重家 さん プロフィール

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重家さん: 叛骨の焔
ハンドル名重家 さん
ブログタイトル叛骨の焔
ブログURLhttp://hannkotu.blog.shinobi.jp/
サイト紹介文このブログでは主に戦国時代・第二次大戦での出来事を書き綴っています。
自由文真面目な記事を書いたり、ふざけた記事を書いたりと両極端です。ただ、真面目な歴史を書く場合には、可能な限り、史実に沿って書いていきます。量より質を重視して、ゆっくり熟成させていこうと思います。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供17回 / 365日(平均0.3回/週) - 参加 2008/12/23 18:10

重家 さんのブログ記事

  • 波賀城
  • 波賀城は、兵庫県宍粟市にある山城である。伝承によれば、その昔、波賀七朗なる武士がこの地に城を築いたのが最初とされる。13世紀中頃には、鎌倉幕府御家人の中村氏がこの地に入り、戦国時代末期に至るまで治めていた。その後、天正8年(1580年)、羽柴秀吉による播磨攻めの際に落城したと思われる。波賀城の歴史は不確かで、廃城の時期も定かではない。 ↑二層櫓木造建築で、ちょっとした資料館となっています。 [続きを読む]
  • 佐用城(福原城)
  • 佐用城は、兵庫県佐用郡にある平山城である。南北朝時代の建武年間(1334〜1338年)、播磨赤松氏の一族、佐用範家が築いたのが、佐用城の始まりとされる。その後、同じ赤松氏の一族、福原氏が城主となったため、福原城とも称された。戦国時代、福原氏最後の当主となったのが、福原則尚(ふくはら のりなお)である。佐用城は、近隣にある上月城と共に赤松氏の城郭群を担っていたが、織田信長の勢力が播磨にまで伸びてくる [続きを読む]
  • 苗木城
  • 苗木城は、岐阜県中津市にある山城である。一般的には知名度に欠けるが、見応えのある石垣と、麓を流れる木曽川に、背景の恵那山が相まって、風光明媚な姿を醸し出している。築城年代ははっきりせず、美濃国東部に勢力を張る遠山氏によって、天文年間(1532〜1555年)に築かれたと見られる。遠山氏は、源頼朝の重臣であった遠山景廉(とおやま かげかど)を祖として、代々、東美濃を統治していた。本家は岩村城を居城とし [続きを読む]
  • 「カザンからホーフガイスマーまで」3千キロの逃避行
  • 第二次大戦末期、1945年3月6日、ドイツの都市ホーフガイスマーに住む、ヘートヴィッヒ・ビーラー夫人は、一通の封筒を受け取った。そこには、「夫君、第57擲弾兵連隊第2大隊主計へルマン・ビーラーの行方に関する調査は終了したが、徹底的な解明は出来なかった。ご主人はルーマニアのサラータ近郊の戦闘以来、つまり1944年8月22日以来、行方不明である。確たる情報をお知らせできず、残念至極であるが、ご主人がま [続きを読む]
  • 独ソ戦の捕虜、苛烈なる運命
  • ●ソ連兵捕虜の運命 ドイツはアメリカ、イギリスなどの西側国家の捕虜は比較的、人道的に扱ったが、ソ連兵捕虜に対しては何の配慮も示さず、ろくに食料も与えなかった。ドイツは、ソ連兵を下等人種と見なして、残忍極まる態度で接した。ドイツの食料優先順位は、まずはドイツ軍、次に本国のドイツ国民、その次が占領地の民間人、最下位がソ連兵捕虜であった。その食料は、ドイツ占領下のソ連領から強制的に取り上げられた。戦場で [続きを読む]
  • 空母「蒼龍」艦長、柳本柳作 後
