純野一益(戦国) さん プロフィール

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純野一益(戦国)さん: いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ハンドル名純野一益(戦国) さん
ブログタイトルいいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/masunojun1
サイト紹介文「信長公記」と「源平盛衰記」の関連は?信長の忠臣『丹羽五郎左衛門長秀』の活躍は?細川藤孝の動きは?
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供365回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2008/08/23 17:03

純野一益(戦国) さんのブログ記事

  • 高野藤蔵(たかのとうざう)
  • 高野藤蔵(たかのとうざう)〔現代仮名遣い〕たかのとうぞう不詳。1574年年末〜1575年2月諸国の道路整備の奉行。※信長公のインフラ整備に重要な役割を持つ 人物なのに、情報少なすぎです。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 高野瀬(たかのせ)
  • 高野瀬(たかのせ)〔現代仮名遣い〕たかのせ美作守。六角氏の一族。滋賀県犬上郡豊郷村高野瀬の住人。1570年6月落窪の戦いで、柴田・佐久間軍に    討ち取られる。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 多賀常則(たがつねのり)[2/2]
  • 多賀常則(たがつねのり)[2/2]〔現代仮名遣い〕たがつねのり※下線部は信長公記以外の記事によります。1582年2月信長信濃出馬の条々書き出しの    中で、多賀常則は信濃への出陣を    命じられる。信長公記にはないが、1582年3月信長の信州入りに同行。1582年4月信長は大ヶ原→新府→古府と出向き、    古府の武田信玄館を織田信忠に普請    させ、滞在した。ここで惟住長秀・    堀秀政・多賀常則に暇を下し [続きを読む]
  • 多賀常則(たがつねのり)[1/2]
  • 多賀常則(たがつねのり)[1/2]〔現代仮名遣い〕たがつねのり新左衛門。もと浅井長政の将。のち信長の臣。1570年9〜12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、    信長方として穴太の在所を守備。1572年4月三好義継・松永久秀・松永久通が    畠山昭高に反発し、昭高の臣安見新    七郎の守る交野城に向けて取手を築    いたとき、信長軍として取手を攻撃。1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。1573年8月信長江北攻めで、退却 [続きを読む]
  • 鷹司信房(たかつかさのぶふさ)
  • 鷹司信房(たかつかさのぶふさ)〔現代仮名遣い〕たかつかさのぶふさ※下線部は信長公記以外の記事によります。鷹司少将殿。藤原氏北家摂関家流。関白二条晴良の子。関白忠冬の養子となる。1579年11月右少将。1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙で    近衛前久の次に輿で参る。1581年従三位権中納言。1582年権大納言。1583年従二位。1588年正二位。1589年従一位。1606年内大臣から左大臣、さらに関白・氏の長者に任じられ [続きを読む]
  • 高倉永孝(たかくらながたか)
  • 高倉永孝(たかくらながたか)〔現代仮名遣い〕たかくらながたか※下線部は信長公記以外の記事によります。永孝殿・藤宰相御方永孝・高倉右衛門佐殿・高倉藤右衛門佐殿。高倉永相の子。1562年従五位下。1574年右衛門佐。1575年3月信長上洛時、今川氏真を接待する    為の蹴鞠の会に父と共に参加。1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙    に同行。1581年2月京都での馬揃えに、公家衆として    参加。1586年従三位。 [続きを読む]
  • 高倉永相(たかくらながすけ)
  • 高倉永相(たかくらながすけ)〔現代仮名遣い〕たかくらながすけ※下線部は信長公記以外の記事によります。藤宰相殿・高倉藤中納言殿。大納言永家の子。この高倉氏は藤原氏北家流。1538年従五位下・侍従。1573年7月将軍義昭の指示で二条城に籠るも、    信長方に攻囲されただけで降参。1575年3月信長上洛時、今川氏真を接待する    為の蹴鞠の会に参加。1575年7月誠仁親王主催の蹴鞠の会に参加。1576年12月権中納言。1579 [続きを読む]
