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  • 平成日本紀行(229) 糸魚川 「姫川」

    .平成日本紀行(229)糸魚川「姫川」.白馬連峰を望む姫川と大糸線(提供http://tetsurohyakkei.web5.jp/tetsurohyakkei.gallery03top.htmlさん)「姫川」は、フォッサマグナの西縁、いわゆる糸魚川・静岡構造線に沿って白馬村から糸魚川市まで流れている。地球規模からいうと、北アメリカプレートがユーラシアプレート(主にアジア・ヨーロッパ大陸の殆どをで、全陸地面積の37%を占めるという)とぶつかり合い、地下深くに潜り込むというの活動が、この姫川流域で地表面や地表近くに出現していると考えられている。姫川は、まさに日本列島を東西に分割する大断層に沿って流れる川なのである。その姫川流域は、北陸の海岸や富山県の翡翠海岸など国内でも有数の翡翠(ひすい)の産地で知られる。糸魚川...平成日本紀行(229)糸魚川「姫川」

  • 平成日本紀行(229) 糸魚川 「天津神と出雲神」

    .平成日本紀行(229)糸魚川「天津神と出雲神」.天津神社の「けんか祭り」天津神社と奴奈川神社のことであるが、奴奈川姫に言わせれば、憎き相手の大国主であるが、所詮は夫婦の契りを交わし、愛児お一子をもうけているのである。その為もあって奴奈川神社では初め主祭神の奴奈川姫だけであったが、後に夫君の大国主を相神として祭っているのである。つまり、奴奈川姫の支配する「越の国」は、この後は出雲が統治する国の領域になる。一般に、古事記に描かれる日本神話では、日本国土は大きく高天原系(天津神・大和系)と出雲系(国津神・地主神)に分かれていた。しかし、元々は天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものであった。だが、両者を比べると、その性格はかなり違っていた。国譲りの伝説についても出雲...平成日本紀行(229)糸魚川「天津神と出雲神」

  • 平成日本紀行(229) 糸魚川 「奴奈川姫と翡翠」

    .平成日本紀行(229)糸魚川「奴奈川姫と翡翠」.奴奈川神社と天津神社の各本殿親不知ピアパークを横に見ながら、青海から姫川を渡り「糸魚川」に着いた。思えば昨年秋、日本周遊の旅へ出発した折、先ず、東日本を巡る旅程でここ糸魚川より日本海を北上して行ったものである。そして遂に今日この日、西日本周遊を終えて同じ地に立ち、日本一周を完遂したのである。先ずは、自分自身に「オメデトウ」といってやりたい。ここからは内陸・松本へ通じる、所謂、往時の「塩の道」と言われた千国街道(糸魚川から言うと松本街道、松本から言うと糸魚川街道)のR148を行くことになる。姫川の流れが「お帰りなさい・・」と言ってくれている様である。大儀・・!!、大儀・・!!。前回、東日本周遊の際は、この姫川の糸魚川を経て日本海沿いを北上していったのであるが、その...平成日本紀行(229)糸魚川「奴奈川姫と翡翠」

  • 平成日本紀行(228) 親不知 「親不知・子不知」

    .平成日本紀行(228)親不知「親不知・子不知」.写真:国道沿いに建つ「親不知親子の像」写真:旧国道(親不知の見所)建設当時岩壁に彫られた文字「如砥如矢」写真:現在の親不知の景観市振から天険トンネルを抜けると国道沿いにひっそりとした、その名も「天険」というドライブインがあった。営業しているのか、いないのか全く明らかでない休憩所であるが、一角に「親子が肩に荷物を背負って旅路を行く像」が立っている。そう、ここは天下の険「親不知子不知」の中枢の地である。無断で車を置かせてもらい、海側の細い道を辿ると旧道と思しき草生した道へ出た。一組のご夫婦らしい人がせっせと縁柵の補修をしているようで、ノンビリしたもので訪れた客らしい者は小生のみであった。珍しそうに、取り留めない話の後、「昔は、ここは絶壁に草ぐらいしか生えておらんで、...平成日本紀行(228)親不知「親不知・子不知」

  • 平成日本紀行(227) 越中境 「市振の関」

    .平成日本紀行(227)越中境「市振の関」.市振の関(2枚)国道8号線を東進するに従って、屏風のような山塊が迫ってくる。後立山連峰・白馬岳の支脈が北方へ延びて日本海に落ちているのである。そのため各交通路である国道、高速道、北陸本線等は海側の縁へ追いやられ、狭い区域を接近しながら通っている。海の端に「越中境」という地域があり、往時は加賀藩最大の関所があった処である。越後に通じる親不知の難所を控え、交通の要所を押さえるように国境に設置されたもので、以前、戦国期の抗争には上杉や椎名、佐々等の名だたる武将たちが国境の攻防に凌ぎを削る合戦の拠点ともなった場所である。やがて江戸時代は前田・加賀藩の統治下になり、親不知を控えた越中の東縁(ひがしへり)という地理的条件から越中の境に関所が設けられ、街道筋の「泊」は交通の要衝とな...平成日本紀行(227)越中境「市振の関」

