修ちゃん さん プロフィール

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修ちゃんさん: 簾満月のバスの助手席
ハンドル名修ちゃん さん
ブログタイトル簾満月のバスの助手席
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/sudare-m
サイト紹介文バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。
自由文JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供155回 / 365日(平均3.0回/週) - 参加 2010/04/02 19:33

修ちゃん さんのブログ記事

  • 畳表の早島 (JR乗り潰しの旅・宇野線)
  •  早島駅の裏、道路脇の広々とした田圃の中に「畳表の早島」と書かれた大きな看板が立っている。ここ早島は、かつてはい草の産地、畳表の生産地として知られて処である。 駅を降りると右手正面に「早島町観光センター」が有る。町内に有った古い蔵を解体した廃材を再利用し建てられた施設で、内部には観光案内所を始め、い草製品の展示即売所、パン作り工房、喫茶店などが併設されている。 その昔この地は、吉備の穴海と呼ばれる [続きを読む]
  • 宗忠神社 (JR乗り潰しの旅・宇野線)
  •  宇野線の列車は岡山駅を出ると、山陽本線と別れ南に進路を変え、市街地を見下ろしながら高架を行き、しばらくして大元に停車する。ここらあたりはまだ中心市街地に近く、駅の周辺には広い道路が通り、工場・オフィスや商業施設、高層マンションや住宅が入り混じる喧噪を残した所だ。 江戸時代末期に、「幕末の三大新宗教」と言われる新教が誕生した。奈良では天理教が、岡山では大谷村(現浅口市)で金光教が、御野郡(現岡山市 [続きを読む]
  • 宇野線 (JR乗り潰しの旅・宇野線)
  •  宇野線は岡山と宇野の間32.8Kmを15駅で結ぶ路線で明治43年に開業している。嘗ては首都圏、京阪神や山陰からも、準急の「わしう」(大阪-宇野)、「砂丘」(宇野−鳥取)等、長距離の夜行、寝台などの列車が何本も運行されこの線の終着駅を目指していた。 当時長距離列車の始発駅では座席確保のために早くから駅のコンコースなどに行列をしたものである。やっとの思いで確保した座席で、列車の揺れに身を委ね、或は夜汽車の浅い [続きを読む]
  • 長距離列車 (JR乗り潰しの旅・宇野線)
  •  列車に乗って旅をしている時、ふと思うことがある。かつての国鉄はその全盛時、普通列車のみならず、優等列車として準急、急行、特急など多彩な運行を行っていて、そんな列車の中には、長い時間を掛けて長距離を行くものが幾つもあった。 複数の路線を経由して、どこかの駅で分割・併合を繰り返しながら、更に先の路線へ向かうなど、複雑なルートを辿る列車も有ったようだ。今で言うなら企画物のミステリーツアーのような運行で [続きを読む]
  • 長い停車時間(JR乗り潰しの旅・宇野線)
  •  列車に乗っていて、たまにどこかの駅での長時間停車に出会すことがある。度々停まれば、「またか、早く行けばいいのに・」となるが、これが長時間移動の最中なら、時にそれはありがたく思えることもある。 いくら鈍行列車の旅が好きとは言え、堅いシートに座っての長時間の乗車は、足腰が痛くなっていることも多いので、たとえ僅かな停車時間でもホームに降り立って、その土地の空気を吸いながら深呼吸をし、体を屈伸するだけで [続きを読む]
  • 「なまはげ」(JR乗り潰しの旅・宇野線)
  •  「急行・きたぐに51号」に米原から乗り込んだ。目指すさきは秋田県の男鹿半島、この地方に古くから伝わる年末の恒例行事「なまはげ」を見学する為の北行きである。 当時この列車は大阪を19時15分に発車、東海道本線の米原から北陸本線に入り、直江津から信越本線で新潟を経て、秋田まで行く夜行の急行列車であった。米原は21時09分発で小松辺りで日付が変わり、新潟には7時15分に到着している。 このまま秋田まで行けば14時05 [続きを読む]
  • 発駅着席券 (JR乗り潰しの旅・宇野線)
  •  二十代の頃は、会社の正月休みを利用してよく旅に出た。それも一泊や二泊の旅ではなく、一週間十日をかけて各地を巡る旅である。そんなとき役の立ったのが、当時の国鉄の長距離列車や夜行列車であった。 昭和44年正月五日、九州で九泊目の朝を長崎ユースホステルで迎えた後、長崎発10時14分「急行・いなさ2号」に乗車、博多に13時22分着いた。今なら同じ経路を行く「特急・かもめ」なら2時間ほどの所要である。 そこから山陽本 [続きを読む]
  • アニメの聖地 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  2017年3月長編アニメ映画「ひるね姫〜知らないワタシの物語〜」が全国ロードショーされた。その物語の舞台になったのがここ下津井である。この地に暮らす平凡な高校三年生の森川ココネが主人公の物語で、次から次と浮かび上がる謎を解決しようと、幼馴染みの大学生と不思議な冒険を繰り広げる姿を描いている。 「港があり、その向こうに瀬戸大橋が有って。町も素敵だし海がキラキラしていた。また日本昔話みたいな島がぷかぷか [続きを読む]
