幽村芳春 さん プロフィール

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幽村芳春さん: 正法眼蔵=坐禅
ハンドル名幽村芳春 さん
ブログタイトル正法眼蔵=坐禅
ブログURLhttp://honjoutarou.blog107.fc2.com/
サイト紹介文愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を紹介しています。自宅で密やかに坐禅始めてみませんか。
自由文自分の家で毎日坐禅をしています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供357回 / 365日(平均6.8回/週) - 参加 2009/12/23 23:52

幽村芳春 さんのブログ記事

  • 正法眼蔵 諸法実相 10
  • (法華経方便品においての)釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。この様なところから考えてくると、実相(真実の姿)と諸法(諸々の実在)とがお互いに出会うという事は、実相と諸法とが一つになる事である。つまり諸法実相(眼の前に展開されている諸々の実在がまさに真実の姿を示している事態)とはどういうものかと言うならば、春とは花が咲けばこそ春である。花が咲くという状態を抜きにして春というものが架空にあるわけでは [続きを読む]
  • 正法眼蔵 諸法実相 9
  • (法華経方便品においての)釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。この世の中にある一切のものが真実であるという基礎理論が存在するところから、あらゆる方角に広がっている世界そのものが真実と一つのものであるから、その中に生きている一切の人々、一切の生き物は皆真実である。あの人は仏ではない、あの人は仏と言っても半人前と言う捉え方はない。 体が現にある状態とは、人間だけでなしに、この世の中にある動物もそ [続きを読む]
  • 正法眼蔵 諸法実相 8
  • (法華経方便品においての)釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。百とか千とかと言う数量を基準とすべきではなく、我々の眼の前に展開されている実体の姿の数量を基準にして宇宙の数量とはどういうものかと言う事を捉えていくべきである。この様な観点からするならば、真実を得られた方々がまさにこの宇宙というものが真実の姿を示し ていると言う事を究め尽くす事ができるのであり、真実の本質を具えているものだというこ [続きを読む]
  • 正法眼蔵 諸法実相 7
  • (法華経方便品においての)釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。この様に絶対の立場からいま眼の前に現れている結果というものを考えていくならば、このような絶対の結果と言うものは、姿・本質・物質的な実体・エネルギ−を超越した絶対の存在であるから、この宇宙の中に存在する姿・本質・物質的な実体・エネルギ−等々は、いずれもありのままの姿以外のものではない。この様な姿・本質・物質的な実体・エネルギ−等を直 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 諸法実相 6
  • (法華経方便品においての)釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。 この様に現に眼の前に姿が現れていると言う事は、また別の言葉で言うならば、眼の前の本質を究め尽くすことが出来るという意味である。つまり、眼の前にある外界と眼の前にある本質とは無関係のものではなくて、密接に関係している。そしてまた眼の前の本質というものが眼の前にある物質的な物体というものときわめて密接な関係にある。また眼の前に存在す [続きを読む]
  • 正法眼蔵 諸法実相 5
  • (法華経方便品においての)釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。この様に考えて来ると、我々を取り巻いている周囲の実在というものが、現に実在としての姿を現し、ありのままの姿を表わしている、現に周囲の実在としてあると言う事が、ありのままの姿を示しているという事であり、ありのままの本質を示していると言う事に他ならない。真実の姿がまさに真実の姿を示している、ありのままの姿がありのままの姿をまさに眼の前 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 諸法実相 4
  • (法華経方便品においての)釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。釈尊は宇宙は真実の姿を示していると言われたけれども、宇宙が真実の姿を示していると言う事は、その中に生きている人間が仏道修行をやって真実と一体になって生きている事実と別のことではない。この世の中において人々が仏道修行をして、その結果として真実を得た状態と宇宙の実体とは別の姿のものではない。この世の中には様々な仏道修行者や真実を得たた [続きを読む]
  • 正法眼蔵 諸法実相 3
