釣山 史 さん プロフィール

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釣山 史さん: 歴旅・温泉、そしてチョッと釣り
ハンドル名釣山 史 さん
ブログタイトル歴旅・温泉、そしてチョッと釣り
ブログURLhttp://hokkaidonobunka.sapolog.com/
サイト紹介文オホーツクを中心とした文化と歴史のサイト〜子ども達へ伝えたい郷土の歴史語り
自由文ガイドブックにも載らない北海道の歴史・紀行、地域文化と温泉・旅のサイト。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供41回 / 365日(平均0.8回/週) - 参加 2009/03/01 02:16

釣山 史 さんのブログ記事

  • アイヌ民族文化祭 in 旭川 
  • 第30回 アイヌ民族文化祭に参加して 昨年の十一月四日(土)、旭川市民文化会館において北海道アイヌ協会が主催する「アイヌ民族文化祭2017」が開催され、私は、三十回目という節目の折りに初めて参加させて頂いた。さて、文化祭は、北海道アイヌ協会加藤忠理事長の『イランカラプテを北海道のおもてなしの言葉として広め、ユネスコ無形文化遺産であり、国指定重要無形民族文化財であるアイヌ古式舞踏などの鑑賞を通じて、ア [続きを読む]
  • アイヌ民族文化祭 in 旭川 
  • 第30回 アイヌ民族文化祭に参加して 昨年の十一月四日(土)、旭川市民文化会館において北海道アイヌ協会が主催する「アイヌ民族文化祭2017」が開催され、私は、三十回目という節目の折りに初めて参加させて頂いた。さて、文化祭は、北海道アイヌ協会加藤忠理事長の『イランカラプテを北海道のおもてなしの言葉として広め、ユネスコ無形文化遺産であり、国指定重要無形民族文化財であるアイヌ古式舞踏などの鑑賞を通じて、ア [続きを読む]
  • アイヌ民族文化祭 in 旭川 
  • 第30回 アイヌ民族文化祭に参加して 昨年の十一月四日(土)、旭川市民文化会館において北海道アイヌ協会が主催する「アイヌ民族文化祭2017」が開催され、私は、三十回目という節目の折りに初めて参加させて頂いた。さて、文化祭は、北海道アイヌ協会加藤忠理事長の『イランカラプテを北海道のおもてなしの言葉として広め、ユネスコ無形文化遺産であり、国指定重要無形民族文化財であるアイヌ古式舞踏などの鑑賞を通じて、ア [続きを読む]
  • アイヌ民族文化祭 in 旭川 
  • 第30回 アイヌ民族文化祭に参加して 昨年の十一月四日(土)、旭川市民文化会館において北海道アイヌ協会が主催する「アイヌ民族文化祭2017」が開催され、私は、三十回目という節目の折りに初めて参加させて頂いた。さて、文化祭は、北海道アイヌ協会加藤忠理事長の『イランカラプテを北海道のおもてなしの言葉として広め、ユネスコ無形文化遺産であり、国指定重要無形民族文化財であるアイヌ古式舞踏などの鑑賞を通じて、ア [続きを読む]
  • 第30回アイヌ民族文化祭
  • 第30回 アイヌ民族文化祭に参加して 昨年の十一月四日(土)、旭川市民文化会館において北海道アイヌ協会が主催する「アイヌ民族文化祭2017」が開催され、私は、三十回目という節目の折りに初めて参加させて頂いた。さて、文化祭は、北海道アイヌ協会加藤忠理事長の『イランカラプテを北海道のおもてなしの言葉として広め、ユネスコ無形文化遺産であり、国指定重要無形民族文化財であるアイヌ古式舞踏などの鑑賞を通じて、ア [続きを読む]
  • 二宮尊徳像と国家主義