  • 下津井節 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  「下津井港はヨー 入りよて 出よてヨー まとも巻きよて まぎりよてヨー♪ トコハイ トノエ ナノエ ソレソレ♪」 「まとも巻き」とは舟が追い風を受け、帆を巻き上げる事で、「まぎり」とは向かい風で、帆が風を斜めに受けて進むことだそうだ。下津井の港は入るにも出るにも具合が良く、追い風でも向かい風でも不自由しないとても良港だと唄う「下津井節」の古里が倉敷市南部に位置する下津井である。 下津井は古くから [続きを読む]
  • 下津井駅跡 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  緩やかに坂を下り、前方の大向山(111m)に突き当たる辺りで大きく左にカーブし、さらに下れば左手に下津井の集落が広がり、それを見ながら暫く行けば終着駅の「下津井駅跡」である。 駅跡は公園としてよく整備されそこにはホームが有りその前には線路床もあり、一部には線路も当時のままに残されている。2面2線の立派な行き止まり駅である。こんな駅の姿を見ていると、今にも列車が入線してきそうな錯覚さえ起こす。 駅跡の [続きを読む]
  • 列車の後押し (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  廃線跡の道は、ここからは下りに転じ、ひたすら終着の下津井漁港前を目指す。暫く下ると県道393号に合流し、その先でこれを横断しさらに下れば、「東下津井駅跡」で、ここまで500mほどである。 右手を見上げれば大きなリゾートホテルの建物や、ブラジリアンパーク・鷲羽山ハイランドの遊具が林立しているのが見える。垂直落下するターボドロップや、世界一怖いと言われるスカイサイクルに乗る人々のの悲鳴が今にも聞こえてきそ [続きを読む]
  • 瀬戸内海国立公園 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  昭和6(1931)年国立公園法が施行され、その三年後の昭和9年3月に我国最初の国立公園の一つとして指定されたのが瀬戸内海国立公園である。多島海景観と人文景観が一体をなす独特の自然風景が評価されての事だ。今では、東は和歌山県の加太・友が島・新和歌浦から、西は北九州市の関門海峡辺りまで11府県にまたがっている。 岡山県内の公園区域は広範囲で、日生諸島、笠岡諸島などの島々と、沿岸の夕立受山、牛窓、貝殻山、金 [続きを読む]
  • 鷲羽山 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  切通の道を抜けると前方は明るく開け、標高45mの地点沿線では福林湖越えの60mに次ぐ高所にある「鷲羽山駅跡」に到着だ。よく整備された駅跡には、この沿線では珍しいトイレも併設されている。 絶景のビュースポットである。目の下に下津井田ノ浦漁港の密集した民家群が見え、その先はもう瀬戸内海の青い海が広がっている。左手には、海峡への第一歩となる吊り橋「下津井瀬戸大橋(1447m)」の高さ146mの主塔が聳え立ってい [続きを読む]
  • 切通の道 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  左手の視界は良く開けていて、目の下は大畠漁港の様で、左手が児島ボートレース場だ。大きな大会が開かれているようで、観戦するファンの姿も見て取れる。その先瀬戸内海の海を隔てて向うに見える陸地は、かつて四国・坂出との連絡を担った湊が有った田ノ口から、県下では最大の海水浴場の有る渋川海岸辺りであろう。 やがて標高も40mほどに達すると道は視界が遮られる切通の道へと転じていく。丁度この辺り右手ではでJR瀬戸 [続きを読む]
  • 緑の風の道 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  赤崎はかつて武左衛門が、味野と共に開発した塩田が広がる土地であった。塩田王とまで言われた武左衛門は、開発した地名から一文字ずつを取ってこの地を野崎浜と呼び、自らは名字帯刀を許され野崎武左衛門と名乗るようになった。そんな備前赤崎駅の手前辺りから沿線の標高は少しずつ高くなる。 この先で車の往来の激しい国道430号を横切るが、ここでは緑の風の道も中断されているので迂回路を行くことになる。再び廃線跡道に戻 [続きを読む]
  • 旧備前赤崎駅跡 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  廃線跡の道は沿線の民家の軒先を翳めるように1.3Km先の「旧備前赤崎駅」に向かう。住宅地により近いこのあたりの線路脇には、住民の手によるものなのか、四季の草花や、花木が沢山植えられていて、道行く人々の目を楽しませている。 さらにここから先は、廃線後まだ二十数年と間もないせいなのか、鉄道の遺構がいたるところに残されているので、鉄道ファンのみならず、鉄道のことが良く解らないと言う人などでも古いものを見つ [続きを読む]