  • 昭和17年(1942年)6月4日(日本時間6月5日)、空母蒼龍と艦長柳本は、運命のミッドウェー海戦を迎える。この日、赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻の空母を主力とする、日本の大艦隊が太平洋の小島ミッドウェーに殺到した。作戦を開始するに当たって、連合艦隊司令長官、山本五十六大将は、「ミッドウェー攻撃の間、母艦艦載機の半数は、敵艦隊の出現に備えて艦上待機を行う」と作戦計画に明記させていた。機動部隊(空母を [続きを読む]
  • 空母「蒼龍」艦長、柳本柳作 前
  • 昭和17年(1942年)6月4日、この日、日本海軍は、ミッドウェー海戦に望んで、痛恨の大敗北を喫した。海上には、赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻の空母が炎上して漂っていた。中でも蒼龍の被害は深刻で、早々に、総員退去が命じられていた。炎と煙が渦巻く中、艦長は盛んに、「飛び込め!飛び込め!」と叱咤の声を上げていた。それを受けて、乗員達は次々に海に飛び込んでいく。乗員達は泳ぎながら、艦橋の方を仰ぎ見た。艦長 [続きを読む]
  • 備中松山城
  • 備中松山城は、岡山県高梁市にある山城である。この城は、戦国時代、中国地方の覇者、毛利氏と、備中の戦国大名、三村氏との間で繰り広げられた戦い、備中兵乱の舞台となった事で知られている。延応2年(1240年)、備中有漢郷(高梁市有漢町)の地頭に任じられた、秋庭三郎重信によって築かれたのが、この城の始まりとされる。城は、標高430メートルの臥牛山山頂に築かれ、時代が下るにつれ、改修、強化されていった。戦国 [続きを読む]
  • 鬼ノ城
  • 鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市にある古代山城である。鬼ノ城の築城年代は、はっきりしていないが、出土した遺物のほとんどが7世紀後半から8世紀初頭の物である事から、7世紀後半に築城されたと見られる。この城は、当時の国際関係の緊張を受けて築城された、国家的事業による城郭である。西暦660年、朝鮮半島南西部にあった国家、百済が唐・新羅連合軍の攻撃を受けて滅亡する。百済の遺臣達は、その後も抵抗して復興 [続きを読む]
  • 木村重成の覚悟
  • 木村重成は、大阪の陣で活躍した、豊臣方の勇将として知られている。生年は不明で、両親もはっきりしておらず、父は、豊臣秀吉の家臣、木村重茲、母は、豊臣秀頼の乳母、宮内卿局(くないきょうのつぼね)であったと云う。秀頼とは乳兄弟の関係であった事から、篤い信頼を受け、若くして側近として重きを成した。慶長16年(1611年)3月、豊臣秀頼と徳川家康が二条城にて会見した際には、替えの脇差持を勤めた。 慶長19年 [続きを読む]
  • 木村重成の覚悟
  • 木村重成は、大阪の陣で活躍した、豊臣方の勇将として知られている。生年は不明で、両親もはっきりしておらず、父は、豊臣秀吉の家臣、木村重茲、母は、豊臣秀頼の乳母、宮内卿局(くないきょうのつぼね)であったと云う。秀頼とは乳兄弟の関係であった事から、篤い信頼を受け、若くして側近として重きを成した。慶長16年(1611年)3月、豊臣秀頼と徳川家康が二条城にて会見した際には、替えの脇差持を勤めた。 慶長19年 [続きを読む]
  • 「殺すか、殺されるか」 ドイツ軍狙撃兵が見た、独ソの最前線 後
