純野一益(戦国) さん プロフィール

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純野一益(戦国)さん: いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ハンドル名純野一益(戦国) さん
ブログタイトルいいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/masunojun1
サイト紹介文「信長公記」と「源平盛衰記」の関連は?信長の忠臣『丹羽五郎左衛門長秀』の活躍は?細川藤孝の動きは?
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供366回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2008/08/23 17:03

純野一益(戦国) さんのブログ記事

  • 天沢(てんたく)
  • 天沢(てんたく)〔現代仮名遣い〕てんたく尾張国味鋺(あちま)村天永寺の僧。天台宗。1556年ごろ武田晴信に信長の行儀を語るエピソードがある。現代文では「矢沢」となっているが・・↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 寺井源左衛門(てらゐげんざゑもん)
  • 寺井源左衛門(てらゐげんざゑもん)〔現代仮名遣い〕てらいげんざえもん※下線部は信長公記以外の記事によります。不詳。若狭守護武田氏の臣。小浜の谷小屋城に拠る。1570年若狭に進出した織田信長に仕え各地を転戦。1575年8月信長越前攻撃の時、信長方として海上    から攻め込む。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 寺田善右衛門(てらだぜんうゑもん)
  • 寺田善右衛門(てらだぜんうゑもん)〔現代仮名遣い〕てらだぜんえもん不詳。1577年12月信長が信忠に十一種の名物茶道具を    譲り渡す時、まず八点を寺田を使いとし    て渡し、翌日三点を宮内卿法印を使いと    して渡した。1581年7月信長は寺田善右衛門を使いとして、秘    蔵の駿馬「雲雀毛の馬」を信忠に送る。1582年6月二条新御所で織田信忠切腹の後、攻め    かかってきた明智光秀の軍と戦い討ち死に。 [続きを読む]
  • 寺沢又八(てらさわまたはち)
  • 寺沢又八(てらさわまたはち)〔現代仮名遣い〕てらさわまたはち織田家家老。名は不明。1547年9月信秀美濃攻めの時、退却時に道三方    から追い討ちをかけられ討ち死に。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 寺崎盛永(てらさきもりなが)
  • 寺崎盛永(てらさきもりなが)〔現代仮名遣い〕てらさきもりなが※下線部は信長公記以外の記事によります。民部左衛門。越中願海寺城に拠った土豪。1552年井田城主の飯田利忠と天神林で戦いこれを破る。1574年能登国内に侵攻。1581年6月信長は寺崎盛永・喜六郎父子を召    し寄せ子細を尋ねた後、佐和山の惟住    長秀のところに幽閉。1581年7月信長    の命により、惟住長秀の佐和山城で親    子ともども切腹。↓ [続きを読む]
  • 寺崎喜六郎(てらさききろくらう)
  • 寺崎喜六郎(てらさききろくらう)〔現代仮名遣い〕てらさききろくろう寺崎盛永の子。1581年6月信長は寺崎盛永・喜六郎父子を召し    寄せ子細を尋ねた後、佐和山の惟住長    秀のところに幽閉。1581年7月信長の命により、惟住長秀の佐和山    城で親子ともども切腹。 ※この人物とは直接関係ありませんが、  その後この佐和山城は“惟住長秀の  暗殺の場所”として恐れられていっ  たような気がします。↓ラン [続きを読む]
  • 鉄炮屋与四郎(てっぱうやよしらう)
  • 鉄炮屋与四郎(てっぱうやよしらう)〔現代仮名遣い〕てっぽうやよしろう1579年8月の時点で信長から折檻されて入籠    しており、私宅・資財・雑具を相撲    の伴正林に与えられる。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 貞安(ていあん)
  • 貞安(ていあん)〔現代仮名遣い〕ていあん※下線部は信長公記以外の記事によります。田中の長老貞安・聖誉貞安。後北条氏の一族。小田原の大蓮寺堯誉に学び、のち飯沼の弘教寺の見誉に師事。広く西国を教化し、近江にあったとき信長に招かれ、創建した田中の西光寺(人名事典では中村要光寺)に入った。1579年5月関東の長老霊誉が安土まで上り説    法していた所、法華衆の建部紹智・    大脇伝介が疑義をさしはさみ、浄 [続きを読む]
