熱田北条 さん プロフィール

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熱田北条さん: 平成金沢文庫
ハンドル名熱田北条 さん
ブログタイトル平成金沢文庫
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/kazusa567
サイト紹介文不況対策に環境製品を!雨水タンク、生ゴミ処理機、バイオディーゼル、LED。21世紀を光の世紀に!
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供177回 / 365日(平均3.4回/週) - 参加 2010/01/18 00:29

熱田北条 さんのブログ記事

  • [転載]小説「信康の死」20
  • 通綱、信康の菩提を弔う 天方道綱は高野山にのぼり、仏門に入った。通綱は高野山にあまたある子院の一つで修行し、徳川信康の菩提を弔っていた。彼の妻は麓の村に郎党と共に住んでいた。郎党が二人のあいだを連絡していた。通綱は信康を弔うために小さな供養塔を建てその前で経を唱えていた。経を唱えおわると、通綱は顔をあげ、はるか遠くを見つめるような表情になり、心のなかで信康に静かに問いかけるのであった。「信康様はど [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」19
  • 通綱、出奔す それから天方通綱は城へあがることができなくなった。城へ行かねばという気持ちはあるのだが体がそれに応じて動かなかった。それでも屋敷内では体を動かすことができた。三日ほどすると、父の天方道興が訪ねてきた。「お勤めを休んでいるときいたが、どうかしたのか」と道興が尋ねると、通綱は答えた。「とくにどこが悪いということはないのですが、妙に体がだるく力が入らなくて疲れやすいのです」「そうか、心労だ [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」18
  • 通綱に対する風当たり さらにその翌日登城したさいに天方通綱が一人部屋にいると、隣の部屋から同僚たちが話しているのが聞こえた。通綱がいるのには気づいていないようであった。一人が言った。「あの男は介錯のさいに千子村正の刀を使ったそうだ」すると、別の男たちが「村正か。村正とはな」「村正というのは、家康様の祖父清康様、父上広忠様を弑し奉った刀だぞ。そのような刀を所持し、信康様をその刀で介錯するとは、奴はも [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」17
  • 通綱を取り巻く雰囲気 天正7年(1579)9月20日すぎのある日、用事を済ませ二俣へ戻ろうと浜松の通りを歩いていた天方通綱は奇妙なことに気づいた。人々がどうも自分を避けているように感じられた。こちらに向かってくる人が俯き加減であったり、横を向いていたり、どうも自分と目を合わさないようにしているのであった。うしろから自分を追い抜いていく者はいなかった。そうかといって背後に人がいないのではなかった。背後からじ [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」16
  • 信康死後の徳川内の様子と天方通綱の立場 徳川信康が切腹すると、彼の死を哀惜して徳川家内部に憤りが噴出した。この憤りは家中の人々の胸中深く沁み込み徳川家内部に底流となって伝わる。後世に「英邁な世継ぎが横暴な支配者の犠牲になった」という形で現われてくる。その一つが、織田信長は信康が自分の嫡子信忠よりも器量において優れているので、織田家の将来を案じて始末させた、というものである。切腹した直後には、その憤 [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」15
  • 信康、切腹させられる 天正7年(1579)8月4日、徳川信康は父家康と対面したあと、岡崎からその西南にある大浜湊に浜松から家康の連れてきた兵により護送された。大浜は徳川にとって伊勢やその他の各地を結ぶ重要な湊町であった。そのすぐ東に西尾城があり、城代の酒井重忠の管轄であった。そして家康は、警備の増援として深溝の松平家忠ら五人の国人衆に弓鉄砲衆を引き連れて西尾に駆けつけるように命じていた。家康自身も5日に岡 [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」14
  • 信康、捕らわれる 天正7年(1579)6月5日の徳川家康と嫡子信康の話し合いは喧嘩別れにおわった。信康を支持している者たちはそれを高く評価した。信康が家康の圧力に屈せずに自分の主張を貫いた、と。そして、彼らは判断した。現在の反織田運動を積極的に推進していけば彼らの主張が通る、と。彼らは勢いづいた。そのため、岡崎の雰囲気は一層悪くなっていった。 信康の正室徳姫や織田家から来た者にとっては敵中に捕らわれたよ [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」13
  • 家康と信康、親子の対立 袋井の陣で起きた事件は、徳川家康が怖れている方向に事態が動いていることを明確に示した。信康たちが武田軍と戦えと主張をしているのは、武田軍が我らにとって脅威であり倒さなければならない敵であると思っているよりは、信長の作戦通りに戦うことが不満であり、我らが織田の支配下にあるということに苛立ち腹を立てているのだ。信長のいうとおりにならない、ということをみせたいのだ。織田に楯突くた [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」12
