幽村芳春 さん プロフィール

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幽村芳春さん: 正法眼蔵=坐禅
ハンドル名幽村芳春 さん
ブログタイトル正法眼蔵=坐禅
ブログURLhttp://honjoutarou.blog107.fc2.com/
サイト紹介文愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を紹介しています。自宅で密やかに坐禅始めてみませんか。
自由文自分の家で毎日坐禅をしています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供365回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2009/12/23 23:52

幽村芳春 さんのブログ記事

  • 正法眼蔵 身心学道 14
  • 発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす事)に関しては、時間において起きる。そのうち機が熟してきたら起きますという事ではなくて起こそうと思えばいつでも起こせる。真実を知りたいという気持ちを起こしたまさにその瞬間においては、宇宙全体が真実を知りたいと言う気持ちに燃えている。発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす事)によって周囲の環境の様子を一斉に変えてしまうと言う形には見えるけれども、環境が主 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 13
  • 発菩提心(真実を知りたいと言う気持ちを起こす)という事は、日常生活におけるごく普通の生き死にの場面でこの発菩提心にめぐり合う場合がある。あるいは仏道修行が済んで非常に落ち着いた境地に入って後も、さらに真実を知りたいと言う気持ちを起こす場合もある。また、それ以外の場面でも、真実を知りたいと言う気持ちを起こす場合がある。つまり真実を知りたいと言う気持ちを起こすという事は、人生の中でいつでも起こり得る問題 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 12
  • 仏教の立場からすると、物の世界も人間の世界も本質的には変わらない共通のものと言う捉え方があると同時に、行いというものに関連して捉えるならば、物の世界と人間の世界とは必ずしも同じではない。戸外の柱や燈籠と同じ様な状態で人間の生活が行われていると言う訳ではない。人間の生活は物とは違い裸足で走って仏道を勉強するのである。とんぼ返りを打って仏道を勉強するのである。このような事実に目をつけるのはいったい誰で [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 11
  • 真実を学ぶというのはこの様な状態であるから、心というものとは一体何かという事を考えて見た場合に、心というものが独立して別にあるわけではない。垣根、壁、瓦、小石が現に目の前にあると言う事が心があると言う事の唯一の証拠である。仏教では三種類(欲界・色界・無色界)の世界が心だとか、宇宙(法界)が心と同じだというけれども、垣根、壁、瓦、小石というものが心だと捉えた方がより現実に適合する。垣根、壁、瓦、小石と心 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 10
  • 現在の家庭生活というものが、必ずしも自分自身の本来の住まいではないという事に気がついて、そのような家庭生活を離れて仏道を学ぶ態度というものは、それが偉大だとか小さいとかと言う相対的な比較を乗り越えているし、そういうことは他人事であって自分には到底関係ない遠い出来事であるとか、自分の眼先に迫った緊急の課題であるという比較を乗り越えたものである。また過去の諸先輩も最近の諸先輩も乗り越えたものであり、仏 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 9
  • この様に我々の住んでいる世界をきわめて現実的に立体的に眺めていくならば、山、河、大地というものは有るとか無いとかと言う相対的な観点を離れた絶対の存在である。山が大きくて砂粒が小さいと言ってみても、あくまでも相対的な比較の問題であって本質的に大きいのか小さいのかと言う事は必ずしも断定できない。その様な山、河、大地の実態を会得したとか会得しないとかという問題ではないし、分かったとか分からないとかという [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 8
  • 太陽、月、星についても、人間と神々とではそれぞれ見るところが同じではないであろう。人間にとっては空は捉えどころのない無限に広がった場所であるが、神々にとってはそこが自分たちの住まいであろう。主体が異なるならば、その主体の異なるに応じてその見るところも決して同じではない。この様に主観的な世界は様々に違っているけれども、この宇宙全体を一つの心と言う見方で捉えるならば、一つの心から見られた様々な外界の世 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 7
