Asami@戦国お城ライター さん プロフィール

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Asami@戦国お城ライターさん: 愛知のお城・戦国武将ゆかりの地を歩く!
ハンドル名Asami@戦国お城ライター さん
ブログタイトル愛知のお城・戦国武将ゆかりの地を歩く!
ブログURLhttps://ameblo.jp/aichioshiromeguri/
サイト紹介文愛知県のお城や戦国関連情報サイト!
自由文このブログは、愛知県のお城、戦国武将ゆかりの地を紹介します。また私の好きな作品の中からの『今日のひとこと』を織り交ぜながら、『分かりやすく、楽しく!』紹介してきますので、宜しくお願い致します。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供9回 / 365日(平均0.2回/週) - 参加 2009/11/16 09:10

Asami@戦国お城ライター さんのブログ記事

  • 竹腰城(たけのこしじょう)
  • 竹腰城(たけのこしじょう)竹腰城の城主・祖父江大膳は、もとは祖父江町の横井氏の居城・祖父江城にいましたが、関ヶ原の合戦で福島正則に従い奮闘、戦功を重ね竹腰付近を与えられ、築城しました。しかし!大阪冬の陣の時、西軍に内応しているとの疑いをかけられ、領地没収、お家断絶となりました。竹腰城は、田んぼの真ん中に竹腰城を示す看板がありました。その看板によれば、『竹腰城は市内(稲沢)で最も保存状態が良い』と [続きを読む]
  • 割田城(わりたじょう)
  • 割田城(わりたじょう)清和源氏の血を引く一族である、開田二郎国用が居城したと伝わります。北から南へと流れる野府川を天然の堀として築かれた割田城。もともとこの地には八剣神社がありましたが、平成四年に児童公園が作られた際に移動してしました。ところで写真に石碑が写っていますが、これはお城の石碑ではなく、神社移動を伝える石碑でした。>>>詳細はこちら⇒割田城 にほんブログ村 ↑いつも応援ありがとうございま [続きを読む]
  • 黒田城(くろだじょう)
  • 黒田城(くろだじょう)もともとこの地には、明応年間(1492〜1501)に、後藤光秋が築いた屋敷があり、後に岩倉織田家臣・山内盛豊が、この屋敷をもとに築いたのが黒田城なのです。盛豊は、信長と戦って討ち死にし、黒田城は信長、次いで信雄の支配下となり、和田氏、沢田氏が居城し、後に秀吉方の武将・一柳氏が城主になりました。規模は東西役120m・南北約100mと伝わる黒田城は、周囲に堀を巡らし、北西端の主 [続きを読む]
  • 坪内城(つぼうちじょう)
  • 坪内城(つぼうちじょう)当地の土豪・坪内氏の居城と伝わります。坪内氏は、加賀国(現・石川県)の富樫氏嫡流の頼定が、天文年間(1532〜55)に尾張へやって来て、犬山城主・織田信康に仕え、野府城 代・坪内又五郎の家を継いで、坪内と改めたという事情がある土豪です。>>>詳細はこちら⇒坪内城 にほんブログ村 ↑いつも応援ありがとうございます。 [続きを読む]
  • 吉藤城(よしふじじょう)
  • 吉藤城(よしふじじょう)織田信長の家臣・遠藤三郎衛門の居城と伝わる吉藤城は、小牧・長久手合戦の際、織田・徳川連合軍の最前線に活躍したと考えられるお城のひとつです。織田信雄が吉藤城へ織田長益、滝川半兵衛、飯田半兵衛を援軍とし、兵糧、弾薬と共に送っている記録が残ります。現在、吉藤城周辺は水田と化し、遺構は全くありませんが、旧尾西市教育委員会が建てた石碑があります。住所の字が『南古城』というのも、吉藤 [続きを読む]
