純野一益(戦国) さん プロフィール

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純野一益(戦国)さん: いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ハンドル名純野一益(戦国) さん
ブログタイトルいいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/masunojun1
サイト紹介文「信長公記」と「源平盛衰記」の関連は?信長の忠臣『丹羽五郎左衛門長秀』の活躍は?細川藤孝の動きは?
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供365回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2008/08/23 17:03

純野一益(戦国) さんのブログ記事

  • 沼野伝内(ぬまのでんない)
  • 沼野伝内(ぬまのでんない)〔現代仮名遣い〕ぬまのでんない不詳。1576年5月大坂攻めの戦後、住吉口海上方面の    警護をつとめる。1576年7月西国から大坂兵粮入れにきた能島・    来島・児玉・粟屋・乃美連合軍の大船    八百艘に対し、三百艘の連合艦隊を組    んだが、ほうろく・火矢で攻め立てら    れ討ち死に↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 沼野大隅守(ぬまのおほすみのかみ)
  • 沼野大隅守(ぬまのおほすみのかみ)〔現代仮名遣い〕ぬまのおおすみのかみ不詳。1576年7月西国から大坂兵粮入れにきた能島・    来島・児玉・粟屋・乃美連合軍の大船    八百艘に対し、三百艘の連合艦隊を組    んだが、ほうろく・火矢で攻め立てら    れる。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 沼野伊賀(ぬまのいが)
  • 沼野伊賀(ぬまのいが)〔現代仮名遣い〕ぬまのいが不詳。1576年7月西国から大坂兵粮入れにきた能島・    来島・児玉・粟屋・乃美連合軍の大船    八百艘に対し、三百艘の連合艦隊を組    んだが、ほうろく・火矢で攻め立てら    れ討ち死に。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 温井景隆(ぬくゐかげたか)
  • 温井景隆(ぬくゐかげたか)〔現代仮名遣い〕ぬくいかげたか※下線部は信長公記以外の記事によります。備前守。能登畠山氏の家臣。温井氏は能登鹿島郡温井の出身、能登の大族。1555年祖父紹春が畠山義綱に殺されたとき、加賀国に逃れた。1566年義綱が長続連らに追われて近江に走ると能登に帰参した。畠山義慶に仕え年寄衆。1577年上杉謙信の攻撃を受け、主家没落とともに降伏して謙信に仕える。謙信が没すると七尾城を占拠して織田 [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[12/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[12/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで※下線部は信長公記以外の記事によります。1582年5月信長は徳川家康一行に京都・大阪・    奈良・堺の見物を勧め、長谷川秀一    を同行させる。また織田信澄・惟住    長秀には大阪での接待を命じ、両人    は堺へ参着する。1582年6月本能寺の変が起きると、神戸信孝を奉じ、織田信澄を大坂城にせめて討ち取り、山崎の戦いでは秀吉とともに明智光秀 [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[11/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[11/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで1582年4月信州から安土へ帰陣途中の信長を、    佐和山に御茶屋を立て一献進上。1582年5月信長の上国要請により、徳川家康・    穴山信君が江州番場に入る。惟住長    秀が番場に仮殿をつくり、両名を接    待する。1582年5月織田信忠は安土へ向かう途中で徳川    家康・穴山信君のいる番場で休みを取    り、惟住長秀が一献進上する。1582年 [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[10/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[10/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで1581年9月北畠信雄の伊賀攻めに甲賀口先手とし    て参戦。信雄が御代河原に布陣したのに    続き着陣。惟住長秀・筒井順慶・蒲生賦    秀・多賀常則・佐々木京極高次・若州衆    は名張郡を受け持ち成敗する。1581年10月戦後の信長伊賀入りに合わせて、北畠    信雄・堀秀久・惟住長秀は接待用の御座所    をこしらえていた。1581年10月伊賀 [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[9/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[9/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで1581年4月長秀の元に仕えてきた溝口秀勝は、    病死した逸見昌経の本地分五千石と    役職一切を下され、また若狭(武田氏)    の目付を命じられた。1581年5月織田信澄・蜂屋頼隆・堀秀政・宮内    卿法印・惟住長秀らは、槇尾寺の良い家    を選び取った後、堂塔・伽藍・経巻全て    を焼き尽くした。1581年6月信長は寺崎盛永・喜六郎父子 [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[8/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[8/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで1579年9月信長から青山与右衛門を使いとして、    滝川一益・惟住長秀に馬が下される。1579年9月信長は伊丹方面へ出馬。昆陽野の滝    川一益と塚口の惟住長秀の所へ立ち寄る。1579年12月伊丹城の人質のうち首領のものの妻    子は京都で成敗ということになり、信長    は滝川一益・蜂屋頼隆・惟住長秀の三人    に張付に処すよう命じる。1580年2 [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[7/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[7/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで1578年11月信長が荒木成敗の為山崎に陣取ると、    芥川・糠塚・大田村・猟師川に布陣。太    田の北の山に要害造営を命じられる。太    田取手の造営が終わると、伊丹まで進出。    伊丹近辺に放火し城勢の働きを押え、刀    根山に布陣。その後見野の郷に布陣。