  • 平成日本紀行(226) 黒部 「黒部峡谷」

    .平成日本紀行(226)黒部「黒部峡谷」.宇奈月温泉駅とトロッコ列車黒部峡谷の「後曳橋」を渡るトロッコ列車黒部に来た。こちらも立山黒部アルペンルート(越中富山~信濃大町)に負けないくらいの山岳観光のメッカである。特に黒部峡谷は秋の紅葉の絶好のポイントである。富山地方鉄道が富山から、ここ黒部を経由して峡谷の玄関口「宇奈月」まで入る。宇奈月は、黒部川の渓谷沿いに広がる旅館や保養所が立ち並び、黒部峡谷と鉄道のトロッコ観光の拠点でもある。因みに、富山地方鉄道駅は「宇奈月温泉駅」であり、駅前には60度の源泉噴水が設えてある。こちらトロッコ鉄道(黒部峡谷鉄道)の駅は「宇奈月駅」という名称で、別々に二箇所あり、どちらかといえば宇奈月駅の方が大きく賑やかである。宇奈月は富山でも有数の温泉場であるのは周知だが、源泉はすべて黒部川...平成日本紀行(226)黒部「黒部峡谷」

  • 平成日本紀行(225) 魚津 「蜃気楼」

    .平成日本紀行(225)魚津「蜃気楼」.特色ある海底地形によって“魚色”の多い富山湾で、それを表すような代表的な地名が「魚津」であろう。その名が示すとおり古来より魚の多種多量の産地ということで、聞き伝えで大勢の人が移ってきて次第に家数も増え、町並みができたと言われる。魚津の名、そのものはさほど古いものではなく、小戸・小津と呼ばれていたのを、室町期頃、魚津に改称したと文献にも残るという。魚津が、世界に誇る三大奇観として「蜃気楼」、「埋没林」、「ホタルイカ」がある。先ず、蜃気楼について・・、蜃気楼は、砂漠や隣国の風景が海の上に浮かんで見えるなどの現象であるが、なんと言っても「富山の蜃気楼」は有名で、テレビや新聞の報道等で知られる。蜃気楼は光の“いたずら現象”であることは多少なりとも承知しているが、しかし、実際には、...平成日本紀行(225)魚津「蜃気楼」

  • 平成日本紀行(224) 富山 「富山湾」

    .平成日本紀行(224)富山「富山湾」.再び、国道8号線へ出て東へ向かう・・、それにしても神通川を横に見ながらであるが、富山平野は大小の河川が多く、それらの河川には、いずれも豊富な水量が流れている。思えば、今日が本旅行の概ねの最終日であろう(長野白馬まで)、西日本を巡る大略1ヶ月の行程であったが幸いというか殆ど好天に恵まれていて、それだけ雨の日が少なかったと言える。山陰地方もそうであったが、特に記憶に残るのが四国地方、とりわけ瀬戸内海に面した地域の各河川は大小いずれも殆ど流水が無くカラカラ状態であった。それに比べると、この「富山地方」はナント水の多い地域であろうか。尤も、今頃は3千米級のアルプスの融雪時期でもあり、水が豊富なのは当たり前なのだが・・!。先にも記したが、飛騨西部の白山山系を水源とする庄川、小矢部川...平成日本紀行(224)富山「富山湾」

  • 平成日本紀行(224) 富山 「越中守・佐々成政」

    .平成日本紀行(224)富山「越中守・佐々成政」.越中・富山城富山駅の南、国道41号線(飛騨街道)沿いに「富山城址」がある。南大手門より本丸南側の堀と石垣を水に映して天守閣が聳え、城内を行くと白壁の新装したであろう城郭が美景である。ただ、天守閣・望楼が工事中なのが、やや残念であった。本来は、五層の大天守閣であったが、現在のものは三層の模擬天守として建てられていて、天守内部は郷土博物館になっているという。慶長5年の関ヶ原の戦功により金沢城主・前田利長(藩祖・利家嫡男)は、加賀・能登・越中の三ヶ国120万石を得た。寛永16年、三代・前田利常は次男利次に富山10万石を与えて分家させ、廃城と化していた富山城を修復し、寛文元年に入城して富山藩が成立している。その利次の次男が二代藩主・前田正甫である。正甫自身、病弱だったこ...平成日本紀行(224)富山「越中守・佐々成政」

  • 平成日本紀行(224) 富山 「越中・富山」

    .平成日本紀行(224)富山「越中・富山」.富山駅前の「薬売り像」国道8号線から神通川に架かる大橋を渡り、富山市内を目指した。ノーベル賞の田中耕一氏も富山市出身であり、質素倹約の富山県人のことは先に記したが、県人一般に言えることは勤勉で粘りつよく、合理性を追求する気質が伝統的に生まれ、真面目で向上心も強く、じわじわと立身出世する人が多いという。更に、金銭感覚に優れているため、今でも財界人や実業家として活躍する人が多いという。中でも富山といえば伝統的に「越中富山の薬売り」が知られている。拙宅にも一時置いたことがあり、会社の職場でも預託の薬を利用していたのを覚えている。家々を回り、一軒ごとに薬箱を置いていき、半年・1年後に使用した分だけ清算するという商法である。ひたすら歩き回り、労力、根気の要る仕事だが、固定客を押...平成日本紀行(224)富山「越中・富山」

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