシーズンは、梅雨明けの6月頃から9月頃となっている。 また、防府道の駅「潮 [続きを読む]
  • 天神ハモ (2)−1
  •  「これがハモ!魚へんにユタカのあのハモか・・・」同窓会に招かれた漢文の老教師が「字は知ってても食ったことが無いんじゃ」と侮られる場面がある。「鱧」が引き金で物語が展開する小津安二郎監督の遺作映画『秋刀魚の味』。「秋刀魚」は出ないが映画の味である。昭和42年(1962)、「鱧」はどんな味がするのかと忘れられない魚になった。 ウナギ目ハモ科の海産魚、つまり細長い円筒形で普通は1m位。背は灰褐色で腹部は銀白色 [続きを読む]
  • 写真家「ナダール」(3)−1
  •  昨年(2016)10月、『写真家ナダール』という新刊書(小倉孝誠著、中央公論新社刊)が目に付いて購入し、あらためて知りえた感動もあってメモ的に記しておきたい。 ナダールという写真家の名前は知っていたが、それは画家ドラクロワ、ドーミエ、マネ、音楽家ロッシーニ、ベルリオーズ、小説家ビクトルユーゴ、ジョルジュ・サンド、詩人ボードレール、女優サラ・ベルナールなどの有名な肖像写真であり、ほかの写真が影を潜め、 [続きを読む]
  • 「神宿る島」が遂に世界遺産
  •  九州豪雨の被害が報道され下関でも避難勧告が出ている最中、世界の注目するG20の会議も。それでも、新聞の片隅に「ポーランドで7月7日から世界遺産の審査が始まった」と掲載されていた。審査予定は33件、日本から推薦されているのは、福岡県の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」であり、予定では18番目で日本時間では8日夕か9日未明の見通しとなっていた。審議は遅れ、決定したのは7月9日午後6時頃、テレビのニ [続きを読む]
  • 合歓(ネム)の花
  •  「もしかしたら合歓の花が咲いているかも知れない」と思って梅雨晴れ間、藤原義江記念館まで登ってみた。下関の中心部にあるのだが、見晴らしの良い高台までは110段の階段がある。そこの門に楽譜をかたどったアーチがあって楽しいが、記念館までは緩やかであってもさらに40段ばかりの上り坂である。年を取ると、これが億劫になる。 藤原義江、下関生まれであり「歌に生き恋に生きたオペラ歌手」である。記念館には藤原義江に関 [続きを読む]
  • 北前船おちこち(52)  −鰺ヶ沢−
  •  「東日流(つがる=津軽)十三湊の雄・安東水軍」というのを、何時か何処かで聞いたことがあった。 津軽平野の米は、岩木川が十三湖に流れ込んでいたため、一たん十三湊に集められここから鯵ヶ沢に回漕して大型船に積みかえられた。 こうして鰺ヶ沢湊は、藩都・弘前に近く西浜街道が通っていることもあって、寛文12年(1672)に回米を始めて大阪に積み出した。この頃の弁財船は敦賀で陸揚げされ、その後西回り航路が刷新があ [続きを読む]
  • 北前船おちこち(51) −深浦の千畳敷−
  •  深浦から能代道を北上して約20km、大戸瀬崎を東に向かって迂回する海岸線に「千畳敷」と云う日本の夕陽百選の景勝地がある。景勝地といわれなくても、一寸眺めてみたい場所だった。 寛政4年(1792)の地震で隆起した海岸段丘で、この日本海辺りは度重なる地殻変動で海岸線には沢山の千畳敷があるようで、この名前は、弘前藩(地元では津軽藩と呼ばれることが多い)の殿様が畳を千畳引かせて大宴会を開いたことが由来という。 [続きを読む]
  • 山口茶②-2
  •  中国原産のお茶の木が、日本に伝来したのは平安時代といわれる。そして、お茶を飲む風習は室町から安土桃山時代に、栄西禅師あるいは明恵上人らによって、栽培や製茶法、効用などが伝えられて寺院に広まり、やがて足利義満や豊臣秀吉、千利休らによって、日本文化独特の「茶の湯」が完成し、豪商らに浸透して武家社会には欠かせぬものとなった。 一方、庶民に飲料として煎茶が親しまれるのは江戸時代になってからである。ちな [続きを読む]
  • 山口茶②−1
  •  先日、山口合同ガス社報の表紙写真の取材で、宇部市の小野藤河内茶園を訪ねた。八十八夜を過ぎてから、天候不順で取材が延び延びになっていたが、茶園の方々もこの天候を待たれていたのか、広い茶園の3ヶ所に機械を入れて茶摘み作業をされていた。 ところで、今回の取材に当たっては、茶園の入場に関して会社から㈱山口茶業に依頼されていたので、最初にその会社を訪問した。そこで、出向かれていた中山取締役に会うまでお茶製 [続きを読む]
  • 連休の最中「角島」を体験
  •  こどもの日、福岡に居る娘夫婦が孫たちと一緒に下関までくるという。「まぁ、昼ごはんでも・・」のつもりだったが、食事が終わると「角島までどれくらいかかるかねぇ」と云うので「2時間ぐらいかなぁ」と返事をすると「スマホは1時間半と出た」と言い返す。「連休だし、道の駅あたりが混むんだよ・・」こんなやり取りの後、結局は角島に魅力があるらしく出かけることになった。 地元の人間にとっては、何もこんな連休のさなかにと [続きを読む]
  • 熊本震災一年 (5)−5
  •  戌亥櫓につながる西の丸北側の石垣と塀は全壊で、中央にある一本桜が、まるで炸裂した爆弾ように咲き誇っていた。やがて、その堀を渡るように右に曲がると北大手門跡。そこは、福島でみられる放射能汚染土壌を一時保管するような黒い樹脂袋の土嚢が石垣の膨らみを押さえるように3〜4段積み重ねられていた。 加藤神社入り口に、灯篭の破片が横倒しに並べられ、その向こうにはひときわ深い内堀があって、その堀から積みあがった [続きを読む]
  • 熊本震災一年 (5)−4
  •  さて今回の熊本城見学は、下関から九州自動車道・植木ICから3号線経由、約3時間で熊本城に到着したものの行幸坂は進入禁止、側に城彩苑駐車場があった。 場内見学のボランティア案内があると聞いていたので車の中から依頼したら「駐車場に到着してから電話を下さい」といわれ、到着して電話をすると「今は誰もいませんから」とつれない。 仕方なくショボ降る雨の中、気を取り戻して出発。桜馬場から二の丸への上り坂で振り返 [続きを読む]