  • 法華経方便品において釈尊が言われた。 仏(真実を得た人)と仏(真実を得た人)だけが、諸法実相(我々の眼の前に展開されている諸々の実在がまさに真実の姿を示していると言う事態)を究め尽くす事が出来る。言うところの諸々の実在と言うものは、眼の前の姿であり、眼の前に現れているところの本質であり、眼の前に現れているところの物体であり、眼の前に現れているところの力(エネルギ−)である。言うところの諸々の実在と言うもの [続きを読む]
  • 正法眼蔵 諸法実相 2
  • 「諸法実相」の巻、本文に入ります。この世に沢山の方々が出て仏道の修行をして仏道の真実を掴まれたけれども、そういう事実というものが何を意味するかというならば、この世の中の実際のあり方を埋め尽くしたという事を意味する。実相( この世の中が示している実体というもの)が、実は諸法(我々の住んでいる宇宙の本質)である。諸法は何かと言うならば、現に我々が眼の前に見ている姿である。また現に目の前に展開されている物質 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 諸法実相 1
  • 「諸法実相」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。 この「諸法実相」の巻も大変難しい巻であります。したがって最初のうちはなるべく丁寧に説明をしまして、なるべく難しい、わからないという事がないようにしていきたいと思います。まず「諸法実相」と言う言葉の意味でありますが、「諸法実相」というのは「妙法蓮華経」法華経の中に出て来る言葉であります。 「諸法」の「諸」は複数を表す言葉で、いろいろの、たくさんの、と [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 40
  • 「宗派の呼び名を立てるべきではない」という道元禅師の主張は続きます。わざわざ釈尊が生きていた時代の教化のやり方に違背して、宗派の呼び名を別に立てると言う事は釈尊の弟子のやる事ではないし、達磨大師の系統に属する仏弟子のやる事でもない。この様な行為に及ぶ事は、仏道において非常に重い罪とされている五逆罪を犯すよりもさらに思い罪であると言わざるを得ない。 せっかく仏道修行をしていながら、釈尊の説かれた最高 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 39
  • 「宗派の呼び名を立てるべきではない」という道元禅師の主張は続きます。今日の人々が釈尊の持っていた真実を説く様々な手段よりも優れたものを持っていないとするならば、釈尊の説かれた手段以外のものを使って説こうとする事は何の意味もないであろう。釈尊ご自身や釈尊以後の代々の祖師方が昔からの真実に背いて、自分の宗派を自ら立てると言う事はされていない。自分自身の宗派の呼び名を立てて、仏道に自分の名前をつけて呼ぶ [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 38
  • 「宗派の呼び名を立てるべきではない」という道元禅師の主張は続きます。中国における太公望と呼ばれる優れた人物が文王に「 国家というものは皇帝一人のためだけの国家ではなく、国家とは国家そのもののためにある」と言っている。この様な言葉から推察すると、太公望にしても文王にしても俗世間に生きている人であるけれども、このような智慧があり、このような言葉を述べたと伝えられている。 釈尊の説かれた教えを学び仏道修行 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 37
  • 「宗派の呼び名を立てるべきではない」という道元禅師の主張は続きます。「人天ノ眼目」の著者である智聡は、仏道の真実を把握した人とはどういう人であるかという事が分からず、その様な仏道の真実を知った人に会わない人々の、ただも字により言葉として残されたものを拾い集めて、本当の意味で真実を得た人の言葉というものを拾い集めるという事をしない。その様なところから判断するならば、智聡は仏道の真実を知った人がどうい [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 36
  • 「宗派の呼び名を立てるべきではない」という道元禅師の主張は続きます。釈尊や達磨大師の時代からずっと後の時代に、智聡と呼ばれる子供のような境地の人がいて、仏教界における代々の祖師方の一つ、二つの僅かな言葉を拾い集めて、五つの宗派と言うものを主張し、そのことを書いた本を「人天ノ眼目」と名づけた。しかしながら「人天ノ眼目」と言う本が、仏教の立場から見た場合にほとんど意味がないと 言う事を人々は理解する事 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 35
  • 天童如浄禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。その様な宗派の名前をつけてそれが釈尊の説かれた教えであると仮定するならば、その様な宗派の呼び名は釈尊の生きていた世界にも当然あるはずである。そして釈尊の生きていた世界にその様な宗派の呼び名があったならば、釈尊ご自身もその宗派の名前を唱えられたであろう。しかしその様な宗派の呼び名をつけたと言う事実はない。その様な事実から、宗派の呼び名は釈尊が生きて [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 34
