フンメルノート さん プロフィール

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フンメルノートさん: フンメル研究ノート〜Review〜
ハンドル名フンメルノート さん
ブログタイトルフンメル研究ノート〜Review〜
ブログURLhttp://hummelnote.doorblog.jp/
サイト紹介文作曲家フンメルの個人研究サイトのブログ。CD紹介をはじめ、関連ニュース等を紹介していきます。
自由文 このブログは、クラシック音楽鑑賞を趣味とする一個人が、ヨハン・ネポムク・フンメルの音楽の魅力に取り付かれ、永年かけて収集した情報・データをメモ代わりに掲載している「フンメル研究ノート」のレビューページにあたります。
http://hummelnote.wix.com/hummelnote
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供28回 / 365日(平均0.5回/週) - 参加 2009/10/10 15:30

フンメルノート さんのブログ記事

  • クロンマー/交響曲 第2集(第4番、第5番、第7番)
  • 久々にCDの紹介です。この記事は先にFacebookやAmebaの方でアップしていましたが、焼き直しとなります。昨年11月にクロンマーの交響曲集第2集がリリースされていました。交響曲第4番、第5番、第7番です。第1集については過去に紹介しております。→クロンマーの交響曲集クラシックの作曲家:Franz Krommer(フランツ・クロンマー)の正しい氏名は、フランティシェク・ヴィンツェンツ・クラマーシュ(František Vincenc Kramař [続きを読む]
  • 生涯23. 古典派最後の巨匠の死
  •  1833年のツアーが演奏家としての最後のものとなった。しかし、フンメルがワイマールでの職位があり、収入が減るということはなかった。しかし健康はだんだんと蝕まれていって、1834年以降は殆ど療養生活にはいっている。調子のいい時は庭いじりしたり、ピアノを弾いたり、訪問者への記念帳にサインしたり、という生活だった。ただし必要なワイマールでの職務は続けていた。  1837年3月、ピアニストとなっていた長男のエドヴァ [続きを読む]
  • 生涯22. 晩年の活動と40年ぶりのロンドン訪問
  •  1829年は演奏旅行は行わず、家族でカールスバートのスパで休暇を取って、イギリスへの彼の訪問の翌年に向けた準備をはじめた。イギリスでは1822年を初めてとして何度もフンメルを招待していた。フィルハーモニック協会の会員の間で、フンメルは巨匠としての評価が高く、知名度は高かったのだ。 またこの年も招待状が届いていた。1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となったため、パリと約40年ぶり [続きを読む]
  • 生涯21. ショパンとの関係
  • ショパンは自分の演奏法が当時の他の人気作曲家と異なっていたことに不安を抱えていた。しかし、ワルシャワを演奏旅行で訪れた当代随一のピアニスト・フンメルの演奏を聴き、大いに感動すると共に同じタイプの演奏技法に自信を持つことができたという。ショパンはこの期に積極的にフンメルとコンタクトを取り、様々な話をした。 1828年に大公カール・アウグストが無くなってからは、実質上は新大公としてカール・フリードリッヒが [続きを読む]
  • 生涯20. ベートーヴェンとの別れ
  • フンメルは葬儀で柩の担い役を務め、またシンドラーとベートーヴェン友人たちが主催した追悼演奏会ではベートーヴェンの意志を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行った。 フンメルは1826年にウィーンで楽友協会会員に選出された。また、長年の友人でもあり、若い時にはライバルでもあったベートーヴェンの体調が優れず、翌年早々には危ないのでないかという噂を聞いていたため、1827年にベートーヴェンとも旧知の仲 [続きを読む]
  • 生涯19. 幸福なワイマール時代⑥〜ゲーテとの交流
  • フンメルのワイマールでの地位と音楽家としての名声はヨーロッパ中に知れ渡っていた。ゲーテやシラー、メンデルスゾーン等、多くの芸術家たちと交流を持った。 フンメルは、ゲーテと並びワイマールを訪れる人々の「目的そのもの」となっていったのである。ただし作曲作品は少なくなっていき、編曲作品やピアノ奏法といった執筆活動の方が増えていったようである。 フンメルはワイマールでも様々な交流を行っているが、ゲーテとは [続きを読む]
  • 生涯18. 幸福なワイマール時代⑤〜名声
