権中納言 さん プロフィール

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権中納言さん: 残された石垣を見つけたい
ハンドル名権中納言 さん
ブログタイトル残された石垣を見つけたい
ブログURLhttp://siroato328.blog13.fc2.com/
サイト紹介文城跡めぐりをします。天守・櫓・門・石垣・堀・曲輪・武将など載せたいと思います
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供17回 / 365日(平均0.3回/週) - 参加 2010/02/23 19:05

権中納言 さんのブログ記事

  • 尾張国 岩崎城
  • 岩崎城は1528年ごろ織田信秀により築城されました。1538年丹羽氏清が、本郷城から移り以後氏織・氏勝・氏次と4代に渡って居城しました。1584年小牧長久手の戦いの際両軍膠着状態を打ち破るため秀吉方の池田恒興が『三河中入り』作戦を実行した。岩崎城の留守居役で城主の弟氏重がその作戦を阻止しようと戦いを挑んだ。その結果、氏重他300名全員が討ち死にし、岩崎城は落城しましたが『三河中入り』作戦を阻止でき [続きを読む]
  • 飛騨国 高山陣屋
  • 金森氏による百余年、六代続いた高山藩政に終わりを告げ1692年徳川幕府は、飛騨国を幕府直轄領としました。高山藩主金森氏の下屋敷を改造し、陣屋としました。明治維新に至るまでの177年間、25代の代官・郡代が江戸から派遣され、行政・財務・警察などの政務をおこないました。米蔵は高山城から移築され、創建400年余と歴史ある建物です。加えて、十万石格の格式高い玄関なども今に残されています。「飛騨高山まちの博 [続きを読む]
  • 信濃国 高遠城跡
  • 高遠城は南北朝の頃より諏訪氏の支族である高遠氏が居城していましたが戦国時代になると甲斐の武田信玄が支配するようになった。1547年信濃統一をめざす信玄は山本勘介に命じ、伊奈谷侵攻の拠点として高遠城を拡張させた。城は三峰川と藤沢川に挟まれた丘陵上の端に本丸・二の丸・南曲輪などの曲輪を、深い空堀と土塁で囲んだ堅固な城でした。1582年高遠城の戦織田軍は5万の軍勢で高遠城に攻め入った。高遠城は3千人の兵力で城に [続きを読む]
  • 信濃国 殿島城跡
  • 殿島城は、1532年伊奈春日城主、春日重親の弟重国が元々の殿島氏居城跡に、名跡を継承して築城したとされます。武田信玄の伊奈侵攻により、仕方なく武田方に服属されます。1556年殿島重国を含む伊奈衆は、信玄に反旗を翻えし抵抗しますが、鎮圧され処刑されました。城は方形の二つの曲輪を二重堀でそれぞれ区画しさらに外堀を配置する平山城でした。小さな城跡と思って登城しましたら広い本曲輪と高い土塁に迎えられ大変驚かされま [続きを読む]
  • 伊勢国 北畠氏館跡庭園
  • 本庭園は、北畠神社神苑の一部となっており往昔の国司居館の庭園遺跡です。作庭者は幕府管領 細川高国と伝えられています。高国の娘は、伊勢の国司 七代北畠晴具夫人になっていて室町末期、将軍家の世継ぎ争いで援軍を頼む為に、婿である晴具の館を訪ねた折作った庭園といわれています。総面積850坪の武家書院庭園で、池泉鑑賞様式となっています。伊勢神宮からナビの示す通りに車を走らせま [続きを読む]
  • 志摩国 鳥羽城跡
  • 鳥羽城は九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆が築城しました。九鬼氏は元々志摩の国人領主であったが対立する他の領主に攻められ、城を捨て逃れました。九鬼嘉隆は滝川一益を介して、織田信長に仕えるようになり水軍を率いて数々の戦功を挙げ、信長の助力を得て志摩を平定信長より伊勢・志摩国に3万5000石を与えられました。本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕え、1594年橘氏の居館跡に鳥羽城を築城しました。標高40mの小山を中心に築いた鳥羽 [続きを読む]
  • 越後国 春日山城跡
  • 南北朝時代越後守護上杉氏が、越後府中館の詰城として春日山城を築城する。1513年越後守護代長尾為景が、城を大改修し移り住みます。1536年為景が隠居し、嫡男春景に家督を譲るも実権は握り続けました。1545年家臣で黒滝城主黒田秀忠が謀反を起し春日山城に攻め込み、 次男景康三男景房を殺した。 のちに城主春景にかわり末弟の景虎が黒滝城を攻め落とし、黒田秀忠は降伏した。1548年春景は末弟景虎(のちの謙信)に家督譲る。15 [続きを読む]