  • 天童如浄禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。現代の人々はどの様な理由から釈尊の宗派を仏心宗と呼ぶのであろうか。釈尊ご自身がどの様な理由から無理に心というものだけを取り上げて、自分の宗派の呼び名にする事がありえよう。釈尊の説かれた基本思想というものがどうしてただ心というものだけに限定されるという事があり得よう。もし仮に釈尊の心を中心にした宗派と言う呼び名があり得るならば、釈尊の体を中心にした [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 33
  • 自分(道元)の師匠である天童如浄禅師が言われた。現にさまざまの地方において、仏道に関する説法の席にのぼり師匠と呼ばれている者も多いが、釈尊の説かれた教えの根本の理解というものを承知している者は全くいない天童如浄禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。この様に天童如浄禅師の言われた所から考えてみると、現に五つの宗派を立てて、それぞれが自分の宗派の主張をし、様々な誤りを犯しながら、単に口先だけの言葉に [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 32
  • 「曹洞宗」について道元禅師の注釈は続きます。洞山良价禅師は青原行思禅師から四代後の正しい後継者として、正法眼蔵(釈尊の説かれた正しい教えの眼目の所在)を受け継いで涅槃妙心(静かな素晴しい心境)と言う ものをはっきりと解明し身につけていた。そしてその様な「正法眼蔵」あるいは「涅槃妙心」と言うもの以外に、別に伝承があったとか別に宗派の名前が伝えられたと言う事はない。 洞山良价禅師はかつて、自分の宗派を「曹洞 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 31
  • 「曹洞宗」について道元禅師の注釈は続きます。大鑑慧能禅師がある時、死去されることを通して人々を教化される事となったが、その教団の末席にいた石頭希遷禅師が進み出て、師匠の死後自分はどなたを師匠として教えを受けたらいいか訊ねた。その時大鑑慧能禅師は、青原行思禅師を訪ねよと教えられ、南嶽慧懐譲禅師を訪ねよとは言わなかった。 この様な大鑑慧能禅師の亡くなろうとする際の言葉から考えた場合に、大鑑慧能禅師の持 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 30
  • 「曹洞宗」について道元禅師が注釈されます。 大先輩である洞山良价禅師は雲巌曇晟禅師から法を受けた。雲巌曇晟禅師は薬山惟厳禅師の正統な後継者であった。薬山惟厳禅師は石頭希遷禅師の正統な後継者であった。そして石頭希遷禅師は青原行思禅師のたった一人の後継者であり、石頭希遷禅師と肩を並べるような弟子は見当たらなかった。釈尊の教えやその実践は石頭希遷禅師に対してのみ正しく伝えられていた。 そして釈尊の説かれた [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 29
  • 「法眼宗」について道元禅師が注釈されます。清涼院の法眼文益禅師は、羅漢桂琛禅師の正統な後継者であった。 そして玄沙師備禅師の孫弟子に当たる方であった。したがって釈尊の説かれた教えの基本的な原則をはっきりと持っていて、その思想に関 しては間違いはなかった。 「大法眼」というのは署名につけたところの肩書きである。 この様な肩書きとしての呼び名を正法眼蔵(釈尊の説かれた正しい教えの眼目の所在)に つける名前と [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 28
  • 「雲門宗」について道元禅師が注釈されます。雲門文偃禅師はかつて睦州道蹤禅師に学んだ。 したがって雲門文偃禅師も黄檗希運禅師の孫弟子に当たる方であろう。 そして雲門文偃禅がその後になって雪峰義存禅師の法を継いた。この師匠も、その教えである正法眼蔵(正しい釈尊の教えの眼目の所在)というものを雲門宗と呼ぶべきだなどとは言っていない。 この場合もまた門人たちが潙仰宗・臨済宗と言う呼び名が根拠のない呼び名である [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 27
  • 「臨済宗」について道元禅師の注釈は続きます。臨済禅師がまさに亡くなろうとしたとき臨済禅師言う:自分が死んだ後も、自分が教えた正法眼蔵(正しい釈尊の教えの面目の所在)を滅亡させることがあってはならない。三聖禅師言う:どうして自分がむやみに師匠の説かれた正法眼蔵(正しい釈尊の教えの面目の所在)を滅亡させることがありましょう。臨済禅師言う:急に人がお前に仏道に関して質問した場合にお前はどういう返事をするか。 [続きを読む]
  • 正法眼蔵 仏道 26
  • 「臨済宗」について道元禅師が注釈されます。臨済義玄禅師は、経典の講義をして仏教を文字だけで勉強している宗派を離れて黄檗希運禅師の門人となった。 そして黄檗希運禅師の所で仏道修行をしていたが、質問するたびに杖で二十回ずつ打たれそれが三回に及び、六十回杖で打たれた。そこで陳尊宿という人の勧めで、高安大愚禅師のところに修行に行って、その高安大愚禅師のところで真実を得た。そこで鎮州と言う土地の臨済院におい [続きを読む]