  • ●東部戦線の負傷兵 負傷兵は、治療と移送に多くの人手を要し、乏しい薬品や食料も消費するので、兵站に負担を与える存在だった。そのため、衛生兵は、助かる見込みの無い患者を冷徹に選別する。「痛い!助けてくれ!」と叫ぶ瀕死の重傷者に対し、衛生兵は傷を見て手に負えないと判断すると、「こいつはもう助からん」とさじを投げ、ここからは神の仕事と、従軍牧師の祈りの手に委ねた。死に行く者は、運が良ければモルヒネ注射を [続きを読む]
  • 「殺すか、殺されるか」 ドイツ軍狙撃兵が見た、独ソの最前線  前
  • ドイツ軍狙撃兵、ヨーゼフ・アラーベルガーの凄絶な体験談。愛称はゼップ。1924年12月24日、オーストリアのザルツブルクに生まれる。1943年、ドイツ国防軍に入隊し、6ヶ月の訓練を受けた後、東部戦線に運ばれ、第3山岳師団の軽機関銃手となった。1943年7月18日、初めて戦場に立ち、そこから無我夢中で戦ったが、すぐに軽機関銃手が決死隊に近い存在であると悟った。そして、自らも7月22日に軽傷を負う。軽 [続きを読む]
  • 秦始皇帝陵
  • 紀元前210年7月21日(おそらくは8月21日)、中国史上初の皇帝、秦始皇帝は巡行中、病を得て急死した。嬴 政(えい せい)、49歳。始皇帝の死は秘され、その棺は車馬に載せられて、首都、咸陽へと運ばれていった。しかし、暑い時期であったため、車馬からは悪臭が漂い始めた。それを紛らわすため、塩漬けの魚が積みこまれた。行列が咸陽に着くと、喪が発せられ、公子の嬴 胡亥(えい こがい)が二世皇帝に即位した。同年 [続きを読む]
  • 彦根城、再訪
  • 彦根城は、滋賀県彦根市にある平山城です。10年程前に一度訪れているので、再訪となります。 慶長5年(1600年)9月、徳川第一の功臣、井伊直政は関ヶ原合戦の功をもって、旧石田三成領18万石と佐和山城を拝領する。直政は、新城を築く事を計画していたが、実行に移す前に関ヶ原の負傷が元で、慶長7年(1602年)に死去した。嫡男の直継が跡を継ぎ、慶長9年(1604年)7月より、彦根山を中心に築城が始まった。 [続きを読む]
  • 八上城
  • 八上城は、兵庫県篠山市にある山城で、黒井城、八木城と並んで、丹波の三大山城と称されています。八上城 posted by (C)重家 ↑麓にある春日神社鳥居をくぐった先に、車が1、2台停めれるスペースがあります。この神社から登り始めます。八上城 posted by (C)重家 ↑主膳屋敷跡歴代の当主が住まっていた所です。八上城 posted by (C)重家 ↑二の丸跡この先にある土塁が、本丸跡です。八上城 posted by (C)重家 ↑ [続きを読む]
  • 八上城の攻防
  • 八上城は、兵庫県篠山市にある山城である。城を築いたのは、丹波国(兵庫県、京都府、大阪府に跨る地域)の戦国武将、波多野氏で、戦国時代後半、城主の波多野秀治と織田家の部将、明智光秀との間で、熾烈な攻防戦が繰り広げられた城として知られている。波多野氏の始まりは、応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)の応仁の乱にて、石見国出身の波多野清秀(1443?〜1504年)が東軍の総大将、細川勝元に属して活 [続きを読む]
  • 秘書が見たヒトラー 終
  • 4月28日の深夜、ライチュとグライムが飛行の支度をしていた。そして、ヒトラーと長い会話をしてから、地下壕を去って行った。ユンゲが執務室に入ると、そこには皿やグラスが並べられて祝いの席が設けられていた。ユンゲには、何の席かまだ分からなかったが、ここでヒトラーとエヴァの結婚披露宴が行われるのだった。そして、ヒトラーから口述筆記してもらいたいと言い渡され、隣の会議室に移動した。タイプライターの席に座ると [続きを読む]
  • 秘書が見たヒトラー 3