1578年12月滝川一益・惟住長秀は、兵庫・一の谷    に放火した上で引き返し、伊 [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[6/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[6/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで1578年1月信忠が万見重元のところで行なった、    昨年末信長から譲られた茶道具のお披    露目に参加。1578年4月信忠の大坂進攻に参戦。麦苗を薙ぎ    捨て帰陣。1578年4月信長の指示により丹波荒木山城を攻    撃。敵は降参開城し、惟任光秀の軍勢    を入れて帰陣。1578年4月山中幸盛の籠る上月城を毛利軍が攻    囲すると、信長は「全軍で [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[5/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[5/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで※下線部は信長公記以外の記事によります。1576年4月安土城造営中、津田坊が運び上げよ    うとした名石「蛇石」は安土の麓から    上がらず、羽柴秀吉・滝川一益・惟住    長秀が一万人余りを用い引き上げた。1576年5月大坂方に攻囲された天王寺を救う為、    二段目をつとめる。1577年2月信長雑賀攻めに参戦し、雑賀へ向け    て浜手を進軍。157 [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[4/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[4/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで1575年4月信長父子の南方攻略戦に参戦。三好    康長の籠る高屋城周辺に放火、麦苗薙ぎ。1575年7月3日 誠仁親王が蹴鞠の会を主催。信長、    主上から天盃を授かり見物。同日主上か    ら昇官を勧められるが、信長は遠慮して    受けず。そのかわり、下記の人事を奏上    した。    *松井友閑→宮内卿法印    *武井夕庵→二位法印    [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[3/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[3/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで1573年4月信長・義昭の和議の後、鯰江の佐々    木六角義治攻撃の為付城を造営し百済    寺を焼く。1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。1573年8月信長江北攻めで、退却する朝倉を攻    める先手を命じられたのに、信長に遅    れをとってしまい、厳しく叱責される。    その後義景の母と嫡男阿君丸を殺害する。1573年9月北伊勢に出陣し西別所の一揆を [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[2/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[2/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで1570年9〜12月信長の叡山浅井・朝倉攻めの    様子を耳にし、11月佐和山百々屋敷を    軍勢で固めておき勢多まで駆けつける。    その勢多で鉄綱による舟橋をかける奉    行を務める。1571年2月佐和山城から磯野丹波守員昌が退却    したのに伴い、城代として入る。1571年9月志村攻めに参戦。1571年9月信長の指示により、河尻・丹羽は佐和     [続きを読む]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[1/12]
  • 丹羽長秀(にわながひで)[1/12]〔現代仮名遣い〕にわながひで※信長公の側近中の側近で、純野もブログの 題名に使っている丹羽五郎左衛門長秀殿の 登場です!12回に分けての投稿です。※下線部は信長公記以外の記事によります。五郎左衛門・惟住五郎左衛門。天文4年(1535)誕生。父長政の代から斯波家の家臣。長秀は天文19年(1550)頃から信長に仕える。信長公記では、名刀あざ丸の章から登場。1564年7月美濃佐藤紀伊 [続きを読む]
  • 丹羽小四郎(にわこしらう)
  • 丹羽小四郎(にわこしらう)〔現代仮名遣い〕にわこしろう不詳。1576年4月大坂攻めに参戦し木津攻めを行うも、    敵に攻囲され討ち死に。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 丹羽氏次(にわうじつぐ)[2/2]
  • 丹羽氏次(にわうじつぐ)[2/2]〔現代仮名遣い〕にわうじつぐ※下線部は信長公記以外の記事によります。1582年6月信長の死後信雄に仕える。その後信雄の勘気を受け、1583年徳川家康に仕える。1584年春信雄と秀吉が対立すると、家康の命で岩崎城を修築し、弟氏重に守らせ、自身は小牧に出陣し戦功をあげた。のち再び信雄に仕え、伊勢国に七千石を下される。1590年小田原の役では信雄に仕える。小田原の役後、信雄が家康旧領への転封 [続きを読む]
  • 丹羽氏次(にわうじつぐ)[1/2]
  • 丹羽氏次(にわうじつぐ)[1/2]〔現代仮名遣い〕にわうじつぐ勘介。氏勝の子。父氏勝についで信長に仕える。1582年2月木曾口で、木曾義昌・遠山久兵衛の    軍勢に、織田長益・織田・織田孫十郎・    稲葉貞通・梶原景久・塚本小大膳・水野    忠分・簗田彦四郎・丹羽氏次が合流する。    敵馬場昌房は深志の城に籠もり、鳥居峠    の信長方に対陣する。1582年3月織田信忠が高遠城を攻陥し上諏訪に進     [続きを読む]
  • 丹羽氏勝(にわうじかつ)
  • 丹羽氏勝(にわうじかつ)〔現代仮名遣い〕にわうじかつ※下線部は信長公記以外の記事によります。源六・右近。丹羽氏識の子。尾張岩崎城の将。父についで信長に仕える。1555年6月信長の弟喜六郎秀孝誤射殺事件の後、    守山城に籠る。1568年信長上洛の戦いで、観音寺城を攻撃。1569年8〜10月の伊勢攻略戦に参加。1570年8〜9月の野田・福島の合戦に参戦し「川    口」を守備。1570年6月姉川の戦いに参戦。1570年9〜12月の [続きを読む]
  • 庭田重保(にはたしげやす)[2/2]
  • 庭田重保(にはたしげやす)[2/2]〔現代仮名遣い〕にわたしげやす※下線部は信長公記以外の記事によります。1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・    矢木駿河守・平井越後を使いとして、    勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保    を同行させ、安土の信長にお礼を進上    に参上する。信長方は、宮内卿法印・    佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。一行    は織田信忠にお礼を述べたが、信長は   [続きを読む]