ヒロブー さん プロフィール

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ヒロブーさん: ビロビロブーのブログ
ハンドル名ヒロブー さん
ブログタイトルビロビロブーのブログ
ブログURLhttps://ameblo.jp/hirohirobbb2000
サイト紹介文子育てについて、成功法則について、潜在意識について書いています。海外情報もときどき
自由文ハワイでヒプノセラピストしています。2人娘を持つパパです。子育て中に気付いた事を書いています。また潜在意識の観点から自己啓発系の事も書いています。「子供が育つパパの言葉」エッセイ集をダウンロード可能です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供81回 / 365日(平均1.6回/週) - 参加 2010/04/26 00:26

ヒロブー さんのブログ記事

  • 内観13 高校受験
  • 前の記事 中学3年の時、高校進学のための進路指導が担任の先生と父親の3人でありました。 担任の先生は、自分の今までの偏差値に基づいて、この学校なら合格の可能性あるのでこの学校を受験するように、と指導ありました。 自分が行きたい学校があったので、「嫌です」、と断ったのですが、担任は「お前にはその学校は無理だ」、とはっきり言いました。 埼玉の中学に通っていたのですが、そこでは北辰テストと言うものが定期的に [続きを読む]
  • 内観12 父のゲンコツ
  • 前の記事 中学生になると声変わりをしたり親ともあまり話さなくなります。これは自然な成長過程の変化であり、特に親に反発しているとか反抗していると言う訳ではありません。 自分は中学のある時期に、父親から毎日のように殴られていたことがあります。 それもゲンコツの時もあり、武器(ビール瓶の巨大の栓抜き)を使ったり。 自分にとって、身に覚えのないことで殴られていたので、なぜ殴られるのかわかりませんでした。 父親 [続きを読む]
  • 内観11 長女との富士登山 2回目
  • 前の記事 2011年8月、再び長女と一緒に富士山に登ることになりました。 2009年8月の時は、自分の判断で途中で引き返してしまいましたので、今度は再チャレンジです。 ちなみに、その前に、妻と離婚について話し合うために家庭裁判所に行ってますので、微妙な時期でした。 長女は、今度こそ絶対に登頂すると意気込んでいたそうです。 妻と2人の娘は3人で8合目の山小屋に先に到着。 別居していた自分は、一人で翌日の朝 [続きを読む]
  • 内観10 長女と富士登山 1回目
  • 前の記事 長女がまだ5歳の頃、富士登山にチャレンジしました。 長女が通っている保育園で一緒の子供が、富士山に登頂したと聞いて影響されたのと、次の年から通う予定にしていた小学校が、在学中に富士山に登頂することを課題にしていたためです。 この時は、まだ離婚をしておらず、単身で米国ボストンで別居生活をしていました。 早朝、駐車場に到着してシャトルバスで5合目までいき、自分と長女の二人で登り始めました。 この [続きを読む]
  • 内観9 富士登山
  • 前の記事 離婚も正式に成立して、しばらく月1回のペースで子供たちと会うことができました。ファミレスなどで食事を一緒にするだけでしたが、1時間から2時間程度、子供たちとの過ごせるようになったのでありがたかったです。 ちなみに、子供たちと会うときは、元奥さんと義理の母親も一緒でした。 子供と全く会うことができないという人の話も聞きますので、それに比べればありがたかったです。 その後、仕事の都合で、再び米国 [続きを読む]
  • 内観8 離婚調停
  • 前の記事 やり直そうと思って再び日本へ戻りましたが、ダメでした。堂々巡りと自己処罰の日々を過ごしていましたが、いつまでもこんな生活を続けていても仕方がないと思い、また日本の家族の元に行きました。 今後のことを話し合おうと思って。 すでに妻は離婚届けを市役所から取り寄せていました。離婚届に必要事項を書いていると、長女は言いました。「ママと一緒に暮らす」と。 今まで子供の前で喧嘩ばかりしていたので、そんな [続きを読む]
