坂の上のヒゲおやじ さん プロフィール

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坂の上のヒゲおやじさん: 坂の上のサインボード
ハンドル名坂の上のヒゲおやじ さん
ブログタイトル坂の上のサインボード
ブログURLhttp://signboard.exblog.jp/
サイト紹介文歴史、大河ドラマ、時事ネタ、野球ネタなどいろいろ。コメント歓迎です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供236回 / 365日(平均4.5回/週) - 参加 2009/02/08 18:58

坂の上のヒゲおやじ さんのブログ記事

  • 坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その3
  • 今回は、紀州藩士報復説について考えます。坂本龍馬が暗殺される約半年前の慶応3年(1867年)4月23日、龍馬率いる海援隊の汽船・いろは丸と、紀州藩の大型汽船・明光丸が瀬戸内海讃岐沖で衝突する事件が発生しますが(いろは丸事件)、このとき龍馬は紀州藩との談判で一歩も引かず、金塊や武器弾薬などの積荷分、8万3,526両198文の損害賠償を要求し(江戸時代後期の1両は現在の価値に換算すると3万円から... [続きを読む]
  • 坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その2
  • 前稿の続きです。次に、こちらも歴史ファンから根強く支持されているのが、薩摩藩黒幕説です。坂本龍馬と親交の深かった薩摩藩ですが、慶応3年(1867年)に入ると、その関係は微妙になってきます。龍馬の推し進める「大政奉還」に表面では賛同しながらも、実際には武力倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩にとっては、平和改革路線を主張する龍馬は次第に目障りな存在になりつつあり、革命成就後の薩摩閥の地位確保のた... [続きを読む]
  • 坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その1
  • 坂本龍馬の150回目の命日を迎えた昨日の稿で、襲撃当日の記録を追いましたが、本稿では、その暗殺犯について改めて考えてみたいと思います。当ブログでは7年前にも同じネタを起稿していますが(参照)、あれからわたしも色々と見聞きし、少し考えが変わっています。まあ、もとより確信を得た説などないんですけどね。実行犯については、今では通説となっている京都見廻組の面々(佐々木只三郎を頭に、今井信郎、渡辺... [続きを読む]
  • 坂本龍馬 没後150年の命日に思う。
  • 坂本龍馬が暗殺されたのは、慶応3年11月15日(1867年12月10日)。つまり、今日が150回目の命日にあたります。約1年前になりますが、京都国立博物館で行われていた「特別展覧会 没後150年 坂本龍馬」に行ってきました。その後、今年に入って、長崎、東京、静岡で同じ展覧会が行われていたそうですね。残念ながら展示品は撮影禁止のため紹介できませんが、130通余り残されている龍馬直筆の手紙や、愛... [続きを読む]
  • 大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その3 〜内堀〜
  • 二条城二ノ丸庭園の西側には、内堀に囲われた本丸があります。その本丸に登る前に、内堀沿いを歩いてみました。 二ノ丸と本丸の間を通る内堀沿いの南北に、鳴子門と桃山門という仕切門が対になっています。上の写真は南を守っていた桃山門。 そして上の写真は北を守っていた鳴子門です。ここから北回りに内堀を1周します。 こちらが鳴子門。寛永3年(1626年)頃の建築と言われ、国の重要文化財に指定さ... [続きを読む]
  • 大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その1 〜外堀・城門〜
  • 平成29年(2017年)の今年は、大政奉還から150年にあたります。京都では「大政奉還150年周年記念プロジェクト」と題したイベントが各所で行われていますが、大政奉還といえば、いちばんはやはりその発表の舞台となった二条城を訪れるべきでしょう。というわけで、先日、朝から夕方まで二条城をみっちり歩いてきました。 写真は東大手門前に設置された金屏風風の看板。いまから150年前の慶応3年10月1... [続きを読む]
  • 太平記を歩く。 その156 「淡河城跡」 神戸市北区
  • 前稿で紹介した石峯寺から4kmほど西に、淡河城跡があります。難読ですが、淡河(おうご)と読みます。 ここは、播磨一帯の豪族であった北条時房の孫にあたる淡河時治の城と伝わります。淡河氏は暦応2年(1339年)に赤松則村(円心)・則祐父子と南朝方のあいだで争われた石峯寺・三津田の戦いにおいて、南朝方に与して破れ、ここ淡河城は赤松氏の拠点となりました。 丹生山城、石峯寺城、そしてここ淡河城... [続きを読む]
  • 太平記を歩く。 その155 「石峯寺・石峯寺城跡」 神戸市北区