  • フンメルのワイマールでの活動は、劇場の監督のほかに、年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどと活躍して町中から愛される存在であった。 フンメルは執筆活動も行い、「モーツァルト回想録」、「自伝」、「ピアノ奏法の理論と実践詳論」等を執筆したが、そうした活動と絶え間のない弟子へのレッスン等に非常に多くの時間 [続きを読む]
  • 生涯17. 幸福なワイマール時代④〜出版活動
  •  ワイマールは、プロテスタントとカトリックの両方の教会・信者が存在したが、フンメルは新たに教会音楽を作曲することはなかった。ただ、エステルハージ時代の多くの教会音楽を出版している。フンメル/ミサ曲ニ短調  作曲活動としては、自らの演奏旅行のための作品に加えて、宮廷や自分が在籍したフリーメイソンロッヂの集会のためのカンタータ、出版業者からの依頼によって様々な作曲家の序曲や交響曲、協奏曲の編曲、エディ [続きを読む]
  • 生涯16. 幸福なワイマール時代③〜音楽家達との交流
  • フンメルがワイマールの楽長に就任して以来レパートリーは変わり、モーツァルトをメインとして、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども取り上げられるようになっていった。 フンメルは、毎年の休暇を利用してヨーロッパ各地への演奏旅行を計画した。 1820年は、プラハからウイーンへの演奏旅行で、ここではフンメルの以前の作品(未 [続きを読む]
  • 生涯15. 幸福なワイマール時代②〜宮廷音楽監督
  •  知名度、実績、作曲家・演奏家としての能力、そしてモーツァルトの直弟子で後継者....。1819年の初頭、フンメルにとっては成るべくしてなったワイマール宮廷の音楽監督である。ここでの契約はフンメルにとってもエステールハージ時代やシュトゥットガルト時代とは大きく異なり、かなりの報酬と自由を与えられたもので、彼の演奏旅行も自由にとれる環境となった。もちろんここで彼がしなければならない事は、演奏会、行事の運営、 [続きを読む]
  • 生涯14. 幸福なワイマール時代①〜文化芸術都市の発展
  • ワイマールでのフンメルの契約は理想的なものであった。エステールハージ時代やシュトゥットガルト時代とは大きく異なり、かなりの報酬と自由を与えられたもので、彼の演奏旅行も自由にとれる環境となった。そうした背景にはこの都市を統治してきた未亡人となったアンナ・アマーリアと二人の息子がさの風土を作り上げていったといえる。 フンメルは1817年の年末、1756年以来、ワイマールで楽長してきたバッハの名づけ子でもあるの [続きを読む]
  • 生涯13. ヴュルテンベルクでの苦難
  • フンメルを高く評価してくれたフリードリヒ1世は、フンメルが就任して1週間ほどで急逝してしまったのだ。跡を継いだのは息子のヴィルヘルムであったが、彼は音楽に対する造詣もなく興味もなかった。 演奏活動に復帰したフンメルであったが、どうしても気がかりなことがあった。 それは一家の大黒柱として、妻子を養っていかなければならない事、その為には不安定な演奏活動だけでは心もとない、何とか安定した生活を維持したい [続きを読む]
  • 生涯12. ウイーンでの活躍と結婚②〜ヴァルトォーゾの復帰
  •  エリザベートとの結婚生活と共にフンメルの作曲家としての名声も活動も充実の一途をたどっていた。この頃にフンメルは二人の息子を授かった。長男のエードゥアルトは後にピアニストに、次男カールは画家となった。カールは後にショパンのスケッチを書くことにもなる。しかし、この「職業作曲家」としてのピークを迎えようとしている時期に、若い妻は歴史に影響する助言をフンメルに与えることとなる。 エリザベートは、フンメル [続きを読む]
  • 生涯11. ウイーンでの活躍と結婚①〜エリザベート・レッケェル
  • エリザベートは、フンメルのピアノ演奏を高く評価しており、またそんな才能ある彼が作曲やレッスンだけに追われている日々を憂いでいた。ある日夫がステージ活動から離れていることに懸念を示し、「あなたほど弾ける人がもったいない。是非ステージに復帰すべき」と助言したのだった。 1811年に再びウィーンに戻った後フンメルはピアノの公演は行わず、ピアノ曲、室内楽曲、劇音楽の作曲家として大いに活躍した。当時の人気と知名 [続きを読む]
  • 生涯10. ハイドンの後継者として③〜解雇
  •  ニコラス王子は、フンメルと同様に有名なベートーヴェンにもミサ曲の作曲依頼をして、1807年に初演された(ミサ曲ハ長調,Op.80)。それを聞いたニコラス王子はベートーヴェンの作品には好感が持てなかったらしく、「親愛なるベートーヴェン、貴方のこの作品は一体なんですか?」と言ったらしい。隣にいたフンメルはこの発言に「苦笑い」をしていたのだが、ベートーヴェンは猛烈に怒り狂い、フンメルの態度を罵倒した。これはベート [続きを読む]