  • 野府城(のぶじょう)
  • 野府城(のぶじょう)織田信秀の五男で、信長の弟・織田九朗信治の居城と伝わります。信治は元亀元年(1570)の姉川の戦いの際、近江国(現・滋賀県)坂本で討ち死にしました。野府城跡は、開明小学校となり、校門脇に野府城の石碑があります。石碑だけで案内版もなく、お城の遺構も残っていませんが、ここの住所の字が『城堀』なのは、ちょっと嬉しかったです。詳細はこちら⇒野府城 にほんブログ村 ↑いつも応援ありがとう [続きを読む]
  • 長谷川屋敷(はせがわやしき)
  • 長谷川屋敷(はせがわやしき)長谷川秀郷(秀一)の屋敷跡です。秀一は信長の小姓を勤め、信長亡き後、秀吉に使え越前で十万石の領主となりましたが、文禄三年(1594)朝鮮で病死しました。帰国後の死亡説のあります。長谷川秀郷(秀一)の屋敷跡は、下渡町の公民館となっています。屋敷の遺構らしきものはなく、以前は屋敷跡を示す石碑もありましたが、今では一宮市立北方中学校(写真)に移されています。詳細はこちら⇒長 [続きを読む]
  • 兼松屋敷(かねまつやしき)
  • 兼松屋敷(かねまつやしき)兼松氏は、古くから島村に居を構えた土豪で、中でも最も活躍したのは、『足半(あしなか)』のエピソードで有名な正吉でしょう。トレードマークでもあるを刀の鞘にくくりつけ、幾多の合戦に参加した正吉は、信長亡き後秀吉、そして家康に仕え、子孫は尾張藩に仕えました。現在、正吉の子孫の方が住んでいる兼松屋敷は、立派な門構えで、中には一宮市指定文化財の『クロガネモチ』の太くてまっすぐな大 [続きを読む]
  • 小山城(おやまじょう)
  • 小山城(おやまじょう)小牧・長久手合戦時、織田・徳川連合軍の砦として使用されたという小山城。その後の城主には二説あって、一つは平岩太左衛門。この人は御城代動同心を務める百石取りの侍で、延宝五年(1677)に没しています。もうひとりは徳川十六神将にも名を連ねる、平岩親吉です。親吉は犬山に所領がありましたが、一時的に小山城に居城した時期があったとか。小山城跡と伝わるこのお寺は『城跡山西恩寺』。しかも [続きを読む]
  • 浅野城(あさのじょう)
  • 浅野城(あさのじょう)豊臣家五奉行のひとり浅野長政の居城と伝わります。長政が近江(現・滋賀県)へ転出後、織田信雄の重臣・杉浦道祐が入城しました。現在の浅野公園内に『浅野長政公宅址』の石碑がありました。お城というより防御施設のある屋敷といった感じでしょうか。公園内には、浅野家の養女で秀吉の妻・おねの句碑もあり、市民の憩いの場になっています。>>>詳細はこちら⇒浅野城 にほんブログ村 ↑いつも応援あり [続きを読む]
  • 大赤見城(おおあかみじょう
  • 大赤見城(おおあかみじょう)室町時代の中頃、織田家の祖・織田勝久(常竹)と久長の居城と伝わります。この時、かなり完成された城下町を持っていたと推測され、大赤見城の周辺には、『地下中屋敷』『地下西屋敷』『地下東屋敷』『市場東屋敷』『市場地下屋敷』等の小字名が残っています。戦国時代以前の古いお城である大赤見城は、今では住宅地となり遺構は残っていません。お城跡は神明社の南一帯と伝わり、民家の脇に大赤見 [続きを読む]
  • 下奈良城(しもならじょう)
  • 下奈良城(しもならじょう)小牧長久手合戦時の秀吉方のお城。秀吉が犬山から楽田へ本陣を移した時、この下奈良城を最右翼として小牧山城の織田・徳川連合郡と対峙しました。合戦講和成立後、下奈良城の諸道具は河田城 に移されました。小牧・長久手合戦のために築かれ、合戦が終わると、その歴史も終わった下奈良城。本丸部分は畑、その周辺は民家となり、下奈良城を偲ぶものはありません。しかし周辺の民家に、お城の石垣の一部 [続きを読む]