  • あちこちに二宮尊徳像が建てられた理由 昭和10年に中央報徳会、大日本報徳社、全国町村長会、帝国教育会ほかの団体が共同し、全国で『二宮尊徳翁八十年祭』を開催した。ときの内相は、地方官会議において大いに報徳精神を喧伝し、これを契機に各地にたくさんの尊徳像が建立されるようになった。明治41年に『戊申詔書』が渙発され、日露戦争後の個人主義や社会主義の台頭を戒め、勤倹力行して疲弊した地方の再生に当たろうとした。 [続きを読む]
  • もんべつ沖揚音頭(再)
  • ・昭和23(1948)年   有志による団体がなる。・昭和38(1963)年   第1回もんべつ流氷まつりで公演。・昭和47(1972)年   正式に保存会を結成する。・昭和47(1972)年   市民会館のこけら落としで公演。・昭和47(1972)年   紋別市補助団体となる。・昭和59(1984)年   第7回道民芸術郷土芸能際に参加。〜以来、記念行事や流氷まつりで公演。・平成20(2008)年   作曲家・寺嶋陸也がほぼ原曲どおりに [続きを読む]
  • 紋別の歴史巡り 3・4/13
  • (c)元西駅名板 (d)十六号線駅名板 ・大正12年11月5日に渚滑線が開通 ・昭和60年4月1日、廃線 ときの鉄道院総裁は政友会の幹部で、滝上全村民が入党して陳情し、紋別側は名寄本線との分基点や駅の場所など、有力者たちの利害と思惑が交錯した。また、測量建設に取り掛かると予定地上に渚滑神社があり、『撤去せよ』との役人の高圧的な態度も、結局、路盤の位置を変更することで決着した。 渚滑線開通の告示 官報 1923年1 [続きを読む]
  • 紋別の歴史巡り 2/13
  • (b)渚滑小学校の二宮尊徳像〜備前焼の立像 「備前焼」とは、古墳時代の須恵器の製法を引き継いで、釉薬を使わず絵付もしない土味を活かした赤褐色が特徴である。江戸時代後期には、池田藩によって統制されて窯元六姓による製造体制となった。これは著名な六姓木村総本家の木村興楽園で焼かれたものである。 ○渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 昭和12(1937)年に寄贈された渚滑小学校の「二宮尊徳像」。戦後に児童が投石して背中の [続きを読む]
  • 紋別の歴史巡り 1/13
  • (a)顕正寺の古い掛軸〜紋別聖徳太子講 「聖徳太子」は、廃仏派を倒して内乱を鎮めると仏教の興隆に努めて衆生救済に当った。また、三経義疏と呼ばれる経文の解説書を著して自らも講説した。聖徳太子は、救世観音の化身とされ、仏法の教主・法王である。また、百済から高度な建設技術を持つ大工を招いて、四天王寺や法隆寺を建立し、建築・土木を興した聖徳太子は、建築・土木の神とされ、仏師を保護し、工芸美術を振興したので、 [続きを読む]
  • 国会をクラス会に置き換えると・・・
  • 国会をクラス会に置き換えると・・・、 民主主義下の最終決定手法は、多数決である。 そうして少数派の意見を聞くということは、多数派の歩み寄りでしかない。 しかしてこれを学級に置き換えると、3〜4人の不良グループや1人2人の変り者も居るものだ。 少数派こそ、大人であって欲しいものだ。 ◆各政党、会派の議席数 ◆平均的な中学校のクラスに置き換えた場合 全国の中学校の1学級当たりの生徒数は、31〜40人の [続きを読む]
  • 手本は二宮金次郎
  • 文部省唱歌「二宮金次郎」 柴刈り繩なひ草鞋(わらぢ)をつくり、親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し、兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎。 幸田露伴著・二宮尊徳翁の口絵 1891年刊 九谷焼、青銅製 二宮金次郎(尊徳)のこと この薪を背負った金次郎のイメージは、金次郎の弟子で娘婿となった富田高慶が書き残した話をもとに、明治24年に幸田露伴が子ども向けの物語を書いて、このときのイラストに始まったと云 [続きを読む]