  • 越後国 高田城跡
  • 1598年春日山城主上杉景勝が会津に転封となり、堀秀治が入城。その後、福島城を築城して移りました。1610年徳川家康の六男松平忠輝が越後高田藩七十二万の太守として福島城に入城。1614年高田城を築城して移りました。天下普請で築かれた高田城は、本丸の周囲に二の丸、三の丸をもつ輪郭式の平城で、天守はなく三重櫓を天守の代用としました。堀は土塁で築かれ、川を外堀として利用しました。短期築城の為か、石垣は築かれませんで [続きを読む]
  • 近江国 八幡山城跡
  • 1582年本能寺の変で安土城が燃える。1583年清州会議にて安土城主に、信長の孫三法師と決まったが安土城は再築されませんでした。1585年近江を中心に43万石の領主となった豊臣秀次が、八幡山城を築城。八幡山山頂部に本丸をもうけ、二の丸・西の丸・北の丸・出丸が配置され安土城に残された建物・城下町などを、この地に移しました。1590年秀次は尾張・伊勢100万石を与えられ清州城へ移り八幡山城には京極高次が2万8000石で入 [続きを読む]
  • 近江国 朽木陣屋跡
  • 1570年織田信長は朝倉攻めの折、浅井長政の裏切りの情報を受けて金ケ崎より京へ脱出しました。その際、朽木庄を支配していた朽木元綱の協力により、脱出に成功しました。朽木庄を支配した朽木氏の城館跡近代化にのまれ遺構が消えつつありました。郷土資料館も閉まっていて、少し残念な登城でした。 にほんブログ村 [続きを読む]
  • 近江国 大溝城跡
  • 浅井氏滅亡後織田信長より、高島郡一円を委ねられていた新圧城主磯野員昌が突如出奔した為、員昌の養子となっていた津田信澄(信長の弟信行の嫡男)が所領を引き継ぎ、1578年大溝j城を築城する。明智光秀が縄張りをしたとされ、琵琶湖とその内湖を巧みに取り込んで築いた水城でした。1582年6月2日本能寺の変が起きると明智光秀の娘を妻としていた津田信澄に嫌疑がかかり6月5日四国遠征途上の信澄は摂津国野田城にて織田信孝(信長 [続きを読む]
  • 尾張国 大野城跡
  • 大野城は1350年頃三河国守護の一色範氏が知多半島に勢力をのばしその子範光が伊勢湾を見下ろすこの地に城を築いたのが始まりといわれます一色氏は将軍足利義政と対立した為三河守護職を失い勢力を衰退させて大野城は尾張美濃の守護土岐氏に奪われ近江出身の家臣佐治宗貞が六万石を領して大野城主となり、以後135年間佐治宗貞、為貞、信方、信吉と4代にわたって居城する。1574年長島一向一揆で信吉で戦死5代目一成 &# [続きを読む]
  • 尾張国 大草城跡
  • 模擬櫓             1584年小牧長久手の合戦後、知多の領主佐治氏が没落し織田信長の弟織田長益(有楽斎)が知多郡を与えられ知多大野城に入りました。しかし水利が悪い為、水利のよい大草に新たに築城を開始しました。1590年豊臣秀吉の御伽衆として、摂津国に2000石を領して転封となった為完成を待たずに廃城となりました。本丸・二の丸は堀で囲われ、土塁も良好な状態で残されています。居城されなかっ [続きを読む]
  • 鏡島城跡 美濃国
  •      城址碑 /  倉穂魂稲荷大明神 (このあたりが本丸とされる)        鏡島城は16世紀初めに、石川駿河守光清が築城しました。光清の孫、光信は織田信長に、光信の子、光政は豊臣秀吉に仕え4代に渡り鏡島城の城主を務めました。子孫は徳川幕府の旗本として生き抜きました。鏡島城は関ヶ原の戦い後、廃城となりました。現在残された城の遺構はありません。城址碑は驚くことに民家の庭先にあります。 [続きを読む]
  • 播磨国 三木城跡
  • 本丸跡三木城は1492年ころに東播磨の守護代、別所則治が美嚢川南岸台地上に築城しました。別所氏歴代が居城しました。三木城の戦い別所長治ははじめ、羽柴秀吉の説得により織田陣営に属しましたが1578年突如反旗を翻し、毛利方つきます。東播磨の国人衆も、別所氏に同調して毛利方についた為秀吉は国人衆の城を先に落とし、別所氏の三木城を孤立させます。その時、摂津国有岡城主荒木村重が、突如信長を裏切り籠城した為挟ま [続きを読む]
  • 丹波国 篠山城跡
