熱田北条 さん プロフィール

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熱田北条さん: 平成金沢文庫
ハンドル名熱田北条 さん
ブログタイトル平成金沢文庫
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/kazusa567
サイト紹介文不況対策に環境製品を!雨水タンク、生ゴミ処理機、バイオディーゼル、LED。21世紀を光の世紀に!
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供279回 / 365日(平均5.4回/週) - 参加 2010/01/18 00:29

熱田北条 さんのブログ記事

  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 88
  • 信玄の遠江進攻の目的 元亀3年(1572)10月に遠江に進攻した武田信玄の目的は何であったろうか。健康状態に不安を抱えながらも実行している以上、この時期でなければならない重要なものがあったのであろう。 一つには、徳川氏を倒して遠江国を領国化することが考えられる。高柳光壽氏は『三方原の戦』のなかでそれを主張している。それも二、三年かけて領国化を実現する前哨戦である、と。信玄の健康状態を考えればこのように悠 [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 87
  • 信玄の死 元亀3年(1572)12月22日、武田軍は三方ヶ原で徳川織田連合軍に対して圧倒的な勝利をおさめた。それにもかかわらず、武田軍は浜松城を攻めようとせず、軍を引いて三方ヶ原台地を下りた浜名湖東北岸の刑部に陣を布いた。そこに正月を挟んで十日余りも留まった。いったいどうして相手の本拠に近い刑部にこのように長いあいだ武田信玄は滞陣したのか。しかもそのあいだ表面的には何もしていない。上洛を目指すのならば、二 [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 86
  • 三方ヶ原の戦い 元亀3年(1572)12月22日早朝、武田軍はふたたび動き出した。武田信玄は八幡宮で戦勝祈願ををした。そのときに詠んだ歌で、浜松の幹を倒せとうたわずに枝をたおせとうたっている。信玄の狙いはどのへんにあったのであろうか。 武田軍は二俣から天龍川沿いに南下して浜松に向かった。浜松城の北数キロのところで西に向きを変え、ゆっくりと西に進んだかと思うと、今度は北に向きを変え三方ヶ原台地に上がり、浜松 [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 85
  • 武田軍の東美濃進攻 元亀3年(1572)10月信濃国伊那の高遠で武田信玄率いる武田軍本隊と別れた秋山信友の部隊は、美濃国東部に進入して岩村城を攻撃した。岩村城は信濃と美濃との国境近くにある織田方の最前線の拠点で遠山景任が守っていたが、景任は戦傷がもとで前年に亡くなっていた。景任が亡くなる前にも信友は岩村城を襲撃したが、織田方の援軍がきたため城を落とせずに引き返していた。織田信長にとって、岩村城は岐阜防衛 [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 84
  • 武田軍の遠江進攻 元亀3年(1572)10月3日に甲府を発った武田信玄率いる二万もの武田軍は、10日に信濃との国境の青崩峠と兵越峠を越えて遠江国に進入した。そこには、犬居の天野藤秀が迎えに出ていた。山道を南下して秋葉山に来ると、武田軍は秋葉寺を焼いた。秋葉寺の別当は徳川家康と上杉謙信との同盟締結に働いた叶房光幡である。そして武田軍は犬居城に入った。そこから、武田勝頼が指揮して別働隊が山道を二俣に向かった。そ [続きを読む]
  • [転載]ヴィッツ1300cc燃費トライアル
  • ヴィッツ1300cc燃費トライアルです。豊田市から東海北陸道を走り飛騨高山で給油した燃費がミンカラの最新記事です。http://minkara.carview.co.jp/userid/1567590/car/2315200/fuel.aspx平成20年式の営業用の中古ですが実に丈夫なヴィッツです。20万キロ走行した実積もあります。日本自動車産業発展のために国産代表コンパクトカーの性能をアピールします。転載元: 熱田環境開発㈱ [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 83
  • 信玄出陣 元亀3年(1572)の夏ごろから、武田信玄が出陣するという風聞が流れていた。これを越後への出陣と受けとめた人たちもいた。このように受けとめられるような工作を信玄はしていたのかもしれない。織田信長もそう受けとめた一人であった。このころ、信長は将軍足利義昭とともに信玄と上杉謙信との和睦を試みていた。信玄の出陣が風聞どおりにすぐには実現されず延び延びになったのを、和睦の働きかけが効いて信玄が越後へ [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 82
  • 包囲網に対する信長の反撃 元亀2年(1571)ごろから織田信長に対する包囲網が将軍足利義昭を要にしてつくられつつあった。信長も自分が担ぎ上げ制御しているはずの将軍により追い詰められつつあることを感じていた。このまま包囲網ができそれが絞られてくれば身動きできなくなってしまう。信長にとって、どのようにして包囲網を破るか、が差し迫った問題になってきた。その包囲裳のなかで眼前にいて討伐できないでいるのが朝倉浅 [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 81