  • 旧児島駅舎 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  旧下津井電鉄は、茶屋町と児島間が昭和47年に廃止され、さらに平成2年には残っていた児島下津井間が廃止され、完全に電鉄事業から撤退することとなった。その廃線跡の殆どは倉敷市に払い下げられ、市はその廃線跡を自転車・歩行者専用道路として、茶屋町と児島の間は「花の風の道」、ここ児島から下津井の間は「緑の風の道」として整備をして来た。その「緑の風の道」の起点となるのが「旧児島駅」である。 元々は大正橋近くに [続きを読む]
  • 味野商店街 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  大正橋近くに造られた味野町駅、当時は児島の町の中心的な場所であった。江戸時代から当地では塩田開発が行われ同時に綿花栽培も盛んに行われていた。明治になると紡績工場なども設立され、市街地の形成が始まり、大正になって軽便鉄道が開通すると町は一層の賑わいを見せるようになる。 その代表的な場所が「味野商店街」であった。発展を続ける町の繊維産業には、全国から集団就職の女性が集まり住み着いた。野菜や鮮魚から日 [続きを読む]
  • 児島の野崎家 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  旧下津井電鉄は、味野(児島)と下津井までの間6.5Kmが大正3(1914)年に延伸され全線が開通した。味野(児島)と茶屋町はその1年ほど前に開通しているが、これは鷲羽山越えの岩盤開削工事に手間取った事や、児島の有力者であり用地の提供者であり、開通後は大口の顧客となる野崎家に対する配慮が有り、取りあえず先行開業したようだ。 野崎家とはこの地に住まう、備前を代表する大庄屋を務める家柄である。江戸時代後期にこの [続きを読む]
  • 花の風あいさつロード (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  昼食を済ませしばらく県道を歩き、その先の稗田南の交差点手前を右に入る。その角に「花の風 あいさつロード」と書かれた看板が立っていて、ここら辺りから先は、再び自転車・歩行者専用道路となっていた。 ここから児島の大正橋までの4Kmほどの間は児島小学校の通学路になっていて、子供たちを中心に挨拶運動が行われ、合わせて沿線の整備にも力を入れているらしい。  しばらく行くと「稗田駅跡」が見えてきた。一段と高い [続きを読む]
  • 福林湖越え(下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  松楠山(235m)とそれに連なる正面山(236m)の山裾を巻くように上り、福林湖あたりでサミットを迎える線路跡の道は途中殆ど人と行き会うことがない。茶屋児島自転車道1号線もこの辺りは自転車・歩行者の専用道と言うわけでもなく、地元の生活道路の一部となっているが、まれに車が通るだけの寂しい道である。そんななか、自転車に乗った男女二人連れとすれ違い、あいさつを交わしたのが、なぜか懐かしく、ほっとした出来事で [続きを読む]
  • 沿線の最高所 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  下津井電鉄の廃線跡であるサイクリング・ウオーキング専用道路は、県道21号に合流するとしばらくはそれと並走し、瀬戸中央自動車道の水島ICを巻くように左に曲がり、ここからは高速道路に沿って南下する。 相引池南の交差点辺りが「福田駅跡」とされているが、それを示す痕跡はどこにもない。僅かに道路が左側に広がり少し高くなっているので、それがホームの跡かと推察する程度である。 この辺りの標高は30mほどで、道は県道 [続きを読む]
  • 五流尊龍院 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  奈良時代(8世紀ころ)この地は「熊野神社」と修験道の寺院が一体となった神仏習合の形態をとる新熊野権現と言う宗教施設で広く信仰されていたが、それも平安時代以降は衰退したと言う。そして、明治の神仏分離令で十二社権現は「熊野神社」となり、修験道が禁止され分離された「五流尊龍院」は天台宗の寺院となったが、第二次大戦後に天台宗から独立し、再興されて日本修験道の本庁となった。 そんな歴史を物語るのが境内の東 [続きを読む]
  • 熊野神社 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  その先に「中国自然歩道 熊野神社 0.5Km」と書かれた道標が立っていた。下津井電鉄の廃線跡であるサイクリング・ウオーキング専用道路から離れ、車の激しく行きかう県道を横切り、住宅地の旧道らしい小路を暫く進むと立派な石の鳥居が見えてくる。石柱には、「日本第一 熊野神社 十二社権現」と書かれている。 鳥居をくぐり、数段の石段を上り真っ直ぐ伸びる参道を百メートルほど進むと、正面に市街地には珍しいほどの俗化 [続きを読む]
  • 旧藤戸駅 (下津井電鉄廃線跡を歩く)
  •  ここまでゆっくり歩いて凡そ40分、距離にする2.4Kmほどである。注意深くここまで来たが、廃線跡を彷彿させる遺構は何も目にすることが無かったが、ようやくそれらしいものが目に入ってきた。道路の左側隅が一段と高く舗装されている。石積で嵩上げされ、長さは結構あるが、幅は1.5mほどの高台はどうやらホームの跡の様だ。 ホームは当時のままらしい。後ろに立つ枕木製の安全策も当時のものであろうか、残されてはいるが無残な [続きを読む]