  • 生涯9. ハイドンの後継者として②〜エステルハージでの評価
  •  フンメルには1200グルデンの年俸とアイゼンシュタットに宿舎が与えられた。作曲することと約100人から成る礼拝堂楽団を指揮することのほかに、義務として少年聖歌隊員にピアノ、ヴァイオリン、チェロを教えること、ハイドン関係の書類の整理があった。 しかし順調という訳ではなかった。フンメルのエステルハージ邸での仕事は全てが分担制になっており、権限がない部分も多く、この楽団を上手く一つにまとめ上げることができな [続きを読む]
  • 生涯8. ハイドンの後継者として①〜エステルハージ宮廷楽長
  • この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築いた。この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築い [続きを読む]
  • 生涯7. ウィーン帰還とベートーヴェン②
  • ベートーヴェンとフンメルの良き親友の関係は、途中に何回も喧嘩で疎遠になった時期もあるが、ベートーヴェンの死まで続いたことは確かな事実であり、音楽史上の奇跡である。 フンメルは早い段階でベートーヴェンの才能が巨大であることに気付いていた。そしてその才能に尊敬の念を抱いていたが、やがて自信喪失になっていった。ベートーヴェンの生み出す新作作品には、新しさと才能に溢れる、他の作曲家には見られない独自性があ [続きを読む]
  • 生涯6. ウィーン帰還とベートーヴェン①
  • ベートーヴェンとフンメルの良き親友の関係は、途中に何回も喧嘩で疎遠になった時期もあるが、ベートーヴェンの死まで続いたことは確かな事実であり、音楽史上の奇跡である。 フンメル家は、 1793年の春にウィーンで生活に戻って定住し始めた。ヨハンはアントニオ・サリエリやアルブレヒツベルガーに合唱、和声法、対位法など、作曲家として必要な知識、理論を学んだ。サリエリやアルブレヒツベルガーは、この時期一足早くウイー [続きを読む]
  • 生涯5. 実り多きヨーロッパ演奏旅行③
  •  ロンドン滞在中のこの時期、師匠のモーツァルトと競演した事で有名なクレメンティからピアノ演奏の総仕上げとも言うべき指導を受けている。モーツァルトからウィーン式演奏法を、ロンドン楽派の基礎なるクレメンティからは力強いイギリス式演奏法を習得した最初の演奏家となった。フンメル父子は、2年間のロンドン滞在後は、さらにフランスかスペインに演奏旅行を続けようと計画していたが、革命による混乱に妨げられ、1792年秋 [続きを読む]
  • 生涯4. 実り多きヨーロッパ演奏旅行②
  •  若いフンメルはその驚くべき演奏技量で、エジンバラでは盛大な歓迎を受けた、引っ張りだことなったため、数カ月にわたって滞在している。その間は、御前演奏や特別計画されたコンサートに出演し、その他ピアノのレッスン依頼が殺到した。  その後、父子はダーラムとケンブリッジ経由で南下し、ロンドンへ向かった。1990年の秋にはロンドンに到着し、そこから2年もの間滞在することとなる。 時を同じくしてJ.ハイドンもロンド [続きを読む]
  • 生涯3. 実り多きヨーロッパ演奏旅行①
  • 実際にフンメルに会い、その演奏を聴いたロンドンの著名なビジネスマンで音楽愛好家ウィリアム・ガードナーは、次のように書き残している。 「幼いモーツァルトを除いて、このロンドンを訪問した多くの中で、最も驚くべき演奏だった」 フンメルの演奏旅行のスタートは、12月の氷と雪の凶悪な条件の元でスタートした。こうした当時の旅行は過酷であり、現代のヨーロッパ旅行、ロマンチック街道、古城めぐり等と異なり、ロマンチッ [続きを読む]
  • 生涯2. 幼少期とモーツァルトとの生活②
  • 生涯の恩師、モーツァルトとの出会い、弟子入り。絶頂期のモーツァルトの自宅に住込みでレッスンを受け、生活を見て、作曲する姿をみて、そして語り合いその精神を受け継ぐための初めてにして貴重で重要な2年間。彼はすぐにヨハンを連れて、モーツァルトの住むアパートへ赴いた。 当時はピアノ演奏にオペラの作曲にと多忙を極めていたモーツァルトであったが、ヨハンの演奏をじっくりと聞いた。ヨハンは7曲を披露したらしい。  [続きを読む]
  • 生涯1. 幼少期とモーツァルトとの生活①
  • 生涯の恩師、モーツァルトとの出会い、弟子入り。絶頂期のモーツァルトの自宅に住込みでレッスンを受け、生活を見て、作曲する姿をみて、そして語り合いその精神を受け継ぐための初めてにして貴重で重要な2年間のこと。 ヨハン・ネポムク・フンメル(以下ヨハン)はウイーンから東へ80kmほどの距離に位置するハンガリーの都市:プレスブルク(現在のスロバキア共和国の首都:ブラチスラヴァ)で、1778年11月14日に生まれた。 彼の父親 [続きを読む]