  • 角田新五(つのだしんご)
  • 角田新五(つのだしんご)〔現代仮名遣い〕つのだしんご守山の孫十郎信次の老臣。1555年6月信長の弟喜六郎秀孝誤射殺事件の後、    守山城に籠る。1556年8月の名塚取手の戦いで、信長方の松浦    亀介に討ち取られる。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 筒井順慶(つつゐじゅんけい)[2/2]
  • 筒井順慶(つつゐじゅんけい)[2/2]〔現代仮名遣い〕つついじゅんけい※下線部は信長公記以外の記事によります。1578年12月羽柴の軍勢を道場河原・三本松の    二箇所にいれた後、佐久間信盛・惟任    光秀・筒井順慶は三木城に向けた取手    に兵粮・鉄炮・玉薬を入れ普請を命じ    帰陣する。1579年4月播州攻めに出陣。1581年9月北畠信雄の伊賀攻めに大和口先手と    して参戦。惟住長秀・筒井順慶・蒲生  [続きを読む]
  • 筒井順慶(つつゐじゅんけい)[1/2]
  • 筒井順慶(つつゐじゅんけい)[1/2]〔現代仮名遣い〕つついじゅんけい※下線部は信長公記以外の記事によります。筒井氏は興福寺衆徒から一乗院門跡の坊人となり、室町時代には官符衆徒として衆徒の棟梁に成長。大和守護興福寺の権力基盤となる。1550年父の死によって家督を継ぐ。1560年松永久秀から筒井城を追われる。1566年9月興福寺成身院宗慶について得度、名を陽舜房順慶と改めた。1576年5月明智光秀に助けられ信長から大和を [続きを読む]
  • 津々木蔵人(つつきくらんど)
  • 津々木蔵人(つつきくらんど)〔現代仮名遣い〕つつきくらんど名は不明。末盛の勘十郎信行の若衆。1555年6月信長の弟喜六郎秀孝誤射殺事件の後、    柴田権六と共に木が崎口を守る。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 土屋昌恒(つちやまさつね)
  • 土屋昌恒(つちやまさつね)〔現代仮名遣い〕つちやまさつね右衛門尉。武田勝頼の若衆。1582年3月田子の館の軍で、弓を散々に射散    らし、勝頼の追い腹を切って討ち死に。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 土屋昌次(つちやまさつぐ)
  • 土屋昌次(つちやまさつぐ)〔現代仮名遣い〕つちやまさつぐ※下線部は信長公記外の記事によります。宗蔵。ただし人名事典では「宗三」は昌恒の名となっている。武田勝頼の臣。1571年信玄三河加茂郡の遠征に従軍。1572年身方が原の戦いに従軍。1575年5月長篠の合戦に参戦し、退却時に討    ち取られる。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 土橋守重(つちばしもりしげ)
  • 土橋守重(つちばしもりしげ)〔現代仮名遣い〕つちばしもりしげ※下線部は信長公記以外の記事によります。平次。雑賀衆。1573年将軍足利義昭が河内若江から日高へ行くのを迎える。織田信長の石山本願寺攻撃には顕如に従って子息四人を率いて出陣。1577年3月信長軍に攻められた雑賀衆は、    土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・    松田源三大夫・宮本兵大夫・嶋本左衛    門大夫・栗村二郎大夫七人の連署で、    [続きを読む]
  • 土橋の子(つちばしのこ)
  • 土橋の子(つちばしのこ)〔現代仮名遣い〕つちばしのこ不詳。1581年土橋守重は鈴木重秀の継父を殺害。1582年1月遺恨に思った鈴木重秀は、上意を    得たうえで土橋を殺害し土橋の構えを    襲撃。信長が織田信張を大将として根    来・和泉の衆を応援に送ったところ土    橋の子と根来寺の千職坊の兄弟が構え    に立て籠もる。↓ランキングに参加中。 応援よろしくお願いします!にほんブログ村 [続きを読む]
  • 土田御前(つちだごぜん)
  • 土田御前(つちだごぜん)〔現代仮名遣い〕つちだごぜん※下線部は信長公記以外の記事によります。お袋様。土田政久の女。信長の実母。1556年8月信長の舎弟信行が信長の御台所入    (篠木三郷)の押領から、信長に敵対。    この後の名塚取手の軍の後、那古野・    末盛にこもるもお袋様が村井貞勝・島田    秀頼を末盛に呼び寄せ信長に赦免を請う。    信行・勝家・津々木蔵人が墨の衣となり    お袋様 [続きを読む]