  • 月形町の神社にあった最古級の奉安殿
  •  月形小学校の火災で類焼し、遷座した樺戸神社へ移設されていた奉安殿は、その神社の再遷座で失われたのである。開校百周年記念誌より 小学校へ積極的に御真影が下賜され始めたばかりの明治28年5月(1895年)、北海道樺戸郡の月形小学校(月形町)が出火し、御真影と教育勅語を焼失したことは大きな驚きであった。北海道内で初めてのことかもしれない。 同校は、同30年(1897年)に再建された際に煉瓦造の独立棟を建設、同年、松前郡 [続きを読む]
  • 北海道の捕鯨業の嚆矢
  • 明治33年の留萌捕鯨場の景 北海道の捕鯨業の嚆矢、伊藤一隆が関係した大日本帝国水産会社のこと。石川県士族の斉藤知一が、明治17年に胆振国の室蘭・有珠の両郡、翌18年は後志国岩内郡で捕鯨を試みたが、鯨を恵比寿神と信奉する地元漁民の妨害に合い、同20年に天塩国羽幌へ転じた。明治21年には、国策によって設立された大日本帝国水産会社(のち帝国水産会社)が、根室・千島沿海でラッコ・オットセイ猟、捕鯨を試み、のち [続きを読む]
  • 寄鯨伝説と近年の漂着例
  • 紋別を例に見る近年の鯨類漂着 ◆古代人の里にクジラ寄る 平成20年4月、紋別市渚滑町川向の海岸に体長約8メートルのミンククジラの死骸が上がった(図1)。年齢は不明だが十分な大きさの♀の成獣で、頭部には擦れた跡があり、後尾付近には切り傷と何かに打たれた跡(スクリューの羽形様)があって、船と衝突して死んだものと考えられた。近くはオホーツク文化・擦文時代を代表するオムサロ遺跡があり、古代の里に思わぬ寄り鯨と [続きを読む]
  • 集落名に見る母村
  • 〜北海道号線の由来集落名と神事や寺行事に見る母村 道内の市町村に必ず残る地名に○線○号(条丁目)があり、集落名に出身母村名を引き継ぐものが多い。今の土地割の基本となった明治時代の殖民地区画図を見ると集落(町並み)の成り立ちが分かり、その集落の神事や寺行事などに出身母村の伝統を見ることが出来る。古くは大宝律令による中央集権的律令国家が成立して行く過程で、土地を碁盤の目のように区画整理したのが条里制度 [続きを読む]
  • マルキ号製パンの跡 2
  • マルキ号製パン 水谷農場の跡を追った 西足寄の農場は、秘湯・芽登温泉のさらに奥地の高原にあった。現・足寄町旭ヶ丘。 遠隔地のうえに起伏が大きい低温地帯で、当然、失敗に終わった。 水谷政次郎が生涯を終えた小清水町の泉地区、今でも一族が暮らす。 きれいに区画された雄大な小麦畑に水谷橋はある。第418号 マルキ号製パン、水谷農場      [続きを読む]
  • 青函連絡船概史
  • 青函連絡船概史 青函の定期航路は、文久元年8月に青森の滝屋が箱館定飛脚問屋の取次を始めたのに始まる。江戸と箱館を結ぶ定飛脚が2と7の日の月6度を往復した。維新後は、旧幕軍の軍艦咸臨丸が、開拓使付属船となって青函航路の輸送に当り、他に幕府から引き継がれた船に薩摩藩から献上された洋式軍艦昌平丸がある。開拓使は、汽船14隻、帆船15隻を保有し、明治6年には、スクーナー型の木造船弘明丸が、函館〜青森、函館 [続きを読む]
  • 海の日は明治丸の歴史
  • 函館港に停泊中の景?明治丸?は政府が英国に発注し、明治8年に横浜へ回航した灯台船。豪華なサロンを備える鋼船で、灯台業務だけではなく、御召船や外交などの重要用務にも使われた。明治9年の奥羽・北海道御巡幸の帰路、函館を発した明治丸は無事、7月20日に横浜へ安着し、これを記念したのが「海の記念日(海の日)」である。第413号 海の日は明治丸の歴史      [続きを読む]