  • 信玄と反信長勢力との連携 元亀2年(1571)から3年(1572)にかけて、武田信玄は将軍足利義昭の呼び掛けに応じて反信長勢力の形成そして背後を脅かしかねない北条氏との和解に努め、さらにそれらと並行して本願寺勢力との協力関係を強めていた。夫人の妹が本願寺宗主顕如の妻である縁もあって、今までも加賀や越中の一向一揆勢やそれに連なる神保、椎名諸氏らの勢力と結んで、川中島合戦以来上杉謙信の背後を牽制していた。一年ほ [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 80
  • 三河から戻った信玄 元亀2年(1571)5月に三河から甲斐へ戻った武田信玄は、その年のあいだそして翌元亀3年(1572)の9月ごろまで表面的には鳴りを潜めていた。それは何もしなかったというのではなく、表立った軍事行動を控えていたということである。はっきりと織田信長打倒を射程にいれ、そのための準備、外交を繰り広げていた。たとえば、畿内の松永久秀に対して、「遠江、三河に発向して過半を従属させた。将軍が信長に対して [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 79
  • 武田軍の三河進攻時の信長 武田軍が三河に進攻したとき、織田信長は苦境のなかにあった。朝倉浅井連合軍とは一応の和睦はなったが、一向一揆とは元亀元年(1570)11月に伊勢の長島で弟の織田信興が殺され泥沼の抗争に踏み込もうとしていた。この一揆に連動しようとうごめいている勢力もあった。一揆を指導している本願寺教団の背後には将軍足利義昭がいた。義昭は信長に五ヵ条の条々を突きつけられていたが、これに素直に従がう気 [続きを読む]
  • [転載]北朝鮮と支那に対する恫喝でしょうね
  • F35を12機配備へ=空軍仕様で初、嘉手納に 2017年1月岩国の海兵隊基地にF-35B配備。これだけでも北朝鮮はかなりのプレッシャーを感じているはずなのに、今度は沖縄に空軍仕様のF-35A。アメリカは着々と戦争準備を始めていますな。沖縄嘉手納基地へのF-35A配備は北朝鮮はもちろん、尖閣や南シナ海で怪しい動きをする支那に対しても大きな意味があります。 支那としては、北朝鮮が余計な事をしてくれたせいで自分たちの海洋進 [続きを読む]
  • [転載]ラミってる!14.5ゲーム差の下剋上
  • ズバズバ当たる継投策はまさに神業だあ〜〜〜あのポンコツまで勝ち投手になっちまったwwwhttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171024-00136195-baseballk-baseDeNAが“セ界最大下剋上”日本S進出決定!広島2年連続の進出ならず 24日のプロ野球まとめ10/24(火) 22:04配信 19年ぶりの日本シリーズ進出を決め、喜ぶDeNAナイン=24日、マツダ(C)KYODO NEWS IMAGES 10月24日のセ・リーグCSファイナルステージ結果▼ 広島 3 − [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 78
  • 武田軍の三河進攻の影響 武田軍が三河に進攻することで、武田信玄は徳川氏を攻撃目標であると明確に指定してきた。まず秋山隊が三河に侵入して地ならしをしたあと、信玄本隊が遠江東部を威嚇しながら三河へやってきた。この襲来により、山家三方衆をはじめとする三河北部の国人衆や土豪は武田氏に服属し、三河の北半分の山間地が武田氏の支配に服することになった。 これにより徳川氏は武田軍の大きな脅威に覆われることになった [続きを読む]
  • 1000キロ走行
  • 豊田市から北陸。北陸から岐阜。岐阜から高山。高山から松本を走破しこれで約800キロ。リッター20くらいでした。塩尻で給油し国道19号を恵那市まで走り山間部を通り国道153にでて豊田市まで約250キロを走りました。リッター25直前でした。http://minkara.carview.co.jp/userid/1567590/car/2283254/fuel.aspxワーゲンポロは高速もエコ運転も低燃費が期待できます。 [続きを読む]
  • [転載]家康の駆け抜けた軌跡 77
  • 武田軍の三河進攻  徳川家康が上杉謙信と同盟交渉を進めていた元亀元年(1570)9月の終わりごろ、武田軍の脅威が徳川氏にとって現実となる事態がおきた。武田方の部将秋山信友が兵二千三百を率いて美濃国(岐阜県)東部に侵入してきた。これに対して、東美濃の在地勢力である岩村や明智の遠山氏ら、および三河の作手の奥平氏や田峯の菅沼氏ら五千ほどが連合して上村で迎え討とうとしたが、切り崩されて敗れた。敗走する三河勢を追 [続きを読む]
  • [転載]信長による武田領仕置き 2
  • 信長による武田領仕置きの狙い 2 つぎに、二番目の北条氏に対する信長の態度と滝川一益に関東八州の御警護・東国の儀御取次という役目を命じたのとは互いに関連があることであろう。それは今後の関東および奥羽に対する信長の戦略を表わすものであろう。 武田領へ進攻するさいに信長は同盟を結んでいる北条氏に出陣要請どころか連絡すらしていない。当時北条氏は駿河伊豆国境と上野の二ヶ所で武田氏と交戦中だというのに。今度 [続きを読む]
  • [転載]信長による武田領仕置き 1
  • 信長による武田領仕置きの狙い 1 織田信長は、天正10年(1582)2月に信濃国に進攻し、3月11日に武田勝頼を討ち取り武田家を滅ぼした。その結果、武田家が支配していた甲斐・信濃・駿河・上野四ヶ国を手中にすることができた。その武田領を信長は、長年三河と遠江で武田軍と対峙していた徳川家康および今回の武田攻めに緒戦から加わっていた織田信忠指揮下の滝川一益・河尻秀隆・森長可・毛利長親に分け与えた。3月29日に公表され [続きを読む]