  • 袋井の陣における対立 岡崎を中心とした西三河に、織田氏の支配が徳川家中に及んでいることに不満をもち、それを受け入れている徳川首脳部に対して反発する空気が濃くなっているなか、徳川家康は天正7年(1579)1月20日吉良に鷹狩に出かけ29日まで滞在していた。このときは織田信長は吉良に来ていない。家康は、そうした空気が親織田派と反織田派との対立になってきているのを承知のうえで、鷹狩を名目にこの地域の状況を検分しよ [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」11
  • 遠江における武田軍との抗争 5武田氏が御館の乱に介入しているという情報に接していたであろう家康は、天正6年(1578)7月に高天神城西の横須賀に城を築いた。この横須賀城は、武田軍侵入の防衛拠点でもあり高天神城攻略を本格化するための拠点でもあった。8月になると、家康は嫡子信康を連れて小山城そして田中城に押し寄せ、周囲を苅田してまわり、苅田で奪った農作物を兵粮として各部隊に配った。この苅田は大規模なものであっ [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」10
  • 岡崎の様子と勝頼のおかれた状況徳川信康が城主をしている岡崎の家中にただならぬ雰囲気が醸しだされてきた。織田信長の支配を好むと好まないにかかわらず受け容れていこうという者たちと、それに反発し、その支配から脱する方向に向かうべきだと主張する者たちの対立が激しくなっていた。時には喧嘩相論も起きていた。反信長派は信康を首領として仰いでいた。信康も心情的に彼らに近くそれを拒まなかったし、積極的に肩入れする姿 [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」9
  • 信長の動き織田信長は、天正3年(1575)に長篠設楽原で武田軍を破ったあと、上杉謙信に武田家討伐の共同作戦を提案しているが、その謙信が天正5年(1577)には明瞭に敵として信長の前に姿を現わした。謙信は前年の12月に能登に侵攻して七尾城を囲んだ。年が明けても能登の各拠点をつぎつぎと攻略していたが、天正5年(1577)3月18日に関東の諸勢力から救援要請があり、いったん帰国し、5月に越山して関東に攻め込んだ。しかし、す [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」8
  • 遠江における武田軍との抗争 4天正4年(1576)の終わりには、遠江東南部の高天神城や小山城を除いて武田方拠点は掃討された。翌5年(1577)の前半は、遠江と駿河の国境付近の情勢は平穏であった。徳川も武田も大規模な軍を出そうとしなかった。このあいだ、武田氏は1月に北条氏政の妹を武田勝頼の正室に迎えることで北条氏との同盟を強化した。それまでの同盟は、武田氏と北条氏とのあいだでは互いに国境を侵さないという形で機能 [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」7
  • 遠江における武田軍との抗争 3 長篠設楽原で武田軍を破ったあと、徳川家康は諏訪原城、二俣城と遠江国内の武田方拠点を攻略したが、遠江にやってきた武田勝頼率いる武田軍本隊とは戦おうとしなかった。こうした家康の対応に、何を生ぬるいことをやっているのだ、相手が弱っているのに、と不満を持っている層が家中にいた。相手は設楽原でこっぴどくやっつけたのではないか、今こそ戦う時ではないのか、戦えば勝てる、と彼らは信 [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」6
  • 遠江における武田軍との抗争 2それでも翌天正4年(1576)3月に高天神城の兵粮入れに武田勝頼自身が出陣して遠州灘沿いを高天神西の横須賀まで侵入してきた。このときは兵糧を運び込むのと高天神への補給拠点として相良に砦を築くのが目的であったのか、前年に比べて軍勢の人数はかなり少なかったし、すぐに引き上げていった。勝頼は四月に父武田信玄の法事をひかえていた。徳川家康も警戒して信康とともに横須賀まで出陣した。両 [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」5
  • 遠江における武田軍との抗争 1 設楽原で武田軍を破ると半月もたたないうちに、徳川家康は駿河へ攻め入り各所に放火し、それから浜松北方の二俣城を攻撃して包囲した。ここには信康も従っていた。そして、遠江北部の武田方の天野氏を封じるために光明城を天正3年(1575)6月24日に落とした。これと同じ頃、奥平氏と酒井忠次率いる徳川の部隊が三河北部の武節城を攻め落とした。これで、三河の武田方勢力は一掃された。そうしてお [続きを読む]
  • [転載]小説「信康の死」4
  •  設楽原における武田軍との戦い 天正3年(1575)5月20日早暁、設楽原は濃い霧に包まれていた。武田軍の陣から貝が吹かれ、太鼓の音が轟いてきた。すると、鉄砲隊が土塁の後ろに控え射撃の準備を始めた。鉄砲隊に関わっていない兵たちは後方で待機し、その前には出るな、と命じられた。信康にも父家康から直接注意があり、数人の武士が身辺警護に付けられた。信康自身ここに三百人ほどの兵を連れてきており、さらに二百人ほど追加 [続きを読む]