坂の上のヒゲおやじ さん プロフィール

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坂の上のヒゲおやじさん: 坂の上のサインボード
ハンドル名坂の上のヒゲおやじ さん
ブログタイトル坂の上のサインボード
ブログURLhttps://signboard.exblog.jp/
サイト紹介文歴史、大河ドラマ、時事ネタ、野球ネタなどいろいろ。コメント歓迎です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供280回 / 365日(平均5.4回/週) - 参加 2009/02/08 18:58

坂の上のヒゲおやじ さんのブログ記事

  • 西郷どん 第30話「怪人 岩倉具視」 〜岩倉具視の蟄居生活〜
  • 500円札の肖像で知られる岩倉具視が主人公の回でしたね。ドラマ中、自身をヤモリと卑下していましたが、実際に、当時、岩倉は「守宮(やもり)」とあだ名されていました。すばしこくて出没を予測できない策謀ぶりを評したあだ名だったようですが、当時の軟弱な公家のなかで、珍しく智謀と胆力を兼ね備えた人物だったといいます。文政8年(1825年)に参議正三位・堀河康親の次男として生まれた岩倉は、天保9年(1... [続きを読む]
  • 幕末京都逍遥 その107 「輪違屋(島原)」
  • 島原で現在も唯一、茶屋を営業されているのが、輪違屋です。輪違屋の創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まりました。当時は「養花楼」といったそうです。 前稿でも紹介しましたが、島原には大きくふたつに分けて「置屋」と「揚屋」がありました。「置屋」は、太夫や芸妓に芸を教える教育の場で、お客さんは出入りし... [続きを読む]
  • 幕末京都逍遥 その106 「角屋(島原)」
  • 江戸時代の京都の花街「島原」には、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)の創業当時の建物をそのまま今に伝える「角屋」があります。江戸期の饗宴もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定されました。 島原には大きくふたつに分けて「置屋」と「揚屋」がありました。</... [続きを読む]
  • 幕末京都逍遥 その105 「島原大門」
  • 江戸時代の京都の花街「島原」にやってきました。島原は、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)に六条三筋町から移転してきた日本初の幕府公認の遊女街です。正式名称は「西新屋敷」といいましたが、その急な移転騒動が九州の島原の乱の直後だったため、それになぞらえて「島原」と呼ぶようになったそうです。 現在は花街と... [続きを読む]
  • 西郷どん 第28話「勝と龍馬」 〜第一次長州征伐と勝海舟〜
  •  わずか1日だけの戦闘で終わった禁門の変から4日後の元治元年7月23日(1864年8月24日)、朝廷より一橋慶喜に対して長州藩追討の命令が下ります。これを受けた慶喜は、翌日、西国諸藩に出兵令を出します。つまり、長州藩は正式に「朝敵」となったわけです。長州藩にとっては前年の八月十八日の政変で失った覇権を取り戻すための挙兵が、逆に、自分たちの首を絞める結果になったわけですね。ドラマでも少し触れて... [続きを読む]
  • 幕末京都逍遥 その102 「壬生寺(壬生塚)」
  • 前々稿で紹介した八木邸のすぐ南に壬生寺というお寺があるのですが、その境内に、新選組の隊士を祀る壬生塚があります。 壬生寺は正暦2年(991年)、園城寺(三井寺)の僧・快賢が創建したと伝わります。ご本尊に延命地蔵菩薩像(重要文化財)が安置されているほか、水掛け地蔵や夜啼き地蔵など、多くのお地蔵様をおまつりしていることから、「お地蔵さんの寺」として... [続きを読む]
  • 西郷どん 第27話「禁門の変」 〜蛤御門の変〜
  • 今話はあまりにも史実とかけ離れた内容でしたね。まずは史実の解説から。 「八月十八日の政変」によって、長州藩を中心とする尊王攘夷派は都を追放されていましたが、京・大坂に潜伏していた残党と提携しながら、しきりに失地回復をはかり、ふたたび都への進出と勢力の奪還を目指していました。といっても、長州藩内が必ずしも挙党一致だったわけではなく、京都に乗り込もうとの進発論の急先鋒は、... [続きを読む]
  • 西郷どん 第26話「西郷、京へ」 〜西郷の赦免と参預会議〜
  •  元治元年2月28日(1864年4月4日)、遠島の罪を解かれた西郷吉之助(隆盛)が約1年半ぶりに沖永良部島より本土・鹿児島の地に戻ってきました。帰藩した当初の西郷は、長い座敷牢生活がたたってか、足腰が弱って一人で歩くのも難しい状態だったといいます。ドラマでの西郷はハツラツとしていましたが、実際には、この1年半の遠島生活で西郷はずいぶん弱っていたようです。  西郷が召還... [続きを読む]
  • 幕末京都逍遥 その95 「渡辺篤の墓(教善寺)」
  • 前稿で紹介した松林寺から西へ600mほどのところにある教善寺の墓地に、坂本龍馬暗殺の実行犯のひとり、渡辺篤の墓があると知って訪れました。 渡辺篤は京都生まれの剣客で、京都見廻組の一員として禁門の変の折には二条城の警備を担当し、その役付けも、京都見廻組御雇七人扶持を皮切りに肝煎介・肝煎と昇進。当時は渡辺一郎と名乗っていたそうです。</o... [続きを読む]