  • 内観7 再び日本へ
  • 前の記事 ハワイで生活していた時期、日本で内観を体験してから観の転換が起きて、また家族とやり直そうと言う気持ちになりました。そして、再びハワイから日本に向かいました。 家族と過ごしながら、仕事も探そうと履歴書をあちこちに送りました。この時、下の娘はまだ2歳ぐらい。久しぶりに帰ってきた自分にベタベタとして離れようとしませんでした。 子供の成長は早いものです。ついこの間まで赤ちゃんだったのに、2本足で歩 [続きを読む]
  • 内観6 子供時代と40代
  • 前の記事 小学校2年のころ、宿題を家でやっていてわからないところがあったので、母親に聞くと、「今忙しいから自分で考えなさい」と言うように言われて教えてもらえなかったことがありました。 子供から色々質問されても、「うるさい、今忙しいから後にして」と言ってしまいがちです。 実際、親は仕事や家事で忙しいので、子供の相手をしたくてもできないという事情はあります。ですので、子供の質問にいちいち答えてあげられな [続きを読む]
  • 内観5 40代
  • 前の記事 別居生活を始めてからしばらくして、米国に行くことにしました。たまたま永住権が当選したからです。 ハワイに行き、数ヶ月を過ごしてからボストンに行きました。そこで約1年間過ごしてからまたハワイ島に戻りました。 その間、年に2回程度日本に戻りましたが、日本に戻っても喧嘩ばかりしてましたので、また米国に戻ると言う生活を繰り返していました。 しかし、単身で米国暮らしをしていても、頭の中ではいつも子供の [続きを読む]
  • 内観4 40代
  • 前の記事 娘がまだ4歳ごろ、別居することにしました。時々週末など家に帰ってきましたが、すぐに家を出ると言う日々を過ごしていました。 別居の理由は、妻の母親との同居が原因です。義理の母は認知症の要介護認定を受けており、毎日デイサービスに通っていました。毎日、送迎がきて、ゲームをしたり友達とおしゃべりしたりと、義母はデイサービスに行くのが楽しみなようでした。 週に一日だけデイサービスを休む日がありました [続きを読む]
  • 内観3 子供時代3
  • 前の記事 まだ小学生にならないころ、3歳くらいだったと思いますが、祖父母の住む田舎に数ヶ月間、一人で預けられたことがありました。理由は、母親が病気で入院していたからだったと思います。 近所に年が近い従兄弟が住んでいて、仲良く遊びました。夜は、おばあちゃんの隣に布団敷いて寝ましたが、寝る前に横になりながら、毎晩絵本を読んでくれました。 ある日、父親が自分の様子を見に田舎に訪ねてきました。久しぶりに父親 [続きを読む]
  • 内観2 子供時代2
  • 前の記事 小学低学年の時、学習塾に通わせてもらいました。ただ、そこは歩いて行くには遠いので、親が一緒に送り迎えしてくれました。主に父親が車で送迎してくれたのですが、平日の午後、学校が終わってからという時間帯ですので、今から思うとよく送迎してくれたなと思います。 米国では、子供の学校や塾やクラブ活動に、親が車で送迎するのは当たり前ですが、公共の交通機関の発達している日本で、平日の午後に父親が車で送迎 [続きを読む]
  • 内観1 子供時代
  • 小学生のときは団地に住んでいました。家計が苦しい時代で贅沢はできませんでしたが、食べるものに困ったことはなく、それなりに生活できていました。 小学校に入学した時、自転車を買ってもらいました。それもブリジストンの高いブランドものでした。 家計が苦しい時代だったのに、小学生になったお祝いとして親が奮発して買ってくれたのです。 ある日、もうすぐ雨が降りそうな天気だったのですが、自転車で乗りたくて、今から外 [続きを読む]