  • ソ連軍は恐ろしい勢いで、東から迫っていた。彼らが占拠した村からは、略奪、強姦、虐殺といった、身の毛もよだつ報告が上がってくる。ヒトラーは、「奴らは人間じゃない。アジアの平原から来た野獣だ」と罵ったものの、ドイツ軍は追い込まれる一方であった。そして、1944年11月初旬、ソ連軍が目前まで迫ってきたため、ヒトラーは東プロイセンの狼の巣を引き払わねば、ならなかった。そして、ベルリン行きの特別列車に乗り込 [続きを読む]
  • 秘書が見たヒトラー 2
  • その内、ヒトラーは再び、東プロイセンの狼の巣に本営を移した。ヒトラーは1日1回は、エヴァに電話を入れるようにしていた。ヒトラーがエヴァに夢中になった第一の理由は、彼女の人間的な長所との事であった。ある時、ヒトラーと夫婦や結婚に関しての会話がなされると、ユンゲは、「何故、結婚をなさらなかったのですか?」と尋ねてみた。すると、ヒトラーは、「私は良き家庭の父親にはなれないだろうし、充分に妻に尽くす時間も [続きを読む]
  • 秘書が見たヒトラー 1
  • 1942年11月末、ドイツの総統ヒトラーは、秘書を1人募集した。当時、ヒトラーには3人の女性秘書が付いていたが、その1人が辞めたためであった。これを受けて、ベルリンの総統官邸で働いていた女性事務員、トラウデル・ユンゲ、当時22歳が応募した。ユンゲは1920年にミュンヘンで生まれ、十代の頃からダンサーになるのが夢であったが、家の経済事情もあって、地元の会社で事務員として働き出した。1941年、ダンサ [続きを読む]
  • 毛利隆元の苦悩
  • 大永3年(1523年)、毛利隆元は、毛利元就の長男として生まれる。天文15年(1546年)、隆元24歳の時、50歳の元就より家督を譲られて、当主となった。この家督継承に当たって、元就は今後の心得を細々(こまごま)と書き記した書状を幾つか、渡した。「書状九通、それに内に入れた書状一通、合計で十通であろうか。いずれも暇な時、手隙の時によくよく御覧になり、元就が申す事であっても、間違っているとお思いの事 [続きを読む]
  • 金沢城
  • 金沢城は、石川県金沢市にある平山城である。天文15年(1546年)、加賀国を支配していた一向一揆は、統治拠点を設けるべく、犀川と浅野川に挟まれた台地上に、城郭風の寺院、尾山御坊(金沢御堂)を築いた。以降、尾山御坊は本願寺の北陸における一大拠点として用いられ、ここを発した一向一揆軍は、有力戦国大名の朝倉義景や上杉謙信とも戦った。しかし、畿内の覇者、織田信長の攻勢には抗しかね、天正8年(1580年)、 [続きを読む]
  • 但馬八木城
  • 八木城は、兵庫県養父市にある山城である。八木城の始まりは定かではなく、建久5年(1194年)〜正治2年(1200年)頃、但馬国養父郡朝倉を本拠とする、朝倉高清が築いたのが最初とされている。高清は、次男、重清を城主として、同時に八木姓を名乗らせた。尚、この但馬朝倉氏からは更に一派が分かれて、後に越前朝倉氏を築く事になる。南北朝時代、八木氏は、当時、山陰に勢威を振るった山名氏に従って、山名四天王の1人 [続きを読む]
  • ハンナ・ライチュが見た、ベルリンの最後 終
  • ここから日にちを、4月29日に戻す。グライムとライチュは、ベルリンを飛び立ってから50分ほどして、レヒリンに到着した。だが、そこもソ連軍機の攻撃を受けており、着陸はそれを掻い潜ってのものとなった。到着すると、グライムはすぐさま、ヒトラーの第一の命令を果たすべく、現存する航空機の全てを、ベルリン救援のために向かわせた。これらの航空機はベルリンの包囲網内に補給物資を投下し、現地のドイツ軍はパンツァーフ [続きを読む]