  • 篠山城は徳川家康が大坂城の豊臣勢の封じ込めと丹波路を押さえて、西国の大名と大坂方との分断を目的に1609年西国の15ケ国20大名に、天下普請の助役を命じました。縄張奉行藤堂高虎、普請総奉行に池田輝政らが指揮を執り1年足らずで完成させました。初代城主は松平康重が八上城から移り入城その後、藤井松平家二代、形原松平家五代、青山家六代の居城を経て明治を迎えました。内堀内には、本丸と二の丸を設け天守は建設されな [続きを読む]
  • 丹波国 亀山城跡
  • 亀山城は1577年丹波攻略の拠点として織田信長の命をうけた明智光秀が築城しました。1579年光秀丹波を平定する。1582年本能寺の変(光秀亀山城より出陣)・山崎合戦豊臣政権の重要拠点として豊臣一門が入城する。1583年豊臣秀勝(信長四男)入城1585年豊臣小吉秀勝(関白秀次の弟)入城1589年豊臣秀俊(後の小早川秀秋)入城1595年五奉行の一人前田玄以が入城する。1600年関ヶ原の戦い1602年徳川幕府直轄地となる。1609 [続きを読む]
  • 美濃国 河渡城跡
  • 河渡城は古くより風土記に名を残しています。戦国時代1556年ごろ、井戸頼重が居城したとされ土岐氏・斎藤氏・織田氏と主君を変え仕えました。1579年不届きな行動で、織田信忠から成敗されたとされます。その後安藤守就の子尚就の城となったとも言われますが1580年に安藤守就は織田信長から、突如追放されます。1582年本能寺の変後、安藤氏は旧領復活を図り北方城・河渡城・本田城を襲撃するも稲葉一鉄の反撃に滅ぼされてしまいまし [続きを読む]
  • 美濃国 岐阜城跡
  • 現在の旧岐阜城下風景(展望台からの眺めが最高です)信長公居館跡発掘風景(地道な作業が行われています)岐阜城石垣跡(山上の石垣は一部残されています)岐阜城は関ヶ原戦い前哨戦で落城し廃城になりました。最後の城主、織田秀信は岐阜中納言と呼ばれていました。私、権中納言が久しぶりに金華山(岐阜城)に登ってきました。軽やかに登れたのですが、下りはひざに負担が掛り痛さを大我慢 [続きを読む]
  • 三河国 二連木城跡
  • 1493年田原城主戸田宗光が築城し、二連木城に移る。田原城は嫡男の憲光に譲り、渥美郡北部の敵対勢力の制圧を図る拠点となりました。1590年徳川家康の関東への国替により二連木城主戸田康長は、家康より松平姓を受け松平康長となり、戸田宗家を受け継ぎこの地を離れることとなりました。替わって東三河に入った池田輝政は、吉田城を拠点とした為近くだった二連木城は廃城となりました。二連木城は朝倉川を [続きを読む]
  • 三河国 田原城跡
  • 桜門と堀(枡池)田原城は1480年戸田宗光が築城したとされています。その後、戸田家は戦国時代初頭、東三河を支配するも、西三河の松平氏の配下となりさらに守護大名今川氏の支配下となった。1547年戸田康光は、今川義元へ人質として送られる松平竹千代(徳川家康)を強奪し、敵対する織田信秀に引き渡します。激怒した今川義元に、田原城は攻め落とされ、康光も戦死しその後今川氏家臣天野景貫が城代として入る。1560年桶狭間の戦 [続きを読む]
  • 尾張国 沖村城跡
  • 林秀貞は1538年織田信長が4歳で那古野城主になったとき信長付筆頭家老となりました。その林秀貞の居館跡が沖村城です。1556年信長の弟、織田信勝の反乱である稲生の戦いで柴田勝家とともに信勝に味方し、信長に負けてしまいますが信長に許され、筆頭家老として、その後の織田家躍進に力を発揮しました。1580年信長により24年前の謀反を理由に、突然追放されてしまいました。大ショックを受け2ヶ月後亡くなりました。遺構等はありま [続きを読む]
  • 若狭国 国吉城跡
  • 本丸虎口跡国吉城は、1556年若狭国守護大名武田氏家臣粟屋勝久が、越前との国境に近い三方郡佐柿にあった古城跡を利用して築きました。1563年、越前朝倉氏の軍勢が攻め寄せましたが見事撃退し、以降毎年侵攻する朝倉勢と戦い城を守り通しました。1570年勝久は、織田信長の軍勢を迎え入れ織田軍は、ここ国吉城から越前攻めに向かいました。1573年勝久は、織田勢に加わり一乗谷に出陣朝倉氏は滅亡しました。1583 [続きを読む]
  • 越前国 小丸城跡
  • 本丸虎口付近の残された石垣は、とても雰囲気がいいです。1575年織田信長が越前一向一揆平定後府中三人衆の一人、佐々成政が小丸城を築城しました。味真野の扇状台地の末端に野々宮廃寺跡の一部を取り込み東西300m南北450m規模の城域でした。1581年佐々成政が越中富山城に移り廃城となりました。本丸・二の丸・三の丸・隅櫓跡などが確認でき堀・土塁・石垣の遺構を見る事ができます。越前そばの里 [続きを読む]