  • 伊藤博文の暗殺を予想した男、高島嘉右衛門
  • 明治2年(1869年)、9月10日、大隈重信と伊藤博文は、横浜のイギリス公使館を訪問した後、高島屋に一泊。 そこで、高島は、東京横浜間の蒸気機関車の鉄道計画を提案しました。 大隈重信と伊藤博文も、海外視察旅行で、実際の蒸気機関車を見てきたので、いつか日本にも走らせたいという願望はありました。 しかし、資金面など問題は山住みであり、なかなかその実現に向けた計画を実行するまでには至っていませんでした [続きを読む]
  • 官軍に破れた南部盛岡藩の復帰の手助けをした、高島嘉右衛門
  • 1863年1月31日、品川御殿山で建設中のイギリス公使館が、高杉新作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文らに焼き討ちにされました。(英国公使館焼き討ち事件) 1865年、オールコックの後任に来日した、イギリス公使バークスは、横浜居留地の中の二十番館のホテルに住んでいました。 高島嘉兵衛は、イギリス公使バークスと面会しました。 人脈を使ってアメリカ公使ウェンチェストンから紹介状をもらっていたので、特別に会 [続きを読む]
  • 幕末の江戸で獄中生活を送った高島嘉兵衛
  • 高島嘉兵衛は、なんとかこの借金を返済しようと思い、ある貨幣取引に手を伸ばしました。 それは、小判を銀貨に交換するというものでした。 そのカラクリは、小判を小判としての貨幣価格で使用せずに、小判を鋳潰して金塊とし、金の時価で売れば、公定換算率の倍以上で売ることができる。 そして、裏取引で銀貨に交換し、銀貨を公定相場で売れば、その差額だけで膨大なものになる、というものでした。 しかし [続きを読む]
  • 伊藤博文の暗殺を予知して満州行きを止めようとした、高島嘉右衛門
  • 高島嘉兵衛は、千両の融通を鍋島藩に頼み込みにいきました。 なぜ、材木が儲けになるかというと、急に材木相場が暴騰するという読みがあったからです。 その読みは、巨大地震による家屋の倒壊。 高島嘉兵衛は、融資を受けた千両で、材木を買いあさりました。当時の江戸は不景気が続き、木材の価格は極度に安かった。 また当時の商法では、一割程度の手付金で取引が決まり、後日の価格の変動にかかわらず、確実に取引価格で受け渡 [続きを読む]
  • 朝鮮の工業化を推し進めた、野口遵の生涯
  • 「朝鮮、韓国は、日帝の被害者である。このことを理解してほしい。」と、韓国政府は、繰り返し日本政府に主張しています。 しかし、日韓併合時代、朝鮮半島の電力供給の増強と工業化を実現するために、人生を捧げた多くの日本人たちがいました。 その中心的な役割を演じた人物の一人が、野口遵(したがう)(通称名(じゅん))でした。 彼は、東大を卒業後、独シーメンス社に勤務しますが、10年後に退職。 その後、カーバイド [続きを読む]
  • 親日に変化していった朝鮮独立活動家たち
  • 朝鮮の独立宣言書を書いた独立活動家たちは、親日に変化していきました。彼らはなぜ、親日になっていったのでしょうか? 明治43年(1910年)、日韓併合。大正7年(1918年)1月8日、米国のウィルソン大統領が、アメリカ連邦議会で「十四か条の平和原則」を演説。その「十四か条の平和原則」の第5条には、植民地問題の公正な措置について書かれており、「民族自決」が提唱されました。この「民族自決」とは、各民族集 [続きを読む]
  • 日韓併合の時代、朝鮮に渡り金融改革を断行していった日本人たち
  • 明治28年(1895年)、日清戦争で日本の勝利ののち、清と調印された下関条約に基づき、明治30年(1897年)、正式に清の冊封体制から独立することができた朝鮮(大韓帝国)。しかし、独立したとはいえ、経済は麻痺して、独立国家としての国家運営は、とてもできていませんでした。そのような状況にも関わらず、朝鮮に渡り、金融改革を断行していった日本人たちがいます。朝鮮に渡った日本人たちは、目賀田(めがた)種 [続きを読む]