  • 山を取り上げて見ても実に沢山の種類があり、さらに様々な場所に山があるであろう。古代インドにおいて世界の中心を成すと言われている須弥山にしても、大小の須弥山があり、それが横に連なっている山もあれば、それが非常に高い形で聳え立っている山もある。そしてまた、我々の住んでいる世界も小さな世界が無数に重なり合って非常に大きな世界を形成していると言う考え方があるし、国の数にしても無数に存在する。その様な山、河 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 6
  • 「心」と言うものが特に独立してあるわけではない。眼の前に見ている山、河、大地、太陽、月、星などが現にそこにある、そこに見えると言う事が我々が心を持っていると言う事の唯一の証拠である。とりあえず心とは何かと考えてみるならば、山であり、河であり、大地であり、太陽であり、月であり、星である。※西嶋先生解説西洋哲学では心というものがあるという前提に立って問題を考えるわけでありますが、仏教の立場で心とか、外 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 5
  • 釈尊は一国の王子であった。どうしても真実が知りたいという事で将来国王となるべき地位を捨てて、密かに王城を抜け出して山に入られた。これも個々の瞬間瞬間の個々の心境における出入りと言う具体的な事実に他ならない。釈尊が仏道修行の場所として山に入って行った境地というものは、坐禅の最中に何も考えないという境地を考えている境地に似ている。山の中に入って行くという事は世間の人が嫌うところではあるけれども、ものを [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 4
  • しかも、この様な心境を捨て去って釈尊の教えを学ぶ場合がある。またこれらの心境を取り上げて釈尊の教えを学ぶ場合もある。そしてその際、頭を使って勉強する場合もあれば、頭でものを考える事を乗り越えた立場で釈尊の教えを勉強する場合もある。ある場合には釈尊と摩訶迦葉尊者との間における様に、釈尊は法を摩訶迦葉尊者に伝えるに当たって金襴の袈裟を与え、摩訶迦葉尊者は釈尊からこの袈裟を受領した。ある場合には、達磨大 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 3
  • 仏道(釈尊の説かれた真実の教え)を学ぶに当たってとりあえず二つの方法がある。それは心を通じて学ぶ方法と、体を通じて学ぶ方法である。心で釈尊の教えを勉強するという事は、様々な心を使って釈尊の教えを勉強することである。その様々な心には、質多心・汗栗駄心・矣栗駄心と呼ばれる心というものがある。また別の場合には、感応道交をして菩提心を起こして、それ以後釈尊の説かれた偉大な真実の教えに全面的な信頼を寄せ、菩提 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 2
  • この様な形で釈尊の教えというものを学ばないと、釈尊の教えから遠ざかってしまい一体何のために生きているのかわからなくなってしまうから、過去において真実を得られた方々も、後の世において真実を得られた方々も、例外なしに釈尊の教えというものを実践の形で修行されたのである。※西嶋先生解説ここで修行という言葉が出てまいりますが、宗教の中でも修行というものを非常に重要視する特徴というものが仏教にはあるわけであり [続きを読む]
  • 正法眼蔵 身心学道 1
  • 「身心学道」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。「身心学道」というのはどういう意味かといいますと、「身心学道」という言葉は「身学道」と「心学道」との二つに分かれる。発音でいうと両方とも「シン学道」でありますが、一つは体による真実の勉強、それからもう一つは心による真実の勉強という意味であります。仏教思想というのはその基本に「身心一如」と言う思想があるわけであります。体と心とは一つのものだから、どち [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 19
  • 羅漢桂琛禅師が言われた。「典坐和尚(寺院における炊事係)は、庫裡(台所)に入って食事の準備に余念がない」と。羅漢桂琛禅師言葉について道元禅師が注釈されます。寺院生活において、炊事係である僧侶が食事を作ろうと庫裡の中に入って行ったこの情景は、七仏(釈尊以前におられた六人の真実を得られた方々と釈尊とを言う)がおられた遥か以前の事柄であり、その事は永遠の意味を持った事柄である。この様な日常生活のきわめて普通の [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 18
  • 雪峰義存禅師がたくさんの人々に説示して言われた。「坐禅堂の前で皆さんといまお会いした、そしてそのお会いする事がすでに終わった」と。雪峰義存禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。この状況を考えてみるならば、雪峰義存禅師ご自身の体全体が生き生きとした眼の玉になって、一切がありありと見えていた境地を言うのであり、雪峰義存禅師が雪峰義存禅師ご自身を覗き見ることのできた時期である。自分とは何かという事を [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 17