  • 中島城(なかじまじょう)
  • 中島城(なかじまじょう)古いお城で、鎌倉時代以来、尾張国中島郡に勢力を持っていた、中島一族の居城です。中島一族は『大介職』という職務を受け継いできた名族で、代々『蔵人』という官名を名乗りました。したがって文献に残る『中島蔵人』というのは、特定の個人を指すものではありません。ところでこの中島一族、最盛期は中島郡の大半を領するほどの勢力を持っていましたが、戦国期に入ると勢力も弱まり、織田氏らの新興勢 [続きを読む]
  • 時之島城(ときのしまじょう)
  • 時之島城(ときのしまじょう)時之島城は、美濃斉藤家家臣・日根野弘就が居城しました。当時、木曽川は8つに分流され、一旦洪水になると手が付けられない程の暴れ川でした。その分流の一つである、三宅川の上流(瀬部川)左岸に設けられた時之島の周りは、川に囲まれ名の通り『島』状態だったこの地は、川に守られた天然の要害でもありました。ところで斉藤家は織田氏に滅ぼされ、弘就も打倒織田家を合言葉に各地で転戦しました [続きを読む]
  • 松平広忠公御廟所 現地説明会
  • 松平広忠公御廟所がある、岡崎市にある松應寺(しょうおうじ)。 長年の風雨の影響で、土塀の痛みが目立っていましたが、去年9月の台風の長雨で、西側土塀が大規模に破壊してしまいました。 御廟所の修理を計画するために、試掘調査を実施され、9月17日に、現地説明会があったので、行ってきました。 薄日もさして、じっとしていても汗が出てくるほど湿度も高く暑かったけ [続きを読む]
  • 東宮重城(ひがしみやしげじょう)
  • 東宮重城(ひがしみやしげじょう)東宮重城は、小牧・長久手合戦初期、織田信雄の家臣・酒井新左衛門が築城・居城したと伝わります。東宮重城の築城は、連携をとる苅安賀・加賀井城を強化し、秀吉軍の来襲に備えるためのものでした。合戦後、酒井新左衛門は美濃へ移り、東宮重城は廃城となりました。東宮重城跡は、一宮市にある東宮重神明社と伝わります。周辺は住宅地と田んぼで、北側が少し高くなっており、雰囲気が残っていま [続きを読む]
  • 鵜飼民部屋敷(うかいみんぶやしき)
  • 鵜飼民部屋敷(うかいみんぶやしき)織田信長に仕えた鵜飼民部清重の屋敷跡と伝わります。清重は、浮野合戦で活躍し、十三もの敵の首を取って信長に賞賛されました。鵜飼民部清重の屋敷跡は萩原中学校の南で専正寺の東にあったと伝わります。現在この地には、子孫と伝わる鵜飼氏宅があり、専正寺との間に木々が生い茂り、屋敷跡の雰囲気が残っています。屋敷内には、代々伝わる乗馬用の沓脱ぎ石が残されていました。※詳細はこち [続きを読む]
  • 萩原城(はぎわらじょう)
  • 萩原城(はぎわらじょう)萩原城の城主は、秀吉の姉婿・三次吉房(入道して三位法印一路)、豊臣秀次の父です。天正十八年(1590)秀次が尾張を領した際、吉房は尾張で十万石を与えられ、犬山に居城しましたが、秀次が合戦や関白の職務として不在がちであったため、ほとんど清洲で国政を執っていたようです。その後、文禄四年(1595)秀次失脚に連座して領地を失い、讃岐へ追放されました。つまり萩原城があったのは、秀 [続きを読む]
  • 苅安賀城(かりやすかじょう)