  • 道巴道叱(だうはだうしつ)
  • 道巴道叱(だうはだうしつ)〔現代仮名遣い〕どうはどうしつ不詳。堺北庄の人。1578年9月信長は堺で九鬼の大船を見た後、    紅屋宗陽・津田宗及・道巴道叱の    宅に立ち寄る。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 道家清十郎・道家助十郎(だうけせいじふらう・だうけすけじふらう)
  • 道家清十郎・道家助十郎(だうけせいじふらう・だうけすけじふらう)〔現代仮名遣い〕どうけせいじゅうろう・どうけすけじゅうろう尾張守山の住人。1565年3月頃武田信玄の美濃高野口進出に対    する防御戦に参加。頸三つをとり信長    に見せたところ、道家の白い旗指物に    「天下一の勇士なり」と自筆で書いて    下したという。1570年9月信長軍が野田・福島を攻撃中、浅井・    朝倉軍が坂本に進撃。宇佐 [続きを読む]
  • 大文寺屋宗観(だいもんじやそうくゎん)
  • 大文寺屋宗観(だいもんじやそうくゎん)〔現代仮名遣い〕だいもんじやそうかん京都の豪商。1569年4月二条御所新築前後の名物集めで、    信長に唐物の茶入れ「初花」を拠出。 ※天下三大肩衝(新田、初花、楢柴)  の一つです。現在は徳川記念財団蔵。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • たいとう(たいとう)
  • たいとう(たいとう)〔現代仮名遣い〕たいとう相撲取り。1570年2月常楽寺の相撲に出場。1578年2月安土信長の御前での相撲で、優れ    た相撲を取った23人のうちの一人。    信長から扇を下される。1578年8月信長主催の安土の大相撲で、三番    勝ち。優れた相撲をとったものに選    ばれ、のし付きの太刀・脇差・服かみ    しも・知行百石・私宅まで下される。1581年2月京都の馬揃えで、信長の大黒の馬    [続きを読む]
  • 太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)
  • 太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)〔現代仮名遣い〕たいげんすうふせっさい※信長公記には登場しませんが、桶狭間の 戦いの前の駿河において主要な人物です ので記事にします。※下線部は信長公記以外の記事によります。今川義元の師、同家の軍師・執権として活躍した臨済禅僧。庵原氏の出身。母は興津氏。富士郡善得寺の琴湊舜に梅岳承芳(のちの義元)とともに参ずる。その後建仁寺霊泉院の常庵竜崇について修行を重ね、 [続きを読む]
  • 信長から細川藤孝への手紙:11織田信長黒印状 天正二年九月廿四日
  • 【注意事項】1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書細川家文書中世編」を参照しています。2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳し間違いがあるかもしれません。3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が通じない可能性のある部分に純野が追記した文言です。4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合はなるべく原文のままとしました。11織田信長黒印状 天正二年九月廿四日<本文> この度(河内)萱振(城下)で(貴殿 [続きを読む]
  • 大覚和尚長老(だいがくをしゃうちゃうらう)
  • 大覚和尚長老(だいがくをしゃうちゃうらう)〔現代仮名遣い〕だいがくおしょうちょうろう不詳。1582年4月信長は佐々木六角義治をかくまって    いた咎により、甲斐の恵林寺を成敗。    織田九郎次郎・長谷川与次・関長安・    赤座永兼が奉行を務め、宝泉寺の雪岑    長老・東光寺の藍田長老・高山の長禅    寺の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・    快川長老らを含め百五十人余りを焼き    殺す。 [続きを読む]
  • 特急しおかぜの車内広告:高知県で“志国高知 幕末維新博”開催中!
  • 国内出張で広島→岡山→松山へと移動。岡山からは“特急しおかぜ”に乗りましたが、座席の背もたれのシールで、高知県の各所で“志国高知 幕末維新博”開催中!“土讃線のアンパンマン列車も宜しくね!”だそうです。やなせ先生の育った土地(生まれはなんと純野の現住所“滝野川”らしいです!)でもありますしね。アンパンマンファンの方も坂本龍馬ファンの方もよろしかったらどうぞ!↓ランキングに参加中。 応援よろし [続きを読む]