  • 雲門文偃禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。と今ここに言う雲門文偃禅師、過去七仏、達磨大師、大鑑慧能禅師、我々の行動、我々の生命というものが、坐禅堂、仏殿、厨庫、三門と同じだ、それが光明だと仮に理解したとしても、その真実を得られた方々がいづれも一人一人の人間である事には変わりがない。その様な個々の人々であるから、個々の人々と言う言葉で表わされたものではなくて、具体的な現実の人を意味するので [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 16
  • 雲門文偃禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。説法を聞いている人々が返事をしなかったので、雲門文偃禅師が自分で変わって答えて言うには、「個々の人々が持っている光明というものは、眼の前に見えている坐禅堂、仏殿、厨庫、三門である」と。いまここで雲門文偃禅師が「自ら代わって答える」という意味は、雲門文偃禅師が自分自身に代わって言われたという意味である。同時に説法を聞いている沢山の人々に対して自分が [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 15
  • 雲門文偃禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。銘記せよ。このように考えてくると、個々の人々が悉く持っている光明(輝かしさ)とは何かと言うならば、現に眼の前に生きているところの個々の人々の事である。それは光明によって保たれているところの個々の人々である。そこで私(道元禅師)は雲門文偃禅師に質問してみたい。「お前さんは個々の人々という言葉を使っているけれども、個々の人々というのはいったいどういう意味 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 14
  • 雲門文偃禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。雲門文偃禅師が言われた「各人は誰でも光明(輝かしさ)を持っている」という言葉は、各人が仏道修行をしていれば、いづれ光明が現れてくると言われたわけではない。かつておまえにも光明が具わっていたと言っているわけでもない。本人とは別の人が眺めていて光明があるとかないとかと言ったわけではない。各人は現に今この場所において光明を持っていると言われたことをはっき [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 13
  • 雲門山に住んでいた雲門文偃禅師は、釈尊以来摩訶迦葉尊者を初代として第39代目の仏教教団の指導者であり釈尊の説かれた教えを雪峰義存禅師から伝えられた。雲門文偃禅師は仏道を勉強する人々の間では比較的遅くこの世に現れた方ではあるけれども、達磨大師の門下においては非常に優れた人である。誰が雲門山には光り輝く真実を得た人はいまだかつて現れた事がないという事ができよう。つまり雲門文偃禅師は光り輝く真実を得た人で [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 12
  • 憲宗皇帝と家臣韓退之との問答について道元禅師の注釈は続きます。我々の日常生活の中で修行をするとか体験をするとかという事がないわけではない。しかしそれらはいずれも、光というものが具体的に様々の姿をしてこの世の中に出てきたことに他ならない。草、木、垣根、壁のような個々の事物も、皮、肉、骨、髄という我々の体そのものも、いずれも光と言うものの現われに他ならない。煙、霞、水、石など自然の環境も、限定のない奥 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 11
  • 憲宗皇帝と家臣韓退之との問答について道元禅師の注釈は続きます。そこで長沙景岑禅師が言われた「この我々が住んでいる宇宙というものは、自分自身が出している光である」という言葉を詳細に勉強して見る必要がある。光り輝く自分自身というものが、実は宇宙と同じものだという事を意味しているのだという事を勉強してみるべきである。※西嶋先生解説日常生活における明るさといってみても自分自身の明るさだという事を言っておら [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 10
  • 憲宗皇帝と家臣韓退之との問答について道元禅師の注釈は続きます。仮に憲宗皇帝が釈尊の教えについて十分な理解をしすでに真実を得た人であるならば、釈尊の説かれた輝きとは一体どういうものかという質問があってもよかった。この様に憲宗皇帝と韓退之との光明に関する問答を見てくると、釈尊の説かれた明々白々とした輝きとは、我々の周囲にある個々の事物そのものの事である。その様に我々の周囲に存在する様々な事物というもの [続きを読む]
  • 正法眼蔵 光明 9
  • 憲宗皇帝と家臣韓退之との問答について道元禅師が注釈されます。韓退之は普通の家庭で生活している官史であり俗人ではあるけれども、仏道修行における一人前の男子としての心意気があり、天地を引っくり返す程の才能を持っているという事ができる。この韓退之の様に不可思議なものを仏道と考えないという事が仏道を学ぶ上の最初のあり方であり、この様な形で仏道を勉強しないという事は真理への道ではない。仮に仏教経典を講義して [続きを読む]