  • 苅安賀城(かりやすかじょう)苅安賀城は、近江小谷城の浅井長政の甥・浅井新八郎高政の築城です。高政は岩倉織田氏の家老・山内盛豊の従弟で、永禄二年(1559)の岩倉城落城時、盛豊の息子・一豊が縁を頼り、苅安賀城へ落ち延びています。その後、天正十二年(1584)小牧・長久手の合戦直前、高政の後を継いだ長時は、織田信雄の家老でしたが、羽柴秀吉の計略にかかった信雄に討たれてしまいます。お城は合戦時、徳川・ [続きを読む]
  • 毛受城(めんじょじょう)
  • 毛受城(めんじょじょう)苅安賀城 主・浅井新八郎の家老で浅井玄蕃(新八郎の弟)の居城と伝わります。毛受城と伝わる場所は、龍明寺の北側約200mの位置です。現在は畑となっている毛受城は、北に行くにつれ低くなっており、日光川に突き当たります。流れはかなり変わっているとは思いますが、川を天然の堀としていた可能性もありますよね。昭和十年頃、今の毛受城跡とされる場所から、大量の石が出土し、井戸の跡らしきもの [続きを読む]
  • 河田城(こうだじょう)
  • 河田城(こうだじょう)天正十二年(1584)の小牧・長久手合戦時に羽柴方の城砦として築かれたお城。秀吉と信雄の和議成立後、河田城は秀吉方のお城として残され、壊された下奈良城(一宮市)の諸道具が河田城に運びこまれました。ところでもともとこの地には『宮田城』があったとの記録も有り、河田城は小牧・長久手合戦時の新築ではなく、宮田城を修築して建てられたものという説もあります。お城跡は今では木曽川河川敷の [続きを読む]
  • 大野城(おおのじょう)
  • 大野城(おおのじょう)『葉栗郡紀要』に大野伊賀守・大野佐渡守の居住との記録が残ります。天正十四年(1584)の小牧・長久手合戦時には羽柴方の砦として、利用されました。現在、木曽川河川敷公園の一部に、大野城を示す石碑があります。このすぐ北は木曽川、そのまた北は美濃国(岐阜県)があり、大野城は国境のお城だったことがよく分かります。>>>詳細はこちら⇒大野城 にほんブログ村↑ワン 応援よろしくお願い [続きを読む]
  • 光明寺城(こうみょうじじょう)
  • 光明寺城(こうみょうじじょう)織田信長の家臣・神戸伯耆守が築城したお城です。神戸伯耆守は永禄十二年(1569)の伊勢国(三重県)大河内城攻めで戦死、その後は信長の馬廻衆・山田半兵衛が居城しました。尾張でも美濃との国境に近かった光明寺城。当時、美濃では斉藤氏が健在で、信長が執拗に美濃を攻めていました。このように重要拠点であった光明寺城を任されていた神戸伯耆守は信長の信任が厚い人だったのでしょうね! [続きを読む]
  • 八剣砦(やつるぎとりで)
  • 八剣砦(やつるぎとりで)天正十二年(1584)に起こった、小牧・長久手合戦時の織田・徳川連合軍の砦跡と伝わります。岩倉市八剣町城屋敷にある古墳の周辺が砦跡との事でした。開発が進み遺構は、何も残っていません。このあたりは平地なので、古墳は物見台として利用された可能性はありますね。ちなみにこの古墳は七面山古墳といい、おそらく6世紀頃に造られたとされていて、ほぼ完全な墳丘をとどめているそうです。>>> [続きを読む]
  • 井上城(いのうえじょう)
  • 井上城(いのうえじょう)井上城は応永元年(1394)〜嘉吉元年(1441)の頃、井上荘17ヵ村を支配していた有馬主殿正の居城と伝わります。井上城はお城というよりも、館に近かったようで、簡単な防御と質素な建造物で構成されていました。当時、尾張の守護代は、下津城(稲沢市)にいた織田郷広であり、国内統一を図り、井上城の有馬氏にも帰順を促しましたが、有馬氏はこれに従わず、郷広の大軍に攻められ井上城は落城 [続きを読む]