  • 神戸の北のはずれに、石峯寺(しゃくぶじ)という寺院があります。ここは重要文化財の三重の塔や薬師堂で有名ですが、かつてこの石峯寺の裏山に城があったということは、あまり知られていません。 参道を上って重要文化財の仁王門を潜ります。両脇に金剛力士像の造像年代はわかりませんが、かなり古いもののようです。こちらは向かって右側の阿形仁王。そし、こちらが左側の吽形仁王です。「建武の新... [続きを読む]
  • 太平記を歩く。 その154 「東条城(豊地城)跡」 兵庫県小野市
  • 兵庫県小野市と加東市の市境あたりに、「豊地城跡」と紹介された史跡があるのですが、ここに南北朝時代、東条城があったと考えられています。 前稿で紹介した丹生山城を拠点に足利軍と戦っていた金谷兵庫助経氏は、同時に東条城もその拠点とし、両城をさせて戦ったと伝わります。 しかし、延元元年・<北朝:建武3年>(1336年)に東条城は北朝方の手によって焼き払われてしまいます。『日本城郭大系』による... [続きを読む]
  • 太平記を歩く。 その153 「丹生山城跡・明要寺跡」 神戸市北区
  • 「湊川の戦い」で新田義貞が京都へ敗走した後も、神戸北部では義貞の一族・金谷兵庫助経氏が足利軍と奮戦していました。その兵庫助が本陣を布いた場所が、神戸市北区の丹生山山上にあった明要寺でした。明治に入って寺が廃され、丹生神社と改称しました。 6世紀創建といわれる明要寺には、この当時、多くの僧兵がいました。兵庫助はそれらの僧兵を引き連れ、付近の足利方に屈しない近江寺や性海寺、さらには「その36... [続きを読む]
  • おんな城主 直虎 第43話「恩賞の彼方に」 〜戦の論功行賞〜
  •  長篠の戦いの手柄あらため(論功行賞)に頭を悩ませる徳川家康。徳川・織田連合軍の圧勝に終わったこの戦いでしたが、この敗北によって武田氏がたちまち滅亡したわけではなく、したがって、徳川の領地が急増したというわけでもありません。ところが、戦は大勝利だったわけですから、戦功をたてた武将はたらふくいたわけです。そんな中でバランスよく恩賞を与えるというのは、さぞかし難しい仕事だったことでしょう。  ... [続きを読む]
  • 太平記を歩く。 その151 「北畠顕家供養塔」 大阪府堺市
  • 前稿で紹介した阿倍野区にある北畠顕家の墓とは別に、堺市にも顕家の墓があります。 阿倍野の墓は江戸時代に建てられたものですが、こちらは昭和12年(1936年)に顕家600回忌に町の有志によって建てられたものだそうで、墓というより、供養塔と言ったほうが正しいでしょうね。 『太平記』では、顕家戦死の地は摂津阿倍野と記されているので、一般には前稿の墓が有名ですが、近年の研究では、ここ堺市の石津... [続きを読む]
  • 太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」 大阪市阿倍野区
  • 大阪市阿倍野区にある「阿部野神社」を訪れました。ここは、前稿で紹介した北畠親房と、その子の北畠顕家の二柱を祭神として祀る神社です。全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、元別格官幣社でもあります。「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始り、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国... [続きを読む]
  • 太平記を歩く。 その148 「北畠親房の墓」 奈良県五條市
  • 前稿で紹介した賀名生の里の裏山に、南朝方の公卿・北畠親房の墓と伝わる古い墓石があります。 北畠親房は、当時、学識の高い万里小路宣房、吉田定房とともに「後三房」と称された公卿で、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の信頼厚く、その第二皇子である世良親王の養育を任されるほどでした。また、大塔宮護良親王の妃は親房の娘で、親王から見れば親房は義父にあたります。北畠親房といえば、「大日本ハ神国... [続きを読む]
  • おんな城主 直虎 第42話「長篠に立てる柵」 〜長篠の戦い〜
  •  虎松が徳川家康の小姓となって井伊万千代と名乗りだした3ヶ月後(ドラマではまだ草履番ですが)、家康は織田信長に援軍を頼み、長篠城に出陣しました。武田信玄の死後、家康が武田氏から奪回した長篠城を信玄の息子・武田勝頼が囲んだからでした。長篠城は遠江と三河の国境付近に位置し、交通の要衝地にありました。 天正3年(1575年)4月に三河攻略を開始した勝頼は、5月に長篠城を包囲。長篠城を守っていた徳... [続きを読む]
  • 太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」 奈良県五條市
  • 吉野山から西南西に15kmほどのところに、「賀名生の里」と呼ばれる場所があるのですが、ここにも、かつて南朝の行宮があったと伝えられます。 延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山に潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。 現在、ここは「賀名生の里歴史民俗資料館」と称して観光用に公園整備されていま... [続きを読む]